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第六章 賢者と愚者 5

 暁は、ビルの屋上に一人、立っていた。  うるさい忠も、今日はいない。  ようやく一人きりになれて、暁はほっとため息をついた。  悠に会えた。無事だった。それが嬉しい。  だが自分の立場は、あの時から少しずつ変わってしまった。  執拗な拷問を繰り返され、いつの間にか所長に忠誠を誓わされた。  逆らえば、逃げた仲間を一人ずつ探しだして、殺すと言われた。  ……いや、所長はそうは言わなかったか。ただ黙って、分かっているな、とその眼が言っただけだった。  悠と同じだ。絶妙な塩梅で少しずつ刷り込まれた、苦痛を伴うその支配は、自力では抜け出せないほど強く、暁を雁字搦めに捕らえた。  こうして自由に町を飛び回っていても、「研究所に戻る」という命令は深く深く頭に刻み込まれている。どうしても抗えない。  自分がどうしたいのか、分からない。  逃げたいのかすら分からない。  ――分からないんだ。悠……。 「みーつけた♪」  背後から声が掛けられた。  ハッと後ろを振り返る。  屋上の、開け放たれた扉の所に、男が立っていた。  よれよれのスーツ、よれよれのネクタイ。見覚えは、ある。 「……あんた」 「ようやくみっけたぜ、色男」  過去に一度だけ、この男と言葉を交わした。  ――たしか、どこかの医者の息子の醜聞を掃除した後に……。 「覚えててくれたんだ?」  くわえ煙草に、よれよれのシャツ。よれよれ、の印象しか無い。 「ヨレヨレ……」 「ひでぇな、名前、教えただろ?」 「名前……」  なんだったか、思い出せない。それだけこの男の存在は、暁にとってどうでも良いことだった。  暁は興味を失い、男から視線を外した。 「アキラ」  男が、名を呼ぶ。不思議な声色だった。  それに免じて、もう一度男の方を見る。 「お前さん、色々やらかしてるよなぁ?」 「……」 「それ、全部おにーさんに教えてくんないかな?」 「何のことか分からないな」 「へぇ、そう?」  男は、懐からライターを出した。すぐに煙草に火をともす。 「吸う?」 「いらん」 「あ、そ」  男はくわえ煙草のまま暁の側に近寄ってくる。手が届くか届かないかギリギリのところで、男は足を止めた。 「君の、昔の同居人の子たちに、会ったよ」  とくり、と鼓動が跳ねる。 「元気だったよ」  何の事だ、と言おうとして、男の口が懐かしい名を紡いだ。 「――マコ」 「……っ!」  暁が男に腕を伸ばした。だが、男はほんの少し身体を後ろに引いて、その手を躱した。 「君は隠していたらしいが、ケイ君とリョウ君は、君が『何かさせられていた』ことを知っていた」 「くっ!」  さらに暁が前に踏み込む。襟首を掴もうと腕を伸ばすが、男は、のらりくらりと身を翻すだけだ。 「なぁ、君は、『研究所』で『所長』に何をさせられてるんだい?」 「……きさまッ!」  暁がスピードを上げた。右手で跳ね上げるように男の顎を狙う。  だが、男は左手でその手刀を受け止めた。そのまま、手首を捕まれる。 「捕まえた♪」  暁が怒りを込めて、男を見下ろした。  男が至近距離から、暁の瞳を覗き込む。 「きれいな色、してるな」  男が囁くように言った。間近に迫る煙草の煙が、目に染みる。  すっ、と暁の瞳孔が広がった。瞳が、男を飲み込もうとする。  瞳の奥の、さらに奥に、夜の闇に星が瞬くような美しい光が灯る。  だが、男は目を細めて笑った。 「――残念でした」  暁の目が、今度は驚きで見開かれる。 「俺には、効かねぇよ」  暁が、男の手をふりほどいた。同時に何歩か後じさる。 「……な」 「なんで、って?」  男が、煙草を落とした。足で踏みにじる。 「コイツで誤魔化してっから、分かんなかったかな?」  男が、前へ出る。暁がまた、同じだけ後じさった。 「俺とお前、同じ匂いがしないか?」 「ま……さか」  男はふっと笑った。 「まさか、なに?」  男が、あっと言う間に間合いを詰めた。逃れようとする暁の腕を掴み、引き寄せる。 「そんじゃ、接触催眠、してみるか?」  言うや否や、男が暁の唇を奪った。 「んぅっ……!」  暁は本能で逃げようとした。  