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第六章 賢者と愚者 1
窓の外を見ると、見慣れたスーツ姿の男が見えた。
隠れるつもりもないのだろう。道路を挟んだ向かいの店の植え込みに腰掛け、煙草を吹かしている。
前に長い足を投げ出しているので、時折通りかかる自転車が、迷惑そうに蛇行して避けてゆく。
――今日は買い物に行かないと、冷蔵庫の中が空っぽだ……。
仕方なく財布を手に取ると、玄関のドアを開けて階段を下りた。
と、男はすぐに近寄ってきた。嘘くさい親しみを込めて声を掛ける。
「やぁ奇遇だねぇ、マコ君」
「……ずっとそこにいたくせに」
「なんだ、見てたのか」
白々しく言うと、男は真の横に並んで歩き出した。
「沢田さん」
「沢野。の、だよ、マコ君」
「……それやめて下さい」
「それ?」
「僕の名前。まこと、です」
――マコと呼んで良いのは、あの人たちだけだ。
語気を強めて言うと、沢野は頭を掻いて訂正した。
「ごめんねぇ、つい」
よれよれの姿に一瞥をくれ、真は沢野を無視することにした。
まっすぐ前だけを見据えて歩く。
「真君、聞きたい事があるんだけどなぁ」
「……」
「君の同居人君たち、ガードが堅くってねぇ」
「……」
悲鳴の一つもあげて、痴漢だと言って助けを呼ぼうかと思ったが、こんな時に限って誰も通りがからない。
「ねぇ、真君。暁って子のことなんだけど」
その名が出たとき、真は思わず身体が震えた。大事な、大事な人の名前。
「昔一緒に住んでたんだよね?」
真の胸に沸き上がったのは憤りだった。
――その名前を軽々しく言うな。
「最近、姿を見かけたとか、会ったとか、そういうの――」
「黙れ!」
真が叫んだ。
「だまれだまれだまれぇっ!」
「ちょ、君、落ち着いて――」
「僕だって会いたい! 暁に会いたい! でも会えないんだ!」
「……それは、なぜ?」
沢野が静かに聞いた。
「知らない! どこにいるのかも知らない! 会いたい、会いたいよ……!」
真の目から大粒の涙がこぼれる。思わぬ反応に、さすがの沢野もひるんだ。
「あー、泣かせたかったわけでは……」
「おい」
と、背後から、剣呑な声が沢野を刺した。
「……しまった」
「なにがしまっただ」
「敬ーっ!」
真が涙を拭って、目の前の青年に駆け寄った。
「ごめんなマコ、怖かっただろ」
その身体を背後に隠しながら、敬はもう一度、目の前の男をきつく睨み付けた。
「あんた、懲りもせず付け回して。二度と来るなと言ったはずだが」
敬が、半歩前に出る。だが沢野は特に受け手に廻ることなく、軽く聞き流している。
「えーっと、さ、公務執行妨害って、知ってる?」
「知ってる。知ってて言ってる」
「まぁ、そうだよねぇ」
そう言うと沢野は懐に手を入れた。敬はいつでも真を逃せるよう、周囲に視線を走らせる。
だが彼が懐から出したのは、一葉の紙片だった。
「君たちの知りたい事を、教えようか」
「……なに?」
「君たちが、今一番知りたい事は何だ?」
敬は相手を探るように見つめた。
「……代わりに暁を売れと言うのか」
「は、まさか!」
沢野が笑った。
「これっぽっちの情報、ただであげるよ。君たちが警戒を解いてくれればそれでいい」
そして、手に持っていた紙を手渡した。
「……!」
敬が息を呑んだ。その後ろから覗き込んだ真もまた、同じく声が出せない。
「懐かしいか?」
沢野が言った。
真が、敬に服にしがみついた。再び涙が溢れてくる。
「瞬……! 悠……!」
「……これ、どこ……」
「それは、言えない。だが、二人とも元気だ」
沢野が見せた写真には、瞬と悠が写っていた。見間違えようがないその姿は、二年近い年月を経てもあまり変わらないように見えた。
敬の胸に懐かしさと愛惜の思いが満ちる。彼の頬にもまた、涙が伝った。
「……生きていてくれた……!」
*
「で、こんな得体の知れない奴をのこのこ家に上げたのか」
冷たい色の目が冷たく男を見下ろす。
「……」
「まぁまぁ、涼君」
「部外者は黙ってろ」
「写真……」
「こんなもん、いくらでもでっち上げられるだろうが。もうちょっと危機感持て、危機感を」
「……ごめん……」
往来で泣き続けるわけにもいかず、敬が沢野を家に上げたところで、帰ってきた涼にこっぴどく叱られたのだった。
