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第五章 有意と無意 4

「わざわざ俺を呼び出して――」  不平を言いながらドアを開けると、中には先客がいた。  忠はその顔を見るや、くるりと後ろを向いて部屋を出て行こうとした。  だが当の男に呼び止められた。 「訊きたい事がある、と」 「あぁ? だれが」 「所長」  忠はもう一度向き直ると、相手の顔を見た。 「あ、そ。ここで待ってりゃいいのか?」 「……いや、302号で待ってるから来いと」 「ふーん」  忠はそう返事をすると、いきなり相手に殴りかかった。  拳が風を切って顔面を襲う。  しかし相手は微動だにしない。  忠の拳は、鼻に触れる寸前で止まった。 「……」 「つまんね」 「……」 「腑抜けになったお前じゃぁ、全然面白くねぇな」 「……」 「なぁ、暁」 「用は済んだ。もう行く」 「……おめぇの大事な奴を目の前で八つ裂きにしてやったら、少しはやる気が出るか?」 「……好きにしろ」  暁はそれだけ言うと、部屋を出て行った。  忠がぶらぶらと当の部屋へ行くと、男が待ち構えていた。 「俺になんかごよーですか」  部屋には寝台がしつらえてあり、そこに一人の男が横たわっている。 「あぁ、こいつ。確か、松永……とか言ったっけ」  腰に手を当てて顔を覗き込む。男は眠っていた。……眠らされていた。 「こいつがどうかしたのか」  忠が隣の男を見上げた。男は忠の方を見ようとはせず、目の前を見据えたまま言った。 「この男を連れ帰ったのはお前か」 「あぁ。こいつの子分どもは他のに任せたが、こいつだけちょっとやっかいなところに捕まってたからな」 「傷の具合はどうだった」 「腹に一つ深い刺し傷、指の骨折。刺し傷は黒く焦げてた」 「これを見たか」  男――所長は、松永の病衣の前をはだけた。  肩から胸に掛けて八咫烏の彫り物があるが、腹の部分は手つかずだ。所長は、その腹部の皮膚を指さした。 「見ろ。傷口に潰瘍が出来ている。皮膚にはシダの葉状の模様。傷口の炭化」  所長は手していた封筒から、レントゲン写真を取り出し、部屋の蛍光灯にかざした。 「どうもおかしいと思って内部を撮影してみたら、内臓も一部炭化していた」 「……で?」  傷の状況などどうでも良い忠は、すぐに飽きて部屋をうろつき始めた。 「それをわざわざ俺に教えるために呼んだのか」 「……この傷の状況が何を意味するか、分かるか」 「あぁ?」  所長が忠を見た。 「言い換えよう。この傷を作ったのが誰か、分かるか」 「んなもん、あのヤクザの誰かがコイツの傷を焼いたんだろ」 「外から焼いただけで、中まで焼けるか」 「……」 「加えてこの電紋。感電の受傷だ」 「感電?」 「この男が目覚めたら確認するが、おそらくこれは――」 「あのボーヤ、か?」  忠がにやりと笑った。 「なるほど、そーゆーことね」  含み笑いはやがて哄笑へと変わった。 「あのボーヤあるところカワイコちゃんありってか。すげぇ偶然だな」 「……偶然、か」  所長もまた愉悦に口元を歪めた。 「まぁいい。悠は放っておけ」 「なんだ、攫ってこなくて良いのかよ」 「構うな。アレは必ずここへ戻る。自分からな」 「へー、そう。んじゃ、俺に何させようっての」  ようやく自分の興味のある方向に話が向かい、忠が急き立てた。 「この男と一味をもう一度けしかける」 「こいつ、もうやんねーって怒鳴り散らしてたぜ」 「暁に洗脳させる」 「ふーん、同じ所、襲わせるのか」 「今回は限界点を探る実験だからな。手応えのある方が良かろう。悠はともかく瞬程度の力なら、不足はあるまい」 「あ、そ。そんじゃ俺は今回も裏方か。つまんね」 「あくまでも実験だ。