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第六章 賢者と愚者 2

 その日悠は、組の事務所を訪れていた。  元々社交的ではなかった悠だが、最近は滅多に外にも出なくなった。瞬以外の誰とも口をきかない日も珍しくない。  時折笙子と会うこともあるようだが、それも数える程でしかなく、料理を教わる機会も徐々に間遠になっていた。  そんな悠を見かねて、瞬が出勤前にここに連れてきたのだ。  あいにく東城は不在だったが、柴浦と柘植はいて、快く悠を迎えた。 「最近、時々急にぼんやりするんです」  柘植に手を引かれて悠が奥へ消えた後、瞬が柴浦に言った。 「声を掛ければすぐに返事もするし、具合も悪くなさそうなんですが、放っておくとずっと固まったままで……」  火を使っているときにぼんやりでもされたら、危なくてしかたない。 「ご迷惑を承知で、連れてきてしまいました」  すみません、と瞬が頭を下げる。柴浦は笑って首を振った。 「構いませんよ、ここなら誰かの目が必ずありますから安心です」  瞬はもう一度頭を下げると、事務所を後にした。 「悠さん」  柴浦が声を掛けると、悠はすぐに顔を上げた。  健康的とはとても言いがたい、青白い顔が笑顔を作る。 「お久しぶりですね」  悠が言った。  思い返せば、あの難波の診療所へ同行して以来、悠とは会っていなかったことになる。  その間、東城から調べるように言われた妙なニュースの一件以外、取り立てて動きはなかった。  三好組は代替わりしたばかりで他に目を向ける余裕はなく、姿を消した松永一派のことも放置状態だ。  先月行われた跡目相続の襲名式には、真田を始め組幹部の面々が客分として列席した。  先の襲撃について、三好は改めて、組の意向でなかったことに証を立てた。  二本の指の入った小箱が使者によって届けられ、この一件は対外的には終わりを告げたのだった。  だが、松永とその子飼いたちは、姿を消したままその消息はぱたりと途絶えていた。 「お元気そうで、よかったです」  空々しい挨拶が、柴浦の口を突いて出る。だが、悠はにこりと笑った。  季節は桜の時期ももう終わろうとしていた。  いつも春は挨拶回りなど最も忙しい季節で、時の移り変わりなど感じる余裕もない。けれど今年はあまりに濃密な事件の連続で、まだ春なのかと驚いてしまう。  細く開けた窓から、香しい春の風が吹き込む。  その風が優しく悠の髪を撫で、乱した。 「暖かくなりましたね」  髪を抑えながら、悠が言った。 「花がたくさん咲いて、とってもきれいだ」 「花見は、行かれましたか?」 「……はなみ?」  首を傾げる悠に、柴浦はまた言葉に詰まる。 「花を見に行くんですか?」 「……えぇ、桜を」 「さくら……一週間ぐらいしか咲いてない花、ですよね」  悠は窓の外へ視線を向けた。ここから見えるのは、ビルの窓ぐらいのものだ。 「世の中、僕の知らないことばかりです」  そう言って、唇の端に笑みを乗せる。悠の横顔は、とてもはかなげで愛らしかった。 「来年」 「え?」 「今年は、もう散ってしまいましたから、来年、皆で花見に参りましょう。笙子さんも喜ぶ――」  明るく話題を振った柴浦は、その時の悠の表情に、声を失った。  寂しそうな、そして何もかも諦めてしまったような笑顔が柴浦を見つめている。 「ありがとう、柴さん」  なぜ礼を言うのか、柴浦には分からなかった。 「ありがとう」  ……抱きしめたいと、思った。こんな顔をさせたくなかった。  柴浦が、突然沸き起こった衝動に従い、腕を伸ばす。  だがその指が悠に触れる前に、耳慣れない男の声がそれを遮った。 