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第九章 過去と未来 5
沢野は、資料室の端末をひたすらに目で追っていた。
暁から聞き出した事件のあらましと、過去の捜査資料とを照らし合わせる作業を、ただ一人黙々と進めていたのだ。
縦と横のつながりが異常なほどに強固なこの警察という組織の中で、沢野の存在は非常識そのものだった。
巡査部長の階級は与えられていたが、沢野自身が昇進をする気はなかったし、周囲もさせる気はないだろう。
だが、沢野の能力は公安の捜査において非常に重要だった。
公安にとっては、被疑者であれ参考人であれ、供述内容を正式な証拠として採用できなくても構わない。
それが正確な内容でありさえすればいい。そしてその「証拠として扱えないが正確な情報」を引き出すことが、沢野の役目だった。
沢野は、ことある毎に取調室に呼び出された。
沢野の催眠の能力を知っているのは、ごく一部の上司だけだ。度重なる呼び出しに不審の目を向けられれば、沢野は『記憶力だけは良いから、過去の事件のデータについてよく聞かれるんだ』と言って誤魔化した。
実際彼は、よく過去の事件について知っていた。
情報提供者達と会う以外、基本的にこの部屋から離れることのない沢野は、資料分析の合間を見つけては、過去の捜査資料を読み漁っていた。
そんな中で、彼は不思議な匂いのする事件をいくつか見つけた。
一見何でもない、ただの自殺や事故の案件。ただ、そのどれもが、本庁の部署が追っていた様々な事件の参考人だった。
捜査が佳境に入ると出てくる不自然な事故。偶然にしては多すぎた。その違和感に気付いたのが、沢野と暁、ひいては研究所との出会いだった。
――こんなの、とても証拠としては出せねぇよなぁ。
実行犯は催眠で被害者を殺害しました、などと、裁判で通用するはずがない。
――我ながら、バカバカしい能力だよな。
催眠暗示の有効時間は、案外短い。長期間催眠に掛けるには、繰り返し重ねがけするしかない。
相手の状態にもよるが、長くても二、三時間がせいぜいだ。
善行にはほとんど使い途がないだろう。沢野ですら悪用することしか思いつかないのだ。
沢野は一つ大きくため息をつくと、ディスプレイの電源を落とした。
今日は定時閉庁推進日だ。回りの者もぼちぼち退庁の支度を始めている。
沢野は、ネクタイの結び目を緩めたくなるのをぐっと堪えて上着を手に取った。
と、それを見計らったように、尻の携帯電話が震えた。
*
「……」
目の前に黒縁眼鏡猿がいる。
「……だからさ、全部仕込みなわけよ、炎上商法っての? あれ、違ったかな。あの女優の事務所がさ、やばいんだよ。社長が色々手を広げすぎて、借金だらけ。秘蔵っ子らしいあの女優がコケたら、事務所離散じゃ済まないらしいよー。コンクリ詰めまっしぐららしいけど、これってホントかなぁ?」
「……知らん」
「だよねー! ねーねー、そっちにツテない? 四課だっけ?」
「ない」
「あー、沢野って友達いなさそーだもんねー。同期にもいないの?」
「いない」
「沢野くん、今日はノリ悪いねー」
目の前の童顔があざとく小首を傾げたので、沢野は堪忍袋の緒が切れた。
「……お前が! どの口が! それを言うかッ!!」
目の前の男の胸ぐらを掴み上げる。
「えー、やだなー、ちょっと脅迫しただけじゃーん♪」
「……やっぱ俺、帰る」
「えー、良いの? バラされても」
「だから、その証拠も出さねぇでのらりくらりと――」
「でもぉ、ここに来たってことは、心当たりあるんでしょっ?」
その言葉に沢野は黒川を睨み付けたが、相手はまったく意に介さない。襟元を締め上げられたまま懐から端末を出すと、沢野に振って見せた。
「証拠、見たい?」
「……っのヤロ……」
沢野は浮かしかけた腰を仕方なく下ろし直し、憎々しげに相手を睨むと手を離した。
今から一時間前、終業時間に合わせて送られてきたメールは、今目の前にいる旧友からのものだった。
この場所に来い、と言う内容と、添付された地図だけの簡素なメールだった。沢野が無視しようとしたとき、追い打ちを掛けるように送られてきた追伸に、沢野は目を見張った。
『来ないと、あのコト、君の上司にバラしちゃうゾ☆』
その脅迫を黙殺するには、沢野の心当たりは多すぎた。
「……クソ眼鏡チビ!」
思わず声を張り上げてしまい、未だ残っていた同僚に胡乱な視線を投げかけられる。
沢野は愛想笑いを浮かべると、逃げるように職場を後にした。
「見せろ」
言いながら手を伸ばす。だが相手は、ニコリと笑って釘を刺した。
「これ、壊してもバックアップは取ってあるから。無駄だからね?」
「分かってるよ! 良いから見せろ!」
