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第九章 過去と未来 2
暁が五号室の扉をくぐると、すぐにこちらへ笑顔が向けられた。
「おかえり」
傷ついたままの両足を前に投げ出し、壁に凭れるような格好で暁を見上げている。
「……あぁ」
悠は、本を膝の上に広げていた。
この部屋に置き去りにされていた絵本の一つだろう。白いページは、赤黒いシミで汚れている。
悠がページを捲る度、その汚れがあちこちに付く。
悠の指が、血で汚れているのだ。
暁は悠の足下を見た。畳に小さな血だまりが出来ている。
暁は唇を噛んだ。
――まただ。
悠はここに戻ってきてから、自傷行為を続けている。
職員によって付けられた傷を、毎日こうしてえぐり続けているのだ。
前に一度、もう止めるようにと諭したが、返ってきたのはにこにこと微笑む顔だけだった。
そして今もまた、悠は暁に笑いかけている。
暁は悠の足下に跪くと、剥がされて転がっていたガーゼを恭しく貼り直した。
「痛くないのか」
愚にも付かないことを、それでも言わないではいられない。
悠は少し首を傾げると、笑った。
その目は一体何を映しているのだろう。
暁が悠を抱くようになって、最初の何回かは抵抗された。
催眠を施す前に暴れ、傷ついた足を引きずって逃れようとするのを、無理矢理に抱いた。
だが何度か繰り返す内、悠は従順になった。
こうして暁を見て、微笑むようになった。
軽く口づけても、逃げることはしない。
それでも暁は、行為の間ずっと瞬の幻を悠に与え続けている。
「悠」
暁が声を掛けると、悠は本から顔を上げた。
「なぁに?」
屈託なく笑う、その笑顔は研究所を逃げ出す前のものと同じだ。
「……いや」
何でもない、と続けながら、暁は悠の頬に指を滑らせた。栄養失調気味の肌はかさついている。
「もうすぐ、みんな学校から帰ってくるよ?」
「……あぁ」
悠の視線が戸口へと向く。
「早く帰ってこないかなぁ」
毎日、暁と同じ会話を繰り返す。
「静かすぎて、寂しいよ」
悠の目は、幼い瞬の幻影を追っている。
柔らかな微笑み。優しく向けられる眼差し。今、悠が瞬に抱いているのは幼い瞬への慈愛だ。
「……悠」
それなのに、偽りの幻の中で欲にまみれた瞬に抱かれ、悠がそれに応える。
「会いたいか?」
そう聞かれて、悠はきょとんとした顔を暁に向けた。
「いつも会ってるよ?」
二つの幻影の狭間で、悠の心が壊れてゆく。
暁は、罪の意識と歓喜とに身を震わせた。
深い口づけが開始の合図だ。
暁は、舌を口腔内に忍び込ませながら、瞬の幻覚を悠に見せ始める。
悠が催眠に掛かるのは、いつも決まって、舌が上あごを擦ったときだ。
ぬるぬると執拗に舌を出し入れすると、やがて甘い声が漏れ始め、悠は幻の瞬の腕に陥落する。
「あ、んぅ……」
首を傾げ、より深く舌同士が睦み合う。
舌の表側の絹地のような感触と、裏側の、卑猥な粘膜の感触を交互に味わうと、それだけで暁の肌が粟立つ。
「は、ふ」
合間合間に息を継ぐように漏れる吐息すら自分の物にしたくて、暁は一層大きく口を開けると、悠の舌ごと飲み込んだ。
「ん……、ふふっ」
唐突に悠が笑った。喉の奥でくぐもった声を立てる。
暁が唇を離すと、悠が顔を上げた。
「食べられちゃいそう」
あのときみたいだ。
悠はそう続けて笑った。
暁は、自分の知らない悠の記憶に曖昧に相槌を打つ。だがそれと同時に強烈な感情が胃の腑を焼いて、唇を噛んだ。
悠は自分を抱いているのが瞬だと微塵も疑っていない。
それゆえ彼は、愛情に満ちた翳りのない笑顔を目の前の男に向けてくる。
それは暁の見知らぬ顔だった。
閨の中でしか見せない、拗ねたような、ねだるような蠱惑的な表情。
瞬が可愛くて堪らないのだという、蕩けた笑顔。
それを望んだのは暁自身だ。自分には決して向けられることのないその表情、その声。惜しむことなく与えられる体温。
そのどれもが、激しい嫉妬を暁に抱かせてゆく。
