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第八章 帰順と反逆 4

 敬と涼は、東城、沢野とテーブルを挟んで座った。柴浦は、ソファから一歩引いた脇に立っている。  涼が対面に座る沢野へ冷ややかな視線を送った。  それを軽く無視して、沢野は煙草に火を点けた。何時間ぶりかの一服だ。  嫌味の一つでも言ってやろうかと涼が考え始めたとき、東城が口を開いた。 「今後のことを話し合いたい」 「……はい」  敬がまず答えた。  瞬は真と共に、既に事務所を辞していた。  やはり心労がたたっているのだろう。柴浦は、足下がふらつき始めていた瞬を真と共に車に押し込んで、柘植にマンションまで送らせた。 「あんた方はどうする。瞬坊のマンションなら、しばらく寝泊まりする余裕はいくらでもあるが」 「いえ、俺たちはまだ仕事があるので、明日の午前中までには向こうへ戻ります」 「……そうか」  東城はそう言うと、鼻の頭を掻いた。  どこまでお節介を焼いたものかと考えているところだろう……と柴浦は主を見て思った。 「真は瞬の側に残してゆきますし、俺たちも時間が空き次第、こちらに顔を出します。皆さんには、いろいろとご迷惑をおかけしますが――」 「や、それは良いんだ。気にしないでくれ。こっちも好きでやっていることだ。その……あの二人をどうにも放っておけなくてな」  その裏表のない言葉に、敬と涼も微苦笑を漏らす。  二人がヤクザの世話になっていると聞いたときは、一体何が彼らの身に起こっているのかと肝を冷やした。  敬も涼も口には出さなかったが、やはり悠の手を離すべきではなかったのかと、酷く焦ってこの会合に飛びついたのだ。  だがこうして実際に会ってみて、東城が瞬たちと出会うべくして出会ったのだとすぐに分かった。  瞬たちは追っ手から逃れる日陰の身だ。それを理解し、狭い塀の上を目隠しで歩くような二人に、向こうの暗闇へ落とさぬよう手を差し伸べられるのは、こんな世界の人間だけだろう。 「二人は……苦労していましたか」  敬が言った。 「あぁ……、しばらくは食うに困っていたようだ。それはまぁでも、あんた方も同じだろう」 「いえ、こちらは二馬力でやってましたから」  敬はちらりと涼を見遣ると、静かに笑った。  東城が沢野に、この三人と渡りを付けるように頼んで、今日のこの再会は実現した。  悠を失った瞬が拠り所にするのは、自分たちではなく昔の仲間だろうと思ったからだ。  沢野も最初は申し出に面食らったようだが、すぐにそれを了承した。  三人に関しては、沢野側の捜査の邪魔にならないと判断してのことだろう。  柴浦は、離れた場所から二人をつぶさに観察していた。  彼らに初めて会ったのは、今日の午前中だ。沢野は彼らを「良い子」と評していたが、実際に言葉を交わしてみてその意味が分かった。  実直さをそのまま写し取ったような敬。辛らつなで乱暴な言葉を吐きつつも、情の深い面を覗かせる涼。天真爛漫で朗らかな真。  瞬の人格に彼らの影を見て取って、柴浦は、彼らがいかに深く結びつきながら生きてきたのかを思い知る。  彼らもまた、特殊な力を持っていることは先ほどの騒動で確認した。  沢野から事前に聞いていたこととは言え、自分でも驚くほど平静だった。  そう思ったとき、それまで黙っていた涼が口を開いた。その口調は好戦的だった。 「あんた達、ヤケに冷静だな」  敬が慌てて涼を遮る。だが涼はやめない。 「俺たちの力を見ても、何とも思わないのか」 「瞬坊たち二人の力は見せてもらっていたし、助けてももらったからな。そう驚くことも、嫌悪もない」 「……あんたは? 公安さん」  その挑み掛かるような言葉に、柴浦は内心首を傾げた。この青年は何を探ろうとしているのだ? 「あんた、冷静すぎるんだよ」 「……俺は顔に出にくいんだ」 「動揺を見せておいた方が効果的な場合もあるんだぜ」 「あぁそうかい」  沢野は取り合わない。