28 / 46
第五章 有意と無意 4
「わざわざ俺を呼び出して――」
不平を言いながらドアを開けると、中には先客がいた。
忠はその顔を見るや、くるりと後ろを向いて部屋を出て行こうとした。
だが当の男に呼び止められた。
「訊きたい事がある、と」
「あぁ? だれが」
「所長」
忠はもう一度向き直ると、相手の顔を見た。
「あ、そ。ここで待ってりゃいいのか?」
「……いや、302号で待ってるから来いと」
「ふーん」
忠はそう返事をすると、いきなり相手に殴りかかった。
拳が風を切って顔面を襲う。
しかし相手は微動だにしない。
忠の拳は、鼻に触れる寸前で止まった。
「……」
「つまんね」
「……」
「腑抜けになったお前じゃぁ、全然面白くねぇな」
「……」
「なぁ、暁」
「用は済んだ。もう行く」
「……おめぇの大事な奴を目の前で八つ裂きにしてやったら、少しはやる気が出るか?」
「……好きにしろ」
暁はそれだけ言うと、部屋を出て行った。
忠がぶらぶらと当の部屋へ行くと、男が待ち構えていた。
「俺になんかごよーですか」
部屋には寝台がしつらえてあり、そこに一人の男が横たわっている。
「あぁ、こいつ。確か、松永……とか言ったっけ」
腰に手を当てて顔を覗き込む。男は眠っていた。……眠らされていた。
「こいつがどうかしたのか」
忠が隣の男を見上げた。男は忠の方を見ようとはせず、目の前を見据えたまま言った。
「この男を連れ帰ったのはお前か」
「あぁ。こいつの子分どもは他のに任せたが、こいつだけちょっとやっかいなところに捕まってたからな」
「傷の具合はどうだった」
「腹に一つ深い刺し傷、指の骨折。刺し傷は黒く焦げてた」
「これを見たか」
男――所長は、松永の病衣の前をはだけた。
肩から胸に掛けて八咫烏の彫り物があるが、腹の部分は手つかずだ。所長は、その腹部の皮膚を指さした。
「見ろ。傷口に潰瘍が出来ている。皮膚にはシダの葉状の模様。傷口の炭化」
所長は手していた封筒から、レントゲン写真を取り出し、部屋の蛍光灯にかざした。
「どうもおかしいと思って内部を撮影してみたら、内臓も一部炭化していた」
「……で?」
傷の状況などどうでも良い忠は、すぐに飽きて部屋をうろつき始めた。
「それをわざわざ俺に教えるために呼んだのか」
「……この傷の状況が何を意味するか、分かるか」
「あぁ?」
所長が忠を見た。
「言い換えよう。この傷を作ったのが誰か、分かるか」
「んなもん、あのヤクザの誰かがコイツの傷を焼いたんだろ」
「外から焼いただけで、中まで焼けるか」
「……」
「加えてこの電紋。感電の受傷だ」
「感電?」
「この男が目覚めたら確認するが、おそらくこれは――」
「あのボーヤ、か?」
忠がにやりと笑った。
「なるほど、そーゆーことね」
含み笑いはやがて哄笑へと変わった。
「あのボーヤあるところカワイコちゃんありってか。すげぇ偶然だな」
「……偶然、か」
所長もまた愉悦に口元を歪めた。
「まぁいい。悠は放っておけ」
「なんだ、攫ってこなくて良いのかよ」
「構うな。アレは必ずここへ戻る。自分からな」
「へー、そう。んじゃ、俺に何させようっての」
ようやく自分の興味のある方向に話が向かい、忠が急き立てた。
「この男と一味をもう一度けしかける」
「こいつ、もうやんねーって怒鳴り散らしてたぜ」
「暁に洗脳させる」
「ふーん、同じ所、襲わせるのか」
「今回は限界点を探る実験だからな。手応えのある方が良かろう。悠はともかく瞬程度の力なら、不足はあるまい」
「あ、そ。そんじゃ俺は今回も裏方か。つまんね」
「あくまでも実験だ。それを忘れるな。それからもう一つ、お前にやって貰う事がある」