指定された店は、こぢんまりとしたバーだった。まだ夕闇も降りきっていない時刻なのに、すでに店を開けているらしい。
中に入ると、待ち構えていた旧友が奥の個室へと彼を誘った。
それから小一時間、本題に入る前の枕と称して、延々と冒頭の話を聞かされたわけだが。
「……」
「あれ? 反応うっすーい」
「いつ撮った」
黒川の示した写真は、写りこそ悪かったが、助手席に乗った沢野と運転席に座る柴浦の姿が写されていた。
「うーんと、ね」
黒川が口にした日付は間違いなく、沢野が柴浦に連れられて組の事務所を訪れた日だった。
「それ一枚じゃないことは、まぁ、分かってるよね♪」
あくまでも調子を崩さない黒川はいつものように笑いながら、沢野から端末を取り上げた。
「そっくりさん……」
「往生際悪いねー。もっと鮮明に写ってるのもあるよ。車のナンバーまでばっちり!」
「このクソストーカーめ……」
沢野はがくりと肩を落とした。
ここのところ自分の公安としてのキャリアを全否定されているような気がする。
「まぁまぁ、いーじゃん。僕も沢野のこと恐喝したい訳じゃないし」
「……嘘くせぇ」
「ホントホント。ちょっとお願い聞いて欲しいだけだから」
「……金」
「なわけねーだろ! 貧乏公務員にたかってどうするんだよ。強請るんなら金持ちから効率よく巻き上げるわ!」
鼻息荒く抗議しながら、黒川は端末のディスプレイに何度か触れた。
「この男。若頭の側近だよね」
画面に大写しになったのは柴浦の顔だった。
「親しいの?」
「……ノーコメント」
「ふーん」
その一言で、二人の協力関係を見抜いたのだろう。黒川は素直に話題を変えた。
「お前、なんか企んでンでしょ?」
「はぁ? 何のことだよ」
「こんな、ノコノコ組の事務所まで付いて行っちゃってさぁ。何か相当重要な用件だろうなって」
「……」
「なぁ」
ふと、黒川が真顔になった。手元のグラスを取って、一度口に運ぶ。それは、どう見ても水だった。
「お前の追っかけてる暁って男、何モンなの」
グラスはテーブルにぶつかって、カツンと高い音を立てた。
「途中で行方不明になっちゃってて、全然表舞台に出て来ない。なんなの、死んだの? それとも……亡霊なの?」
沢野は返事をしない。
「もう一人の黒服色男の方も、なーんかおかしいんだよね。小学生時代の話は出てくる。あそこのクラブで働いてる話も出てくるし、ちょっと前まで働いてた職場も分かってる。でも、なぜか年齢が合わないんだ。別人なのかとも思ったけど、それにしちゃ符号が揃いすぎてる気がする。それに――」
黒川は一旦言葉を切るともう一度端末に触れた。いくつかの写真を確認しているようだ。やがて沢野の前に一枚の写真を見せた。
それは、沢野も一、二度目にしたことのある顔だった。一度見たら忘れようのない、中性的で柔和な顔立ち。白く優しげな微笑みが、隣にいる男に向けられている。
「この子。ほとんど外に出ないみたいで、写真撮るのにも苦労したよ。それでも前はそれなりに姿を見せていたのに、もうここ一、二ヶ月誰も彼の姿を見ていない。それと前後して、その瞬って男が病院に担ぎ込まれた」
写真の中の悠は、少しやつれて見えた。沢野が写真を撮ったときは、もっと明るい笑顔だったように思う。
「なぁ、沢――」
「暁は、ただのとっかかりだ。鍵は……二人」
「鍵? 何の?」
思わせぶりな言葉を口にして置いて、沢野は押し黙った。テーブルに肘を突き、行儀悪くグラスを爪で弾く。このグラスも、中身は水だった。
「クロ」
「なに」
「お前、今の仕事楽しいか」
「何だよ、急に」
「良いから答えろよ……三流ゴシップ誌で芸能人のちんけなスキャンダルのケツばっかり追いかけ回して。楽しいか」
「うーんまぁ、正直楽しくはない。かな」
「お前なら、それこそ良いとこの雑誌でもブンヤでも、結構いいセン行けるだろうに」
「褒めても写真は消さねーぞ」
黒川はおどけて返したが、沢野はなぜか静かに笑っただけだった。
「何、バカコーアンは自分の仕事に疑問でも持っちゃったの」
「そう言う訳じゃねぇよ」
「やりがいがーとか、自分にあった仕事がーとか言い出すんじゃないだろうな。まさかこの年になって自分探し?」
「ばーか」
そう軽く返すと、沢野は黒川の端末を手に取った。
黒川も敢えて取り返そうとはせず、相手が写真を眺めるのに任せる。
「お前さ、今の仕事に命、賭けられるか」
「命ねぇ。こりゃまた大きく出たね」
だがそれ以上は茶化すことなく、黒川は沢野を見た。
「僕んとこの雑誌は、大抵芸能界がらみのネタの、しかも飛ばし記事なんてざらな三流だけどさ、よくよく追っかけて眺めてると、裏の太い流れみたいなものが見えてくるんだよね」
「流れ?」
