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第四章 諸恋と片恋 3

 瞬は地下の薄暗い廊下の端に座っていた。頭を抱え込むようにして蹲っている。 「泣いてるのか」 「泣いてない」  返事をした声は確かに湿ってはいない。 「いちいち逃げるな。面倒だ」  だが東城の煽りにも瞬は乗らなかった。 「悠の傷、見ましたか」 「あぁ」 「アレを付けたのが……所長です……」  あれからもう二年も経つ。あの傷が消える事がないのと同じように、悠の心の中の恐怖もまた消える事はないのか。 「麻酔もなしで腹から胸を掻っ捌いて、心臓に妙な機械を埋め込んだんだ。……今でもその機械は、悠の中にある」  瞬は声の震えを抑えようとしたが、無駄だった。 「所長は悠をモルモットみたいに扱った。少しでも気に入らないと罰を与えた。骨を砕いて歩けないようにした。挙げ句に、強姦して精子を搾り取った。奴のくだらない目的のために!」  東城は黙って聞いていた。東城の身を置く世界にも同じような暴力は日常的にある。だがそれは一方的なものではない。ただひたすら耐えねばならないものでもない。暴力を生業にしている者同士が暴力で話を付ける。それだけだ。 「だから俺たちは逃げた。所長の手の届かないところまで逃げようとした。でも……逃げたつもりになってた、だけだった」 「……」 「奴らがそこまで来ている」 「話は簡単だ。……お前がどうしたいか」  瞬が顔を上げて東城を見た。 「逃げるか抗うか。二つに一つだ」 「PT……?」 「PTSDと言うんですよ。命に関わるような目に遭った後、それがストレスとなって、身体に影響を及ぼします」 「え、でも、今まではこんなこと――」 「後から症状が出てくることもあるそうです。何かきっかけがあったり」  おそらく今回の襲撃で刺されたことが直接の原因なのだろうと、柴浦は思った。 「……傷」  悠がぽつりと言った。 「瞬、見ました、よね」  胸元を手で隠しながら言う。 「明るいところで、見せたことなかったから」 「例の研究所で付けられたのですか?」  柴浦は後ろから抱きしめるように腕を廻すと、ボタンを掛けてやった。  瞬はおそらく何度もこの傷を見ているはずだ。悠が傷を負って以降、彼の世話は全て瞬がしていた。血を洗い流したのも瞬だ。  だが柴浦は黙っていた。 「大きな傷だし、子供に見せたらショックだろうと思って――」 「子供?」  柴浦が聞きとがめた。 「瞬さんのことですか?」  瞬が子供っぽいからという理由だろうか? と柴浦は思った。だが時折違和感はあったものの、瞬からそんな子供じみた様子は感じられなかった。  悠が初めて後ろを向いた。泣きそうな顔だった。 「瞬は、十一歳です」 「……え……?」 「あの子、すごく大人っぽくて男らしくて、僕もつい忘れてしまうけど、本当はまだ十一年しか生きてない子供です。本当なら学校に行って、友達と遊んで、勉強している年頃なのに、僕のために一生懸命働いてくれてるんです」 「待って下さい。瞬さんが十一って……」  さすがの柴浦も困惑を隠せない。 「どう見ても、大人っぽいとか早熟のレベルでは……」 「九歳までは、小さくて華奢な男の子でした。それが……ある日一度に十年分成長したんです。僕を守るために、必死で願って……」  悠が目を閉じた。 「……瞬は願いを実現させることが出来るんです。そこにどんな代償があるのか、それは分かりません。でも瞬は願って成長した。助けが必要なときに、東城さんと出会った。全部、僕のために……」  悠がその顔を手で覆った。 「こんな傷で瞬を縛りたくない。瞬は僕を捨てれば、もっと自由になれるんだ。僕を置いてどこへでも飛んで行けば良いのに!」  悠が絞り出すように言うと、柴浦がその体に回した腕に力を込めた。 「悠さん……」 「……」 「悠さん」 「……愛してる……」 「……」 「瞬を、愛してる。愛してるんだ」  瞬は光の当たる世界こそふさわしい。素晴らしい女性と結婚して、家族を作って。