それを忘れるな。それからもう一つ、お前にやって貰う事がある」 「回りくどいな」 「それについては別件だ。追って指示する」 「へーい」  忠はそれだけ聞くと、部屋を出ようとした。が、ふと立ち止まった。 「あんたさ、あいつに何やったんだ」 「あいつ?」 「暁。ヤケにおとなしーじゃん。洗脳したのか」 「奴に洗脳は効かん。それに下手に弄って、あの力を失わせては元も子もない」  所長は写真をしまうと、脇の机の上に放った。 「奴は自分から従っているだけだ」 「またえげつない脅迫でもしたんだろ」 「……例えここに居らずとも、彼らの命を私が握っている事を、奴も理解していると言う事だ」  そして所長は宣告した。 「この男の傷が完治次第、実行に移す」 * 「ここで、落としぶたね」 「はい」  悠は、野菜の入った鍋を前に、真剣な顔で頷いた。 「火加減は弱火ね。ぐらぐら煮ると里芋が煮崩れちゃうから」 「はい」  ここは、笙子のマンションだ。悠と笙子はエプロン姿で台所に立っている。 「これで後はしばらく放っておいても良いわ。火が通ったら、一旦火を止めてゆっくり温度を下げてやるの。そうすると味が良く染みるのよ」 「なるほど」  箸を片手に何度も頷く。 「さぁ、休憩にしましょ」  笙子が言った。  数週間前、悠が料理を習いたいと言い出したとき、笙子がその教師役を買って出た。  店が休みの日の午前中なら空いているからと、都合が合う日にはこうして押しかけている。 「東城さんは、昼からいらっしゃるんですか?」 「えぇ、そうよ。私が悠君に料理を教えてるって聞いて、食べに来るって」  笙子が少し恥ずかしそうに笑った。 「私も東城も外食が多いから、手料理を振る舞うなんてちょっと照れくさいんだけど……」 「笙子さんのご飯、すっごく美味しいですから、東城さんも外食する気なくなっちゃいますね」  悠が屈託なく言うと、笙子は頬を染めた。 「おだてるのが上手いわねぇ」 「本心ですよ」  悠が笑った。笙子も笑った。 「ねぇ、ちょっと聞きたかったんだけど」 「なんですか?」 「どうして料理、覚えようと思ったの?」 「……」 「ごめんなさい、言いたくなかったら――」 「あ、いえ、そうじゃないんです」  そう言ってから、悠は照れたように俯いて、自分の指先を見た。 「僕ら今まで、食べ物が美味しいとか美味しくないとか、あんまり考えてこなかったんです。用意された物を口に入れてるだけ、っていうのかな……」  研究所の食堂では、研究所の実情を知らない年配の女性が食事を作っていた。彼女の作る食事はきちんと作られた物だったが、それを味わう余裕が自分たちの方に欠けていた。今から思えば、色々栄養面で心を砕いてくれていたようだったし、それに応えることが出来なかった事を申し訳なくも思う。 「だから、瞬には、僕の作った物を食べて欲しいし、美味しいって感じてもらえたらいいなって」 「……そっか」  笙子はそう言うと、悠の頭を優しく撫でた。 「味覚って、記憶と結びつきやすいそうだし。悠君の味を瞬君がしっかり覚えてくれたらいいわね」 「……はい」 「それにしても、指、結構切っちゃったわね」  笙子が悠の手を見て言った。 「里芋の皮むき、難しかったです。あんなに滑る物だって知りませんでした」 「そうねぇ、でも包丁は使っている内に慣れるから。練習あるのみよ」 「はい、先生」  二人は顔を見合わせ、今度は声を上げて笑った。  茶を飲んでいる間に煮物は出来上がった。 「タッパーに入れるわね。ちょっと待ってて」  大きな白い容れ物に野菜を移しながら、笙子が言った。 「あ、テレビ付けてくれる? 天気予報見なくちゃ」 「はい。えーっと……」  悠はリモコンを見つけ、リビングのテレビのスイッチを入れた。  