「回りくどいな」
「それについては別件だ。追って指示する」
「へーい」
忠はそれだけ聞くと、部屋を出ようとした。が、ふと立ち止まった。
「あんたさ、あいつに何やったんだ」
「あいつ?」
「暁。ヤケにおとなしーじゃん。洗脳したのか」
「奴に洗脳は効かん。それに下手に弄って、あの力を失わせては元も子もない」
所長は写真をしまうと、脇の机の上に放った。
「奴は自分から従っているだけだ」
「またえげつない脅迫でもしたんだろ」
「……例えここに居らずとも、彼らの命を私が握っている事を、奴も理解していると言う事だ」
そして所長は宣告した。
「この男の傷が完治次第、実行に移す」
*
「ここで、落としぶたね」
「はい」
悠は、野菜の入った鍋を前に、真剣な顔で頷いた。
「火加減は弱火ね。ぐらぐら煮ると里芋が煮崩れちゃうから」
「はい」
ここは、笙子のマンションだ。悠と笙子はエプロン姿で台所に立っている。
「これで後はしばらく放っておいても良いわ。火が通ったら、一旦火を止めてゆっくり温度を下げてやるの。そうすると味が良く染みるのよ」
「なるほど」
箸を片手に何度も頷く。
「さぁ、休憩にしましょ」
笙子が言った。
数週間前、悠が料理を習いたいと言い出したとき、笙子がその教師役を買って出た。
店が休みの日の午前中なら空いているからと、都合が合う日にはこうして押しかけている。
「東城さんは、昼からいらっしゃるんですか?」
「えぇ、そうよ。私が悠君に料理を教えてるって聞いて、食べに来るって」
笙子が少し恥ずかしそうに笑った。
「私も東城も外食が多いから、手料理を振る舞うなんてちょっと照れくさいんだけど……」
「笙子さんのご飯、すっごく美味しいですから、東城さんも外食する気なくなっちゃいますね」
悠が屈託なく言うと、笙子は頬を染めた。
「おだてるのが上手いわねぇ」
「本心ですよ」
悠が笑った。笙子も笑った。
「ねぇ、ちょっと聞きたかったんだけど」
「なんですか?」
「どうして料理、覚えようと思ったの?」
「……」
「ごめんなさい、言いたくなかったら――」
「あ、いえ、そうじゃないんです」
そう言ってから、悠は照れたように俯いて、自分の指先を見た。
「僕ら今まで、食べ物が美味しいとか美味しくないとか、あんまり考えてこなかったんです。用意された物を口に入れてるだけ、っていうのかな……」
研究所の食堂では、研究所の実情を知らない年配の女性が食事を作っていた。彼女の作る食事はきちんと作られた物だったが、それを味わう余裕が自分たちの方に欠けていた。今から思えば、色々栄養面で心を砕いてくれていたようだったし、それに応えることが出来なかった事を申し訳なくも思う。
「だから、瞬には、僕の作った物を食べて欲しいし、美味しいって感じてもらえたらいいなって」
「……そっか」
笙子はそう言うと、悠の頭を優しく撫でた。
「味覚って、記憶と結びつきやすいそうだし。悠君の味を瞬君がしっかり覚えてくれたらいいわね」
「……はい」
「それにしても、指、結構切っちゃったわね」
笙子が悠の手を見て言った。
「里芋の皮むき、難しかったです。あんなに滑る物だって知りませんでした」
「そうねぇ、でも包丁は使っている内に慣れるから。練習あるのみよ」
「はい、先生」
二人は顔を見合わせ、今度は声を上げて笑った。
茶を飲んでいる間に煮物は出来上がった。
「タッパーに入れるわね。ちょっと待ってて」
大きな白い容れ物に野菜を移しながら、笙子が言った。
「あ、テレビ付けてくれる? 天気予報見なくちゃ」
「はい。えーっと……」
悠はリモコンを見つけ、リビングのテレビのスイッチを入れた。