「うん。例えばさ、不倫現場写真とか持ち込みがあるわけ。最近顔見なくなったなーっていう女優のね。小物だから安く買いたたかれるんだけど、それはまぁホントのところは顔つなぎでさ。その後にでかいのをどーんと持ち込んでくるんだ。議員が研修と称して行った海外で児童買春しちゃった、とか」
黒川は顔を歪めたが、話し続けた。
「これがまたすっごく良く撮れてんの! 仕込みだろってくらいにね」
沢野の目が眇められた。
「まぁ、十中八九ハメられたんだろうけど。その買春を仲介した男ってのが、ヤクザがらみ」
「……安岡組か」
「ご明察ぅー」
沢野は懐から煙草を出した。黒川は、何も言わず灰皿を押して寄越した。
「最初の不倫写真の女優。そいつの事務所のバックについてるんだよね、そのヤクザがさ。で、ここからは当てずっぽなんだけど。不倫も仕込み。買春も仕込み。議員が仕込みに引っかかって写真撮られて強請られて。それが外に流されちゃったのかな?」
沢野は黒川の挙げたスキャンダルを思い出していた。当時のとある市議会議員が起こした事件だ。当然、安岡組の関与も視野に捜査が進められていたと聞く。だがその後の捜査の進捗はついぞ聞こえてこなかった。
「大手は鼻がきくから、ヤクザの匂いがすると食いつきが悪いんだよね。そこんとこ、三流誌だと臭い餌にも飛びついちゃうわけ。仕事としてどうよってのはあるけど、ある意味面白いよ。みんな欲丸出しで必死に生きてる。僕は、それを笑う気にはなれないな」
「……まぁ、そうだな。それは、分かる」
二人とも、人間の本性が相手の商売だ。立場は違えど、共感出来ることも多いのかもしれない。
「で?」
「……あぁ?」
「僕、合格?」
「……そうだな」
火を付けないままの煙草を指で弄ぶ。
「迷ってんなら、大きなお世話だよ。僕はとうに腹括ってんだからさ」
黒川の言葉に、沢野は苦笑した。
「お前に諭されるとは思わなかった」
「良いから話せよ。僕んとこの雑誌を巻き込みたかったんだろ? それも結構でかいヤマだ。大手だと握りつぶされる。逆にうちくらいならすっぱ抜ける……ってとこじゃねぇの?」
沢野はちらりと旧友を見やった。
「……わかった。明日改めて話そう。追って連絡する」
「念が入ってるなー」
黒川がまた茶化す。だが沢野は真顔で言った。
「お前の身を守るためだ」
*
黒川と別れて店を出てから、反対方向に歩き出す振りをしてしばらく周囲の様子を探る。
黒川にも自分にも、後を尾けたり様子を窺うような輩は見当たらなかった。用心しすぎだろうが、やはり慎重にならざるを得ない。
――現職の副大臣の名前まで出てくるとは思わなかったぜ。
暁の挙げた名前は衝撃的だった。
暁が過去に請け負った『清掃』について記憶を辿らせた中にあったのが、現農水副大臣の名前だった。事件は約一年前に起きていた。時期的に見て、副大臣のポストが目の前にちらついてきた頃に、身辺整理を図ったのだろう。
自殺に見せかけて殺されたのは、不法就労のフィリピン人女性だった。当時の捜査段階ではもちろん、副大臣との接点は何も出ていない。
副大臣には、すでに妻がいた。本人は火遊びのつもりだったのだろうが、相手の女性の方は本気になった。そんなところだろう。
金の流れを追えば研究所に行き着けるかもしれない、と淡い期待を抱く。
研究所側からは無理でも、副大臣の方から攻めればきっとボロは出る。
副大臣の所属する会派は、最近重鎮が死去し水面下での争いが激しさを増している最中だった。副大臣を庇いに来るか、それとも切り捨ててくるだろうか。
――向こうが強硬に出れば、俺の力を使うか。
そうなると残る問題は、どうやって上に副大臣への疑惑の目を向けさせるかだった。
――研究所だの超能力だのを匂わせずに、ガチガチの理論武装と証拠集め……。クソ、めんどくせぇ。
いくつか使えそうな証拠を頭に並べ立てる。カードを切るにしても、順番が肝心だ。
この力を知っているとはいえ、直属の上司でもこの手の話になると酷く疑わしげな――有り体に言ってしまえば、胡散臭そうな目で沢野を見るのが常だった。
そんなときいつも、沢野は言いしれぬ孤独を感じた。
同じ事件を追い、同じ捜査会議に席を並べていても、彼らと沢野の間には深い溝があった。
もちろん、溝を自らが作り出していることは承知している。思春期の子供ではないのだ。周囲の理解が得られないからと言って嘆くような年でもない。
けれど。
ふとした拍子に顔を見せるこの孤独は、長年に渡り沢野を苛み続けてきた。
暁に会いたい。
唐突に、沢野はそう思った。
もしかしたら、彼ならこの孤独を埋められるかもしれない。
沢野は肩をすくめると、口の端に引っかかっていた吸いさしを、きつく噛んだ。
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