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第九章 過去と未来 4
さぁさぁと水の流れる音を耳にして、悠は目を開けた。
薄暗い部屋の、染みの浮いた天井をぼんやりと見上げる。
肌寒さを感じて、反射的に肩に腕を廻すと、その動きを黄色い管が邪魔した。
少しだけ視線を横に動かすと、黄色い液体の袋が目に入る。
無意識にその管を腕から引き抜こうとして、横から伸びてきた腕に止められた。
「ダメだ、抜くなよ」
手首を固定されているテープを剥がそうと躍起になる右手を、やんわりと握られた。手を引きはがされる動きを目で追うと、その先に男が居た。
警戒心を抱かせない、のんびりとした口調と笑顔に、悠は首を傾げた。
――だれ、だっけ?
「目が覚めたなら、一回トイレに行っておこうか。栄養剤をじゃんじゃん入れてるからな、そろそろ限界だろ」
そう言われて、ようやく自分の尿意に気付く。なんだか久しぶりの感覚のような気がする。
悠は頷くと、男に支えられ部屋のトイレに連れて行かれた。
まるで自由のきかない身体は、排尿さえ思うようにいかず酷く戸惑う。挙げ句に、排尿時の鋭い痛みに、一瞬悠の身体が強張った。
「あー、脱水でしばらく出してなかったみたいだから、痛むよなぁ」
便座に座って身体を支えるのも辛くて、男に凭れるような格好になる。
けれど、長い時間を掛けて出し切ると、少しだけ身体が楽になった。
また支えられて寝床に戻る。そこで初めて、自分が柔らかな布団に寝かされていたことに気付いた。
布団に寝たのも久しぶりだ。身体の軋みが少ないのもそのためだろう。
そこに横たわる前に、悠は足首を見た。包帯が巻かれている。
その包帯の上から傷を強く握ると、激しい痛みが走った。
「ん、ぅぐぅッ……」
「おい、何を……!」
男が慌てて止めに入るが、今回ばかりは悠は引かなかった。
これはとても 大事で 必要な作業なのだと、自分に繰り返し言い聞かせる。
包帯の上から爪を立てると、すぐに白い包帯は赤く染まった。
「あ、あぁぁぁぁっ!」
「やめろ、やめるんだ!」
布を染めた血が手を濡らしてようやく、悠は両足から手を離した。
ぐらりと傾ぐ身体を抱き留められる。
その相手を見上げて、荒い息の下から悠は笑った。
「あぁ――小野寺、さん」
血まみれの手を拭ってやりながら、小野寺は必死に頭を働かせた。
悠の自傷行為は、これもストレスの発露なのだろうか。それとも他に何らかの原因があるのだろうか。
彼を布団に横たえ点滴の固定箇所を確認すると、もう一度足首の包帯を外した。
初めてこの傷を確認したとき、そのあまりに無残な傷の状態に小野寺は目を背けた。
肉がえぐれ、切れた腱の端が剥き出しになっていたのだ。
腱を切ったのは、神崎の命令だろう。だがそれにしては傷の状態は酷すぎた。
鋭利な物ではない何かで長期間傷つけ続けたものだろうと推測はしたが、まさかそれを、悠自身がしていたとは思いもしなかった。
「……小野、寺さん」
「ん、あぁ? どうした?」
血液で汚さぬよう布団を防水シーツで覆いながら、小野寺が答える。内心ひどくうろたえていたが、何とか取り繕うと悠に笑顔を向けた。
「大丈夫だぞ-、俺、案外こういうの上手い――」
「放っておいて、くださ、い、そこ」
小野寺が手を止めた。
「お前さん、最初もそう言ったな」
あの時、記憶が混乱していたために出た言葉だと思っていた。だが、今悠ははっきり小野寺を認識している。
「このままじゃ、歩けなくなるぞ」
「いい、です。放っておいて」
「なにバカなこと」
「治療、してもまた、むしりますよ、僕」
そう言うと、悠は薄い笑みを浮かべた。
小野寺は、その笑顔で悠の行為の意味を悟った。
――痛みで、正気を保っているのか。
そういえば、と、今し方のことを思い返す。
悠が目覚めたとき、悠は小野寺を前にして怪訝な顔をしていた。つまりまた、小野寺のことを忘れていたのだろう。
トイレから戻るまで……否、悠が傷を暴くまで、悠の態度には違和感があった。
それが、傷の痛みの直後に、彼は小野寺の名を呼んだ。
――混乱の中でも、自分を痛めつけることは忘れないのか。