「久しぶりぃ、カワイコちゃん」  柴浦が身を翻す。そこにあったのは、二人の男だった。  見間違いようのないその姿に、柴浦は息を呑む。  一人は松永を連れ去った男だ。そして今一人は、沢野が追っていた男。あの倉庫を見張っていた男。そして……。  柴浦が口を開こうとした。しかしそれより先に、悠が叫んだ。 「あ……アキラっ!」  やはり。と言う思いが柴浦の胸を過ぎった。  アキラという名の青年は、無言で悠を見下ろしている。  悠はふらふらと前へ出た。 「暁、アキ……」  懐かしさと、それ以上の、身を切られるような愛しさを込めて、悠が名を呼ぶ。  腕を伸ばし、彼に触れようと……。 「悠っ、それ以上近づく――」  柴浦の警告は遅すぎた。  暁の腕が素早く動き、悠の首を捕らえる。大きな手が、悠の喉笛を握り、掴み上げた。 「あ、き?」  暁は無表情のまま、悠の身体を持ち上げた。 「ぅ、ぐ……」  喉を潰され、息が詰まる。  暁の手首を掴み、爪を立てるが、跡一つ付けることが出来ない。  だが悠には、苦しさよりも驚きが勝った。  なぜ、暁がこんな事をするのだろう? なぜ、忠と一緒にいるのだろう? なぜ、こんな冷たい顔をしているのだろう?  なぜ、なぜ、なぜ。 「アキ……アキ、ラ……」  悠は暁の手から指を離すと、暁へ向けて手をさしのべた。 「アキ……」  首を絞められながらも、悠の目には疑いの影一つ無い。  床からつま先が浮き、さらに首が締まる。 「ア……」  悠の指が暁に触れた。暁の眉が、ぴくりと動いた。 「おいおい、殺すなって言われただろうが」  忠が言うと、暁は悠の首から手を離した。軽く手を打ち振るい、悠を放り出す。  応接室のテーブルに背を打ち付け、大きな音を立てた。痛みと苦しさとで、悠は身体を丸め激しく咳き込む。 「悠ッ!!」  柴浦が叫ぶと、暁がそちらを見た。互いの目が合う。  柴浦は、ギリと暁を睨めつけた。今すぐ悠をこの場から逃がしたい。だが、この男は悠と同類だ。どんな手で攻撃を仕掛けられるか見当も付かない。 「なんだ、せっかく涙の再会させてやろうと思ったのによぉ」  忠が壁にもたれて言った。 「……さっさと用件を済ませろ」 「もっとゆっくりしたっていいんじゃねぇの? なんなら、コイツここでいたぶってやっても良いぜ。殺すなとしか言われてねぇんだし」 「余計なことはするな」  あくまでも事務的な口調で暁が言う。  その時だった。扉が突然開いた。 「兄貴、今デカい音――」 「来るなッ!」  柴浦の言葉とほぼ同時に、暁が動いた。  男の腕を掴むと中に引き込み、扉を閉めるやいなや、その身体を壁に打ち付けた。  そのまま首を腕で締め上げる。 「ぐ、ふ……」 「柘植ッ!!」 「コイツもここの人? ヤクザのくせにずいぶん警戒心薄いねぇ」 「アニ……」  柘植はなんとか身を捩って逃れようとしたが、暁の力に到底敵うはずもなく、余計に首が絞まるばかりだ。 「……貴様、何が目的だ!」 「なにって、宣戦布告、だよ」 「なんだと……!」 「この間あんたたちを襲った奴。ほら、松永とか言っただろ。あいつらがまた仕返ししたいんだってさ」 「お前が、あいつらの身体を改造したのか」 「あれ、よく知ってるねぇ。ほら、そこのバケモノ」  忠が、床に倒れ伏したままの悠を指さした。 「そいつの遺伝子を使ったんだと。俺はからくりは良く知らねぇけど、効果の程はあんたたちも見ただろ?」  忠がふふんと鼻を鳴らした。 「殺しても殺しても死なねぇなんてさぁ」  悠に歩み寄る。そして、彼の頭を足で踏みつけた。 「こんなバケモノ、野放しにしておかねぇ方が良いんじゃね?」  泥の付いた靴が、悠の白い頬をごりごりと擦る。  