だが涼は更に煽った。 「あんた、どこかでこの力を見たんだろ?」 「……さぁ?」 「認めてんのも同じだぜ」  涼の目がぎらりと光った。 「あんた暁に会ったのか」  涼の傍らで、敬が息を呑むのが分かった。 「……前言撤回だ。可愛くねぇガキ」  沢野は軽くいなす。だがその目は笑っていない。 「大体おかしいんだよ。悠が研究所に戻った話はしても、暁の話が出ない。あそこに暁がいることを何で瞬は言わないんだ」 「暁があそこにいるかどうかなんて分かるはずない――」  敬が口を挟んだ。だが、 「ばーか、あの所長が、暁を手放すわけがねぇだろ」  ペちりと頭をはたかれて口を噤む。 「……瞬は、暁に会ったんだな」  涼は独り言のようにその言葉を零した。その後を東城が継いだ。 「あぁ、会った」  それ以上は言わずに置く。だが目の前の聡い二人は、東城の表情からすぐにその意を汲んだのだろう。険しい顔で東城を見た。 「俺はあんた方の経緯を知らんからな。詳しいことは瞬坊から聞いた方が良かろう」  東城が言うと、二人は黙って頷いた。 「……なぁ、興味本位で悪いが、あんたらの力がなんなのか聞いても良いか」  東城が話題を変えた。重苦しい座の空気が少し緩んだ。敬が答える。 「あぁ、さっき少しご覧になりましたよね。俺の力は瞬間移動です。自分が跳んだり、物を移したりできます。真はテレパシー能力を持ってます」 「……俺のは、温度操作。……です」 「温度……なんだって?」  東城が聞き返すと、涼は立ち上がって柴浦へ歩み寄った。 「……紙、ありますか。要らない紙」  乞われて、柴浦は机の上の書き損じを渡した。それを手に、涼は東城へと向き合った。  目が合った瞬間、涼の瞳がきらりと光ったような気がした。  ――そうだ、こいつらの目……ヤケに深い……。  瞳の色も大きさも、一般人と変わらない作りのはずなのに、彼らの目からは、引きずり込まれそうな妙な空恐ろしさを感じる。  ――違う。恐怖じゃない。これは、畏怖だ。  東城の見つめる目の前で、涼の手の中の紙が煙を上げた。それはすぐに赤い炎を出し、あっという間に紙を舐め尽くす。  涼は熱さも感じないのか、平然とその炎を手に乗せている。  紙はすぐに灰になって燃え尽きた。 「紙の自然発火温度は……何度だっけな。木や紙を燃やすくらいまでは出せるようですよ。低温の方は、液体を凍らせるくらいだから、零度以下にはなっているはず。まぁ、厳密に測った訳じゃないですが」  東城の背を、ぞくりと冷たい何かが走った。  瞬と悠もまた、この不思議な力を持っている。あまりに身近すぎてすっかり見慣れてしまっていたが、その力は人智の及ばぬエネルギーの塊なのだ。  これだけの力を身の内に秘めながら、彼らはそれを制御し、飼い慣らしている。それがどれほど困難なことか彼らは気付いていない。  ――こんな物を手に入れて、人の手でどうこうしようだなんて、思い上がりもいい所じゃないのか? 「ありがとう、見せてくれて」  東城が礼を言うと、涼は一度驚いたように目を見開いた。そして、小さく頷くと黙って敬の隣に腰掛けた。  涼が腰を落ち着けるのを待って、沢野が口を開いた。 「単刀直入に言う。君たちは悠君の奪還が目的だろうが、神崎……所長の逮捕のチャンスが来るまで、待ってもらいたい」  涼たちだけではない。東城らに向かっても沢野は言った。 「俺たちは長いこと神崎を追ってきた。今、そのとっかかりを掴んだところなんだ。上手く行けば奴を逮捕できる。だが奴にはバックが色々付いている。下手を打てば、そっちから圧が掛かっておじゃんだ」  言葉を切ると、沢野は煙草を吸い上げた。灰を灰皿に落とす。 「さっきは交通違反でも何でも別件で挙げる……なんつーたがな、はっきり言ってそれじゃ無理だ。デカイ件で挙げねぇと、必ず横やりが入る。攻めどころは贈収賄か殺人なんだが、奴は自分の手を汚さない。しかも実行犯は暁だ。