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第五章 有意と無意 3
「ねー、さわのくーん」
またか、と、沢野は後ろも振り返らず歩調を早めた。
午後八時。今は一応、勤務時間外だ。だが黒川に付き合うだけの気力も、体力も、精神力も、理由も、何もかも持ち合わせていない。
ちなみにここは、沢野の数ある帰宅ルートの内の一つだ。なぜそこで黒川が待ち伏せしていたのか。考えるだに恐ろしい。
「ねー、呑みにいこーよー。沢野のおごりでさー」
まるきり無視をして歩いていると、黒川が畳みかける。
「ねー、きれーなおねーちゃんのいるおみせにいこーよー」
「何でおめーとオネーちゃんのいる店に行かなきゃならねーんだよ!」
「あ、こっち見た♪」
黒川があははと笑った。
「なに、沢野ってオネーちゃんに興味ない? え、オネエの方が良いの!?」
「黙れ三流」
軽く頭痛がしてきた。この頭痛が本格的な物にならないうちに逃げるに限る。
だが黒川は思わぬ名を口にした。
「ねー、《Jade》ってクラブ、知ってる?」
沢野はとっさに表情を繕った。
「高級クラブだろ。俺でも知ってる有名店じゃね」
「そうそう、うちの社長がそこの常連なんだってー」
「軽く飲み食いして二、三十万は飛ぶんだろ。薄給には関係ねーな」
「あはは、ホントそうだよねー。だけどさ、なんか最近その店に、良い感じの黒服が入ったらしいのよ」
「へぇ、ホストクラブじゃねぇのに、客が黒服なんて気にするもんかね」
「すっげぇいい男なんだってさ。いいなー、僕も一度拝んでみたいわ」
黒川がくねくねと妙なダンスを踊る。沢野はひらひらと手を振った。
「タカるんなら金持ちのとこに行けよ」
「えー、ボク沢野と一緒に行きたーい」
黒川が沢野の腕を掴んだ。
「ちょ、お前――」
「あんたも、その黒服に興味あると思うヨ」
「……なんでだ――」
「――アキラ」
沢野の動きが止まった。取り繕うのも忘れて、腕にぶら下がる眼鏡を見た。
黒川は、ふふんと鼻で笑う。
「どーしよーかーなー。情報教えちゃおっかなー。それとも帰っちゃおっかなー」
「……いいぜ、おごってやる」
沢野が笑った。それはあの、猟犬の目だった。
*
沢野は、店の裏手に面したカフェに陣取った。隣のふくれっ面に、目の前のコーヒーを差し出す。
「おごり。飲めよ」
「酒……きれーなオネーチャン……」
「俺は酒をおごるとは一言も言ってねぇ」
「イケメン黒服……」
「それなら、ここからでも拝めるだろ。ほら食え。適当に頼め」
沢野はサンドイッチをアイスコーヒーで流し込んでいる。黒川はがっくり肩を落とした。
「てっきり店に行くと思ったんだけどなー」
「ばーか、一見お断りだろ。門前払いだよ。それより、情報寄越せ。情報」
「見返りはー?」
「うっせぇ、警察に協力するのは市民の義務だろ」
「そーだっけぇ」
目の前のメガネザルは、軽薄な振りをしながら沢野に食らいついてくる。タダで情報を引き出すのは難しそうだ。
なかなか進まない話に、沢野が焦れた。
「分かったよ、五対一でどうだ」
「なんだよそれ」
「お前の情報五つに対して俺から一つ情報渡す」
「はぁ? お前バカ? なにその条件。イチイチに決まってんでしょ」
「……じゃヨンイチ」
「ニイチ」
「…………サンイチ」
「OKOK」
黒川はすぐに鞄から手帳を取り出した。
「時間がもったいないからさっさとしましょ。――なんだよ?」
「……お前としゃべるの、ものすげー疲れる……」
沢野は深く溜息を吐くと、テーブルの上を見回した。灰皿は、ない。
「おい、外のテーブル行くぞ」
沢野は旨そうに煙を吸い込むと、ようやく満足げに笑った。