しかし男の力は驚くほど強い。手首を押さえ込まれただけで、暁は身動きが取れない。  暁が藻掻く内にも、男は侵入を止めない。  ニコチンの刺すような刺激と共に、暁の舌が舐め上げられる。  意志を持った動きで舌の裏側を擦られ、外に誘き出されるときつく吸い上げられた。  暁よりも十センチほど下にある男の顔が、ゆるりと溶けて見える。  男と自分と、ひどく境界が曖昧だ。  その男の奥に、暁はふと、馴染みある何かを感じ取った。  他人の扉を開けるための鍵。  頭の中へ入り込もうとする熱。  中を覗く、傲慢な視線。  それは、暁が持つものと、同じ……。  頭の中を直に探られたような、快感と不快感が暁を襲う。 「あ、ふ……」  脳幹の、危ういところを素手で弄られている。ぞくぞくする。  頭の中を、男に犯されている。 「エロい顔」  いつの間にか男が唇を離し、暁を見下ろしていた。暁は床に横たわり、ぐったりと四肢を投げ出している。 「腰、抜けた?」  男は、暁の上に跨がっていた。まだ高い日の光が、逆光になって男の顔を隠している。  腕の拘束は緩いのだが、身体に力が入らない。 「おま、え」 「お前じゃなくて、沢野。沢野、敏也」  沢野が、暁から手を離した。指で、暁の唇に触れる。 「さ、わ、の」  ぼんやりとした頭で、復唱する。 「そう、沢野。お前と、同じ」  同じちから。同じ……孤独。 「見えただろ? 同じモノが」  沢野が目を細めた。暁の鼓動がまた、とくりと音を立てる。  と、沢野は暁から離れた。 「残念。今日は時間切れ」  そう言って、暁の手を取る。  身体を起こし、ちゃんと座らせてやると、沢野はその前にしゃがんだ。 「暁」  真正面から、目を合わせて名を呼ばれる。  やけにくすぐったく感じて、暁はふいと目をそらした。 「アキラ」  今度は、少し笑いを含んだ声だ。 「一週間後、またここに来い。……そうだな、同じ時間。来られるか」 「一週間後……」  よく働かない頭で、それでも考えて頷く。 「一応言っとくが、奴らに気取られるなよ」  これにも頷く。 「続きは、そのときにな」  続き、が、話のことなのか、それとも行為のことなのか分からず、返事が出来ずにいると、沢野は少し困ったように言った。 「そんな、物欲しそうな顔すんなよ」  連れて帰りたくなるだろ、と呟く。  急にバカバカしくなって、暁は目の前の男を蹴り飛ばした。 「ど、うわっ!」 「調子に乗んじゃねぇ!」  後ろに転がった沢野を無視して、暁は立ち上がった。 「ちゃんと、来いよ~」  沢野はその後ろ姿に向けて声を掛ける。暁は返事をしなかった。 *  松永の事件は、これでひとまず区切りが付いた形になった。  事後処理も特に必要なかった。唯一、森下だけが事情を知らされぬまま混乱の中にいたが、彼なりに頭の中で決着を付けたのか、何も言わないまま時は過ぎた。 「柘植さん、こんにちは」 「あ、悠ちゃん!」  白いベッドの上で、柘植が顔を輝かし、悠を出迎えた。 「どうですか? まだ痛みます?」 「まだ抜糸は済んでないから、攣れてちょっと痛むけど、もう全然平気だよ」  そう言って、柘植は腹に巻かれた包帯を、少し誇らしげに悠に見せた。  ここは難波の診療所の二階だ。  当初大きな病院で手術を受けた柘植だったが、今はこちらに転院している。 「柴の兄貴や若頭も顔見に来てくれてさ。昨日なんて、くっ、組長まで来て下さって、俺チョー感激してるんだ!」 「柘植さん、落ち着いて落ち着いて」  悠は、椅子を出してベッドの傍らに座ると、笑って彼の前に小さな箱を出した。 「はい、お見舞い」 「あ、うわ、この箱って『アンジュ』!? 3丁目の!?」 「すごいね、箱見ただけで」 「ここ、すげぇ並ばないと買えないのに。悠ちゃん、わざわざ買ってきてくれたの?」 「大好きな柘植さんのためですから」  悠が笑うと、柘植はまじまじと悠の顔を見つめた。そして、突然、ぼろぼろと泣き始めた。 「う、わぁぁぁぁん!」 「ちょ、うわわ、つげさん、ごめ、どうしたの?」 「うぐっ、ひ、うぇっ」 「つげさん、ほら、ね、泣かないで?」  悠がケーキの箱を避難させ、枕元のタオルを渡すと、柘植がごしごしと顔を擦った。 