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第三章 終点と起点 5
「あぁ、ごめん。起こした」
悠がゆっくり首を巡らせると、ベッドの向こうに瞬がいた。ジャケットをハンガーに掛けている所のようだ。
「今、……帰り?」
部屋の照明は落としたままで、薄暗い。瞬の姿が、ぼんやりと悠の目に映る。
「うん」
ジャケットの掛かったハンガーを部屋の隅に置くと、瞬が悠の傍らへ寄った。
「具合、どう?」
瞬の冷たい手が、悠の額に触れた。離れがたくて、そのまま頬へと指を滑らす。
「……煙草」
「え?」
「煙草と、お酒の匂い、するね」
「あぁ、……うん」
裏方仕事とは言え、この二つからは切っても切り離せない仕事だ。瞬も初日から、客に何杯か付き合わされていた。
「……酔ってる?」
悠が、瞬の顔をよく見ようと目を細めた。桃色の唇が瞬の名を呼ぶ。
「……少し」
「そう」
暖かな悠の手が、瞬の手を取る。そのまま、熱を分けるように唇に指を引き寄せた。
「冷たいね」
「う……う、ん」
悠の呼気が指に掛かる。うっとりとした目で見上げられて、くらりと目眩がした。
「寝ぼけてるのか」
「……そう、かも?」
答えるのに合わせて、赤い舌が動くのが見える。
と、その舌がぺろりと瞬の指を舐めた。
「ユ……」
「なぁに?」
悠が笑う。と、瞬の手を握ったまま、ぐいとその手を横に引いた。急に体勢を崩され、瞬は悠の上に倒れ込む。
咄嗟に肘で支えたが、これ以上無いほど、悠の顔が間近になった。
「冗、談はやめ――」
かすれる声で辛うじて抗議をしたが、悠は笑ったままだ。
悠はしばらく瞬を見つめていたが、やがてゆっくりと目を閉じた。
少しだけ開かれた唇が、瞬を誘っているように見える。
ほんの数センチ。少し顔をうつむければ、その唇は瞬の物になる。
瞬の頭の中は真っ白になった。ただ、目の前の悠の事だけしか考えられない。
唇が悠に触れる、その寸前。
彼の耳に、悠の寝息が聞こえた。
「な……」
悠は眠っていた。
身体を起こして改めてその顔を見る。すると、あんなになまめかしく見えた顔があどけなく見えてくるから不思議だ。
「本当に寝ぼけてたのか」
また流されるところだった。
瞬は小さくため息をつくと、ゆっくり悠に身を寄せ、その額に口づけた。
*
悠は夢の中を浮いたり沈んだりしていた。
自分が眠っているのか起きているのかも分からない。
もう何日か、こんな状態が続いている。たぶん。
日が昇っていたり夜だったり、まちまちの時間に目が醒める。
食事は……しているのだろうか。味も分からない。
誰かに、口に物を運んでもらっているような気がするが、確証はない。
苦しくはない。不快でもない。ただただ、眠い。
――こんな事、前にもあったな。
と、悠は頭のどこかでぼんやりと考えた。
眠くて眠くて、夢を見続けた。
ただ今回は、特にベッドの柔らかさのせいで、眠りが長く後を引いているようだ。
身体をふっくらと包まれて、まるであの人に抱かれているような気がする。
優しく甘やかされて、ふわふわと髪を撫でられて。
――だから、夢が恐ろしい物だということを、忘れていた。
*
赤い空間を、悠は歩いていた。
いつの間にこんな所まで来てしまったのだろう。
さっきまで、もっと明るくて温かいところにいたはずなのに、今は薄暗く、寒く、そして、赤い。
上を見上げると、遙か頭上に天井が見えた。と言うことは、ここは屋内なのだろう。
そのまま今度は左右を見回す。太い柱が規則正しく、延々と並んでいる。空間の端が見えないほど、広い。
暗褐色の床、暗褐色の柱。上はよく見えないが、おそらく同じ色だろう。
悠のいる世界が全て同じ色で塗り固められている。
――どっちへ行けば、いいのかな。
柱以外に見える物と言えば……。
悠はぐるりと一周見回した。と、右手の方角に何かが見えた。動かない。黒々とした大きな物体。
――車?
