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第八章 帰順と反逆 1
悠は、ここに戻ってきた。
足を引きずりながら、研究所の麓の町まで戻ってきた。
あのとき、どこをどう歩いて逃げたのか。記憶は定かではなかった。
だが悠は本能の告げるままに、この町にたどり着いていた。
昼は足の痛みを堪えて歩き、夜は公園のベンチで眠った。
時には店の軒下の生ゴミの横で、段ボールにくるまって暖を取った。
少しずつ研究所に近づくにつれ、悠の体調は悪化していく。
胃の辺りに、むかむかと嫌な不快感が続いている。身体が帰還を拒否しているのだ。
「それでも僕は、戻らなきゃならないんだよ」
自分の体に向かってそう言い聞かせる。そうでもしなければ、足が竦んで動かなくなる。恐ろしさに叫び出したくなる。
道ばたで胃液を吐きながら、それでも悠は歩き続けた。
途中で、公衆電話を見つけた。
吸い寄せられるようにボックスに入り、ポケットに残っていた硬貨を入れて、唯一暗記していた番号に掛ける。
電話の相手は出なかった。
それに胸をなで下ろし、悠は留守番電話に切り替わるのを待った。
……本当は声が聞きたかった。
あの優しい声で、名前を呼んで欲しかった。
けれどそんな事をしたら簡単に決意は揺らいでしまう。
帰りたい。瞬の下へ帰りたい。
だから悠は瞬に、恋人として最低な、最後のメッセージを残した。
二度と帰らないと、退路を断った。
そして。
あの日、敬と涼と三人で来た森の入り口に、彼は立った。
三人で歩いたこの運命の道を、今度は一人歩いてゆく。
悠は汚れた顔を袖でぐいと拭った。そして一歩を踏み出した、そのとき。
「おかえり、カワイコちゃん」
忠が、悠を出迎えた。
*
忠はすぐに跳んだ。悠一人を抱えての移動など容易いのだろう。躊躇うことなく腕を掴み、そのまま何も言わずに跳んだ。
悠の目の前にあった森の風景は、一瞬の後、建物の姿へと塗り替えられる。
悠は、悲鳴を上げそうになるのを辛うじて堪えた。
薄暗い森の中で、古びた建物はまるで屍体のように見える。
重苦しい灰色の建物は、それでも尚大きく口を開けて、悠を待ち構えている。
その様子は、あのときから全く変わっていなかった。
「帰ってきてくれて嬉しいぜ」
忠が、悠の腕を掴んだまま言った。
「一度に五人も消えて、遊び相手がいなくてよぉ」
「……いつでも来ればいい。相手してあげるよ」
悠が、下から睨め上げるように忠の顔を見た。
忠が虚を突かれたように黙る。だがすぐに大きな笑い声を上げた。
「はははっ! 言うようになったじゃねぇか、悠!」
そして掴んだ腕をねじり上げた。
「いいぜ、お前。前に腹刺してやったよな? 今度も同じ所にぶっ刺して、中を掻き廻してやるよ」
「……好きにしなよ」
「へぇ、お前も度胸付いたねぇ――その言葉、忘れんなよ」
忠は掴んでいた悠の腕を放すと、背中を小突いた。
悠は、建物へ足を踏み入れた。
*
通されるのは三階だと思っていた。三階の所長の部屋に連れて行かれ、また尋問から始められるのだと思っていた。
だが、忠から悠を引き取った職員は、悠を二階に連れて行く。
正面玄関から階段を昇り、二階に上がると南側へ向かう。
その後ろから付いていきながら、悠は訝しんでいた。
職員は、そのまま二階の一番奥の部屋へ悠を連れてきた。
五号室、だった。
職員が鍵を開けた
「ここで、待ってろ」
そう言って、職員は悠を中へ押し込んだ。
カーテンが下ろされたままの室内は薄暗く、ひどく埃っぽい。
掃除がされていた形跡はない。
悠は部屋のぐるりと見回して、ぎくりとした。
畳の上に、一組の布団が敷きっぱなしになっていたのだ。
布団は、つい今しがた、誰かがそこから起き出したような形を保ったまま、埃を被っている。
「あ……ぁ……」
それはあの日、仮病を使った真が潜り込んでいた布団だ。
――君を一人残してゆくはずがないでしょう?