すぐに、ニュースキャスターの顔が大写しになる。
それをぼんやりと眺めていたら、後ろから声を掛けられた。
「悠君の所は、テレビ無かったっけ」
「長いことテレビのない生活をしてましたから、なんとなくそのまま」
部屋の中で知らない人間の声がするという妙な違和感は、未だ薄れることがない。
「まぁねぇ。最近ろくなニュースもないし、気分が悪くなるから見ない方が良いわね」
笙子がため息交じりに言った。危険な世界に身を置く恋人のことを思ってだろう。
「そうですね……」
悠が返事をしかけた時だった。
悠の目が、一つのニュースに釘付けになった。
「――小学校教諭、大津始さん、三十二歳が、昨夜から連絡が取れないと同僚から通報があり、警察が捜索したところ、千鳥ヶ崎の岸壁から落下したとみられる乗用車を発見しました。中には男性の遺体があり、警察は身元の確認を急ぐと共に、事故と自殺の両方から捜査を――」
笙子が顔を上げると、悠の横顔が見えた。
「……悠君?」
大きく見開かれた目は、テレビの画面を凝視している。
「どうしたの?」
だが笙子の声も、彼の耳には届いていない。その顔からみるみるうちに血の気が引いて行くのをみて、笙子が駆け寄った。
「悠君! 大丈夫!?」
笙子が抱き留める寸前、悠の膝が折れた。笙子の腕に悠の体重が掛かる。
「気分悪い? 苦しい?」
悠は紙のように白い顔で中空を見つめている。その目には笙子も、何も映っていない。
ただ胸元のシャツを握りしめ、呼吸だけが荒い。
「悠君? 悠君!」
*
揺すぶられ、何度も名を呼ばれる。
悠の目が焦点を結んだとき、そこに見えたのは涙を浮かべた笙子の顔だった。
「あぁ、悠君……!」
意識が飛んだのは、それほど長い時間ではなかったのだろう。テレビからは賑やかなCMの曲が流れている。
目の前の笙子の顔とあまりに似つかわしくない賑やかなBGMに、悠は思わず笑った。
「ごめんなさい。……ちょっと、貧血起こしちゃいました」
「急に倒れるから……」
笙子はその胸にきつく悠を抱き込んだ。
「びっくりしたわ……」
柔らかな肌から、かすかな花の香りがする。
こんな風に女性に抱きしめられるのは初めてだった。
記憶の中の母はすでに遠く、女性に触れる機会も一度も無かった。
瞬とは違うその優しさに、悠の胸が温かくなる。
恐る恐る笙子の細腰に腕を回すと、笙子が笑った。
「具合の悪いときぐらい、遠慮しなくても良いのよ」
笙子もまた、悠を抱きしめながら不思議な感じを覚えていた。
華奢な骨格とは言え、悠も男だ。血のつながりもない少年とこうして密着しているというのに、なぜか不埒な感情一つ起こらない。
「今日は瞬君は家よね? 連絡して迎えに――」
「笙子さん」
腕の中の悠が小さな声で言った。
「瞬には言わないで」
「え、倒れたこと? どうして、ちゃんと言わなきゃ――」
「たいしたことないし、心配かけちゃうから」
「……ねぇ、あなたちゃんと瞬君に甘えてる?」
突然言われて、悠が顔を上げた。
「甘える?」
「側に居て欲しいときとか、ちゃんと我が儘言える? なんだか、悠君っていつもなんでもないって平気なふりしてる気がするわ」
「……」
思い当たる節があるのだろう、悠は黙ったままだ。
「ちゃんと両思いになったんでしょ? だったらもっと好き勝手言えば良いのよ」
「……えっと、笙子さん……」
ようやく悠の頬に赤みが差してきた。聞きにくそうに口ごもる。
「なんで、知ってる……」
「あぁ、だって瞬君大喜びで飛んできて、逐一報告してくれたわよ」
相談に乗ったりハッパを掛けてやったからだろうか、瞬は笙子に礼を言いに来た。しまいには甘ったるいノロケ話を聞かされる羽目になったのだが。
