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第九章 過去と未来 3

 小野寺が目覚めたとき、日は既に高く昇っていた。  首だけを持ち上げて自分の身体を見る。  そこに情交の跡を見て取って、小野寺は深く溜息を吐きながら首を元に戻した。 「この年になって気絶するまでヤるって、大概だろ……」  いつまで経っても慣れない鈍痛が、身体のあちこちを軋ませる。  神崎の精力は、学生の頃と全く変わっていなかった。傲慢で執拗で、己の目的のためだけに相手を利用する。 「マス掻いてんのと同じってこと、分かってンのかね」  わざわざ声に出して罵ってやる。聞かれたって構うものか。  小野寺はもう一度溜息を吐くと、身を起こした。肩に引っかかっていたシャツを羽織り直し、ボタンを留めに掛かる。  だが、その手は徐々にゆっくりになり、やがて半端なところで止まってしまった。  昨夜、神崎が漏らした言葉が気に掛かっていたのだ。  小野寺が気を失う淵で、神崎は耳元でささやきを落とした。  ――お前は逃がしたつもりになっていたようだが。  喉の奥で、くく、と声帯が揺れたのを感じた。相変わらず歪んだ愉悦を含ませ、声が続く。  ――奴は戻ってきた。自分からな。  奴、と神崎は言った。  戻ってきたというのか、あの悠が。  あんなにも神崎を恐れ、震えていたというのに。  そんなにまでして、瞬を守りたかったのか。  それほどまで、瞬を愛しているのか。  ――悠と瞬の間にあるのが愛だと言うなら、俺と神崎の間にある物は一体何だ?  小野寺は手の中の小さなボタンを見た。クリーム色をした小さなシャツボタンは、途中で一つがなくなっていた。  夕べ千切れ飛んだのかもしれない。  神崎がそこまでの情熱を、未だこの身に抱いていることが驚きだった。  自分と神崎の間に愛情はない。あるのは、ただの気まぐれな執着だけだ。  ずっとそう思っていた。  あの日、あの写真を見るまでは。 *  小野寺が図らずも別れを切り出し、神崎が手ひどくそれを撥ね付けてからしばらくの後、神崎は結婚した。  相手は以前から噂が流れていた、学部長の娘だった。  披露宴の招待状を神崎に手渡しされ、怒る気も失せた。  目の前で封筒ごとびりびりに破いてみせると、神崎が楽しそうに笑った。反応がいたくお気に召したらしい。  その日、珍しく上機嫌になった神崎は、更に珍しいことに、小野寺を優しく抱いた。  まるで恋人に施すような愛撫に、小野寺は混乱した。  それが、小野寺にあり得ない行動をさせたのかもしれない。  深夜、小野寺は明るい部屋に目を覚ました。部屋の明かりは付いたままだ。  そう言えばセックスの後そのまま眠ってしまったのだと思い出し、そんなに夢中だったのかと柄にもなく一人赤面する。  彼の傍らには、無防備な寝顔を晒す神崎がいた。本当に今日はどうかしている。  この状況を処理しきれず、小野寺は水を飲もうとベッドから抜け出した。と、足を下ろした途端に何か固い物を踏みつけた。  床に見慣れない物が散らばっている。神崎の鞄の中身だ。  そう言えば、招待状を挟んで押し問答があって、ベッドに雪崩れ込む前に少し激しいやりとりがあったような気がする。  あのとき、神崎の鞄を蹴飛ばして、口が開いていた鞄から中身が零れて……。  ――あのままにしておいたなんて、珍しい。  神崎も今夜は相当に興が乗っていたのだろう。何事にも始末を欠かさない神崎がこれほど羽目を外すのは初めてだった。  と、ふと、部屋の明かりを受けてつややかに光る紙片が、小野寺の目に入った。  黒い表紙の何か――おそらくは手帳だろう――に挟まれた物が半分ほど顔を出している。  写真だ、と直感した。  この冷酷な男が、大事に手帳などに挟んでいる写真……。  それに興味を引かれて、小野寺はその手帳の脇にしゃがみ込んだ。  神崎は眠っている。規則正しい呼吸音が、途切れることなく聞こえる。  小野寺はゆっくりとその写真を引っ張り出した。  そして、息を呑んだ。  そこには、一人の男が写っていた。  身体は斜めを向き、顔だけを正面に向けて椅子に座った姿だ。  てっきり女が写っているものと思っていた。