たまらなかった。
こんな小さな身体で、なぜここまで苦痛を受けねばならないのかと思うと、やるせなさで胸が苦しくなる。
「嬢ちゃん」
小野寺は足首から手を離すと、彼の手を握った。
「そんな、自分を粗末に扱ってくれるな」
辛うじて言葉を押し出す。だがそれ以上続けることが出来ず、小野寺は唇を噛んだ。慰めの言葉が一体何になるだろう。
悠はここで死ぬつもりだ。神崎に利用され、ぼろぼろにされて捨てられる。もう二度と外の世界を見ぬままここで死ぬつもりなのだ。
「ねぇ……そんな顔、しないで」
悠が言った。掠れてはいたが、この場にそぐわぬ柔らかな声だった。
「僕はこんな身体だけど、これでも、ちゃんと使い途は、あるんだ」
そしてゆっくりと目を閉じる。
「所長に使われるだけでも、良い。僕は……」
誰に聞かせる風でなく、一人、詩でも呟くような抑揚で、悠が囁く。
「それに意味があることを、知っているんだから」
酷く卑屈で残酷な言葉なのに、小野寺の耳にはそれがとても崇高なものに聞こえた。
外は雨が降っている。
さぁさぁと降る雨は、地表を潤し、芽吹きを助け育ててゆく。
外の世界は生命溢れる緑の季節を迎えようとしているのに、ガラス一枚隔てたこの部屋は灰色の時を止めたままだ。
小野寺は、穏やかになった呼吸を確かめると、毛布を悠の肩まで引き上げた。
――この子の流す血の雨は、一体何を育むのだろう。
*
「話がある」
小野寺が切り出したのは、神崎が結婚してから二年ほども経った頃だった。
神崎は何の表情もなく頷いた。
小野寺は、自宅へと神崎を促した。
差し向かいで話をすることへの恐怖はあった。だが、衆人の目のある所では話をする気にはなれない。
自宅へ入れるのも避けたかったが、かといってホテルで会う気にもならず。仕方なしに小野寺が自宅の扉を開けたのを、神崎は鼻で笑った。
「今頃になって別れ話か」
そんな気などないと言っただろう、と、最初に嘲笑と共に言われたが、続いた言葉に小野寺の肚が冷えた。
「色々と嗅ぎ廻っていたようだな」
口の軽い連中に聞いて廻っていたのだ、そのうち神崎の耳にも入るだろうと覚悟はしていたが、改めてこの目に射すくめられると呆気なく覚悟も揺らぐ。
もとより、この話をすると決めてからこんなにも時間が経ってしまった。結局の所、自分は神崎が恐ろしいのだ。
「で? どこまで知った?」
小野寺は完全に主導権を失っていた。自分から招いたはずなのに返す言葉も上手く出ない。
その小野寺の様子に、神崎は笑って、椅子に座るよう促した。
「そう怯えた目をするな」
白い歯が牙のように剥き出しになる。
「汚して、壊してやりたくなるだろう?」
神崎の手が小野寺に伸び、思わず後じさる。
そのまま軽く肩を押され、ふらついて床に倒れ込んでしまった。
慌てて起き上がり体勢を立て直そうとしたが、それ以上に神崎の動きは速かった。
小野寺の上にのしかかり、膝で小野寺の股間を押さえ込んだ。神崎が体重を加えれば、簡単に急所を潰されてしまう。
「二人きりで別れ話は危険だと、誰かに教えてもらわなかったのか?」
そのまま膝でぐりぐりと、小野寺の股間を擦り上げながら神崎が囁いた。
「お前を痛めつける道具なら、どこにでも転がってる。包丁も、カミソリも、濡れたタオルも、電気のコードも。熱湯もある」
神崎は自分のネクタイを解いた。するするとした高質なシルクが小野寺の手首を滑り、あっという間に縛り上げられてしまう。
しなやかな絹地が、柔らかく固く、小野寺を拘束した。そしてそのまま、その手が小野寺のシャツの前をくつろげて行く。
「まぁ、お前とは長いつきあいだ。どっちがいいか選ばせてやる」
「……選ぶ?」
「このまま抱かれるか、痛い目に遭うか。どっちがいい」
「……いつも俺の前で服を脱がなかったのは、術創を見られるのが嫌だったからか」
小野寺が言った。神崎の顔色が変わった。
「お前が、被虐趣味とは知らなかった」
突然、小野寺の脇腹に鋭い痛みが走った。
「ぎ、あ、ああ、ぁぁぁッ!」
皮膚をえぐられる。引き攣れた痛みに繰り返し襲われる。
「い、ひぐッ、あ、やめ……!」
「ふ、ふふ、随分とヤワな探偵だな」
神崎の手が、真っ赤に染まっている。
