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第十章 記憶と忘却 1

 バスン! ドスン!  重い音が地階から聞こえる。  何か重量のある物を殴りつけるような、酷く凶暴な音だ。  真はその音に耳を傾けながら、そちらではなく先に上の階へと足を向けた。東城に挨拶をするためだ。  若い衆に案内され、三階に通される。何度か訪れたことのある部屋では、東城が一人で難しい顔で書類を捲っているところだった。 「失礼します」  真が先に声を掛けた。 「こんにちは」  その声に東城が顔を上げた。すぐに難しい顔を追いやる。 「おぉ、良く来た」 「お忙しいところをお邪魔します」 「あぁ、構わんぞ、瞬坊か?」 「はい。今日お弁当を忘れていったので、持ってきました」  真がにっこりと笑った。 「地下ですよね? なんだか大きな音がしてました」 「あぁ、地下の使っていない部屋に器具を入れたんだ」 「トレーニングマシンとかすごい設備なんだ、って瞬が言ってましたよ。でも、あんな音がする物なんですか?」  人なつこく訊ねる真に、東城の顔も自然と和やかな物になる。 「いや、ありゃぁたぶん、坊が柴に投げ飛ばされている音だろう。今日は柴の身体が空いてなぁ、確か組み手をやると言っていたから……」  東城は言いながら立ち上がった。真を促し部屋を出る。 「ちっと覗いてみるか?」  部屋を出ると、また音が大きく響いた。 「でも、東城さんお仕事中で……」 「逃げる口実を探していたところだったんだ。付き合わせてくれ」  そう言って、東城は小さな真の頭にぽんと手を置いた。  真は一瞬動揺したが、すぐにそれを取り繕った。  彼のテレパシー能力を知った上で、こうして気安く接触をしてくる東城が嬉しくもあり、またどうしても身構えてしまう自分を申し訳なくも思う。  真は、緊張を残さぬよう明るい声で言った。 「逃げ出した先が柴浦さんで、良いんですか?」 「……何か甘い物でも見繕って、坊の差し入れの口実にするか」  憮然とした様子で言う東城に、真は声を上げて笑った。  真達と再会し、何か吹っ切れたように瞬は変わった。  悠の事を一切口にしなくなった。  もちろん、悠を忘れることなど出来ない。  ただひとまず悠の事を頭の隅に追いやって、目の前のことに集中しようと心に決めたのだ。  瞬は最初に笙子の元へ赴き、仕事を辞めた。  迷惑をかけるのは心苦しかったが、仕事をしながらではとても時間が足りない。  そう言って詫びると、笙子は笑って手を振った。 「悪いけど、瞬君を辞めさせるつもりないわよ」 「でも――」 「いーえ、何があっても手放さないわ。休職扱いにしておいてあげるから、全部終わったら必ず戻っていらっしゃい」 「ねえさん」 「悠君が成人したら、二人まとめて雇うつもりなんですからね」  必ず連れ戻せとハッパを掛けられる。 「……ありがとうございます」  瞬は深く頭を下げた。  瞬は笙子の下を辞すとその足で、今度は東城と柴浦の所へやってきた。そして、 「俺を鍛え直して下さい」  と頼み込んだ。  入院して以降、瞬の身体は緩みきっていた。  買い物へ行こうと家を出て、数十メートル程歩いた辺りで息が切れたときに、瞬は愕然とした。  こんな状態で悠を助けることなど到底無理だ。  ただ時期を待つばかりではない。その間に自分にはすべきことがまだたくさんある。  そして利用できるものは利用する。  散々心配や面倒を掛けておいて、その上虫のいい話だと思う。それでも瞬はなりふり構ってなどいられなかった。  瞬の頼みを東城は快諾した。そもそも東城は、頭で考えるより先に身体が動くタイプだ。  ちょうど組の若い衆を鍛え直したいと考えていた矢先だったこともあって、東城は事務所の地下階をトレーニングルームに改造した。  畳のスペースも作り、簡単な組み手や乱取りなども出来るようにした。  その行動のあまりの素早さに、真田ですら苦笑したほどだ。  瞬は真新しい機材を相手に、懸命に身体を作り直し始めた。  ただひたすらに、身体を鍛えることだけに専念する。