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第十章 記憶と忘却 2
暁に悠との接触を禁じたことを神崎に伝えると、彼はあざけるような笑みを浮かべて小野寺を見た。
「私に断りなく指示を出すとは、偉くなったものだ」
「あのままでは悠の身体に重篤な支障が出る。それくらいお前にも分かるだろう」
あくまでも強気に答える。
「悠の症状が悪化すれば、お前も困るだろうが」
「……」
神崎はすぐには答えず、手元のカルテを捲った。
「お前の所見は」
「栄養失調と嘔吐による低カリウム血症。錯乱。記憶障害。足首の傷は化膿している。抗生剤は投与済みだが、白血球数の急激な増加が見られる。危険な状態だ」
「点滴は」
「血管が保たない。輸液を入れているが、生命活動を維持するので精一杯だ」
「今入れているのは3号液か? 次から高カロリー輸液に代えろ」
「血管が保たないと言っているだろう!」
「鎖骨下静脈から入れろ」
「……な、この状況で、敗血症のリスクを……」
「承知している」
「あんな不衛生な部屋で、そこまでの危険を冒すことは出来ない!」
小野寺が声を荒げる。だが、それでも神崎は態度を変えなかった。
「私は、やれと言っている」
「お前、悠を生かしておきたいんじゃないのか」
情に訴えようとする小野寺の言葉も、神崎の前では無意味だった。
薬剤の名前を記した書面の下にサインを書き加え、神崎は小野寺を傲然と見下ろした。
「お前は、目的と手段を取り違えている」
「……」
「あれを生かしておくのは、あくまでも手段だ。それが目的ではない」
「なっ……、お前、そんなことまでして、まだお前の兄貴を――」
小野寺がその言葉を口にした途端、神崎の形相が変わった。
激しい憎悪を募らせ、小野寺を睨め付ける。
「貴様には学習能力がないのか」
そう言うと同時に、神崎の腕が小野寺に襲いかかった。大きな手が、彼の喉をひとつかみにする。
「う、ぐは……っ」
皮膚に爪を立て、喉笛を引きちぎるように締め上げる。
「あの人のことに口を出すことは、誰であろうと許さん」
いつもの冷酷な仮面を脱ぎ捨て、歯を剥き出しにした神崎の形相に、小野寺はふと笑い出した。
喉を絞められ呼吸もままならないのに、噎せるような忍び笑いが漏れる。
神崎が、興を削がれたように眉を顰めた。
……滑稽だった。ただ滑稽だとしか思えなかった。
あれからもう二十年近くが経とうというのに、目の前の男も、そして自分も何一つ成長していない。
神崎は兄への異常な執着を捨てていないし、自分はそんな神崎から逃げようとしない。
そうだ、逃げようとしていないのだ。
――俺は結局、自分の意志でここにいる。
「ふふっ、くくく……」
神崎は、黙ったまま小野寺から手を離した。
小野寺はふらついてその場に腰を落とした。だが、咳き込みながらも笑い声を止める事は出来なかった。
「いい加減、その馬鹿笑いをやめろ」
「――くく……、こんな、ガキの茶番、笑わずにいられるか。なぁ、義隆」
神崎の眉がぴくりと跳ねた。
「お前まだ、兄貴を作るのを諦めてないのか」
それは小野寺が、過去に口にしたものと全く同じ問いだった。
*
神崎から受けた暴行は、癒えるのに数ヶ月を要した。
一人暮らしでの自宅療養には限界があった。少し良くなっては無理をしてぶり返し、ついには医者に『この次熱が出たら強制入院』とまで脅されて、結局最後の一ヶ月ほど、休学して自宅のベッドとトイレを往復するだけの毎日を送った。
食欲が戻り、ふらつくことなく歩けるようになって、ようやく小野寺は学校に戻った。
大学時代の恩師から連絡があったのは、折しもそんな日の夜だった。
卒業してから数年が経つ大学へ、小野寺はやってきた。
それほど時間は経っていないのに、なぜかキャンパスの空気はよそよそしく感じられる。
緊張しているせいだろうと、小野寺は思った。
昨夜掛かってきた電話を受けてから、妙な緊張が腹の底に溜まっている。