悠の幸せだけを願ってこの身を引いた。悠が愛しているのは瞬であって自分ではない。
だからこそ、自分に出来ることで悠が幸せになれるならそれでいいと思った。思っていた。それなのに。
「瞬?」
愛らしい声が、自分ではない名を呼ぶ。
その声を聞きたくなくて、すぐにまた唇を塞いだ。
固く尖らせた舌先で悠の口腔内をまさぐると、互いの唾液が溢れてくる。
先ほどよりも愛撫の色を濃くした動きに、悠が腰をゆらりと動かした。
ゆったりした部屋着の上から下腹部を撫でると、そこは既に起ち上がってしっとりと濡れ始めている。
戯れるようにやわやわと触れると、悠は暁の手に腰をすりつけてきた。
「早く……」
羞恥に耳を赤く染めながらも、悠はその先をねだる。
部屋着と下着を一度に引きずり下ろすと、悠の未発達な性器が顔を出した。
年の割に小さく、堅さも足りないような気がする。
暁は悠の下履きを全て脱がすと、後ろから抱きしめるような体勢に変えて、悠の足を開かせた。
悠の顔を肩口へねじ曲げ、もう一度唇を覆う。
そうしておいてから、手早く採集容器の蓋を開け、背後に隠しておいた消毒薬で自分の手を拭う。
準備を済ませ、ようやく暁は悠の快感を追うことに集中し始めた。
最初は直接陰茎に刺激を与え、二回目は後孔から忍び込ませた指で、吐精を促す。
悠はひたすらに従順だった。
首筋に廻された腕は一度たりとも暁を拒絶しない。暁の頭を抱き寄せ、その耳にもっと、もっと、と熱い吐息を吹き込む。
暁のこめかみに浮かぶ汗を舐め取り、あぁ、と感極まったように呟く。
羽交い締めにしていた腕を解き、悠の身体を前のめりに倒して、突き入れた指を動かすと、それだけで悠の腰はがくがくと揺れ、あっさりと精子を吐き出した。
ほとんどを容器に受け止めたが、零れた分が畳に染みを作る。
それを指ですくい上げ、更に悠の後孔に塗り込めた。
容器はもう一杯になっている。これ以上出しても、薄くて使い物にならないだろう。
ここから先の行為は、悠の身体に負担を強いるだけだ。それは十分に承知していたはずなのに、暁は続く快楽の予感に抗えなかった。
くたりと力を失って横たわる悠を、上から見下ろす。
荒く息を吐く背にはしっとりと汗が浮き、触れると掌に吸い付く。
痩せて骨張った身体に柔らかいところはない。尻でさえ例外ではなく、悠が身じろぎする度に骨の影が見え隠れしてひどく痛々しい。
背筋もほとんどなく、薄い皮膚の上からでも骨の凹凸がはっきりと見える。
暁は、悠の骨盤から腰椎、胸椎の骨片の一つ一つを指でゆっくりと辿り、頸椎の先まで確かめるように撫で上げた。
緩やかなカーブを描く、美しい造形。
指を脇から前へと滑らせると、生きるために最小限残された筋肉が、暁の指を押し戻してくる。
悠が震えた。
畳に投げ出されていた腕が、物憂げに自分の髪を掻き上げる。
その隙間から、とろりと潤む瞳が見えた。
視線は暁の方に向けられていたが、焦点が僅かに結ばれない。
――あぁ。
悠は眦を緩やかに下げた。大きな目が、優しく弧を描く。
視線の向こうにあるその男。
――俺は、瞬には、なれない。
暁は、絶頂が尾を引く悠の身体を乱暴に抱き寄せた。
相手の意図を察して、悠の身体がひときわ大きく震える。
待って、お願い。
そう聞こえたような気がしたが、待つ気など毛頭ない。
後ろから抱きかかえるように腰に腕を廻し、利き手で腰骨をぐりと捏ねた。
「ひ、んぁ……ッ」
下腹を抉るような衝撃に、悠の腰が落ちた。
そこをすかさず、尻だけを高く突き出す格好に持ち上げると、暁は己の欲望に忠実に従った。
強引に、けれど慎重に、相手の後孔へ陰茎をねじ込む。
悠は痛みのためか、それとも強すぎる快感のためか、高く長い悲鳴を上げた。
温かい腸壁がうねる。異物を押し出すような蠕動に逆らって、暁は中へ分け入った。
その先端が前立腺をかすめ、悠の身体が素直に反応する。
「あ、あぁッ!」
どれだけ、瞬に馴らされたのだろう。
こんな無体を働かれているのに、悠の身体は素直に快感を求める。。
――瞬は、どうやってお前を抱いた?