だが、小野寺が驚いたのはそのためではなかった。  写真の男が、小野寺にうり二つだったからだ。  小野寺自身、一瞬、こんな写真をいつ撮っただろうかと思ったほどだ。  だが、服装が違った。自分はこんな服は持っていない。  写真の男は、黒いシャツの襟元を寛げ、リラックスした風にカメラに向かって微笑んでいた。  年の程は小野寺と同じくらいか。だがよくよく見れば、肌の色や髪型など違いは多い。  病み上がりなのか、痩せて頬骨が少し張っているように見える。  しかし小野寺をよく知らない者が見たら、同一人物と思うだろう程にはよく似ていた。  小野寺の鼓動が早くなる。  男が、こんな写真を持ち歩くだろうか? 家族写真であれ、友人の写真であれ、自分ならこんな、男のポートレートなど持ち歩いたりしない。  ならば、この写真は何だ?  これ以上追求してはいけないと、頭の奥で警鐘が鳴る。だがその一方で冷静な頭が、眠る神崎の呼吸音を確かめている。大丈夫だ、まだ神崎の眠りは深い。  小野寺は写真を裏返した。そしてそこにある文字を認めた。  ――秀隆、二十七歳。家にて。  神崎の字だった。  それだけを確認すると、小野寺は写真を元あった通りに戻した。  そして立ち上がると部屋の電気を消して、もう一度ベッドに潜り込んだ。  神崎がもぞりと動いたが、やはり目覚めた様子はない。  彼に背を向けると、小野寺は暗闇の中、先ほどの手帳の方へ目を凝らした。  写真の主は、おそらく神崎の家族だ。名前の止め字が同じことからして、その可能性は高いだろう。  わざわざ『家にて』と記してあったのは、彼が家にいることが珍しかったからだろうか。  よく入院していたとか?  写真の面影を脳裏に描く。痩けた頬の様子から飛躍しすぎたかもしれない。もしかしたら、単に離れて暮らしているだけなのかもしれない。  なぜこんなにも気に掛かるのか、小野寺にも自分の動揺が説明できなかった。  あの神崎が、写真を大事に持ち歩いているなどというギャップのせいだ。だからこんなに気になるんだ。  必死に理由を探していることに、小野寺は気付いていなかった。    それから、小野寺の奇妙な聞き込みが始まった。  神崎の取り巻きだった女達の元へ足を運んでは、神崎の話を聞き漁った。  特に選んだのは、神崎にこっぴどく振られた女達だ。  それとなく水を向けると、彼女たちは恨み辛みと共に彼の知りたい話を垂れ流してくれた。  神崎には兄がいたこと。両親は離婚して、母と兄との三人暮らしということ。兄は重い病に侵されていたということ。彼は何度か移植手術を受けていたと言うこと。そして、兄が数年前に亡くなったと言うこと。  もちろん神崎自身が漏らした情報ではないだろう。本人のあずかり知らぬ所で、周囲のネットワークは存外に強固だ。プライバシーなど存在しないがごとく、彼らは情報を共有している。小野寺自身そんな者たちから情報を引き出しているのだから、彼らを責めることは出来ない。多少の後ろめたさを感じながら、それでも小野寺は徐々に揃うピースをつなげて、神崎の別の姿を描き出していた。  そして遂に、その結論に至った。  ――俺は、身代わりだ。 *  小野寺は部屋を出た。  悠の話をしたとき、神崎は『五号室にいる』とだけ言った。ということは、面会は可能だと言うことだ。  悠に関してどのレベルで監禁されているのか。神崎の口ぶりから推し量ることは出来なかった。  また拷問されているのだろうか。  また酷い目に遭わされているのだろうか。  小野寺の脳裏に残る悠の顔は、どれも泣き出しそうに顔を歪めている物ばかりだ。  ここを離れていた間、悠は幸せだっただろうか?  彼が笑顔になれる時間はあったのだろうか?  考える内、足が速くなる。  会ってどうなるわけでもない。今の小野寺に、彼を逃す術はない。  けれど会いたかった。顔を見て、無事を確認したかった。  ……思いに沈みながら急いでいたため、向こうからやってくる足音に気付くのに遅れた。  階段を駆け上がり、ホールから南館の廊下へ入る所で、突然現れた人影にぶつかった。  肩が強く当たり、小野寺は壁際によろめいた。 「……っと、すまん、大丈――」  言いながら相手を見て、小野寺は言葉を切った。見覚えのある顔が、呆然と小野寺を見下ろしている。 