その姿勢に、やがて周囲の若い者たちも後に続くようになっていた。  ダァン!  ひときわ大きな音が響き、続いて柴浦の声が聞こえた。 「遅い!」 「……っ、ハイ!」 「瞬さんのキモはスピードです。打撃の軽さをスピードと足技でカバーするんです」 「はい」 「もう一度」 「……お願いします!」  二人が部屋の中へ入ったとき、ちょうど瞬が柴浦に飛びかかったところだった。  利き腕の拳でまっすぐに相手の顎を狙う。柴浦はカウンターを狙うように瞬の腕の下をくぐり、自分の腕を伸ばした。その軌道の途中で臂を使い、瞬の腕の動きを外側に逸らす。  だがそれは瞬も承知の上だった。顔をほんの少し左に傾ける。耳元で擦過する拳の音を聞きながら、身体の重心を大きく左に掛けた。  浮き上がった右足をノーステップで振り上げ、柴浦の開いた左脇へと蹴り込む。  柴浦はその足を右手で受けた。同時に引き戻した左腕で瞬の足を絡め取るように拘束する。このままでは、瞬の身体は引き倒されて押さえつけられるか、右拳を打ち込まれて骨を折られる。 「くっ……!」  瞬は腹に力を入れると、左足で床を蹴った。身体が宙に浮く。抱えられたままの右足を軸に、身体を巻き込むように反転させて相手の頭部を狙った。  柴浦は右腕で蹴りを防いだが、瞬はそれに構わず足を振り抜いた。重い衝撃に、足を拘束していた腕が緩む。  足を抜きながら床に落ち、同時に腕の反動で飛び起きると、休む間もなく飛んできた蹴りと顔面への打撃をかいくぐる。  そして柴浦の懐に飛び込み、腹へ左の拳を打ち込んだ。  柴浦がそれを受け止める。だがその時にはすでに、瞬の右手が柴浦の顎めがけて掌底を繰り出していた。 「そこまでッ!」  鋭い声が飛ぶ。  瞬の手が顎にヒットする寸前で、止まった。 「一本取ったな」  東城がにやりと笑って二人を見た。  瞬が、大きく息を吐いた。 「坊はやっぱり筋が良いな。柴も教え甲斐があるだろう」 「そうですね、瞬さんと打ち合うと、己の未熟なところがよく見えてきます」 「柴さん……!」  瞬が青い顔で言葉を遮ると、東城が愉快そうに笑った。  それを見て揶揄われたと思ったのだろう。悄然と肩を落とす瞬の頭を、東城がぐりぐりと撫で回した。 「おいおい、俺は本気で褒めたんだぞ? なぁ、柴」 「私も若頭も、冗談は言いませんよ」  柴浦は、真から差し出された茶を笑顔で受け取ると、一口含んで言った。 「瞬さんは武道を習っていない。それが強みなんです」 「……?」  柴浦の言葉の後を、東城が受けた。 「今の武道は言ってみりゃスポーツだ。プロや大会に出るようなレベルならともかく、通り一遍習った程度だとな、攻撃の型が出来ちまうんだ。相手がこう打ってきたらこう受ける。そうするとここで足が出るから、それをこう受ける……ってな。言い換えりゃ常道、つーか、セオリーって奴か」 「勝負事ならセオリーも大事です。ただ、我々の目的は、勝ち負けではない。常に勝つことですから」  柴浦は微笑んで瞬を見た。 「瞬さんは、セオリーを知らなくても相手の攻撃に反応できる。そして理屈を無視した攻撃を繰り出せる。意表を突いて、相手を倒すことが出来る。若頭がおっしゃった『筋が良い』とはそう言うことです」 「……」  瞬は青かった頬をさっと朱に染めて俯いた。真と並んで座っていると、やはりちょっとした仕草の中に幼さを感じる。 「瞬さん?」 「……褒められてる、んだとは思うけど、やっぱり納得できないです。なんか……行き当たりばったりの攻撃が偶然当たってるみたいで」  しょげ返る様子に、思わず忍び笑いが漏れそうになって、柴浦は顔を引き締めた。 「とはいえ、相手の攻撃のパターンを頭に叩き込んでおくのも大切なことです。予測が容易になりますからね」  ふと、瞬はなぜ自分の最後の攻撃が柴浦に通ったのかを理解した。  柴浦はわざと、その理屈に則って攻撃を仕掛けていたのだ。  自分には足りないものだらけだ。腕力も、スピードも。経験もない。あるのは馬鹿正直な熱意と根性ぐらいだろうか。  それでも今は、持たないものを嘆いている暇はない。ただひたすらに、少しでも強くなるための努力を重ねるだけだ。  