あの懐かしい面影がふと頭を過ぎり、胸に愛しさと苦々しさが満ちる。
瞬はまっすぐで、愚かなほどに一途で純粋だった。
だから暁は、彼の眩しさに己の目を瞑った。二人から逃げた。
――これがその報いか。
何もかもが妬心の引き金になるのが苦しくて、暁は悠の首筋に噛みついた。
優しく抱けば、そこにあるのは瞬の影でしかない。それならば、手ひどく抱き潰すしか己を刻み込む術はない。
血が滲むほどきつく歯を立てると、悠は身体を強ばらせた。
「瞬? ど、したの?」
戸惑う悠は、それでも相手を疑うこともなく、逃げる素振りすら見せない。
暁は無言のまま大きく腰を動かした。
「あ、あぁぅ、ん」
狭く温かい粘膜が、暁の陰茎にねっとりとまとわりつく。あまりの心地よさに、暁はそっと吐息を零した。
「シュン……」
後背位でつながる暁を抱き寄せるように、悠が身体を捻って手を伸ばしてくる。
「瞬、……瞬」
悠が、何度も名を呼んだ。無言の相手に言葉をねだっているのだ。
だがそれには応えない。代わりに奥を突き上げると、悠は切なげに声を上げた。
ほんの少しの快感を与えただけで、悠は腰をくねらせて淫蕩に暁を誘う。
なんて淫乱なんだと嘲笑ってやりたい。
お前を抱いているのは瞬ではないと、今すぐ催眠を解いて叫びたい。
そうしたら、悠はどんな顔をするだろう。
泣いて取り乱すだろうか? それとも酷い拒絶の言葉を吐くだろうか?
――お前を抱いているのは、俺だ。
その瞬間、暁の性器が力を増した。
「ひ……ッ!」
悠が小さく叫ぶ。それに構うことなく、暁は奥まで陰茎を突き入れた。
二度三度と激しく奥を抉り、四度目の腰を引いたとき、悠の身体が不自然に強張った。
太股から臀部、腰にかけて緊張が走る。びくり、びくりと大きく痙攣したかと思うと、悠の喉の奥から高い引き攣れた声が漏れた。
「あ、あぁぁ、あ、ぅ……っ」
同時に腸壁が引き絞られる。悠の絶頂に合わせて、内側の粘膜が激しく収縮する。
直腸から与えられたオーガズムは深く、長い。
悠の陰茎から、さらさらとした液体がこぼれ落ち、床に新たな染みを作った。
暁もまた、痛みすら感じるほどの快感に包まれた。ちかちかと目眩がする。だが彼は引くことなく、悠の性感帯を更に攻め立てた。
「や……!」
その衝撃に、悠の目が見開かれる。
「やめ、て、今」
言葉の合間に悲鳴が混じる。
「今、イって……!」
軽くパニックを起こしながら、悠が身を捩った。だが、暁から逃れることは出来ない。
「やめ、シュン、やめ……ひ、ン、あぁぁぁ!」
暁は、絶頂のうねりに逆らうように、己の性器を突き刺す。
「ん、ぐ、ぅあぁッ! あぁッ!」
浅いところと、一番奥の直腸の括れとを交互に抉ると、その度に、悠の身体を新たな絶頂が襲う。
暁の性器が押し込まれる毎に、悠の陰茎から透明な体液がびしゃりと溢れ出た。
「ぬいて、ぬいてぇッ!」
必死に首を振る。だが後ろから羽交い締めにされ、どうやっても快感から逃れられない。
「も、や、ぅぐ、あ、ぁっ、んッ、ひぅっ」
制止の言葉すらまともに出ず、漏れ出る声はただの嬌声でしかない。
「そんなに、イイのか?」
初めて、暁が耳元で囁いた。この声すら、悠の脳は瞬の物に変換する。まだ催眠は切れていない。
悠は半狂乱の理性を必死に働かせて、暁を見た。拷問のような快感に苛まれているというのに、それでも尚、悠の目は瞬を追い、瞬を求める。
「……クソっ」
なぜこうも苛立つのか、暁には分からない。
嫉妬など今更どうと言うことはない。もうずっと以前から胸の内にあった物なのだから。
初めて悠に出会ったとき、なんて弱々しいのだろうと思った。
こんな地獄に連れて来られて、すぐに殺されてしまうだろうと思った。
けれど悠は強かった。痛めつけられ、死にそうな目に遭い、汚されても、涙の後に必ず立ち上がった。そして、仲間を守ろうといつも細い腕を精一杯に広げていた。
その傍らに毅然と立っていた敬と涼。そして……瞬。
悠に相応しい存在に、自分はなれなかった。
いつも彼らに嫉妬していた。年を重ねて取り繕うことばかり上手くなったけれど、薄い皮を剥げばそこにあるのは、ひねくれた卑しい心根のつまらない男だ。
所長に良いように使われても抗うこともせず、それどころかこれ幸いと悠を蹂躙した。
心が手に入らないのだから、身体だけでも欲しかった。それが今、叶ったじゃないか。
――何を苛つく必要がある?