「うわ、お前骨の髄までニコチンで真っ黒なんじゃないの」
「あぁそうかもな」
再び軽口の応酬になりそうなところを、沢野が遮った。
「黒川」
「……なんだよ」
「いいか、良く聞け」
「……」
「お前はこれから、俺の情報提供者になる」
「それで?」
「俺は出来るだけ手荒なまねはしたくない」
「手荒って――」
「黙って聞け。お前がフェアであれば、俺もフェアで行く。だが、お前が故意に偽の情報を渡そうとしたら、俺は手荒なことをしなくちゃならん」
「……拷問?」
「ばーか、日本の警察が一般人に拷問するかよ。そんなんじゃねぇ。だがな」
沢野が声を潜めた。
「俺は、お前が隠している事全部を暴く。お前の忘れたい過去も、秘密にしていることも、全部」
「それってどういう、こと……」
黒川が訊く。だがそれには答えず、沢野は続けた。
「それが嫌なら、俺を騙すような事だけはするな。知られて困る情報は黙ってろ。いいな」
黒川は素直に頷いた。が、すぐに言った。
「僕がわざと嘘を吐いたか、それとも間違った情報を信じてお前に売ったか……、なんて、お前に分かんの?」
「俺には分かる。だから心配すんな。フェアであろうとしてくれれば、それでいい」
黒川は、もう一度深く頷いた。そして、口火を切った。
*
「アキラ。自分で名を書くときは、アカツキって字を使っているらしい。年は推定二十歳。戸籍がないため正確な年齢不詳。小中学校に通っていた記録はナシ。ある日突然七尾市の公立高校に入学。住民票は七尾市の物だったけれど、正式に申請して作った物かどうかは不明。一応言っとくと、記載されていた住所には廃業した工場が建ってたよ」
あんた達がどこまで調べたか分からないから、僕が調べた事を言ってくよ、と黒川は言った。彼の手帳は数冊に及んでいた。
「友人はナシ。一人もいない。年齢から言って高校卒業後まだそれほど時間が経っていないのに、殆どの人間が彼の事を覚えていない。当時の担任ですら、彼の事を覚えていなかった。ただどうも彼は時々、ほかの少年達と行動を共にしていたようだね」
「……少年?」
初めて沢野が口を挟んだ。
「年格好は、アキラ青年より少し年若なくらいで、かなり見栄えの良い子達だったみたい。それで商店街のおばちゃんが覚えていた。――これで情報いくつ分?」
「ひとつ」
「ケチ。少年達の名前は、ケイとリョウ。こっちは、中学のクラスメイトが覚えてた。二人とも、卒業を前に転校してる」
「写真は。あるんだろ」
「写真一つにつき3カウントだよ」
「……わかったよ。データを――」
そのとき通りを挟んだ店の裏口のドアが開いた。
沢野が、サンドイッチの皿に手を伸ばした。
「……あれか」
確認するまでもなかった。
ドアから出てきたのは背の高い青年だった。なるほど、その端整な顔立ちは、客たちが絶賛するのも無理はない。
少し癖のある短髪が、通りを挟んだこちらからでも良く見える。
道を走る車のヘッドライトが、彼の顔を一瞬照らした。
沢野は皿の影からカメラのシャッターを切った。
「その写真チョーダイ」
「……はぁ?」
「いいじゃんー。今までの情報に、こっちの写真二枚も付けるからさー」
「……わかったわかった。今度会ったときに渡す」
やった、と、黒川は小さく拳を握った。
「あの男の名は」
「瞬。苗字は分からなかった。なんでも、あの店のママが連れてきた子らしいよ。で、彼が、アキラ青年と接触していた男その三、って訳」
沢野は、ふうんと気のない返事を返した。
しかし、彼の指がぴくぴくと忙しなく動いた。
――興奮してやがる。
獲物は、もうそこまで来ている。
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