「ねぇ、大事な人には心配させて欲しいものじゃない?」
笙子の手が、ゆっくり悠の髪を梳いた。
「自分の知らないところで辛い目に遭って欲しくないし、もし辛いのなら言って欲しいわ」
まるで自分自身に語りかけているような、穏やかな口調の中に僅かな悲しみが滲む。
先日の襲撃事件が頭をよぎり、悠は腕に力を込めた。
この人もまた愛しい人が死と隣り合わせの世界にいる。
「……ごめんなさい」
「ほら、また謝ってる」
笙子が笑って、コツンと悠の額に頭をぶつけた。
「おばかさん。みんなあなたが大事なのよ。それを忘れないでね」
「……あり――」
がとう、と続けようとして、笙子の背後に立った大きな人の気配に思わずそちらを仰ぎ見る。
「……あ」
「あ?」
「あー」
東城だった。リビングの入り口に立ちながら、こちらを見下ろしている。
「これは、俺が怒っていい場面なのか?」
*
送らせるわ、と言う笙子達の申し出を固辞して、悠は帰って行った。
心配そうに後ろ姿を見送った笙子に、東城が声を掛ける。
「お前が入れ込むなんて珍しいな」
「失礼ね、私そんな薄情じゃないわよ」
言いながらリビングへ戻ると、置きっぱなしだったエプロンを手に取った。
「……あなたが気に掛けてた理由が何となく分かったわ」
「そうか」
「あの子、母親を知らないみたい」
東城は黙っていた。笙子には二人の生い立ちを話してはいない。だが笙子は、母性の勘でそれを感じ取ったのだろう。
「甘え下手、っていうのかしら。自分で引いた一線からこちらへは踏み込んでこないのね。計算してそうしてるならいいんだけど……あの子はそれが当たり前になっているみたいだから」
「それでさっきの抱擁か」
「あら、やきもち?」
笙子が言うと東城は肩をすくめた。一応否定しないでおいてやる。
「そうね、少なくとも男女の抱擁ではなかったわ。親子か、姉と弟、ぐらいかしら」
「……そうか」
端から悠と笙子の間など疑ってもいないし、疑う気すら起こらない。それほどまでに悠と瞬の絆は深い。深すぎて、それが断たれたときにどうなるか……と、ふと詮無い事にまで考えが及んで、東城は頭を振った。
「ねぇ、一つ訊きたいんだけど」
笙子が言った。
「テレビのニュースで流れた内容って、問い合わせれば教えてもらえるのかしら」
「あぁ? そりゃ出来るはずだが……」
「そう、それじゃ後で問い合わせてみるわ」
「ニュースがどうかしたのか」
笙子が少しためらいを見せた。だが、すぐに東城に言った。
「悠君が倒れたとき、ニュースを見ていたの。悠君は貧血だなんて言ってたけど……倒れた原因、そのニュースにあるような気がするのよ」
「見たのか」
「ニュース? いいえ、私は少し離れてたから。でも特に目新しいニュースじゃなかったと思うわ。事故か何かのニュースだったと思う」
「局と時間は」
問われて、笙子がテレビを点けた。チャンネルはあの時点から変えていない。
東城がそれを確認するとすぐに電話を手に取った。
「笙子」
「……はい」
「あの二人には俺たちも知らない謎が多い」
「謎……?」
「あぁ。……お前には酷な事を言うが……」
「いいわ」
「あの二人を可愛がるのはいい。だが踏み込むな。あの二人の過去に触れるな。どんな危険があるか誰にも分からんのだ」
笙子は東城を見た。東城も笙子を見た。そこにあったのは、ただ笙子を気遣う恋人の表情だった。
「わかりました」
彼らと研究所との確執は今、組を巻き込み始めている。せめて笙子だけでも、その抗争の外に置いておきたかった。
東城は己の甘さを内心嗤いながら、改めて電話を耳に当てた。
「……柴。調べて欲しいことがある」
ともだちにシェアしよう!