すぐに、ニュースキャスターの顔が大写しになる。  それをぼんやりと眺めていたら、後ろから声を掛けられた。 「悠君の所は、テレビ無かったっけ」 「長いことテレビのない生活をしてましたから、なんとなくそのまま」  部屋の中で知らない人間の声がするという妙な違和感は、未だ薄れることがない。 「まぁねぇ。最近ろくなニュースもないし、気分が悪くなるから見ない方が良いわね」  笙子がため息交じりに言った。危険な世界に身を置く恋人のことを思ってだろう。 「そうですね……」  悠が返事をしかけた時だった。  悠の目が、一つのニュースに釘付けになった。 「――小学校教諭、大津始さん、三十二歳が、昨夜から連絡が取れないと同僚から通報があり、警察が捜索したところ、千鳥ヶ崎の岸壁から落下したとみられる乗用車を発見しました。中には男性の遺体があり、警察は身元の確認を急ぐと共に、事故と自殺の両方から捜査を――」  笙子が顔を上げると、悠の横顔が見えた。 「……悠君?」  大きく見開かれた目は、テレビの画面を凝視している。 「どうしたの?」  だが笙子の声も、彼の耳には届いていない。その顔からみるみるうちに血の気が引いて行くのをみて、笙子が駆け寄った。 「悠君! 大丈夫!?」  笙子が抱き留める寸前、悠の膝が折れた。笙子の腕に悠の体重が掛かる。 「気分悪い? 苦しい?」  悠は紙のように白い顔で中空を見つめている。その目には笙子も、何も映っていない。  ただ胸元のシャツを握りしめ、呼吸だけが荒い。 「悠君? 悠君!」 *  揺すぶられ、何度も名を呼ばれる。  悠の目が焦点を結んだとき、そこに見えたのは涙を浮かべた笙子の顔だった。 「あぁ、悠君……!」  意識が飛んだのは、それほど長い時間ではなかったのだろう。テレビからは賑やかなCMの曲が流れている。  目の前の笙子の顔とあまりに似つかわしくない賑やかなBGMに、悠は思わず笑った。 「ごめんなさい。……ちょっと、貧血起こしちゃいました」 「急に倒れるから……」  笙子はその胸にきつく悠を抱き込んだ。 「びっくりしたわ……」  柔らかな肌から、かすかな花の香りがする。  こんな風に女性に抱きしめられるのは初めてだった。  記憶の中の母はすでに遠く、女性に触れる機会も一度も無かった。  瞬とは違うその優しさに、悠の胸が温かくなる。  恐る恐る笙子の細腰に腕を回すと、笙子が笑った。 「具合の悪いときぐらい、遠慮しなくても良いのよ」  笙子もまた、悠を抱きしめながら不思議な感じを覚えていた。  華奢な骨格とは言え、悠も男だ。血のつながりもない少年とこうして密着しているというのに、なぜか不埒な感情一つ起こらない。 「今日は瞬君は家よね? 連絡して迎えに――」 「笙子さん」  腕の中の悠が小さな声で言った。 「瞬には言わないで」 「え、倒れたこと? どうして、ちゃんと言わなきゃ――」 「たいしたことないし、心配かけちゃうから」 「……ねぇ、あなたちゃんと瞬君に甘えてる?」  突然言われて、悠が顔を上げた。 「甘える?」 「側に居て欲しいときとか、ちゃんと我が儘言える? なんだか、悠君っていつもなんでもないって平気なふりしてる気がするわ」 「……」  思い当たる節があるのだろう、悠は黙ったままだ。 「ちゃんと両思いになったんでしょ? だったらもっと好き勝手言えば良いのよ」 「……えっと、笙子さん……」  ようやく悠の頬に赤みが差してきた。聞きにくそうに口ごもる。 「なんで、知ってる……」 「あぁ、だって瞬君大喜びで飛んできて、逐一報告してくれたわよ」  相談に乗ったりハッパを掛けてやったからだろうか、瞬は笙子に礼を言いに来た。しまいには甘ったるいノロケ話を聞かされる羽目になったのだが。 