教授は用件を言わなかった。ただ話があるから来てくれと言っただけだった。
体調不良を理由に断っても良かったのに、小野寺はそうしなかった。なにか予感めいたものがあったからかもしれない。
教授の部屋の扉をノックすると、すぐに中から返事が返される。
彼は懐かしい部屋へと足を踏み入れた。
「やぁ、お呼びだてしてすまなかったね」
初老の教授は、にこやかに、しかしどこか上の空の様子で言葉を掛けてきた。
「いえ、卒業してからご無沙汰をしてしまいました」
互いのよそよそしい挨拶を皮切りに、しばらくは近況報告などが続く。
相変わらず続く緊張のせいか、体調が万全でないせいか、額にぬるついた汗が浮かんだ。それを手で拭うと、教授がそれに気付いて気遣わしげな視線を向けた。
「顔色が悪いようだが」
「しばらく寝込んでいたもので……」
教授は小野寺の顔をじっと見つめていたが、やがて言った。
「小野寺君、君、遺伝子工学研究科の神崎義隆君と親しかったよね」
そのとき、もしかしたらびくりと身体が強張ってしまったかもしれない。
小野寺は、教授の顔を凝視したまま咄嗟に返事が出来なかった。だがそれを相手は何か都合良く解釈したようだった。
教授は立ち上がると、部屋の隅のコーヒーメイカーからコーヒーを注いで小野寺の前に置いた。
「すまない、病み上がりの君にこんな話をしたものだろうかと思ったが、その様子ではもうあの話は耳に入っているようだね」
あの話、とは何なのか。小野寺は聞き返そうかと思ったが、思い直して口を噤んだまま、肯定とも否定ともとれるような曖昧な様子で首を傾げて見せた。
「大丈夫だよ、君が例の件で彼と関わっていたとは誰も思っていない。あれは彼の独断のようだからね。ただ、君が彼からどこまで話を聞いていたか、それによっては、固く口止めしておかねばならない」
あれ、とか、例の、と言うばかりで、教授は具体的な言葉を出さない。
小野寺は慎重に言葉を選びつつ、話を合わせた。
「僕と彼とは、何度か飲み会で顔を合わせただけで、それほど親しい付き合いはありませんでした。ですから、今回のことも、風の噂で耳にしただけです」
「うわさ、とは?」
教授が聞き返す。存外強かな人物だ。
「いえ。それもただ、彼が何かとんでもない事をしでかした、と言う程度で」
「……箝口令は敷いたんだけどねぇ」
「人の口に戸は立てられませんから」
「君は案外古風な物言いをするね」
そう言って、教授は笑った。
「まぁいい。君は何か聞かれたら、その調子で答えておきなさい」
「彼は、何をやったんですか」
「……知らない方が良い」
そう言った教授の顔は、既に笑っていなかった。
「誰に聞かれると言うんですか」
「うちの学校関係者から色々聞かれるかもしれないね。後はまぁ」
それきり、教授は黙ってしまった。顎を指でゆっくりと撫でている。
「……マスコミ、ですか」
小野寺が言うと、教授は驚いたように目の前の青年を見た。その表情が、事態を全て物語っていた。
神崎が何をしたのか、具体的な事は分からない。だが、外部に漏れれば大学を巻き込むとんでもない事態になるのだろう。
しかも、神崎の義父は学部長だ。
「彼にはアメリカの提携校へ行って貰うことになったよ。ほとぼりが冷めた頃に自主退学と言うことになるだろう。まぁ、博士号はもう取っているから問題は無かろうがね」
小野寺は、もう一度曖昧に頷いた。
最初、小野寺は自分たちの関係がばれたのではないかと思った。ただの不倫関係ではない。いくらプライベートな問題とは言え、それなりに大事になるだろうと覚悟もした。
だが、話の成り行きからしてどうも神崎の大学での所行が問題視されているようだ。
大学……研究――。神崎の専攻は、遺伝子を扱う……。
ふと、小野寺はあの暴行を受けた日のことを思い出した。
異様なほどぎらついた目をしていた神崎。
あの日核心にあったのは、何だった? あの男の行動を支配している根源は何だ?
神崎の異常な執着は全て彼の兄に向けられていた。
死んだ兄の遺体を隠して……、それからどうする?