――悠のおばかさん。みんなで逃げて、みんなで幸せになるんだよ。
時が止まったままの部屋。
キッチンのシンクの中には、洗われなかったカップがある。
壁の棚には、古ぼけた服と、数冊の本。時を刻むのを止めた時計。
部屋の隅に重ねられた、人数分の布団。
「……あ、ぁぁ……!」
あの日から、この部屋は悠の帰りを待っていた。
「……気に入ったかね?」
悠の背後で、声がした。
「元気そうだね、悠」
振り返ると、そこにいたのは恰幅の良いスーツ姿の男だった。
「私を見忘れたか?」
忘れられるはずがない。
猛禽類を思わせる、鋭く傲慢な目が悠を射貫く。
「所、長……」
記憶が悠を押しつぶす。
かつて与えられた痛みは恐怖に形を変えて、悠を新たに支配しにかかる。
「……っ」
埃と乾燥でひりつく喉に、悲鳴が張り付く。
「久しぶりだな」
所長は悠を見てにやりと笑った。
思わず後じさりそうになるのを、悠は懸命に耐えた。震える身体を自分の腕で抱くようにして、所長に言った。
「逃げて、ご、めん、なさい」
「なぜ今になって戻ってきた?」
「逃げても、無駄、と、わかっ……」
「あぁ、そうだな」
所長が悠へ一歩踏み出した。
「お前は、ここから……私の手から逃れることは叶わない」
その眼が悠の内側を暴き立てる。悠は動けなくなった。ただ、浅い呼吸を繰り返すことしかできない。
「帰ってきたと言うことは、私に協力すると言うことだな?」
悠の目から、勝手に涙が溢れ出した。悲しみからではない。純粋な恐怖の涙。
「どうかね?」
悠は泣きながら頷いた。
「よろしい。それでは今後のことを伝えるから良く聞きたまえ。これから、入浴と食事をしろ。基本的な生活はこの部屋でするように。この部屋でどのように過ごそうが自由だ。好きにしろ」
悠は再び頷く。
「何があっても我々の指示に従うこと。従わない場合は、……分かっているな」
所長が、手を開く。悠はその手の中にある小さな機械を見た。途端に全身の毛穴が開き、汗が噴き出す。
「いや、だ……」
「いや? あぁ、これか」
「いや、いや……!」
「物覚えが良い子は好きだよ、悠君」
「押さ……、押さないでぇッ……!」
悠がその場に蹲った。身体が激しく震える。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさいッ!!」
悠は、ひたすらに謝罪の言葉を続けた。
「もうしません! もう逃げたりしません! お願いだから、押さないでぇ……!」
「……よろしい。今回はこのお仕置きはやめておいてやろう」
床に這いつくばり涙を流す悠の頭に、冷徹な声が降る。悠が、埃で汚れた顔を上げた。
「今すぐ汚れた身体を洗え。お前には生きながらえてもらう。栄養は必ず摂取するように。食事で取れねば、点滴で強制的に入れる。分かったな」
悠が小さく頷くと、所長は、後ろに控えていた職員にこの部屋の清掃を命じた。
悠の入浴中に片付けさせるつもりなのだろう。一連の指示を出し終えると、後は悠を見ることもせず部屋を出て行った。
悠は、職員に腕を捕まれると、風呂場まで連れて行かれた。
*
食欲は全くなかったが、所長の命令に背くわけには行かず、悠は味噌汁を椀に半分だけ何とか胃に収めた。
そのまま部屋に戻ろうとして、今度はまた別の職員に捕まる。
職員は二人。二人とも白衣姿で、片方の男は手に小さな鞄を持っていた。
それをちらりと見た悠は顔を歪めた。
二人は無言のまま悠の腕を取り、部屋へと彼を引きずってゆく。
歩けます、と言っても無駄だった。
悠が戻ったとき、部屋は既に床が掃き清められていた。窓が開け放たれ、棚や床の埃はあらかた無くなっていた。
敷きっぱなしだった布団も、どこかへ片付けられていた。