「ねぇ、大事な人には心配させて欲しいものじゃない?」  笙子の手が、ゆっくり悠の髪を梳いた。 「自分の知らないところで辛い目に遭って欲しくないし、もし辛いのなら言って欲しいわ」  まるで自分自身に語りかけているような、穏やかな口調の中に僅かな悲しみが滲む。  先日の襲撃事件が頭をよぎり、悠は腕に力を込めた。  この人もまた愛しい人が死と隣り合わせの世界にいる。 「……ごめんなさい」 「ほら、また謝ってる」  笙子が笑って、コツンと悠の額に頭をぶつけた。 「おばかさん。みんなあなたが大事なのよ。それを忘れないでね」 「……あり――」  がとう、と続けようとして、笙子の背後に立った大きな人の気配に思わずそちらを仰ぎ見る。 「……あ」 「あ?」 「あー」  東城だった。リビングの入り口に立ちながら、こちらを見下ろしている。 「これは、俺が怒っていい場面なのか?」 *  送らせるわ、と言う笙子達の申し出を固辞して、悠は帰って行った。  心配そうに後ろ姿を見送った笙子に、東城が声を掛ける。 「お前が入れ込むなんて珍しいな」 「失礼ね、私そんな薄情じゃないわよ」  言いながらリビングへ戻ると、置きっぱなしだったエプロンを手に取った。 「……あなたが気に掛けてた理由が何となく分かったわ」 「そうか」 「あの子、母親を知らないみたい」  東城は黙っていた。笙子には二人の生い立ちを話してはいない。だが笙子は、母性の勘でそれを感じ取ったのだろう。 「甘え下手、っていうのかしら。自分で引いた一線からこちらへは踏み込んでこないのね。計算してそうしてるならいいんだけど……あの子はそれが当たり前になっているみたいだから」 「それでさっきの抱擁か」 「あら、やきもち?」  笙子が言うと東城は肩をすくめた。一応否定しないでおいてやる。 「そうね、少なくとも男女の抱擁ではなかったわ。親子か、姉と弟、ぐらいかしら」 「……そうか」  端から悠と笙子の間など疑ってもいないし、疑う気すら起こらない。それほどまでに悠と瞬の絆は深い。深すぎて、それが断たれたときにどうなるか……と、ふと詮無い事にまで考えが及んで、東城は頭を振った。 「ねぇ、一つ訊きたいんだけど」  笙子が言った。 「テレビのニュースで流れた内容って、問い合わせれば教えてもらえるのかしら」 「あぁ? そりゃ出来るはずだが……」 「そう、それじゃ後で問い合わせてみるわ」 「ニュースがどうかしたのか」  笙子が少しためらいを見せた。だが、すぐに東城に言った。 「悠君が倒れたとき、ニュースを見ていたの。悠君は貧血だなんて言ってたけど……倒れた原因、そのニュースにあるような気がするのよ」 「見たのか」 「ニュース? いいえ、私は少し離れてたから。でも特に目新しいニュースじゃなかったと思うわ。事故か何かのニュースだったと思う」 「局と時間は」  問われて、笙子がテレビを点けた。チャンネルはあの時点から変えていない。  東城がそれを確認するとすぐに電話を手に取った。 「笙子」 「……はい」 「あの二人には俺たちも知らない謎が多い」 「謎……?」 「あぁ。……お前には酷な事を言うが……」 「いいわ」 「あの二人を可愛がるのはいい。だが踏み込むな。あの二人の過去に触れるな。どんな危険があるか誰にも分からんのだ」  笙子は東城を見た。東城も笙子を見た。そこにあったのは、ただ笙子を気遣う恋人の表情だった。 「わかりました」  彼らと研究所との確執は今、組を巻き込み始めている。せめて笙子だけでも、その抗争の外に置いておきたかった。  東城は己の甘さを内心嗤いながら、改めて電話を耳に当てた。 「……柴。調べて欲しいことがある」

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