「……まぁ、でっち上げにしてはよくできてるがな」
涼も写真を見た。彼にも、胸にこみ上げるものがある。
「二人とも、ちょっと痩せたかな」
瞬はさらに大人っぽく精悍な顔つきになった。悠はその隣で、瞬を見上げている。
「幸せそうな顔して」
涼が呟くと、敬と真が笑った。
「……なんだよ」
「お前だって、嬉しいんじゃないか」
「……るせぇ」
悪態を一つ吐いて、写真を沢野に返した。
「暁の事、俺たちに訊いても無駄だぜ」
「……そうかい?」
「別れてからこっち、一度も会ってない。顔も見てない」
沢野はただ無言で頷いた。
そんな事は、事前の聞き込みで承知していた。
一年半前からこのアパートで暮らし始めた三人の暮らしぶりは、すでに調査済みだ。
涼は建設会社の派遣社員として働き、敬は飲食店のアルバイトなどをいくつかこなしている。
真は学校へは行っておらず、家の家事全般を引き受けているようだ。
学校へ行っていない理由は、いじめのためだとか、病気のためだとかと近所には説明しているらしい。
人当たりの良い真は、近所の住人にも愛されている様子で、沢野が「遠縁の親戚」という設定で世間話をしても、引き出される情報は可愛らしい物ばかりだった。
そこには《背の高い男》の影は微塵もない。
「それじゃ、暁君が君たちと暮らしていた頃の話なんだけど」
沢野は写真をしまいながら、代わりに煙草を出そうとして慌てて手を止めた。
ここで煙草など出そうものなら、家主に叩き出される。せっかく飛び込んだ懐から簡単に出るつもりはない。
「暁君、何してたのかな」
「……何、って?」
涼は、返事をしながら絶妙のタイミングで後ろを向いた。その表情を伺うことが出来ない。
「マコ、こっちおいで」
その上、一番表情の読みやすい真少年まで遠ざけられてしまった。
沢野は煙草の代わりに指で唇を撫でた。
「暁君が何をしていたか、知っているかい?」
「学校行ってたぜ。バイトしながら、高校に行ってた」
涼は台所で湯を沸かしながら答えた。その後ろ姿を、敬が見つめている。
「敬君は、何か知ってる?」
「え? あ、いや、俺もなにも――」
「敬! お前もこっち来い!」
鋭い声で呼ばれて、敬も立ち上がった。涼は、サシで沢野と対峙するつもりらしい。
二十歳を超えたばかりの青年二人は、十歳の少年を挟んで、本当の家族のように見える。
近所の主婦の話では、三人は、早くに両親を亡くした三人兄弟ということになっているらしい。
顔つきは全く似ていないのだが、こういった年回りの青少年たちの設定としては一番無難な物だろう。
「お前らはそっちの隅で勉強してろ」
涼が台所のテーブルを指して言うと、敬が抗議の声を上げた。
「でもそれじゃ……」
「うっせぇ、泣き虫」
「な、き……っ」
「泣き虫二匹がへばりついてたんじゃ、話が進まねーんだよ」
涼は棚からカップを出している。大小様々なカップに、インスタントコーヒーの粉を入れ、湯を注ぐ。
一番小さなカップには、冷蔵庫から出した牛乳が注がれた。
「昨日マコが分からないっつってたところ、教えてやれよ」
そう言って、真にそのカップを渡す。いつの間にか用意したクッキーの小皿も一緒に机に並べた。
尚も言い募ろうとする敬に、涼は顔を寄せる。そして耳元で何事かを囁く。
と、途端に敬が黙った。
「分かったか?」
「……分かったよ!」
「ケイー、これ。教えてよー」
脇から真がのんびり言った。こんなやりとりは日常茶飯事なのだろう。慣れた様子でテーブルに着くと、脇に積んであった冊子を開いた。
敬もその隣に陣取る。それを見届けてから、涼はマグカップ二つを手に沢野の元へ来た。対面に座り、カップを差し出す。
「どうぞ」
「お構いなく」
「それは淹れる前に言う台詞だろうが」
「そりゃ失敬」
「……コーヒーが冷めるか、飲み終わるまでは話を聞いてやる」
「魅力的な時間設定だな」
「めんどくせぇ前説は要らん。さっさと用件を言え」
「そんじゃ、遠慮無く」
沢野はカップを脇に退けると、懐から煙草を出した。
火を点けないまま、口にくわえる。
「戦闘開始と行きますか」
そう言って、にやりと笑った。
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