悠はそちらへ足を向けた。
少しずつ近づくにつれ、それがやはり車の形だったことが分かる。
だが、ぼろぼろでパーツも欠け、動き出す気配もない。
念のため中を見てみたが、もちろん誰も乗っていなかった。
――どうして車が……。
もう一度周囲を見る。すると、その車の周りにも何台か車がうち捨てられているのが見えた。
――誰もいな……。
そのときだった。
無音の世界に突然、鋭い鳴き声が響いた。
鳴き声が静寂を切り裂く。
思わず耳を押さえて悠は音の方向を探った。
天井に音が反響して、位置が定めにくい。
だが悠はその姿を認めた。大きな黒い何かが天井から舞い降りたのだ。
それは悠の身の丈ほどもある翼を広げ、滑るように降り立った。
――カラス。……三本足の、カラスだ。
漆黒の巨体を震わせて、今一度そのカラスが叫ぶ。
すると同じく天井から、十羽ほどのカラスが次々と降りてきた。
こちらはそれほど大きくない。どれも二本足だ。やはり先に降り立ったカラスが、群れの首魁なのだろう。
三本足のカラスは、悠をちらりと見た。だがこちらを襲う気配はない。
そのまま再び羽ばたくと、地を蹴って飛び立つ。すぐに群れのカラスも後に従った。
――どこへ?
悠の疑問はすぐに氷解した。
カラスの群れの向かう先に、人影がある。
人影は遠く、どんな人物なのか判別できない。
「逃げて!」
悠は叫んだ。
「逃げて! 早く逃げて!」
だが声は届かない。
いつの間にか悠はそちらへ向かって走り出していた。
「逃げてーッ!!」
*
突然、悠は夢から放り出された。
夢で駆けていたそのままで、荒く肩で息をする。
――夢、夢だ。夢だ!
悠は慌てて身を起こすと、ベッドから飛び降りた。一瞬膝に力が入らず、かくんと膝が折れたが、幸い倒れ込むことはなかった。
クローゼットに飛びつき、中から服を引っ張り出す。もつれ込みながら着替えると、そのまま寝室を飛び出した。
部屋は無人ではなかった。
リビングに柘植がいたのだ。
「あー、悠さん、こんちは」
調子どうですか、と問われるより先に、悠は柘植に詰め寄った。
「柘植さん、東城さん、どこですか!」
「……へ、若頭、ですか?」
凄い勢いで聞かれて、咄嗟に言葉に詰まる。
「そうです、東城さん、ううん、柴浦さんでもいい。今どこにいますか!?」
「えー、っと、若頭は確か、笙子姐さんのマンションに――」
「連れて行って!!」
「え? え? え??」
「いいから、柘植さん、今日車でしょ!」
「え、も、もちろん――」
「はやくっ!」
悠は返事を聞くのももどかしい様子で、柘植の腕を引っ張る。
悠の剣幕に、柘植は従うほかなかった。
「あ、瞬さん今、買い物に出てて――」
「どこに」
ぐいぐいと引っ張られながら、柘植が言う。
「近所のスーパ――」
「途中で拾って」
「ハイ」
柘植は逆らうのをやめた。無言で駐車場へ降りると、悠を車へ促す。
「笙子さんの所までどれくらい」
「ここからだと、一時間弱くらい、っすね」
「……急いで」
二人は、車に乗り込んだ。悠は理由を言わなかったが、柘植もただならぬ物を感じたのだろう。とにかく急ごうとアクセルを踏んだ。
マンションへの途次、買い物袋をぶら下げた瞬は、後ろから鳴らされたクラクションに振り返った。
そして柘植と後部座席の悠を見つけ、驚いて目を丸くした。
「乗って」
「ユ――」
「早く!」
瞬は、柘植よりも早く悠の異変を感じ取った。すぐに頷いて車に乗り込む。
