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第三章 終点と起点 4

 約束の時間より前に、瞬は笙子のクラブ《Jade》に来ていた。  熱のせいかなのか、低体温の影響なのか、それとも夕べの傷をまだ引きずっているのか。悠は完全に覚醒することなく、夢とうつつを行ったり来たりしていた。  瞬が出かける前にも声を掛けたのだが、少々呂律の回らない声で返事が返ってくるばかりだった。  柴浦が寄越してくれた若い男に後を託すと、瞬はマンションを出て気持ちを切り替えた。  外に出て働くからには、うじうじ考え込んでなどいられない。  東城や笙子のためにも、無様な態度を取ることは許されないのだと、自分を戒めた。 「あら、早いわね」  そんなわけで約束の時間よりもかなり早く職場へ着いたのだが、それでも笙子はもう先に来ていた。 「感心感心。私、遅刻されるの嫌いなのよね。瞬君はきっちりしてくれそうだと思ったけど、うん、見込み通りだわ」  そう言うと、笙子は瞬の返事も待たずに店の案内と説明を始めてしまった。  店内はまだ照明も入らず、がらんとしている。 「これから清掃や花が入るし、照明を入れるともう少し賑やかになるわよ」  大衆呑み屋しか知らない瞬には、この店が広いのか狭いのかすら分からなかったが、それぞれのテーブルとソファは十分な距離を置いて配置されているように見えた。  大袈裟すぎないパーテーションが、視界を遮ることなくテーブル同士を遠ざけている。 「あそこの扉の奥がロッカールームね。当然ですが、女の子達とは別の部屋です。制服は二着支給。それ以上は自腹切ってちょうだい」 「はい」 「シフトの日は、午後二時に入ってね。とりあえずは裏方って事で、店内の清掃、おしぼりの準備、食器類のチェック、仕入れのチェックが主な仕事よ。詳しいことは、他の子に聞いてちょうだい。後で紹介するわね。大体一日のピークは十時ごろかしら。閉店は午前零時。それから翌日の分の花の手配、仕入れの調整ね。全部終わるのが大体午前二時から三時ってところね」 「はい」 「瞬君ぐらいいい男だと、出来ればゆくゆくはフロアに入って欲しいんだけどなー♪」 「フロア……って、何するんですか」 「そうねぇ、ホストクラブじゃないから、基本的には女の子のバックアップね。あとはお客様のあしらいとか」 「……そ、それは俺が一番苦手な……」 「あら、接客はしたことない?」 「呑み屋でちょっとだけ……後はほとんど誘導灯振りでしたから」 「もったいないなぁ」  笙子のマニキュアの爪が、彼女の前できらめいた。 「瞬君は、お客様を卑屈にさせない種類の、いい男なのよね」 「……はぁ」 「顔が良いだけの男は、前に出ようとして店の主役を食っちゃうの。店の主役はお客様。あと、女の子達ね。だから黒服はあくまでも影。でも店を華やかにする影でなくてはならないわ。その点、君は合格なんだけどなぁ」  褒められているのだろうが、瞬は苦笑して曖昧に答えた。 「フロアの手が足りないときのヘルプぐらいにして下さい。俺は裏で皆さんのお世話をする方が向いてます」 「……残念」  笙子が、全く諦めていない風で言った。 「まぁいいわ、それからね、これは絶対守って貰わないと困る約束なんだけど。うちの女の子との恋愛は禁止」 「……ホステスさんと、って事ですよね」 「えぇ。商品には手を出さないでね」 「はい」 「……うちの女の子、可愛い子が揃ってるわよ」 「……はぁ」 「手を出さないでいられる?」 「約束します」 「向こうが迫ってきたらどうする?」 「……はぁ?」  繰り返し言われて、禁止なのかそれとも煽られているのか戸惑う。 「えぇと、ちゃんとお断りします」 「出来る?」  瞬は頷いた。 「……出来ます」 「やけに自信たっぷりねぇ。恋人でもいるの?」  夕べの東城に続いて、笙子にまで聞かれてしまった。  耐性があって良かった、と思いつつ、瞬は首を振る。 「恋人はいません」 「それじゃ好きな子がいるとか?」 「……食い下がりますね」 「もしかして……それって、あの子?」  瞬の顔が強張った。東城以上の爆弾を落とされて、瞬の動きが固まる。  上手く切り返そうと思ったが、それすら出てこない。  瞬が固まったままでいると、笙子が笑った。 「ごめんなさい、言い当ててどうこうしようって訳じゃないのよ。ただ、昨日の様子を見てたから。きっと、瞬君は悠君が好きなんだろうなって」 「……俺、そんなにダダ漏れでしたか」   隠し事は下手な方だが、それでも初対面の人間に見抜かれるほどだとは思わなかった。 「そうねぇ、私の周りにも、そう言う友達が結構いるから、何となく分かっちゃったのかもね」  笙子は嫌み無く微笑んだ。 「ずっと?」  短い問いに、頷きを返す。 「他に目を向ける余裕ないんで。大丈夫です」 「そう。店の責任者としては安心だわ。女の子同士のトラブルは店の雰囲気を悪くするから、なんとしても避けたいところなのよねぇ」  とりあえず瞬の置かれた状況は、笙子にとってマイナスではないらしい。ひとまず合格点をもらえた事に胸をなで下ろし、瞬は制服に着替えるために笙子の前を辞した。

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