唐突に、小野寺の頭にある一つの仮説が浮かんだ。薄気味の悪い想像に、すぐにそれを打ち消す。
だが、その考えを完全に忘れてしまうには、彼はあまりにも多くのことを知りすぎていた。
「彼の……」
「うん?」
「アメリカに行くというのなら、神崎君の奥さんは――」
その時、教授の顔に走ったのは嫌悪だった。
「さぁ、それは彼の個人的な問題だから、私も関知しないよ」
そう言うと、教授は小野寺から視線を逸らして、目の前の冷めた珈琲を口に含んだ。
「君は学部も違う、年も違う卒業生だ。君にまで累が及ぶことはないだろうが……」
「はい」
「行動には十分に気をつけなさい」
小野寺は、教授を見た。要らぬ好奇心は捨てろというのだろう。
その忠告はきっと無駄だと思いながら、小野寺は頷いた。
*
こちらから連絡はしなかった。
怒りや恐怖の奥にわずかに残る、思慕。
小野寺は相変わらず自分の感情に名前を付けることが出来ずにいた。
神崎は何か重大なタブーを犯した。その正体を知りたいと思い、知りたくないとも思う。
このままもう二度と会うこともなく終わってくれれば、自分は平穏な人生を送ることが出来る。
思い返せば、神崎に出会う前はごく平凡な、容易に将来が想像できる毎日だった。
それがあの男が現れて激変した。
あの男に翻弄され続けた。
傍らに放り出していた電話が、着信を告げた。
――出るな。
思わず伸ばしかけた手を、別の自分が叱りつける。
――出なければ、あの男との関係は終わる。普通の人生に戻れる。
常識を振りかざす理性が感情を押しとどめる。
だが小野寺は、電話を手に取った。
通話ボタンを押す。
すぐに、向こうから傲慢な声が聞こえてきた。
「今から言う場所に来い。今すぐだ」
*
とろとろとした眠りから覚めて、悠はゆっくりと眼を開けた。
浅い眠りだったが、薬を使ったものでなかったためか、案外頭はすっきりとしている。
少し身体を動かすと、すっかり馴染みになってしまった鈍痛があった。足はもう感覚もなく、動かない。
悠は布団の上で上体を起こし、掛け布団を除けて足首の傷を見た。
丁寧に貼られたガーゼを剥がそうとして、一瞬躊躇う。
いくら自分の傷とは言え、やはり見て気分の良いものではない。
悠はガーゼの上から軽く傷に触れた。
踵から上へ、細く張りのある筋が通っている。腱が再生しているのだ。
また切られるのかと、我知らず身体が震えた。
小野寺が面倒を見るようになってから、悠の体は小康状態を保っていた。
栄養を定期的に入れられ、睡眠が浅ければ薬を投与される。
そして何より、気遣ってくれる人間がいつも傍らにあり、ちょっとしたことで声を掛けてくれる。そんなささやかな安らぎが身も心も軽くしていた。
だが、ここが研究所である事に変わりはない。
いくら小野寺が庇っても、所長の命令は絶対だ。所長が気まぐれ一つ起こすだけで、悠の命は簡単に吹き消されてしまう。
急に疲労を感じ、悠は目を閉じた。頭がくらくらと揺れる。
そのときだった。
身体の末端がぞわりとさざめいた。
それは細かな痙攣のように始まり、あっという間に上へと駆け上がってくる。
強烈な不快感が全身を覆った。痛みはない。だが、不意に意識が混濁した。
魂が離れて行くような、身体がバラバラに解けて行きそうな危うい感覚。そしてその奥から隙を窺い、今にも溢れ出ようとする何か。
「あ……」
悠の脳裏に蘇ったのは、あの松永の最期だった。
治癒能力の酷使によって、細胞をつなぎ止めていた力まで使い果たし、ついには砕け散ってしまったあの姿が嫌でも思い出される。
「だめ……」
思わず悠は、自分の体を抱きしめるように掴んだ。心臓が破裂しそうなほど強く鼓動する。
――まだだ、まだその時じゃない……!
全身から冷や汗が吹き出す。奥歯を噛み締め、悠は更に身体を小さく縮こめた。
――ダメだ! ダメだ! 出てくるな!
必死に意識を保とうとするが、少し油断するとすぐに、波に攫われるように気が遠くなる。
――頼むから、もう少しだけ……。もう少しだけ保って……!