悠は、足の下から忠を睨み上げた。 「なぁ、悠。こっちに戻ってこいよ。パパがお待ちかねだぜ?」 「……その人を離せ」 「あぁ?」 「僕に用があるなら僕を連れて行けばいいだろう! その人は関係ないッ!」 「バカだねぇ、相変わらず」  忠は嘲笑うように言うと、すっと手を伸ばした。  その手の内に、一振りの日本刀が現れる。柴浦が息を呑んだ。 「さっすがヤクザ。こんな物騒な物が部屋にごろごろしてんだ」  そして、鞘から白刃を抜き取る。部屋の明かりを受け、刃がぎらりと光った。 「なぁ、お兄さん、テレポーテーションって便利だろ?」  そう言うと、忠はそのまま抜き身の刀を暁に放った。  宙を滑るように飛んだ刀身を、暁が片手で受け取る。 「アキ――」 「おめぇが吠えれば吠えるだけ、コイツが大事だって事、丸わかりなんだよな」 「やめ……、やめて、暁、やめて!」  悠の制止など耳にも届いていないのか、暁は、迷うことなく白刃を振るった。そして、その切っ先を拘束した柘植の腹にねじ込んだ。 「ぐ、ぅぅぅぅ!」  喉を押さえられ、柘植は叫ぶ事すら出来ない。 「柘植さん!!」  柘植の腹から血が溢れ出す。思わず駆け寄ろうとした二人を、暁が鋭い声で制した。 「動くな! 動けば、こいつの腹を掻っ捌くぞ!」  暁の右手は、刀の柄に掛かったままだ。 「う、ぁ……あ」  柘植の身体が、痛みでびくびくと痙攣する。 「忠。さっさとしろ」 「あいよぉ。三日後、4月18日午後一時。ここの北にある工場跡地に来い」 「セメント工場跡か」 「あー、うんそれそれ。松永達が待ってっからさ」 「……分かった」 「そっちは何人連れてきても良いぜ。松永は八人だ」  柴浦が小さく頷く。と、暁が悠を見た。 「悠」  初めて名を呼ばれ、青い顔の悠が暁を見た。 「瞬を、必ず連れて来い」 「……っ、なぜ!?」 「所長の命令だ」 「暁……どうして? ねぇ、どうしてそんな事するの?」  柘植の出血が酷い。早く手当しなければ、命に関わる。  だが、焦りと混乱とで、悠はまともな判断が出来ない。 「早くその人を離して。早くしないと、柘植さん、死んじゃう……」 「お前は、相変わらずだな」  暁が薄く笑った。 「相変わらず、優先順位を間違えている」  暁が、刀の柄を逆手に握りなおした。 「こんな男より、もっと自分の心配をしたらどうだ」 「……っ、抜くな、やめろっ!」  柴浦の絶叫が響く。暁は柴浦を見た。そしてにやりと笑った。  同時に刀を引き抜く。  鮮血が、弧を描いて迸った。  暁の身体に、血の雨が降りかかる。  だが、彼はその血を被っても尚、動くことなく悠を見つめている。  悠が、先に動いた。 「柘植さんっ!」  刀を持ったままの暁の側へ駆け寄る。  一瞬、柴浦はひやりとした。が、暁は悠をこれ以上害する意志はないらしく、急に興味を失ったように柘植の拘束を解いた。同時に、足下に刀を放る。  柘植の身体が、人形のようにゆっくりと崩れ落ちた。  辛うじてその身体を受け止めた悠が、すぐに真っ赤に染まった。 「柘植さんっ、柘植さんっ!」  つい先日、自分が受けた傷が脳裏に蘇る。あのとき、自分の傷は放っておいても良かった。自分は死ぬはずなど無かった。  けれど、人は違う。刺し傷一つで、こんなにもあっけなく命を失う。  柴浦は目で二人を牽制しつつ、柘植の元へと駆け寄った。 「悠さん、傷を押さえて」  自分のジャケットを脱ぎ傷に宛がう。 「あらあら、一生懸命だなぁ」  忠が嘲笑う。 「こんなザコ、放っておけばぁ?」 「……帰れ」 「お?」 「帰れ! 邪魔だ、帰れ!」  悠が忠を睨み、叫んだ。 「へぇへぇ、俺はただのお使いだからよ。