「お前、暁……」  二人が顔を合わせたのはあの逃亡劇以来初めてだった。  ここに暁が戻ってきたことは、かなり前に聞かされていた。  暁は最初からそのつもりだったのだなと、妙に納得したことを覚えている。  だが、今は旧交を温めているような気分ではなかった。目下の懸案事項を咄嗟に口にする。 「なぁ、嬢ちゃんが……あ、いや、悠が戻ってきていると――」  そう小野寺が口にしたとき、暁の表情がさっと変わった。  何かを恐れるような怯えが走るのを、小野寺は見逃がさなかった。 「お前何か」  知っているのか、と腕を掴み問いただそうとする小野寺から、暁が顔を背ける。 「おい!」 「あいつに……」  暁が、囁くような声で言った。 「悠に、近づくな」 「なぜだ」  おかしい。  暁はこんな男だったろうか?  研究所から逃れるために力を貸せと、小野寺の下へ乗り込んできたあのとき、暁は自分の信念を貫く強さを持っていた。人と話すときに目を逸らすことなどなかった。  それが今はどうだ。逸らすどころか、目を合わせることすら怖がっている。  虚勢を張っているのが分かるほど動揺している。 「あんたも、巻き込まれる」 「何にだ」 「……利用、される」  所長に。  声にならない言葉が小野寺の耳に届いた。  暁はそれだけを言うと、腕を振りほどいた。  そして小野寺の返事も待たず、その場を逃げ出した。  小野寺は後は追わなかった。今は暁よりも悠だ。  暁の影を追い払うように一つ頭を振ると、再び五号室へ足を向けた。  廊下の突き当たり、一番奥の部屋の扉を躊躇うことなく開ける。  軋る扉を半分ほど押し開いた彼の目に飛び込んできたのは、半裸で横たわる悠の姿だった。  小野寺は言葉を失い立ち尽くした。  彼の両手と両足が赤黒く汚れている。血液の汚れだと言うことはすぐに分かった。だが痛みに苦しんでいる様子はない。  ぼんやりとその指先を見つめる顔は穏やかで、口元にはかすかな笑みさえ見える。  剥き出しの下半身は痩せ細り、そして、真新しい白い体液で汚れていた。  それが誰の物なのか、考えるまでもなかった。  暁の怯えた顔が浮かんでは消える。  ――あぁ……。  小野寺は一度、目をきつく閉じた。 「なんてことを……」  ――あいつは、ここまでさせるのか。  小野寺はきつく手を握りしめると、息を吸い込んだ。  そして悠の側へと近寄った。  肌に触れると、熱を持っているのが分かる。  傷のせいか、それとも今し方まで受けていたのであろう暴行のせいか。  小野寺は一旦立ち上がると、部屋の中に目を走らせ、棚にあったタオルを手に取った。それを水場で濡らしてもう一度悠の傍らに膝を突く。  身体を拭ってやりながら、全身の状態を詳しく検分すると、悠の身体がわずかに震えた。  落ちくぼんだ目、かさついた唇。両足首の傷は口を開けているが、出血は治まっている。まずは脱水と栄養失調の治療から取りかかるのが最善か、と思案を巡らせ始めたとき、部屋の扉が控えめにノックされた。  すぐに顔を上げると、扉の隙間から白衣の男が顔を覗かせていた。手には医療キットと黄色い液体のパックがある。  それを見て、小野寺はあからさまに舌打ちをした。案の定この部屋を監視していたのだ。  小野寺が現れたのを見て、慌てて治療の一式を持たせて寄越したのだろう。 「置いていけ。あとは俺がやる」  激情を抑えるように言うと、相手は安堵の表情で手にしていた物を置き、瞬く間に姿を消した。  小野寺は無言で簡易スタンドを組み立て、輸液のパックを吊した。 「嬢ちゃん、俺が分かるか?」  準備を整えてから声を掛ける。だが反応はない。  眠ってしまったのかと顔を見たが、悠は眠ってはいなかった。先ほどと同じ様子でただぼんやりと、血のこびりついた手の爪を見つめている。  呼吸はひどくゆっくりで、落ち着いている。  ところが、脈を取ろうとその手首に触れたとき、その変化は起こった。  小野寺の手が強く振り払われる。 「嬢――」  声を掛けようとして口をつぐんだ。悠がおびえた様子で小野寺を見ている。その視線には懐かしさのかけらもなかった。 「なに、するの」 「大丈夫だ、治療を……」 「やだ、触らないで!」  痩せこけた顔の中で、目ばかりが大きく見える。 