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第七章 孤独と孤独 1

 悠が、消えた。 *  その日も、朝から特に変わった様子はなかった。  前日も仕事だった瞬に合わせて遅く起き、遅めの朝食を採った。  それから二人で風呂に入り、セックスをした。  瞬が誘うまま、悠は乱れた。  いつも通りの反応。いつも通りの、優しくて濃密な交歓。  何一つ、変わったところはなかった。  午後、瞬はまた出勤した。 「瞬ー、今日店が引けた後、呑みにいこうぜー」  あと一時間ほどで閉店、と言う頃、瞬は同じシフトだった黒服に誘われた。   今まで何度も、同様の誘いをのらりくらりと断り続けてきた。もちろん今日も断るつもりだった。  だが折悪しく、笙子がそこに通りかかった。 「あらいいわねぇ、明日は休みだし、久しぶりにみんなで繰り出しましょうか」  そうなると、瞬だけが抜けるわけには行かなくなる。  結局瞬が解放されたのは、東の空が白み始めた頃だった。  マンションまでは何とかたどり着いた。  だが、風呂に行く気力もない。  酒の匂い、煙草の匂い、女の香水の匂い。  こんな匂いを纏って、悠の隣に潜り込むことなどできない。  瞬は寝室には行かず、リビングのソファに倒れ込むと、そのまま深い眠りに落ちた。  昼近くになってようやく瞬の目が醒めた。  体中に気持ち悪い匂いがこびり付いている。残った酒のせいでまだ頭がくらくらする。  瞬はバスルームへ行くと、シャワーを浴びた。  熱い湯が身体を打つ。  頭と身体を洗い、歯を磨き、夕べの残滓を全て洗い流す。  半分濡れたままの下着姿でキッチンへ行き、熱いコーヒーを二つ、淹れた。  それから、悠を起こしに寝室へ行った。  悠はいなかった。 「あ……れ?」  ベッドの枕元の時計を確認する。もうすぐ正午だ。  あまりにだらしない自分に呆れて、どこかへ出かけてしまったのだろうか。  瞬はとりあえずクローゼットからジーンズとシャツを出して身につけると、悠のベッドへ寄った。  脇の小机の上に、携帯電話が置いてある。悠のだ。  引き出しを開ける。財布もそこにあった。 「……出かけたんじゃ、ないのか?」  彼のベッドに、前日から使われた形跡がないような気がして、瞬の鼓動が早くなる。  昨日はベッドを整えた後、ここでもう一度悠を抱いた。せっかく綺麗にしたのに、と笑っていた悠。けれどそれは瞬のベッドで……。  いや、そんなはずはない。今朝起きてから悠が整えて出かけた、それだけのことだ。  瞬は、今朝方帰ってきたときのことを懸命に思い出そうとした。  玄関に靴はあったか? キッチンに使われた形跡はあったか? 悠の気配はあったか?  そのどれもが曖昧すぎて、思い出そうとしても、もやが掛かったように何も思い出せない。  大丈夫、きっと柴浦さんの所だ。いや違う。笙子さんの所……違う。今日は休みだ。東城さんが来るから、悠は行かない。  そうだ、柘植さんの所だ。見舞いのケーキでも買うために朝から並んでいたに違いない。……財布も持たずに?  一生懸命可能性をひねり出し、無理矢理納得の行く答えを探そうとする。  瞬は家を飛び出した。 *  いない。  いないいない。  どこにも、いない。  柘植は突然現れた瞬に、きょとんとした顔で「今日は来てないよ」と言った。  その足で、組の事務所に行った。裏口の側に居た顔なじみの組員に聞いてみたが、やはり今日は来ていないという。  瞬は震える手で笙子に電話をかけた。  コールが長い。まだ眠っているのか。  十回以上のコール音の後、ようやく不機嫌な声が出た。 「はい――」 「悠、いますか」 「……う、ん? だれ、あ、瞬君?」 「悠、いますか」  苛立ちと不安を抑えきれない。 「ユウ? あぁ、悠君。いいえ、きてな――」  瞬は通話を切った。  いない。  悠が、いない。  どうしよう。  寒い。身体の芯に大きな氷が入り込んで、震えが止まらない。  ねぇ、悠、どこ? どこにいるの?  瞬は座り込みそうになるのを堪えた。  家に、帰ろう。大丈夫、大丈夫。きっと、悠は帰ってきてる。  僕が勝手に怖がってるだけだ。馬鹿な妄想をして、勝手に泣きそうになってるだけだ。  