催眠暗示で誘導して、自殺に見せかける手口とくりゃぁ実証は不可能」 「あんた、暁の力……」  涼が口を挟んだが、沢野はそれには答えなかった。 「未成年者略取誘拐罪、児童虐待防止法に抵触……、辺りが現実味があるか。こう言っちゃぁ申し訳ないが、悠君が向こうの手の内にあることで、こっちの大義名分が出来た。だが、それでもたかだか罰金か十年以下の懲役刑だ。腕の良い弁護士に掛かればもっと減るだろうな」  言葉を切るごとに灰を落とす。敬には、うずたかく積み上げられて行くそれが、沢野の心の鬱屈のように見えた。 「奴を引っ張るのはそれでも良い。だが俺たちの目的は、奴と政財界の癒着を明るみに出すことだ。そのために、今事実関係を洗い出している。……だから」  沢野は、煙草を口から離して灰皿の中に押しつけた。そして、目の前の二人を見た。 「坊主の救出は、もうしばらく堪えてくれ。……頼む」  沢野が、頭を下げた。 * 「瞬、ご飯! 食べよう!」 「……あんまり……食べたくな――」 「だーめ! ほら!」  マンションに着いてから、真はすぐに食事の支度に取りかかった。 「家に帰ったら手洗いうがい!」  そう厳命して、瞬を洗面所に押し込む。昔に戻ったような気がして、真は小さく笑った。  ――可愛い瞬。  いくら身体が大きくなっても、真にとっては、瞬はいつまでも小さな瞬だ。共に泣き、共に笑って生きた大事な片割れだ。  泣いていたら慰めてやりたい。飢えていたら腹一杯にしてやりたい。  ――バカな悠。  悠がいなくなったと聞いたときすぐに、どうせ碌でもないことを考えて身を引いたのだろうと、容易に想像が付いた。彼は昔から何も変わっていない。  残される者のことを少しは考えたらどうなのだと詰ってやりたい。  言葉の足りない二人のことだ。きっと瞬まで碌でもないことに頭を悩ませているだろうと思ったら案の定だった。  ――本当に、バカな……可愛い二人。  ガチャガチャと、少し怒りにまかせて米を研いでいると、瞬が青ざめた顔でリビングに入ってきた。  何も言わずソファに座る。そのまま長い足を持て余し気味に折り曲げると、両腕に抱え込んで膝に顎を乗せた。  その様子を横目で見遣り、真は無言で冷蔵庫を開けた。  中が空っぽなことにため息をつく。  ――まったく、悠がいなくなってから一ヶ月? 入院してたって言ってたから半月か。半月もこんな状態だなんて!  憤慨しながら冷凍庫を開け、小分けに冷凍されているたくさんの保存容器を見つけた。 「……これ」  一つ手にとって中を確かめると、総菜が入っている。  どう見ても出来合ではない。手作りの総菜だ。それが悠の作った物だと言うことは容易に想像が付いた。 「悠……ホントに、バカだよ君は」  筑前煮に、きんぴらゴボウ、ひじきの煮物。ハンバーグにコロッケ、ロールキャベツ。色とりどりの容器にはどれも、いっぱいの惣菜が詰め込まれていた。  悠が姿を消す前に、まとめて作り置いていった物だろうか。 「一ヶ月か……食べ切っちゃった方が良いな」  真はいくつかを取り出すと、キッチンの脇のカウンターに並べた。  米が炊きあがるまで一時間。じっと座って、瞬と額を付き合わせているのは性に合わない。 「よし、掃除しよう」  窓を開け放ち、掃除機を出してきて掃除を始めると、瞬が驚いて真を見た。  慌てて腰を浮かすのを手で制し、座っているようソファを指す。 「僕、今日からしばらく、ここにご厄介になるから」 「……え」 「敬たちは仕事があるから家に戻るけど、僕はここに残る。君のお世話させてね?」  家事全部引き受けるよ。悠のベッドを僕が使うの嫌でしょ? ソファで寝るね。ここのソファ広いね! 僕の布団より広いかも。ううん、冗談。薄い掛け布団か毛布があったら貸してもらえるかな。  ……と一気にまくし立てられ、瞬は返事が出来ない。  勢いに押される格好で頷くと、真が安心したように笑った。 「僕が、悠の代わりに君を太らせるからね」  一方的に宣言すると、真は掃除に集中し始めた。  一時間後。