「……イ、ぅッ……」
遂に、悠の声が力を無くした。続いて身体がコントロールを失い、暁の動きに合わせて、人形のように四肢が力なく揺れる。
それなのに悠は意識を失うことが出来なかった。
強烈すぎる快感が邪魔をする。
「も、……や、ら……」
呂律の回らない舌が、許しを請う。
「……う、うっ……」
力なく開いた口の端から唾液が零れている。暁の身体の動きに合わせて声が押し出されるが、そこには意志のかけらも残されていない。
ここまで来てようやく暁も律動をやめ、悠の中のうねりに身を任せる。それだけで暁は深い快感に包まれた。吐精すらどうでも良くなる。
暁を包む腸壁は、最も快感を得られる箇所に相手を誘い込み、精を搾り取ろうとする。
「……!」
ひときわ大きな波が、悠を飲み込んだ。
悠が大きく仰け反ったまま硬直した。
そして、長い絶頂の後、気を失った。
*
「上手く行っているようだな」
前置きもなく、神崎が言った。
暁は頷くほかない。実際、精子の採取はスムーズに運んでいた。
「彼の様子はどうだ」
監視カメラで全てを見ているはずなのに、神崎は敢えて暁に問う。
暁は項垂れたまま、口を開いた。
「記憶の退行、混乱を起こしているようです。あの部屋に、他の子供達が一緒に住んでいると思い込んでいます。食事は摂れていません。栄養剤の点滴をお願いします」
「経口で薬剤は摂取できそうか」
「やってみます」
点滴はいいとしても、やはり長時間針を刺したままにしておくのは危険と判断したのだろう。
神崎はカルテのような薄い冊子に何事かを書き込むと、暁を見た。
「点滴は最小限に留めたい。暴れて針が折れでもしたら厄介だ。その間、お前が側に付け。薬剤投与もお前に任せる」
「……はい」
その部分を自分に任せると言うことは、薬も悠の身体を損なう代物ではないのだろう。
「すぐに調剤させる。お前は直接五号室へ行け」
暁は無言で一歩足を引くと、一礼して部屋を出た。
――そうだ、確かに上手く行っている。
暁は、五号室へ向かいながら思った。
――悠は俺に従ってくれている。所長の望む通りに事は運んでいる。
所長の思惑の内にあれば、それ以上の害はない。悠の命に関わるような事態にはならない。
――大丈夫。大丈夫だ。
暁は胸の内で何度も繰り返す。大丈夫。大丈夫。
だが、それは不安の裏返しだった。
心の軋みは悠の身体にどんな影響を与えるのだろう。
自分が何かとんでもないことをしでかしているのではないかと、悠を抱くたびに恐れ戦く自分がいる。
それなのに、暁はそれ以外の感情に良いように振り回されていた。
悠をこの腕に抱き、悠の快感を呼び起こしているのが紛れもない自分だという、その事実に目眩のするような喜びを覚える。その一方で、訳の分からない苛立ちが、四六時中つきまとっている。
暁は、悠を愛している。そしてそれをもう隠す必要もない。
この狂った世界で、狂った男の腕の中で、悠は眠る。もう誰にも渡さない。
この世界を作った神以外、己を邪魔する者などいない。
この時は、己が望む限り永遠に続くのだ。
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