「うへっ、ごめん、おれ、泣いて、ごめ、嬉し」  言いながらまた涙がこぼれ、柘植は笑って目を擦った。 「悠ちゃ、ありがと、す、すき、なんて、言われた、ない、から」  大の男がしゃくり上げながら、ありがとうと繰り返す。そんな様子が可愛く思えて、悠は柘植の頭を撫でた。 「ね、ケーキ、食べますか?」 「も、もちろん! ケーキは鮮度が命! すぐ食べる! すぐ食べます!」  ケーキの話になると、涙はどこかヘ引っ込んだ。柘植は目を輝かせた。 「難波先生の分も買ってきましたから、お呼びしてみんなで頂きましょうか」 「え、えー、先生も一緒ぉ?」  柘植が思い切り嫌そうな顔をする。  悠が楽しげに笑った。 * 「……でね、難波先生も、患者さんがちょうど切れたところだからって、一緒にね――」 「うん」  瞬が後ろから、悠の腰に腕を廻した状態で、二人はベッドに座っている。  ヘッドボードに背をもたせかけて、リラックスした格好で、瞬は悠の首筋に顔を埋めていた。 「聞いてる?」 「うん」  石けんの匂いがする。自分も使っているボディソープなのに、悠の体臭と混じると、それはうっとりするような香りに変わる。  それを深く吸い込み、部屋着の隙間から侵入した手で、悠の肌を味わう。 「瞬」  悠が、くすくす笑った。腕を上げて、瞬の頭を抱き込む。 「ね」 「うん?」 「キスして」 「うん」  まだ本格的に瞬の手が動き出す前の、二人が正気を保っている時間。  瞬は、恭しく悠に口づける。髪に、額に、瞼に、鼻の頭に、頬に。そして唇に。上から下へ、下から上へ。 「さっきから、うん、しか言ってない」 「うん」  悠は、あの日自分の心を晒してから、少しだけ多めに、瞬に甘えるようになった。  恥ずかしがりながら貞淑に瞬を受け入れるか、何かを恐れ、狂ったように求めるしかなかった行為が、こんな風に穏やかに変わりつつある。  それが、瞬には嬉しかった。  いつも不安の種ばかりを拾い集めていた悠が、ようやく平穏を見つけたのだと思った。 「悠」 「なぁに?」 「あいしてる」  耳元で、悠の好きな低い声で、囁く。  悠の身体が小さく震えるのが分かって、瞬が笑った。 「かわいい。俺の、悠」 「……」 「愛してる」 「……」 「返事は?」 「あい、してる」 「うん」 「あいしてる」 「愛してる」  ――なんて残酷な言葉なんだろう。 *  柴浦は、珍しく早い時刻に自宅へ戻ることができた。時計は午後八時を表示している。  接待もない。挨拶回りもない。組長は関西へ出張中。不祥事もなし。  冷蔵庫に酒が残っていたはずだと、記憶の彼方から思い起こしながら、柴浦はマンションの駐車場に車を停めた。  東城や瞬のマンションとは全く違う。ごく普通の2LDKのマンションだ。  独り身の柴浦には十分すぎるほどの広さだ。広すぎるとさえ思っているのだが、東城に『ワンルームという訳にはいかんだろう!』と叱られて、この広さに落ち着いている。  柴浦は車を降り、エントランスへ向かった。と、その植え込みの影に人の気配を感じた。  襲撃者ならばどう対処すべきか、幾通りかの反撃法を脳裏に描き出し、誰何しようとしたそのとき。  人影がひょこんと顔を出した。 「こんばんは、柴さん」 「……悠さん……なんですか、そんなところで」  安堵で、つい責めるような口調になる。 「ごめんなさい。事務所で住所を伺って」 「前もって言って下されば――」 「断るでしょう?」  いつもと違う物言いに、思わず悠の顔を見返す。  悠はそれ以上何も言わず、先を促した。 「お部屋、入れて下さい」  悠は、初めて入った部屋をぐるりと見回してから、ソファの端にちょこんと腰掛けた。  まったく小動物めいたその動作に、苦笑が漏れる。 「柴さん?」 「……いいえ。本当に、前もって言って下されば、何か用意したんですが」  柴浦は冷蔵庫を開けた。記憶の通りだ。酒しか入っていない。 「一滴の飲み物もありません」 「お水でいいですよ」 「水もな――」 「え、水道、出ますよね?」  そう言われて、悠と自分の水の概念からして違う事を、また思い知らされる。 「ミネラルウォーターですよ」 「……あぁ、そっか。飲む水って、買う物なんですね」  まだ慣れないなぁ、と悠が笑う。その顔を見て、柴浦は胸に浮かんだ疑問を素直に口にした。 