研究所の影におびえることもない。 「頭では分かってる。僕がいる限り、瞬は僕のために全てを犠牲にする。だから僕は瞬から離れなくちゃいけない。分かってるんだ! でも少しだけ、もう少しだけ甘えさせて、ってずるずる今日まで来てしまった……」  瞬には幸せになって欲しいと心から願う。それなのに、与えられる優しさに甘えてしまった。 「瞬は僕といるとき、辛そうな顔しかしない」 「……それはまた、ずいぶん勝手な言いぐさですね」  柴浦の腕の中で、小さな体が震えた。 「瞬さんの気持ちは全く無視ですか」 「あの子は優しいから。……昔の約束を守ってくれてるだけ」  瞬はずいぶん前から甘い接触を避けていた。悠はひどく寂しかったが、あの研究所での告白はもう過去の物になったのだろうと、無理矢理自分を納得させていた。  だが、柴浦は呆れたように言った。 「瞬さんが? どこをどう見たらそうなるんですか」 「……もういいです。僕のことは……」 「そうやって、自分の不幸に酔っているからあいつが辛くなるんだ。大体、いつも自分から怪我をして死にそうになって、そんなあんたを見て辛くないはずがないだろう」  柴浦が語気を強めた。 「自分を哀れむのも大概にしろ」  悠が顔を上げた。目が怒りに燃え上がる。だがすぐにその怒りはあとかたもなく霧散した。 「分かってます……僕は自分を可哀想なだけだ」 「……まったく」  悠の頭上で、柴浦がため息を漏らした。 「そこは納得するところじゃないだろう」 「……」 「わざと怒らせようと思ったんだがな」  なんでこんなに鈍いんだか、とつぶやく声は悠には届かない。 「あんたは自分を可哀想がっているだけじゃないだろう? それは、あいつが一番よく知ってると思うが」  自分を哀れむだけの人間が、他人の盾になどなれるものか。  柴浦は悠を拘束したまま言った。 「もっとあいつを信じてやれ。単なる義務で、あんなにあんたに尽くせるはずがない」 「柴浦さん……」  悠は、昔言われた同じ言葉を思い出した。  ――……もっと瞬を信じてやれよ、悠……。 「事情を知らない俺たちが見ても、あいつはあんたにべた惚れだよ」  悠の背中に触れている柴浦の体が不規則に揺れた。笑っているのだ。 「いつもあんただけを見ているし、俺があんたの側に居るだけで思い切り睨まれる」  極道の、しかも幹部や幹部補佐を日常的に睨みつけるなどなかなかの度胸だ。 「……少し、試してみるか?」  そう言うと、柴浦は悠の脇へ腕を差し入れた。 「え?」  そのままぐいと悠の体を持ち上げると、向きを入れ替えてしまう。  悠は、柴浦の膝をまたぐような格好になった。 「え? え? え?」  状況がよく飲み込めないまま、悠が柴浦の顔を見上げた。膝に載せられても、柴浦の顔はまだ悠の上にある。  柴浦が、悠の手を取った。  そのまま、その唇に押し当てられる。 「ちょ、柴う、らさ――」  耳まで真っ赤になった悠を、柴浦は目を細めて見た。 「可愛いな」 「えぇっ!?」  これ以上無いほど大きく目を見開いた悠は、柴浦を凝視したまま動けない。  そうこうするうちに、柴浦は悠の腕を後ろ手に軽くまとめて握ってしまった。 「え、っと」  もじもじと尻を動かしても、拘束から逃れることが出来ない。 「柴さん」 「うん?」  柴浦は、ことさらに悠に顔を寄せると、耳元で低く囁いた。 「なにかな?」 「なんだか、いじわる、だ」  ぞくりと、妙な感覚が耳から吹き込まれるようで、悠は身を捩った。 「柴さ、……ん、近、すぎ」 「耳、弱いのか」  柴浦が悠の耳朶を噛んだ。 「……っ」  悠が小さく呻き、身を震わせたとき。   ものすごい音と共に扉が開け放たれ、同時に瞬が中に飛び込んできた。  そのままの勢いでソファまで詰め寄ると、柴浦の膝から悠を奪い取る。 「……何してた」 「なにも――」 「悠は黙ってろ」  抱え上げられるようにされて、足が地に着かない。 「悩み相談を少々」  あくまでも余裕を見せる柴浦に、瞬の頭に血が上った。 「俺はあんたを尊敬してるし、あんたが好きだ。