「……それで、僕に何のご用ですか」
悠が職員に問う。だがやはり二人は無言のまま鞄を床に置いた。
嫌な予感しかしない。
悠は男達から離れて立っていたが、やがて一人が悠の側までやってきて彼の腕を掴んだ。
「準備が出来た」
「……何、するんですか」
それには答えないまま、男は悠の腕を強く引く。
もう一人の男が待つ所へ悠を連れて行くと、二人は悠を引き倒した。
畳の上にうつぶせに寝かされる。
「……離せ……ッ」
男は悠の腕を後ろ手にまとめて組むと、その腕を押さえながら悠に馬乗りになった。
肺が押しつぶされ、妙なうめき声が出る。
「どけよ……」
「所長の命令だ」
馬乗りになった男が言った。途端に悠の抵抗が止む。
足首のあたりに布の感触があった。
もう一人の男が、悠の足に何かしている。
「動くなよ」
馬乗りになっていた男は、一旦悠の上からのいたが、すぐにまた悠のふくらはぎの上に腰を下ろした。
両腕は掴んだまま、身体で両足を拘束するように、がっちりと抑え込む。
「所長の命令だ。お前が逃げ出さないよう、処置する」
その言葉の意味を悠が理解する前に、悠の足首に冷たい物が当たった。
それはすぐに、鋭い痛みへと変わった。
ぶつん、と、何かを断ち切られるような衝撃が走る。
絶叫が、部屋にこだました。
*
「処置は」
「終了しました」
「よし。経過を見て、治癒した頃にまた同じ処置をしておけ」
「はい」
「今後のスケジュールは追って指示する。しばらくは奴の体調管理を重点的にしておくように」
「はい。……他の者との接触はどの程度まで許可いたしましょう」
「忠以外は、監視付きなら接触させてやっても構わん。忠は接触禁止だ。……あいつはすぐに殺したがる」
所長の傍らに立つ職員は、無言で頷いた。
「金の卵を産むガチョウの、腹を割くようなバカは近づけるな」
*
悠は、暗闇の中で目を覚ました。
鈍い痛みが、両足を覆っている。少し足首を動かしてみようとして、それが出来ないことに気付く。
ゆっくり身を起こし、足首に触れると、そこはかさついたガーゼで覆われていた。
所々固い感触なのは、乾いた血のせいだろう。
ゆっくりガーゼの上から傷を押さえてみる。そこには、痛みの他に、何の手応えもなかった。
「あぁ……」
――アキレス腱を、切られたんだ……。
ずいぶんと即物的な足枷だなと、悠は笑った。
足首を切り落とされなかっただけまだマシと言うことだろうか。
以前と同じだ。傷は縫合されることなく切り裂かれたままになっているようで、足首を動かすと傷が口を開くような鋭い痛みが走った。
――まずいな。
治癒力の低下を、今所長に知られるわけにはいかない。
所長には、まだ悠に利用価値があると思い込んでいてもらわねば困るのだ。
――しかたない……。
悠は傷を覆っていたガーゼを剥がした。
――どうせ暗闇でも監視されているんだ。
剥き出しの傷に触れる。悠は歯を食いしばると、そこに爪を立てた。
「――ぐ、ぅ……」
爪が傷を捲り、閉じかけていた皮膚の下の血管を千切る。
新たな血が、両方の足首から垂れるのが分かる。
――治らないのなら、治らない理由を与えてやればいい。
「あ、ぅあぁぁ……っ!」
激痛に、両足がびくびくと跳ねる。それを抑え込むように握ると、悠は荒い息を吐いた。
「はぁっ……はぁっ……」
出血のせいか、急激に血圧の下がるのを感じる。ひどい吐き気と目眩がする。
――まだ、死ぬわけにはいかないんだ。
悠は仰向けに横たわった。
そのまま血にまみれた手で顔を覆うと、ぬかるみのような眠りに落ちていった。
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