「今日は何かご用でしたか?」  何でもない風を装って訊ねる。 「別に」 「私が帰ってこなかったら、どうするつもりだったんですか」 「待ちます」 「瞬さんは、今日は?」 「仕事」 「ここに来てる事はご存じなんですか」 「ううん」  柴浦は軽く目眩がした。あの嫉妬深い瞬に黙ってここに来たとは! 「あの、悠さん」  だが悠は、聞こえないふりをして立ち上がった。  薄手のチノパンに薄いシャツ一枚の軽装の彼は、軽い足取りで柴浦に近づく。  かすかに足を引きずるような時があるのは、生まれつきだろうか。それとも、何かの後遺症だろうか。 「いつまで、そんな隅にいるつもりですか?」  酷く魅力的な笑顔で、悠が言った。  その一言で、柴浦も紳士の仮面を剥ぐ。 「……ホントに、何しに来たんだ」 「ナイショ」 「喧嘩でもしたのか」 「してない」 「帰れ」 「やです」 「……風呂に入ってきていいか」 「どーぞ」  会話になっているようでなっていない。  柴浦は諦めて、風呂に向かった。  結局、悠は帰っていなかった。  柴浦が風呂から出ると、悠がソファからこちらを見た。ソファに深く凭れ、ぼんやりとカーテンを……カーテンの隙間から外を眺めているようだ。  手には小さなグラスがある。 「……」  濡れた頭のままずかずかと歩み寄ると、その手からグラスを奪った。  酒だ。 「おい」 「舐めただけです」  ふふふと笑う。 「慣れないものを口にするな」  わずかなアルコールにうるんだ眼が、柴浦をじっと見上げる。  柴浦は、視線を引きはがすように後ろを向くと、台所へ向かった。  新しいグラスに、水道の水を注ぐ。  もう一度悠の元へ行き、そのグラスを差し出した。 「……ありがとう」  眦を下げる、その顔が可愛らしい。  ――あぁ、俺は阿呆だ。風呂に入る前に、叩き出すべきだった。  そう後悔しながら、柴浦は悠に覆い被さり……口づけた。  最初は浅く。徐々に深く。  差し入れた舌に悠が少しだけ応えた。  小さな舌が蠢く様がたまらない。  柴浦は、悠の呼吸もろとも強く吸い上げ、噛み千切るような勢いでその舌にしゃぶりつく。 「ふ、くぅん……」  痛むのだろう。少し悠が首を振る。  その隙にシャツをたくし上げ、少し汗ばむ肌を、じっとりと撫で上げた。 「ひば、ひゃん」  舌を取られたまま、悠が柴浦の名を呼ぶ。 「ひばひゃ、ん、へぇ」 「なんだ」  柴浦が口を離すと、唾液で濡れたままの唇が目に入った。そんな事には全く頓着しないのか、悠が色気も何もない声で言った。 「柴さん、僕とこういう事、したいの?」 「………………そこからか……」  柴浦は、がくりと肩を落とした。悠は、柴浦から寄せられている好意に、全く気付いていなかったらしい。 「承知の上で来たのかと思った」 「……」 「前に言っただろう」 「からかってると思ってた」 「……」 「僕、瞬が好き」 「知っている」 「瞬のことしか頭にないよ」 「それも知っている」 「それでもいいの?」 「……いや、それは」 「僕、出来れば瞬としかそういうことしたくないんだけど」 「できればって、あんた」  少し首を傾げて、真面目な顔で言う悠に、柴浦は苦笑を漏らすしかない。 「……ひどい人だ」 「……うん」  伏せられたその睫毛に、柴浦はもう一度唇を落とした。  二人はベッドの上で抱き合った。  着衣のまま、ただ、抱き合った。 「ね、これ、……楽しい?」 「かなり」 「そう?」  それならいいけど、と小さく続ける。  柴浦は、悠の旋毛に口づけた。髪の匂いを吸い込む。  切なさに胸が灼ける。 「あ」  悠が声を上げた。 「ん?」 「ちょっと、早くなった」  くすぐったそうに悠が笑う。その手は、柴浦の胸の上にある。 「俺をなんだと思ってるんだ」 「腹筋とかめちゃくちゃ固いし、心臓も鉄で出来てるかと思った」  クスクスと笑う悠を、きつく抱きしめる。  寝室へ手を引いたとき、てっきり拒否されると思ったのに、悠はのこのこ柴浦に付いてきた。  分かってやっているのか、それとも本当に分かっていないのか。  淫蕩に誘ってくるわけでもなく、わざとらしく拒絶するわけでもなく。いつもどおり遠慮がちに甘えてくる様子に、愛しさが募る。  