……でも、悠だけは渡さない」 「おや? あなたはもう悠さんに飽きたのだと伺いましたが」 「僕、そんなこと言ってな――」 「悠」  怒りで爛々と輝く目に射すくめられ、悠は何も言えなくなる。 「……その話は後でゆっくり聞く」  この目に焼かれて殺されそうだ、と悠は思った。 「悠は自分のもの、か。ガキの独占欲だな」 「な……」  柴浦が立ち上がった。瞬が、相手を睨み上げる。 「そんなに大事なモノなら、箱にしまっておけ」 「悠は物じゃない!」 「無論」  そう言うと、柴浦は悠の頬に手を伸ばし、そっと指を滑らせた。 「ただのモノは、悩んだり泣いたりしないな」  すぐに、瞬がその手をはたき落とす。 「触るな」 「……あまり大事にしすぎると、他の男に掻っ攫われるぜ」  柴浦はニヤリと意味ありげに笑う。  その意を汲み取る間もなく、柴浦が動いた。  瞬に抱えられたままの悠に顔を寄せ、そのままその唇を奪う。  悠はもちろんのこと、瞬も動けない。  それを良いことに、柴浦は唇の角度を変え悠に侵入しようとした。  ぴちゃ、と舌の動く音が瞬の耳元で聞こえてようやく、我に返る。 「っ……このッ!」  ばっと身を引くと、悠の頭ごと腕に抱え込んで柴浦から隠す。 「ふざけ――」 「俺なら、泣かせない」  瞬の腕の中で困惑する悠に、柴浦が優しく言った。 「悩む隙もないくらい、愛して、愛し抜いてやる。……どうする? 瞬から俺に乗り換えるか?」  悠がまっすぐに柴浦を見返す。やがて、悠は黙って首を振った。 「残念」  さほど残念そうには聞こえなかったが、柴浦はあっさりと引いた。 「瞬さん」 「……なん、ですか」  不機嫌を隠さず言う瞬に、柴浦は笑った。こんな状況でも律儀に返事をする瞬を、好ましく思う。 「あなた方は言葉が足りなすぎる」  柴浦は、今度は二人に両手を伸ばした。そのまま二人の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。 「もう少し言葉を尽くせば、誤解などすぐに解けます。互いが大事ならまず相手を信じなさい」  瞬は突然頭を撫でられてぽかんと口を開けていたが、このまま怒りをぶつけようか躊躇った後、口を引き結んでぺこりと頭を下げた。  そしてそのまま悠の手を引くと、部屋を出て行った。 *  柴浦は誰もいなくなった部屋で、一人煙草に火を付けた。  苦い煙によって、酩酊気味の頭が少し晴れる。  深く吸い込む度に、今し方の悠への言葉を一つ一つ、胸の奥底へしまい込む。  柴浦が一本吸い終わった頃を見計らったように、東城が現れた。 「珍しいな」  どこか労るような口調に、柴浦は笑った。 「……ご覧になっていたんでしょう?」  東城はそれには答えず、自分も煙草を出した。 「お前も坊主も、我慢強いことだ」  恋の鞘当てと呼ぶにはかなり滑稽な構図だ。だが柴浦は自嘲気味に笑った。 「……どうも私は、あの子供相手に少々本気だったようですよ」 「だろうな」  笑い飛ばされると思っていたところに、予想外の言葉が返ってきて柴浦が固まった。 「何年お前と顔つき合わせていると思ってるんだ。お前を見てればすぐ分かるさ」  東城の台詞に、はぁ、としか返すことが出来ない。 「欲しけりゃ奪え。簡単だろう」 「……相変わらず単純ですね」  柴浦が呆れて言うと、東城は剣呑な笑みを浮かべた。 「この世に未練を残す縁(よすが)も、お前には必要だ」 「私はそんなに簡単に死にそうですか」 「いや、ちと違うな。……お前は簡単には死なんよ。だが本当にやばい時、最後に一足掻きするかしないか、それが生き延びるかどうかの分かれ目だ」  それを聞いて、柴浦が笑った。 「縁ならもう、私にはあります」 「……」 「組の盃を受けてから、私は組の――あなたのために死ぬと決めていますから」 「……そうか」  それきり、二人は言いたい事を飲み込んで、煙草に逃げた。

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