「痛いことはしないから、落ち着いて」  悠は小野寺を旧知の者と認識していない。  ――記憶の混乱? 暁が何か細工したのか?  小野寺は敢えて悠に齟齬を正そうとはしなかった。余計に混乱と興奮を招くだけだ。  怯える悠を刺激しないよう、ゆっくりとした動作を続けながら、職員が持ってきた治療キットの中身について記憶を辿った。  確かあの箱の色は救急患者用のキットだ。と言うことは、抗不安薬の注射も入っていたはずだ。  何とか注射を打てるだけの距離に近づければ……。  小野寺の頭がめまぐるしく働く。と、そのとき悠の視線が突然揺れた。不自然に眼球が動き、円を描く。  眼振だ。 「うぅ……ッ」  悠がきつく目を瞑った。目ではなく、こめかみを手で押さえつける。  身体を折り曲げ何かに耐えるような素振りに、小野寺が悠との距離を詰めた。 「頭が痛むのか」  悠の顔が白い。呼吸が浅く、首筋に手を宛てると脈も酷く早い。  呼吸の合間に唾液を必死に飲み込もうとしていることに気付いて、小野寺は声を掛けた。 「吐きそうか」  問いかけに、悠が反応した。小さく頷く。  小野寺は一瞬躊躇ったが、すぐに悠の脇に腕を差し入れ、彼を抱き起こした。 「横になったまま吐くなよ。気道に詰まる」  そのまま抱え上げると、流し場へ連れて行く。 「立てるか? ……無理か。それなら俺が支えてるから、大丈夫だ、いいぞ、思いっきり吐いちまえ」  胸へ廻した腕で身体を持ち上げてやりながら、反対の手で背中を撫でさすってやる。  悠は流しの縁を掴みながら身を乗り出し、えづいて、吐いた。  溺れるような喘ぎと共に吐き出される中に、固形物はなかった。全て胃液だ。  半ば予想していたことだったが、小野寺は唇を噛んだ。  水と共に饐えた匂いも流してやり、手近なカップに水を汲んで顔の側に差し出す。 「口、すすげるか? 楽になるぞ」  悠はそれを手に取ることも出来ず、白く震える指は必死に縁を掴んだままだ。  小野寺が代わりにカップを口に宛がうと、ようやく悠は水を口に含み、吐き出した。  嘔吐の緊張から解放されくたりと力を失った身体を支えて、小野寺はもう一度、悠を部屋の中央に横たえる。  部屋の隅に積み上げられた布団の山の中から毛布を引っ張り出すと、それで悠の冷えた身体を包み込んだ。  毛布越しに抱く力を込めるが、悠からの拒絶はない。  中から覗く髪をそっと払うと悠が眼を開けた。眼振は治まっていた。  目が意志を持って動く。と、悠がゆっくりと唇を動かした。それは確かに小野寺の名を形作った。 「嬢ちゃん……」  小野寺の胸に深い安堵が広がる。悠が小野寺の顔に手を伸ばした。 「……ぶじ、よか、た」  冷たい指が小野寺の無精ひげをなぞる。小野寺は、ため息を堪えて笑って見せた。 「おぉ、俺は無事だ。酒断ちして健康になったくらいだよ」  そう言いながら悠の手を握った。 「嬢ちゃんはどうだ? どこか痛むか?」  出来るだけ深刻な態度にならないよう気をつけながら、悠の様子を探る。  嘔吐するほどの頭痛と眼振症状から脳の障害を疑うが、今この場では詳しく調べることは出来ない。  いくつかの問いかけに悠は首を振った。症状は落ち着いているようだ。小野寺はひとまず、当初の治療に取りかかることにした。 「これから点滴するからな? 大丈夫、変な薬は入ってない。栄養と水分を入れるだけだから心配するな。あとは足の傷と……」  と、悠の視線が不安げに揺れた。足の傷には触れられたくないようだと小野寺は判断した。だが、このまま化膿でもしたら大事だ。 「必要な薬を取ってくる。しばらく一人になるが……大丈夫か?」  悠は、今度はゆっくりと目を伏せ、もう一度小野寺を見た。肯定だ。  小野寺は頷いて部屋を出た。 *   暁は、すぐに見つかった。  小野寺が地階から薬を取って戻る途中、中庭にたたずむその姿を認める。  小野寺はそちらへ足を向けた。 「おい」  半ば覚悟していたのだろうか。  暁は小野寺の呼びかけにも驚くことなく、静かに振り返った。 「……なんだ」 「お前、悠に何をした」  小野寺も単刀直入に訊いた。 「見たんだろ」 「そっちじゃない」  小野寺が強く言うと、暁がひるんだように目を伏せた。 