「引っかかれたぐらい、どうと言うこともないだろう」
涙の滲む目で神崎を見上げる。
爪で深くえぐられた腹が、じくじくと疼く。
「……クソっ……」
小野寺が唇を噛む。と、神崎がその口の端に指をねじ込んだ。
「噛むな」
「んぐ、ふ」
「この顔には傷を付けるな」
まるで嘆願のように囁かれ、小野寺は驚いて相手の顔を見上げた。
「……かお?」
「気に入っているからな」
「おれはッ」
小野寺が息を吸い込んだ。喉が震える。
「俺はお前の兄貴の身代わりか!」
「……身代わり?」
神崎が笑っている。
「あの写真を、見たのか?」
「俺とそっくりのな! アレはお前の兄貴なんだろ……!」
その言葉に、神崎が愉快そうに声を立てて笑った。
「そっくり? あの人と、お前が?」
その時、小野寺は自分がやり方を間違えたことを悟った。
先ほど付けられた傷を、神崎が更にえぐった。
「あ゛あ、あぁぁぁぁぁッ!!」
「代用品が、偉そうな口をきくな」
神崎が手を打ち振ると、血液の固まりがべしゃりと床に飛んだ。
「確かに、お前を初めて見たとき、我が目を疑ったよ。あの人がこの世に戻ってきたのかとね」
「うぐ、ぁぁぁ!」
鋭く固い何かで皮膚をむしり取られる。激痛に一瞬気を失いかけるが、神崎がそれを許さなかった。
「訊きたかったんだろう? 話してやるから、ちゃんと聞いていろ」
神崎は、ゆっくりとした動きで小野寺の傷の中に指を潜り込ませた。
「あぁ、温かいな」
陶然とした表情で神崎が言う。
「あの人の体温は低かった。優しく俺に触れてくれた手は、いつも冷たかった」
もう片方の手で、きつく縛られ血流の滞る手を取り上げて唇を寄せる。
「……昔、俺たちがまだ幼かった頃、父親の仕事で俺たちは東南アジアに住んでいた。そこで、兄は肝炎のウィルスに冒されてしまった。原因は、医者での注射の回し打ちだった」
傷が熱い。身体は徐々に血を失って冷えているというのに、傷口だけが火であぶられているようだ。
「それが原因で両親は離婚。母と俺たち三人は日本に戻り、治療が続けられた。だが病気は徐々に進行していく。成長して兄は劇症肝炎を発症した。肝移植が必要だった。俺は自分の肝臓を差し出した。俺は内心喜びに震えたよ」
神崎が小野寺から手を離した。血にまみれた手で、自分のシャツのボタンを外して行く。
やがて現れた裸身は、小野寺の目を奪うのに十分だった。
日を浴びたことのない肌は、腕や顔の皮膚よりもいくらか色白に見える。
引き締まった皮膚に浮き上がる筋肉の隆起。そして、みぞおちから腹に掛けて残る、生々しい長い術創。
「俺の身体が兄の身体の中に入る。俺の身体が兄を生かすんだ。これ以上の幸福があるか?」
神崎が己の腹に触れ、小野寺の血で傷痕が汚れた。
「兄の病は移植でも押しとどめることは出来なかった。俺は腎臓も提供した。何でも兄に捧げた。それが俺の喜びだった。だが、口さがない者どもが兄と母を責めた。弟の身を犠牲にしてまでもう一人の子を助けたいのかと。まったく余計なお世話だ。奴らに俺の何が分かると言うんだ。俺の幸福は俺のものだ。兄は、俺のものだ」
神崎の目が小野寺を見た。だが、似ているというその顔を通して別の面影を追っているのだ。
「俺は兄に……秀隆に尽くした。愛していた。秀隆も俺に応えてくれた。だが、ある日秀隆は俺を拒絶した」
視線が小野寺の脇腹を滑る。神崎は身をかがめると、血の溢れるその場所に顔を寄せた。
「や、めろ」
小野寺が呻いた。神崎は躊躇うことなく、その傷に歯を立てた。
「あ、ぐ……ッ」
肉を噛み千切られる。そう思ったが、その寸前で神崎は歯を止めた。
そして、溢れる血を舐めた。
「その顔で、俺を拒むな」
下から、睨むように小野寺を見る。
「……はっ、……俺なんて、見てねぇ、くせに」
「何?」
「兄貴に、女でも出来た、か」
声が震える。神崎は口を真っ赤に血で汚して、小野寺を見ている。
その指がまた、傷をえぐった。
「がはッ」
「まだそんな口が叩けるか」
口を袖で拭いながら、神崎が言った。いつの間にか、顔からあの笑みが消えていた。
「大事な兄貴に、女が、出来て、捨てら……う、ぐ、ぅっ」
