31 / 46
第六章 賢者と愚者 2
その日悠は、組の事務所を訪れていた。
元々社交的ではなかった悠だが、最近は滅多に外にも出なくなった。瞬以外の誰とも口をきかない日も珍しくない。
時折笙子と会うこともあるようだが、それも数える程でしかなく、料理を教わる機会も徐々に間遠になっていた。
そんな悠を見かねて、瞬が出勤前にここに連れてきたのだ。
あいにく東城は不在だったが、柴浦と柘植はいて、快く悠を迎えた。
「最近、時々急にぼんやりするんです」
柘植に手を引かれて悠が奥へ消えた後、瞬が柴浦に言った。
「声を掛ければすぐに返事もするし、具合も悪くなさそうなんですが、放っておくとずっと固まったままで……」
火を使っているときにぼんやりでもされたら、危なくてしかたない。
「ご迷惑を承知で、連れてきてしまいました」
すみません、と瞬が頭を下げる。柴浦は笑って首を振った。
「構いませんよ、ここなら誰かの目が必ずありますから安心です」
瞬はもう一度頭を下げると、事務所を後にした。
「悠さん」
柴浦が声を掛けると、悠はすぐに顔を上げた。
健康的とはとても言いがたい、青白い顔が笑顔を作る。
「お久しぶりですね」
悠が言った。
思い返せば、あの難波の診療所へ同行して以来、悠とは会っていなかったことになる。
その間、東城から調べるように言われた妙なニュースの一件以外、取り立てて動きはなかった。
三好組は代替わりしたばかりで他に目を向ける余裕はなく、姿を消した松永一派のことも放置状態だ。
先月行われた跡目相続の襲名式には、真田を始め組幹部の面々が客分として列席した。
先の襲撃について、三好は改めて、組の意向でなかったことに証を立てた。
二本の指の入った小箱が使者によって届けられ、この一件は対外的には終わりを告げたのだった。
だが、松永とその子飼いたちは、姿を消したままその消息はぱたりと途絶えていた。
「お元気そうで、よかったです」
空々しい挨拶が、柴浦の口を突いて出る。だが、悠はにこりと笑った。
季節は桜の時期ももう終わろうとしていた。
いつも春は挨拶回りなど最も忙しい季節で、時の移り変わりなど感じる余裕もない。けれど今年はあまりに濃密な事件の連続で、まだ春なのかと驚いてしまう。
細く開けた窓から、香しい春の風が吹き込む。
その風が優しく悠の髪を撫で、乱した。
「暖かくなりましたね」
髪を抑えながら、悠が言った。
「花がたくさん咲いて、とってもきれいだ」
「花見は、行かれましたか?」
「……はなみ?」
首を傾げる悠に、柴浦はまた言葉に詰まる。
「花を見に行くんですか?」
「……えぇ、桜を」
「さくら……一週間ぐらいしか咲いてない花、ですよね」
悠は窓の外へ視線を向けた。ここから見えるのは、ビルの窓ぐらいのものだ。
「世の中、僕の知らないことばかりです」
そう言って、唇の端に笑みを乗せる。悠の横顔は、とてもはかなげで愛らしかった。
「来年」
「え?」
「今年は、もう散ってしまいましたから、来年、皆で花見に参りましょう。笙子さんも喜ぶ――」
明るく話題を振った柴浦は、その時の悠の表情に、声を失った。
寂しそうな、そして何もかも諦めてしまったような笑顔が柴浦を見つめている。
「ありがとう、柴さん」
なぜ礼を言うのか、柴浦には分からなかった。
「ありがとう」
……抱きしめたいと、思った。こんな顔をさせたくなかった。
柴浦が、突然沸き起こった衝動に従い、腕を伸ばす。
だがその指が悠に触れる前に、耳慣れない男の声がそれを遮った。
「久しぶりぃ、カワイコちゃん」
柴浦が身を翻す。そこにあったのは、二人の男だった。
見間違いようのないその姿に、柴浦は息を呑む。
一人は松永を連れ去った男だ。そして今一人は、沢野が追っていた男。あの倉庫を見張っていた男。そして……。
柴浦が口を開こうとした。しかしそれより先に、悠が叫んだ。
「あ……アキラっ!」
やはり。と言う思いが柴浦の胸を過ぎった。
アキラという名の青年は、無言で悠を見下ろしている。
悠はふらふらと前へ出た。
「暁、アキ……」
懐かしさと、それ以上の、身を切られるような愛しさを込めて、悠が名を呼ぶ。
腕を伸ばし、彼に触れようと……。
「悠っ、それ以上近づく――」
柴浦の警告は遅すぎた。
暁の腕が素早く動き、悠の首を捕らえる。大きな手が、悠の喉笛を握り、掴み上げた。
「あ、き?」
暁は無表情のまま、悠の身体を持ち上げた。
「ぅ、ぐ……」
喉を潰され、息が詰まる。
暁の手首を掴み、爪を立てるが、跡一つ付けることが出来ない。
だが悠には、苦しさよりも驚きが勝った。
なぜ、暁がこんな事をするのだろう? なぜ、忠と一緒にいるのだろう? なぜ、こんな冷たい顔をしているのだろう?