米が炊きあがるのを待って総菜をレンジにかけ、食卓に並べる。  そうしてから瞬に声を掛けた。 「瞬。こっちにおいで」 「食べたくない」  今度は明確な拒絶だ。だが無言ではなかったことに真は内心ほっとした。瞬の意識はちゃんと外に向けられている。 「これ、悠の作ってくれたご飯だよ」  再びソファで足を抱え蹲るように座っていた瞬が、その言葉で顔を上げた。 「……え?」 「もしかして、気付いてなかったの? 悠がたっくさん、冷凍庫に作り置きを入れていってくれてたよ?」 「……作り置き? ご飯?」 「いいから、こっちおいでって!」  真が少しきつく言うと、瞬は素直に従った。結局の所、研究所にいた頃から瞬は真に頭が上がらない。 「ほら座って」  椅子を引かれて、瞬は大人しく席に着いた。温かな湯気が、醤油の甘辛い香りと共に立ち上る。  真が、瞬の隣に座った。 「冷めないうちに食べよ? 僕もお相伴させてもらうね」  そう言って真は手を合わせると、いただきます、と小さく続けた。  瞬も無言で箸を取る。小鉢に入った野菜を口に含むと、覚えのある懐かしい味が舌に染みた。あぁ、と無意識に声が漏れた。 「……悠の、作ってた味だ」  甘みよりも醤油の味の方が勝る悠の味付けだった。笙子に教わった物をこの家でも作っては、瞬に食べさせてくれた、あの味だった。 『東城さんは甘めが好きだから、少し砂糖を多めに作っているんだって。瞬は甘いのとしょっぱいの、どっちが好き?』 『……そっか、じゃぁ、お砂糖を減らして醤油を足せばいいかな』 『どう? これくらい? ……おいしい? ほんとに?』 『よかった! 笙子さんがね、身体と舌で覚えるまで作れって。二人の好みの味を作りなさいねって。言ってたよ』 『美味しいって言ってもらえるの、嬉しいね』 『……すごく、嬉しい』 「冷凍庫に、小分けにしてたくさん置いてあったよ。瞬、全然見てなかったんでしょ?」 「……うん」  真も、小鉢を手にとって煮物を頬張る。 「美味しい、ね」 「……」 「ちょっと冷凍焼けしてきてるのもあるから、早く食べちゃわないと」 「……うん」 「……しゅん?」  真が、箸を置いて瞬の顔を見た。 「泣くのは、食べた後にしよ?」  真が困ったように笑って、瞬の頬を指で拭った。  瞬の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちてくる。 「……悠……」  悠はどんな思いで、これを作っていったのだろう? もう二度と帰らないと、あの電話越しの声は言っていた。  それなのに。  瞬は、箸を落とすと両手で顔を覆った。苦しい。胸を掻きむしりたくなるほど、悠が恋しい。 「……悠……ッ」  真が、茶を入れて戻ってきた。  湯飲みを渡され、一口啜る。途端に、舌をやけどした。  痺れるようなざらついた痛みに思わず舌を出すと、その子供っぽい仕草に真が笑った。 「……落ち着いた?」  深呼吸を一つしてから、瞬は顔を上げた。 「ちょっと、すっきりした」 「そっか」 「あのさ」 「うん?」 「悠がいなくなって、探し回ってもどこにもいなくてね。悠が何を考えていなくなったのか全然分かんなくて」 「……」 「悠は僕のことどう思ってたのかな、とか、不安になっちゃって」 「うん」 「たぶん僕、拗ねてたんだ」 「……」 「僕ばっかり悠のことを大好きで、僕ばっかり悠を愛していて。悠は僕に仕方なく付き合ってただけなんだって。だから、僕を置いて一人になっても平気なんだって」 「うん」 「拗ねて、自棄を起こして絶望した。裏切られたとさえ思った。僕は……」 「……」 「僕のことばかり考えてた」  ぽつりと言葉が零れた。 「涼に言われたこと。……よく考えろって。悠の事、ちゃんと……」 「ねぇ、瞬」  真が、瞬を見た。木の実を思わせる愛嬌のある目が、今は、きりりと眦を上げて瞬を見つめている。 「気付いてる? 今自分のこと、なんて言ってるか」 「……自分?」 「自分のこと、僕、って言ってる。