瞬は一度目を閉じ、深く呼吸を繰り返すと思い切り頬を叩いた。高らかな音と鋭い痛みに、身が引き締まる。  そしてその眼にまた強い光を宿すと、瞬は立ち上がった。 「柴さん、続きをお願いします」  柴浦もまた、頷いて立ち上がった。 「なんだか……」  真がぽつりと言った。 「こんな状況だけど、二人とも、なんだか嬉しそうに見えます」 「……そうだな」  東城は再び組み手を始めた二人を眺めながら頷いた。  瞬は柴浦を師として、兄として慕い、柴浦は瞬を弟のように可愛がっている。  孤独だった二人にとって、嬉しくないはずがないだろう。  ――こんないい顔している二人を見られねぇなんて、大損してるんだぞ。  東城は胸の内で、この場にいない少年を思った。   悠の遺伝子を組み込んだ兵隊が、どれほどの人数で研究所を守っているのか。  彼らを使って一体何が行われようとしているのか。相手の思惑が一向に見えず、焦る気持ちも確かにある。  だがこうして、日一日と強くなって行く瞬を見ていると、不思議と心は落ち着きを取り戻していった。  瞬は存分に強くなれる。そして柴浦が居る。自分も居る。自分の後ろには真田が控えている。  これ以上心強いことがあるだろうか? この仲間で悠を助け出せないはずがない。  ――もう少しの辛抱だ。  もうすぐだ。もうすぐ、コトは動き始める。 *  毎日の過酷なトレーニングは、瞬を心地よく痛めつけた。  身体は悲鳴を上げていたが、苦痛ではない。いつか必ず乗り越えられる痛みと分かっていたからだ。  休息も身体を作るのには大事なのだから、家でのトレーニングはしばらく禁止だと、柴浦にきつく言い渡されている。  それに、家に帰ってゆっくり湯船に浸かると、緊張から解放された筋肉が先に休息を求めた。  とてもこれ以上は出来そうもない。  風呂場からベッドへ直行する毎日が続いていた。  そんなある日のことだった。  事務所から帰宅後、夕食もそこそこにベッドへ沈み込んだ瞬は、すぐに浅い眠りに引きずり込まれた。  遠くから食器を洗う水音がかすかに聞こえてくる。  そういえば、こんな風に離れたところから生活音を聞くことはほとんどなかった。  家にいる時間はいつも悠の側にいた。家事をしている悠の傍らに立って他愛のない話を喋ったり、手伝っているのか邪魔をしているのか分からないと叱られたり。  そのときの困ったような、それでいて少し嬉しそうな悠の表情を思い出して、また瞬の胸がきりきりと痛んだ。  悠のことを考えると、今でもこんな風に心が激しく乱れる。  隣のベッドで眠る人の気配に、夜中に飛び起きて抱き寄せそうになる。  すんでの所で、それが真である事を思い出し、弾む心臓を押さえつけたことも数え切れない。  ――……君に会いたい。  悠のことを考え始めてしまったせいだろうか。  今日はなかなか深い眠りに落ちることが出来ない。  身体は疲れ切っているのに、頭は浅瀬を行きつ戻りつしながら、夢のような現実のような中を漂っている。  と、ふと瞬の身体が重くなった。  あぁこれで眠れる。そう思ったとき。  瞬の目の前に、ある光景が広がった。  禿げた畳が間近に見える。  触れると固くて、ちくちく肌を刺した。  畳の上に寝るなんて久しぶりだな、と瞬は思ったが、すぐに違和感を覚えて自分の手をじっと見つめた。  自分は今、どこにいる?  横たわったまま視線を周囲に走らせると、どこか見覚えのある扉や棚が目に入った。  この光景が何だったのか。記憶を辿ってすぐ、瞬はそれに思い至った。  ――研究所、だ。  作り付けの棚に白い壁。浮き出たシミの形。窓に掛かるカーテン。全てが記憶の中のあの部屋と一致する。  だがよくよく見れば、どこもかしこもうっすらと埃をかぶっている。  カーテンは、灼けて薄く灰色がかっているようだ。  まるで、あれから年月を経たような……。  ――違う、今の研究所だ。  瞬は思わず起き上がった。そして、ゆっくり後ろを振り向いた。  目の前に、白く小さな身体が横たわっている。  こちらに背を向け、顔を見ることは出来ない。  瞬は恐る恐るその人に手を伸ばした。  