なぜ、なぜ、なぜ。
「アキ……アキ、ラ……」
悠は暁の手から指を離すと、暁へ向けて手をさしのべた。
「アキ……」
首を絞められながらも、悠の目には疑いの影一つ無い。
床からつま先が浮き、さらに首が締まる。
「ア……」
悠の指が暁に触れた。暁の眉が、ぴくりと動いた。
「おいおい、殺すなって言われただろうが」
忠が言うと、暁は悠の首から手を離した。軽く手を打ち振るい、悠を放り出す。
応接室のテーブルに背を打ち付け、大きな音を立てた。痛みと苦しさとで、悠は身体を丸め激しく咳き込む。
「悠ッ!!」
柴浦が叫ぶと、暁がそちらを見た。互いの目が合う。
柴浦は、ギリと暁を睨めつけた。今すぐ悠をこの場から逃がしたい。だが、この男は悠と同類だ。どんな手で攻撃を仕掛けられるか見当も付かない。
「なんだ、せっかく涙の再会させてやろうと思ったのによぉ」
忠が壁にもたれて言った。
「……さっさと用件を済ませろ」
「もっとゆっくりしたっていいんじゃねぇの? なんなら、コイツここでいたぶってやっても良いぜ。殺すなとしか言われてねぇんだし」
「余計なことはするな」
あくまでも事務的な口調で暁が言う。
その時だった。扉が突然開いた。
「兄貴、今デカい音――」
「来るなッ!」
柴浦の言葉とほぼ同時に、暁が動いた。
男の腕を掴むと中に引き込み、扉を閉めるやいなや、その身体を壁に打ち付けた。
そのまま首を腕で締め上げる。
「ぐ、ふ……」
「柘植ッ!!」
「コイツもここの人? ヤクザのくせにずいぶん警戒心薄いねぇ」
「アニ……」
柘植はなんとか身を捩って逃れようとしたが、暁の力に到底敵うはずもなく、余計に首が絞まるばかりだ。
「……貴様、何が目的だ!」
「なにって、宣戦布告、だよ」
「なんだと……!」
「この間あんたたちを襲った奴。ほら、松永とか言っただろ。あいつらがまた仕返ししたいんだってさ」
「お前が、あいつらの身体を改造したのか」
「あれ、よく知ってるねぇ。ほら、そこのバケモノ」
忠が、床に倒れ伏したままの悠を指さした。
「そいつの遺伝子を使ったんだと。俺はからくりは良く知らねぇけど、効果の程はあんたたちも見ただろ?」
忠がふふんと鼻を鳴らした。
「殺しても殺しても死なねぇなんてさぁ」
悠に歩み寄る。そして、彼の頭を足で踏みつけた。
「こんなバケモノ、野放しにしておかねぇ方が良いんじゃね?」
泥の付いた靴が、悠の白い頬をごりごりと擦る。
悠は、足の下から忠を睨み上げた。
「なぁ、悠。こっちに戻ってこいよ。パパがお待ちかねだぜ?」
「……その人を離せ」
「あぁ?」
「僕に用があるなら僕を連れて行けばいいだろう! その人は関係ないッ!」
「バカだねぇ、相変わらず」
忠は嘲笑うように言うと、すっと手を伸ばした。
その手の内に、一振りの日本刀が現れる。柴浦が息を呑んだ。
「さっすがヤクザ。こんな物騒な物が部屋にごろごろしてんだ」
そして、鞘から白刃を抜き取る。部屋の明かりを受け、刃がぎらりと光った。
「なぁ、お兄さん、テレポーテーションって便利だろ?」
そう言うと、忠はそのまま抜き身の刀を暁に放った。
宙を滑るように飛んだ刀身を、暁が片手で受け取る。
「アキ――」
「おめぇが吠えれば吠えるだけ、コイツが大事だって事、丸わかりなんだよな」
「やめ……、やめて、暁、やめて!」
悠の制止など耳にも届いていないのか、暁は、迷うことなく白刃を振るった。そして、その切っ先を拘束した柘植の腹にねじ込んだ。
「ぐ、ぅぅぅぅ!」