「あぁ、その通りだ。看護師だったよ。秀隆をたぶらかして、俺から秀隆を奪おうとした。だから」
くく、と神崎の喉が鳴った。
「取り返してやった。あんな女に、秀隆を渡すものか」
「な、お前、……まさか」
「誤解のないように言っておくが」
神崎が言う。
「俺は何も手を下さなかった。兄は結局多臓器不全で逝ったよ。まぁ、俺の肝臓と腎臓が、兄の身体の中で反乱を起こしたと考えるのも愉快だがな」
「そ、れなら、なにを――」
「だから、言葉通りだ」
突然、小野寺は目眩に襲われた。脇腹からの出血のせいか、急激に血圧が下がっているようだ。手足が冷え、吐き気もする。
これが一時的なショック状態なのか、それとも生命の危機にあるのか、小野寺には分からなかった。
ただ、徐々に朦朧とする頭で、耳だけは尚も神崎の話を聞こうとしていた。
「俺は、秀隆の遺体を、隠した」
「隠し、た?」
そんなこと、出来るはずがない。死亡証明に始まって、人の生命が一つ終われば、後は山のような事務手続きが待っている。
「病院で死んだとは言っていないだろう?」
「……」
「兄の病状は俺が見てももう末期だった。だから、監禁して遺書を書かせた。本人は遺言のつもりで書いていたようだが、意識が混濁していたからな。読みようによっては自殺をほのめかすようにも取れる内容に、俺が仕立て上げた」
小野寺の視界が、白く濁り始めた。もう神崎の顔もよく見えない。
時折、傷に触れられているような感覚はあったが、既に痛みも感じなくなっていた。
「そんな、こと、して……」
「あぁ? これが何の罪になる? 医者に連れて行こうとしたが間に合わなかった。これは殺人か? 遺書を書かせたら自殺幇助か? 連れ出してホテルに居させた。拉致監禁罪? ……そうだな、死体遺棄罪くらいにはなるかもしれないな」
小野寺は何かを言おうとした。だが言葉にはならなかったし、そもそも、何を言うべきなのかも分からなかった。
神崎の言う通り、不治の病を苦に自殺したことにして、病死した遺体を隠したというのなら、罪という点ではそれほどの大罪ではないのかもしれない。
けれどその遺体を隠して、それで神崎は何をしたいのだろう?
人肉嗜食 ? 屍体愛好 ?
特殊性癖の範疇なら、勝手にすればいい。お前たちの間で完結させてくれ。もう、俺には構わないでくれ。
意識を失う淵で、小野寺は自分の下半身が持ち上げられ、ベルトが外されて行く場面を見ていた。
*
意識が戻ったとき、部屋には小野寺以外誰もいなかった。
傷は相変わらず痛み、神崎との会話が夢ではなかったことを嫌でも思い出させた。
無論、神崎が手当などしてゆくはずもなく、小野寺はふらつく身体にむち打って起き上がった。
床の血は既に固まっていた。一体どれほど気を失っていたのだろう。
剥き出しの下半身にも床にも、冷たい粘液がこびりついている。
血液と混じり合った白濁を見ているうちに、吐き気が襲ってくる。
とりあえず死ななかったことに安堵したが、恐る恐る脇腹を確認すると、想像以上にえぐれた傷があった。それだけでまた気が遠くなる。
だが、ここで今気絶しても、誰も助けてはくれない。自分を助けるのは自分でしかないのだ。
救急車は呼べない。小野寺は吐き気を押さえ込んで携帯電話を探し出すと、何とか友人のツテを頼って、内密に治療してくれる医者を探した。
ヤクザがらみの怪我と誤解され、幾人かの友人を失った挙げ句、ようやくたどり着いた医者で手当をして貰った。
医療系の学部にいて本当に良かった、と妙なところで自分の選択に感謝する。
入院が必要だというありがたい申し出を泣く泣く強硬に断って、浴びるほどたくさんの薬を飲むことを条件に、自宅へと帰ることが出来た頃には、もう日付は変わっていた。
床の血溜まりも強姦の残滓も、出て行ったときのままだ。
――血は固まると取れねぇんだよな……。
小野寺は、そのままベッドに倒れ込むと、夢も見ずに眠った。
それから間もなく高熱を出し、生死の境をさまよってしばらくの後。
小野寺がどうにか生き残ることを許された頃。
外の世界では、事態が大きく動いていた。
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