細くぱさついた髪は、最後に見たときより幾分伸びて見える。  肩から下は布団が掛けられていて判別できない。  ――これは、夢?  今すぐこの人に触れたい。肩を掴んでこちらを向かせたい。  ――夢なら、覚めるな。  息苦しくなるほど心臓が激しく打つ。伸ばした手の、指先がぶるぶると震える。  ――覚めないでくれ。 「……悠」  喉から漏れた声は、自分の物とは思えないほど掠れていた。  だがそれで瞬の身体の呪縛が解けた。指がようやく、その人の肩に触れる。  軽く力を込めると、相手の身体は抵抗することなくゆっくりとこちらを向いた。  ……あぁ。  恋い焦がれた顔がそこにあった。  目は固く閉じられている。  瞬は、その頬にゆっくりと手を滑らせ、詰めていた息を吐いた。  肉のそげ落ちた輪郭は、触れると骨の感触が指に生々しい。  透けるように青白く、それなのに肌は熱を持っていた。そのまま唇に触れると、やはり熱を含んだ吐息が指に掛かる。  唇は水分を失ってひび割れ、皮が剥けていた。  これだけ遠慮なく触れているのに、悠は目を開けない。  ――熱も、触れた感覚もある。  以前聞きかじった知識が頭を過ぎる。  ――確か、明晰夢、とか……。  しかし、それにしては辺りの情景も悠も、あまりにもクリアだ。  悠の髪に顔を埋めて息を吸い込むと、ツンと消毒液の匂いがした。  悠の腕にある点滴の針に、瞬は気付いていた。  管は繋がれていない。ただ、針だけが腕に刺さったまま固定されている。  薬剤を入れ続けるための措置だろう。その事実に思い至って、瞬は身を引き絞られるような痛みを覚えた。 「悠……ユウ……」  ただひたすらに、名を呼ぶ。  これが夢だというなら、このまま悠を攫っていきたい。怖いものなど何もない世界へ連れ去ってしまいたい。 「もうすぐだよ、もうすぐ助けに行くから」  どうか諦めないでいてくれ。  祈るような気持ちで、眠り続ける悠に語りかける。 「絶対に助ける」  これはきっと、自分の願望が作り出した都合の良い夢なのだろう。  伝える術のない決意を形にしたくて、こうして悠の幻影を生み出したのだろう。  そう思いながらも、瞬は言葉にせずにはいられなかった。 「だから、悠も俺を信じて、待っていて」  瞬は横たわる悠に覆い被さると、ゆっくりとその頬に唇を寄せた。 「俺は、君と共に生きたい」  囁くような小声で、けれどはっきりと瞬は言葉を紡いだ。 「愛してる」  耳元で呟くと、瞬はそのまま目を閉じ、悠の唇に己の唇を重ねた。  悠の閉じられたままの目から一筋涙がこぼれたことに、瞬は気付かなかった。  瞬は、びくりと身を震わせた衝撃で目を開けた。  咄嗟に、自分がどこにいるのか分からない。  鼓動が酷く早く打ち付け、息が上がっている。周囲は暗く、それでようやく今が夜であることに気付いた。  背には柔らかな布の感触がある。ベッドだ。固い畳ではない。  瞬は、一つ大きく息を吐いた。  隣に眠るのは真だ。  つい今し方の、やけにはっきりとした悠の感触を思い出し、瞬はその手を唇に当てた。  ただの夢だと片付けるには、あまりにも生々しい映像だった。  否、あれは本当にただの夢なのだろうか。  痩せ衰えた悠の様子や、治療の跡。そして、あの部屋の有様。瞬の想像の範囲を超えたあれが、もし実際の映像だったとしたら。  そう考えるに至って、瞬の身体から突然冷や汗が噴き出した。  不可思議な現象に関して、彼らの力は未知数だ。  瞬は、隣で眠る真を見遣った。小さく寝息を立てて眠る彼の、テレパシー能力が触媒になって、瞬に千里眼の力を発動させたのかもしれない。  そんな可能性まで考えてしまう。  瞬は目を閉じると、指で強く瞼を押した。悠の痛々しい姿が目に焼き付いて離れてくれない。  瞬はもう一度息を吐くと、ベッドから滑り出た。今夜はもう眠れそうにない。  クローゼットから静かにトレーニングウェアを取り出すと、枕元の時計を一瞥してから部屋を出た。  何も考えられなくなるまで、無心に走りたかった。

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