喉を押さえられ、柘植は叫ぶ事すら出来ない。
「柘植さん!!」
柘植の腹から血が溢れ出す。思わず駆け寄ろうとした二人を、暁が鋭い声で制した。
「動くな! 動けば、こいつの腹を掻っ捌くぞ!」
暁の右手は、刀の柄に掛かったままだ。
「う、ぁ……あ」
柘植の身体が、痛みでびくびくと痙攣する。
「忠。さっさとしろ」
「あいよぉ。三日後、4月18日午後一時。ここの北にある工場跡地に来い」
「セメント工場跡か」
「あー、うんそれそれ。松永達が待ってっからさ」
「……分かった」
「そっちは何人連れてきても良いぜ。松永は八人だ」
柴浦が小さく頷く。と、暁が悠を見た。
「悠」
初めて名を呼ばれ、青い顔の悠が暁を見た。
「瞬を、必ず連れて来い」
「……っ、なぜ!?」
「所長の命令だ」
「暁……どうして? ねぇ、どうしてそんな事するの?」
柘植の出血が酷い。早く手当しなければ、命に関わる。
だが、焦りと混乱とで、悠はまともな判断が出来ない。
「早くその人を離して。早くしないと、柘植さん、死んじゃう……」
「お前は、相変わらずだな」
暁が薄く笑った。
「相変わらず、優先順位を間違えている」
暁が、刀の柄を逆手に握りなおした。
「こんな男より、もっと自分の心配をしたらどうだ」
「……っ、抜くな、やめろっ!」
柴浦の絶叫が響く。暁は柴浦を見た。そしてにやりと笑った。
同時に刀を引き抜く。
鮮血が、弧を描いて迸った。
暁の身体に、血の雨が降りかかる。
だが、彼はその血を被っても尚、動くことなく悠を見つめている。
悠が、先に動いた。
「柘植さんっ!」
刀を持ったままの暁の側へ駆け寄る。
一瞬、柴浦はひやりとした。が、暁は悠をこれ以上害する意志はないらしく、急に興味を失ったように柘植の拘束を解いた。同時に、足下に刀を放る。
柘植の身体が、人形のようにゆっくりと崩れ落ちた。
辛うじてその身体を受け止めた悠が、すぐに真っ赤に染まった。
「柘植さんっ、柘植さんっ!」
つい先日、自分が受けた傷が脳裏に蘇る。あのとき、自分の傷は放っておいても良かった。自分は死ぬはずなど無かった。
けれど、人は違う。刺し傷一つで、こんなにもあっけなく命を失う。
柴浦は目で二人を牽制しつつ、柘植の元へと駆け寄った。
「悠さん、傷を押さえて」
自分のジャケットを脱ぎ傷に宛がう。
「あらあら、一生懸命だなぁ」
忠が嘲笑う。
「こんなザコ、放っておけばぁ?」
「……帰れ」
「お?」
「帰れ! 邪魔だ、帰れ!」
悠が忠を睨み、叫んだ。
「へぇへぇ、俺はただのお使いだからよ。そんじゃ、三日後にまたな」
「……悠」
悠は聞こえないふりをして、柘植の腹の傷を上から強く押さえた。柘植が、苦悶の声を上げる。
「悠」
暁の声を聞きたくなかった。昔、優しく話しかけてくれたあの声で今、名を呼ばれたくなかった。
「瞬の事、忘れるな」
その一言を残すと、二人は部屋からかき消えた。
「柘植さん……柘植さん、しっかりして……!」
柴浦が立ち上がった。ドアから人を呼び、指示を出す。
血だらけの柴浦に、にわかに事務所内が騒然となった。
玄関に車を回し、医者の手配をする。
「……アニ、キ」
柘植が震えながら手を伸ばした。柴浦がその手を握る。
「少しの我慢だ。すぐに血は止まる。気をしっかり持て」
悠は傷を押さえながら柴浦の顔を盗み見た。そしてその顔に僅かな焦燥と、諦めの色を見て取って、愕然とした。
――柘植さんが、死ぬ? 死ぬ? 死ぬって……。死ぬって、なに?