悠は帰ってきてる。行き違いになっちゃったんだねって、笑ってくれる。僕を抱きしめてくれる。  瞬は、全力で駆けた。  汗なのか涙なのか、分からない物が顔を濡らす。  道行く人が、瞬の形相に驚いて道を開けたが、そんな事に構っていられない。  心臓が破裂しそうな勢いで走って、家に戻った。  けれど家には、誰もいなかった。 *  瞬は吐いた。  吐いても吐いても、恐怖で胃が引き絞られ、また吐く。  洗面台が胃液で黄色く染まる。  おまけに胃は痙攣まで起こしている。あまりの痛みに、瞬は身体を二つに折った。  瞬は痛む身体を引きずって、家中を彷徨い悠の気配を探した。一緒に入ったバスルーム。肩を並べて料理したキッチン。  一緒に座って、くだらないことをたくさん話したソファ。  けれど、傷ついて眠ってばかりだった悠は、ベッドの中にいることが一番多かった。  瞬はベッドの傍らに立つと、ぴんと張ったシーツを、めちゃくちゃに引き寄せた。 「ユウ……、ユウ……」  瞬は床に座り込むと、シーツにくるまった。  身体の震えは全く収まらない。 「どこ、いっちゃったの? ユウ」  瞬はきつく目を閉じた。 *  さらさらという音で、瞬は眼を開けた。  辺りは薄暗い。身体に巻き付けたシーツ越しに、音が聞こえる。  ぼんやりと聞いていて、ようやくそれが雨音だと分かった。 「ユウ、かさ、持ってかなかった……」  瞬は立ち上がると、悠の傘を手に持って、外に出た。  閉じたままの傘を手に、瞬は歩いた。しばらく歩いてから、自分の傘を持ってこなかったことに気づく。  雨脚は強く、もう瞬の髪はびしょ濡れだ。  ――また怒られちゃうな。  そう思いながら、瞬は歩いた。  どれくらい歩いたか。足は自然にここに向かっていたらしい。  目の前に、見慣れた建物が現れて瞬は足を止めた。  自然にヤクザの事務所に足が向くというのも滑稽な話だ。  瞬は裏口のドアに手を掛けた。だが、鍵が掛かっていた。  ――開いてない。 「他の所かな」  あまり出歩かないし、知り合いもいない悠だから、行き先なんか限られてる。  待ってるかな。  傘がなくて困ってるかな。  瞬は歩いた。  徐々に働かなくなる頭とは別に、足が勝手に動いて瞬を連れて行く。  電車には乗らない。商店街を抜け、高架をくぐり、公園を歩く。  悠と一緒に行った場所。悠と一緒に歩いた場所。  悠に似た背格好の後ろ姿を見つけて、瞬は駆け寄る。  けれどもちろんその人ではなくて。  ずぶ濡れでこんな時間に追いかけてくる男に、皆一様に驚きと嫌悪の表情で逃げ出す。  そんな事を繰り返す内、身体が芯から冷えてきた。 「……帰ろ」  来るときの倍ほどの時間を掛けて、家に戻った。  濡れた衣服を脱ぎ捨てると、シャワーを浴びた。  身体を拭いて、新しい服を着る。  また寝室に戻って、ふと、自分の携帯電話を見た。  ちかちかと着信を知らせる明かりが光っている。だが、悠からの電話でないことは分かっていた。  瞬は電話を手に取るとまたシーツにくるまった。  着信履歴は無視して、録音の再生ボタンを押した。 『瞬? 僕です。悠です。今日は、笙子さんの家に行ってきます。朝言うの忘れちゃった。ごめんね。今日は早く帰れるって言ってたよね。一緒にご飯食べようね』  そして、少しの沈黙のあと。 『だいすき……瞬』  いつの録音だったかも思い出せない。戯れに残された台詞は、もう何度も繰り返し聞いたものだ。  瞬は、泣いた。  唯一残された悠の痕跡を握りしめて、泣いた。 *  ピリピリと鳴る呼び出し音がやかましい。  切ってしまおうと思って、ボタンを押したが、間違って通話ボタンを押してしまったらしい。  途端に、向こうから女の声が怒鳴った。 「ちょっと、無断欠勤ってどういうこと! 具合でも悪いの!? 連絡ぐらい――」  瞬はすぐに通話を切った。  今聞きたいのは、悠の声だけ。  シーツをきつく身体に巻き付けると、悠に抱きしめられているような気がする。  けれど、シーツからは悠の匂いが消えつつあった。  瞬は、また悠の声を再生して、泣いた。  電池が切れるまで繰り返し聞いて、泣き続けた。

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