車は、甲高い音を立てて急発進した。
「どうしたんだ」
瞬が問う。悠は、携帯電話を握りしめながら、呟くように言った。
「夢だ」
「……え……」
「夢を、見た」
運転席の柘植が、ミラー押しに後ろをちらりと見た。だが口を挟むのは控えた。
「カラスが、誰かを襲った」
「それって……」
悠が頷く。
「僕ではない誰かを、カラスが襲った。もちろん君じゃない」
瞬の姿なら、どんなに離れていても分かる。あの人影は瞬ではなかった。
「今、僕の周囲で襲われる可能性のあるのは、東城さんか柴浦さんだけだ。瞬、今日仕事は?」
「今日は店休日だ」
「ってことは笙子さんは今日は家だよね」
「あぁ、昨日そう言ってた。いつも店の休みの日は東城さんが来てくれる――」
そう口にして、瞬ははっと口を噤んだ。
「東城さんが警戒を解く日だ。恋人の家に行くなら、護衛も減る」
「しかも、前もって行動の予定が分かる日だ」
瞬が呟くと同時に、車がぐんと加速した。柘植が唇を噛み締めている。
悠は電話を耳に当てた。
「早く、出て……!」
*
東城が電話を取ったのは、笙子のマンションの駐車場の前だった。
着信を見て、珍しさに驚きの声を上げる。
「悠坊、珍しいな、どうし――」
車はそのまま緩やかにカーブを描いて、地下駐車場に滑り込んでゆく。
ハンドルを握る柴浦は、入り口の左右にさっと目を走らせた。
異常は無い。無いはずだ。
――だが……。
そのままゆっくりと車を進める。
――なんだ、この違和感は。
「落ち着け、カラスがどうしたって?」
柴浦の耳にその単語が飛び込んできた。
「三本足?」
八咫烏。一瞬、柴浦の脳裏に、その彫り物をした三好の若衆の顔が浮かんだ。
――松永。
「襲撃? まさか……」
柴浦が急ブレーキを掛けた。そのままタイヤを軋らせて車を後進させる。
「柴――」
「黙ってて下さい」
後一歩でもう一度外へ出られる、と言うそのとき。
上から降ってきたシャッターが、無情にも入り口を塞いだ。
「っ……!」
悠の手が震えた。
「間に合わなかった……っ!」
通話は最後に、『組長に』と言う一言で途切れた。
悠は顔を上げた。
「柘植さん、後どれくらい」
「もう十分ほどで」
「瞬、僕らでやろう」
瞬は無言で頷いた。そして悠の手を握る。
「柘植さん、俺たちを降ろしたら、すぐに真田さんに連絡をして下さい」
「……俺も行きます」
いつもの陽気さと打って変わって、その声は固い。
「客人のお二人にお任せするわけには……」
「ううん、僕たちじゃ誰に助けを求めて良いか分からないもの。柘植さんじゃなくちゃダメなんだ」
悠が笑った。
「ね、僕らは、僕らの出来ることをする。柘植さんは、柘植さんの出来ることをして東城さんを助けよう」
柘植はしばらく黙っていたが、一度ハンドルを強く殴りつけた。そして言った。
「分かりました。組長に連絡して指示を仰ぎます。組の者集めて、すぐに戻ってきます」
柘植が押し黙り、それからしばらくすると前方に緑に覆われた建物が見えてきた。今の瞬たちのマンションに雰囲気が似ている。
「ここですね」
悠が言った。少し手前で車が止まった。
すぐに二人が車を降りる。
柘植が追いかけるように言った。
「お二人とも、どうか、どうかお気を付けて!」
二人は、頷いた。
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