そんじゃ、三日後にまたな」 「……悠」  悠は聞こえないふりをして、柘植の腹の傷を上から強く押さえた。柘植が、苦悶の声を上げる。 「悠」  暁の声を聞きたくなかった。昔、優しく話しかけてくれたあの声で今、名を呼ばれたくなかった。 「瞬の事、忘れるな」  その一言を残すと、二人は部屋からかき消えた。 「柘植さん……柘植さん、しっかりして……!」  柴浦が立ち上がった。ドアから人を呼び、指示を出す。  血だらけの柴浦に、にわかに事務所内が騒然となった。  玄関に車を回し、医者の手配をする。 「……アニ、キ」  柘植が震えながら手を伸ばした。柴浦がその手を握る。 「少しの我慢だ。すぐに血は止まる。気をしっかり持て」  悠は傷を押さえながら柴浦の顔を盗み見た。そしてその顔に僅かな焦燥と、諦めの色を見て取って、愕然とした。  ――柘植さんが、死ぬ? 死ぬ? 死ぬって……。死ぬって、なに? 「血……傷、塞がないと……」  訳の分からない焦りの中で、それでも、悠の決断は早かった。  すぐ側に落ちている刀を手に取る。柴浦が、驚いて目を見張った。 「悠さん、何を――」 「僕の力、役に……」 「やめ……、悠っ!」  柴浦が止める間もなく、悠がその刀身を手首に当てた。そして、思い切り刃を引いた。  動脈を掻き切り血が噴水のように噴き出す。 「馬鹿な事を!」  咄嗟に柴浦の腕が悠の手首を握ろうとしたが、悠はそれを払った。そして、手首の傷を柘植の腹の傷に当てた。 「僕の、ちから……」  血液を混ぜる危険がある事は、悠も分かっていた。だが今一刻を争う状態では、迷う事は出来なかった。 「お願い、止まって……血を、止めて……!」  弱まっているかもしれない自分の力で、柘植を助ける事が出来るのか。  悠は朦朧とする頭でひたすらに祈った。今まで疎んじる事しかしなかったこの力に、初めて縋った。  ――お願い。お願い、効いて!! *  長い、長い時が経った気がした。柴浦が言った。 「止まって……る……」  先日の悠のように、傷が塞がるまではなかったが、出血は確実に止まっていた。 「これなら、助か――」  柴浦が悠の肩に手を置く。と、彼の身体がぐらりと傾いだ。 「ユ、」  そのまま床へと倒れ込む。手を伸ばしたが到底間に合わず、悠は頭と肩を強かに打った。 「悠さん!」 「……へー、き」  意識はあった。悠が、とろりとした眼を動かす。 「早、く」 「しかし、悠さんが!」 「慣れて、る……へー、き」  そう言って、悠が笑った。 「つげ、さ……、助け、て――」  柴浦は、自分を叱咤した。己の今の一の使命は何だ。舎弟の命を守る事ではないのか。  彼は唇を引き結ぶと、自分のネクタイを解いた。  それで悠の肘の辺りを強く縛る。そして、柘植を抱きかかえて立ち上がった。 「――行きます」  もう一度、悠が笑った。 *  ふわりと、抱き上げられたような気がして、悠は目を薄く開けた。  誰だろう。  相変わらず、この目は肝心なときによく見えない。  相手に腕を伸ばそうとして、身体が言う事をきかない事に気付いた。  酷くだるい。  悠は、昔血を抜かれたときの事を思い出した。  そう言えばあのときも、身体が思うように動かなかったっけ。  耳元で誰かが何かを言っているような気がする。  声は聞こえないけれど、耳のあたりが震えているので分かる。  溜息のように言葉を囁かれている。  少し身を捩ると、その誰かは耳元を離れ、悠の上から顔を見下ろした。  影を感じて何となく分かったが、やはり目はよく見えない。  溜息を吐いて目を閉じると、彼の頬に、額に、温かい雨が降ってきた。

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