昔みたいだ」  言われて、瞬ははっと口を噤んだ。 「気付いてなかったんだね」  思わず項垂れた瞬の頭上に、優しい真の声が降る。  言葉と同時に、温かな掌が瞬の頭を撫でた。 「……今、無性に悠の頭を張り倒してやりたくなった」 「え」  柔らかな手つきとは裏腹な台詞に、思わず瞬が顔を上げた。 「だってさ、元々何でも好き勝手やる人だったけど、今回のは酷すぎるよ! 敬も涼も悠には甘いからさ、さっきだって瞬に落ち着け落ち着けって。落ち着いていられるわけないっての! ねぇ!」  真も真なりに憤慨していたようだ。勢いよく詰られて、思わず瞬の頬が緩む。 「連れ戻して、みっちりお説教してやろうよ」 「お説教?」 「そうだよ。このソファでいいや。この上に正座させて」 「うん」 「ここがどんなに楽しくて幸せなところか、延々教え込んでやるんだ」 「……」 「美味しいものを食べさせて、温かい布団でくるんで、いっぱい甘えさせちゃう。二度と逃げられないようにしてやろうよ」 「……うん」 「……ねぇ、瞬」 「うん」 「ちょっと試してみない?」  真が厳かに言った。 「何を?」 「僕の、新しい力」 「え……な、何?」 「怖くないよ、ほら、僕の手を握って」  突然言われて、瞬は少しだけ戸惑った。だが、信頼が瞬を後押しする。  ゆっくりと真の手を取ると、真が手を握り返した。 「少し僕が手伝うから。瞬は、悠の心を探してみて」 「……探す?」 「うん、残留思念、って言うんだって」  説明する本人も首を傾げている。年長二人の受け売りなのだろう。 「僕がアンテナ……ううん、違った。増幅器の役目をするんだ」  そう言って、真が先に目を閉じた。 「目を閉じて、耳に集中してね」  促され、瞬も従う。するとすぐに、何かに耳を覆われたような感覚があった。目を閉じたまま少し身じろぎをする。  物理的に塞がれているのではないようだ。真の手は両手とも瞬の手の中にある。  軽い耳鳴りのような、ぶぅんと言う低音が続く。  と、その音に慣れてくる内に、低音の中から耳が意味のある音を拾い始めた。  ――……ン。  ――……る。  聞こえる音節は短い。そして二つ。  囁くような掠れた音声は、聞き覚えのあるようなないような、不思議な波長で瞬の耳に届く。  ――……ュン。  ――……る。  音は部屋のあちこちから聞こえてくる。  シンプルな音の繰り返しが、多層に重なり合っている。けれどやはり、言葉は二つだけだ。  ――……ュン。 ――……ュン。  ――……てる。 ――……てる。  瞬の耳は、すぐに残りの音を掻き集めた。  ――シュン。  悠のイントネーションだ。  何か物言いたげなときに、少し言いにくそうに、けれど甘さを滲ませて。  瞬は、この声の後に続く言葉を知っている。  ――あいしてる。  愛してる。愛してる。君だけを、愛してる。 「あぁ……」  部屋の至る所に、悠の声がある。  こうして言葉に出すのはいつもほんの僅かで、後は恥ずかしがってしまうのだけど。  悠の心から溢れた音のない言葉が、知らないうちに幾重にも積み重なって、繭のように瞬を包んでいる。  瞬は、真から手を離した。  すぐに、声は聞こえなくなる。  そのまま顔を覆ってしまった瞬を、真が上から抱きしめた。 「君は、愛されてる」 「……うん……」 「もう、迷わないね?」 「……うん」 「瞬は、すごい力を持ってる。知ってるでしょ?」 「……」 「言って。瞬、ちゃんと言って」 「願いを、叶える力だ」 「そうだよ、願いを叶えるんだ。君の願いは何?」 「……生きること」  瞬が、涙に濡れた精悍な顔を上げた。  視線を彷徨わせることなく、真をしっかりと見上げている。 「悠と、共に生きることだ」  唇を引き結んだ顔は、真が最後に別れたときと同じ、強い意志を秘めた顔だ。  真が満足げに笑った。 「この顔が、見たかったんだ!」

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