「血……傷、塞がないと……」
訳の分からない焦りの中で、それでも、悠の決断は早かった。
すぐ側に落ちている刀を手に取る。柴浦が、驚いて目を見張った。
「悠さん、何を――」
「僕の力、役に……」
「やめ……、悠っ!」
柴浦が止める間もなく、悠がその刀身を手首に当てた。そして、思い切り刃を引いた。
動脈を掻き切り血が噴水のように噴き出す。
「馬鹿な事を!」
咄嗟に柴浦の腕が悠の手首を握ろうとしたが、悠はそれを払った。そして、手首の傷を柘植の腹の傷に当てた。
「僕の、ちから……」
血液を混ぜる危険がある事は、悠も分かっていた。だが今一刻を争う状態では、迷う事は出来なかった。
「お願い、止まって……血を、止めて……!」
弱まっているかもしれない自分の力で、柘植を助ける事が出来るのか。
悠は朦朧とする頭でひたすらに祈った。今まで疎んじる事しかしなかったこの力に、初めて縋った。
――お願い。お願い、効いて!!
*
長い、長い時が経った気がした。柴浦が言った。
「止まって……る……」
先日の悠のように、傷が塞がるまではなかったが、出血は確実に止まっていた。
「これなら、助か――」
柴浦が悠の肩に手を置く。と、彼の身体がぐらりと傾いだ。
「ユ、」
そのまま床へと倒れ込む。手を伸ばしたが到底間に合わず、悠は頭と肩を強かに打った。
「悠さん!」
「……へー、き」
意識はあった。悠が、とろりとした眼を動かす。
「早、く」
「しかし、悠さんが!」
「慣れて、る……へー、き」
そう言って、悠が笑った。
「つげ、さ……、助け、て――」
柴浦は、自分を叱咤した。己の今の一の使命は何だ。舎弟の命を守る事ではないのか。
彼は唇を引き結ぶと、自分のネクタイを解いた。
それで悠の肘の辺りを強く縛る。そして、柘植を抱きかかえて立ち上がった。
「――行きます」
もう一度、悠が笑った。
*
ふわりと、抱き上げられたような気がして、悠は目を薄く開けた。
誰だろう。
相変わらず、この目は肝心なときによく見えない。
相手に腕を伸ばそうとして、身体が言う事をきかない事に気付いた。
酷くだるい。
悠は、昔血を抜かれたときの事を思い出した。
そう言えばあのときも、身体が思うように動かなかったっけ。
耳元で誰かが何かを言っているような気がする。
声は聞こえないけれど、耳のあたりが震えているので分かる。
溜息のように言葉を囁かれている。
少し身を捩ると、その誰かは耳元を離れ、悠の上から顔を見下ろした。
影を感じて何となく分かったが、やはり目はよく見えない。
溜息を吐いて目を閉じると、彼の頬に、額に、温かい雨が降ってきた。
ともだちにシェアしよう!