「悠の頭に何をしたか、聞いてるんだ」 「……あんたには――」 「あぁ、関係ないとも! ……だが黙っていられるか!」  小野寺の語気に、暁の肩がびくりと揺れる。 「今あの子が吐いた。おそらく原因は頭痛だ」 「頭痛?」 「嬢ちゃんは、こめかみを押さえていた。側頭葉の辺りだ。ここは記憶を司る場所だ」  小野寺が自分の耳の上を突いた。記憶、と言う言葉に、相手に明らかな動揺が走る。 「記憶を弄ったのか」 「違う――」 「なら、何をした!」 「……俺は」  暁の視線が泳ぐ。またあの違和感だ。だが小野寺は追及の手を緩めなかった。 「あの子は最初、俺の顔も分からなかった。だが頭痛の直後に思い出した。あんなことを繰り返していたら、あの子は壊れちまうぞ!」 「そ、んな」 「言え。弄ったのか」 「違う! 俺はただ瞬の幻覚を見せただけだ!」  小野寺が息を呑んだ。下肢を汚した悠の姿がフラッシュバックする。 「坊のふりをして、あの子を抱いたのか」  小野寺は、我知らず暁の胸ぐらを掴んだ。 「お前、それがどれだけ残酷なことか分かっているのか!」 「……あぁ」 「分かっていて」 「所長の、……命令だ」 「……っ、何が命令だッ!」  小野寺が怒鳴った。 「お前、あの子が大事だったんじゃないのか!? あの子が苦しむと分かっていて何でこんなことをする!」 「じゃぁ、俺はどうしたらいいんだ!」  暁が声を荒げた。 「俺じゃダメなんだよっ! 俺じゃ、あいつはあんな顔で応えてくれない!」  爪が食い込むほど、手を握りしめる。 「いっそ壊れてくれれば――」 「お前本気で言っているのか」  小野寺もまた、衿を掴む手に力が籠もる。  暁の言葉が信じられなかった。たった二年の内に、彼に何があったというのだ。 「暁、お前、しばらく悠には会うな」 「それは、出来ない」 「お前がやってることは、ゆっくりあの子を殺してるのと同じなんだぞ!」  鋭い言葉を投げつけられ、暁が呆然と小野寺を見た。 「殺す……?」 「今のままでは身体も衰弱していく。実際、もう胃が固形物を受け付けていない。とにかく今は点滴で命を繋ぐしかない」 「俺が、……悠を殺す?」 「お前の与えている幻覚が、あの子の頭を虫食いにしているんだ! いいか、お前はしばらく悠に近づくな。所長には俺が上手く言っておくから」  暁の身体が、ぐらりと揺れた。小野寺が掴んでいなかったら、その場にしゃがみ込んでいたかもしれない。 「暁ッ!」  小野寺の腕が、暁の胸を激しく揺さぶる。 「腑抜けた顔をするな!」  頬を張り飛ばしたいところを辛うじて堪える。小野寺が暁の顔を睨め上げた。頭上から彼を見下ろす顔は、酷く狼狽えている。 「お前は、ここを離れて頭を冷やしてこい」 「それは……」 「お前にはそれくらいの自由は許されているんだろう? どうせ悠が回復するまでは、誰も手出しは出来ないんだ」  小野寺が噛んで含めるように語りかける。 「一度冷静になれ。冷静になって、自分が一番大事なものをよく考えてこい」  そう言うと小野寺は掴んでいた手を離した。  相変わらず、暁は惚けたように小野寺を見つめている。 「この場所は人を狂わせるんだ。命令に従うように支配されて、外界から遮断されて。一日中監視されて、一日中誰とも口をきくこともなくて。世界に自分しか居ないように錯覚する。そんなお前さんの前に、大事な者が現れたら――」 「これは、勘違いだって言うのか? この気持ちは。この感情は」 「それを、考え直してこい」  小野寺が、暁の胸を、とん、と突いた。 「自分が何をしたいのか。何をすべきか考えろ」  それだけを言うと、小野寺は身を翻してその場を離れた。  ――俺は、どのツラ下げて。  暁を責める資格などないことは、自分が一番よく分かっていた。  今の映像を神崎が見れば、さぞや皮肉たっぷりに笑うことだろう。  けれど小野寺は、自分と同じ過ちを暁にして欲しくなかった。  自分のすべきことから目を背け、ずるずると神崎と馴れ合ったままこんな所まで来てしまった。  ――手遅れかもしれない。でも、俺はお前達を助けたい。  ――二十年間、俺は自分に嘘を吐き続けた。……もううんざりだ。

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