これが天然って奴か、と柴浦は内心思った。  ――あいつの苦労がよく分かった。  良くまぁ、こんな相手に何年も理性がもったものだと感心する。  ゆっくりと背に手を滑らせ、腰に留まる。  所々で、かすかに息を詰めることに、柴浦は気づいていた。  一つ一つ悠の性感帯を探り当てて行くのも楽しい、なんて、まるで好色な狒々親父だと自分でも思う。 「なぁ、悠」  柴浦が、耳に口を寄せた。 「本当に、今日は何しに来たんだ」  ところが、この問いになると急に悠は口をつぐむ。言いたくないわけではないようだが、言葉に詰まっているようにも見受けられる。  しばらく黙って待っていると、悠が小声で言った。 「ね、柴さん」 「なんだ」 「瞬のこと、好き?」 「……はぁ?」  聞き間違いかと思った。まだ、笙子のことを好きかと問われた方が戸惑いは少なかっただろう。 「瞬? あの、瞬か?」 「うん。僕の、大事な瞬」  柴浦の胸に顔を埋めたままでも、悠は平気で言う。 「好きかって、そりゃぁ」  嫌いなはずがなかった。誠実で、一途で、情熱的で、愛情深い。思慮深いところと、軽率なところが同居している、魅力的な青年。 「あいつを嫌いだという奴に会ってみたいものだな」 「……どんな風に好き?」  尚も重ねて問われ、柴浦はさらに戸惑った。 「どう……ねぇ。強いて言えば、弟、のような感じか」  柴浦には肉親はいない。親はすでに亡く、一人いた兄とはもう縁を切った。  組にいれば、若い者たちは柴浦を兄と慕ってくれる。  その中でも、堅気の好青年が自分に好意を向けてくれるのは、とても嬉しかった。 「そっか」  満足な答えだったのだろう。柴浦の胸に頭をこすりつけてくる。 「嬉しい」  背に回された腕にきゅっと力が入る。 「あのね、柴さん。瞬を」 「あぁ」 「……瞬を、守ってやって」  突然投げかけられた言葉に、柴浦は驚いて悠を引き離した。  薄明かりの中、こちらを見上げる悠の目にぶつかる。 「どういう意味だ」 「瞬はね、暁に育てて貰ったんだ。暁は瞬にとって、お父さんで、お兄さんで。憧れの人だった。だけど今あんなことになって」  暁と瞬は、袂を分かった。その意味を、柴浦は深く考えたことがなかった。 「僕じゃ、暁の代わりにはなれないから」  それ以上の関係だというのに、悠は少し寂しそうに言った。 「瞬、柴さんのこと大好きだし」 「……」  今お前と抱き合っていることを知ったら、その瞬は怒り狂って俺を殺しに来るぞ――、とも言えず、柴浦はもう一度黙って、悠を抱き込んだ。 「柴さん」 「……」 「ねぇ、柴さん」 「分かってる」 「ホント?」 「あぁ。言われなくたって、そうしてるつもりだ」 「そっか……よかった」  悠はぴたりと柴浦に身を寄せた。 「よかった」  悠の吐息が熱い。押しつけられた胸が、熱くて溶けてしまいそうだ。 「悠」 「……はい」 「俺は、お前が、好きだ」 「……うん」 「だが俺の事はもう、いい」 「……」 「お前とあいつと。二人で、一つだ。誰にも、何者にも、裂く事は出来ない」  己の心はとても複雑で。  悠を抱きたいと思う。この幼さの残る綺麗な顔が、愉悦でどろどろに溶けて行く様を見たいと思う。  けれどその即物的な欲とは別に、楽しそうに笑いあい、惹かれ合う二人を見ると、それだけで心が幸福に沸き立つのだ。 「ありがとう……」 「……」 「……柴さん、ありがとう」 「――あぁ……」  短く答えると、柴浦は悠の柔らかな髪を、くい、と引いた。  仰向いた悠の、白い喉が浮かび上がる。  柴浦はそこに、唇を寄せ、歯を立てた。 「愛してる、……悠」  ――あぁ、なんて、残酷な言葉なんだろう。 *  夜半。  柴浦が目を覚ますと、傍らには誰もいなかった。  ――帰った、か。  自分がしなかった事を褒めようか。それとも、出来なかった意気地のなさを嗤ってやろうか。  まだかすかに残る、悠の気配、体温を感じながら、柴浦はもう一度目を閉じた。  ――ひどい、ひとだ。  柴浦は、くすりと笑った。  ――新しい一日が始まれば、忘れられるさ。 *  それから数日の後。  悠が、消えた。

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