足首の傷に手を伸ばそうとしたが、言うことを効かない身体はそれすらも叶わない。
悠は唇にきつく歯を立てた。
柔らかな粘膜がぷつりと切れ、鋭い痛みと共に鉄臭い血の味がどっと口中に溢れる。
その刺激で、少し頭のもやが晴れた。
緩く頭を振ると、唾液と共に血が口端から溢れ出てくる。それを流れるに任せ、腕に爪を立てた。
傷つき、動くことすらままならないこの重い身体を脱ぎ捨ててしまいたいという、甘い誘惑が彼を手招きする。
今死んでしまえたらどんなに楽だろう。
もう十分だ。僕はもう十分に抗ったじゃないか。
そんな言葉が耳元に聞こえる。
――でもそれは今じゃない。死ぬのはいつだって出来る。
「悠!」
突然、ひどくきしる耳障りな音と共に、名を呼ばれた。
「どうした、苦しいのか」
力強い腕に肩を抱かれ、人肌の暖かさを感じる。
「あぁ、口を切ったのか。血は飲むなよ……」
口内の傷にガーゼを宛がわれ、そのままその腕の中に抱き込まれた。
「息をしろ、ゆっくり……そうだ、良い子だ……」
背中をゆっくりとさすられる。その動きに合わせて、忘れていた呼吸を思い出した。
短く浅い呼吸を繰り返し、徐々に動悸が収まってくる。先ほどまでの不快感と体内のざわめきがようやく静まり、悠は全身の緊張を解いた。
それが小野寺にも伝わったのだろう。肩を抱く力が少し緩む。
だが回された手はそのままに、まるで赤ん坊をあやすように、とん、とんと背中をゆっくり叩かれた。
ゆったりと繰り返されるリズムが、悠の身体を更に弛緩させる。
「横になるか?」
小さく訊かれる問いに、悠は首を振った。もう少しこのままでいたい。
悠は顔を上げると、小野寺を見て微笑んだ。
「……ありがとう」
押し出された言葉に、小野寺の顔が歪む。
痛みを堪えるように息を呑み、やがて声を震わせて言った。
「ごめんな」
突然の謝罪に、驚いて顔を起こす。だがその前に小野寺は、悠を深く優しく抱き込んだ。
「助けてやれなくて、ごめん……ごめん」
「……ううん。そんなの、いい」
不規則な振動が、小野寺の胸から伝わって直接悠の頬を震わせる。
「小野寺さんには、いっぱい、いっぱい助けてもらったよ?」
「こんなの、助けた内に入るかよ」
「それでも……ねぇ、泣かないで」
悠の頬に、上からぽたりと、温かい雫が落ちてきた。
「……ごめんなぁ」
悠は、小野寺に手を伸ばそうとして、その筋力すら既に失われていることに気付いた。悠は諦めてその胸に額を摺り寄せた。
「本当だよ。あなたのおかげで、僕は今、生きながらえてる」
「……そんなこと、言わんでくれ」
すん、と鼻を啜る音がする。
「お前さんを逃がしてやりたいよ。こんな所で、奴のわがままに付き合って死ぬことなんかないんだ」
その口ぶりで、小野寺と所長がただの上司と部下という関係ではないのだろう、と思い至る。
そういえば二人とも年が近いようにも見える。きっと何か浅からぬ因縁があるのだろうと、悠はぼんやりと思った。
「嬢ちゃん? どうした、まだ苦しいか?」
胸に押し当てた頬から、胸の鼓動を直接感じる。声帯の震えるのを感じる。
「悠?」
抱きしめられる腕の力強さに、ふと、瞬のことを思い出しそうになって、悠は固く目を閉じた。
暁が悠から離れ、代わりに小野寺がこの部屋に居るようになって、ようやく悠の心は均衡を得た。
だがそれと同時に、瞬との睦事が暁の与えた幻であったことも理解してしまった。
暁を恨む気持ちはどこにもない。
逆に暁に恨まれても仕方ないとさえ思う。それほど、偽りの瞬との逢瀬は幸せだった。
もう一度瞬に会えるのなら、暁を利用しても構わないとさえ思う。
自分はなんと傲慢で臆病な人間なのだろう。ぽろぽろと大事なものが抜け落ちていって、最後にこの身に残ったのは欲ばかりだ。
会いたい。
会いたい。
「……瞬に、会いたい」
夢でも幻でもいい。
自分が最期を迎えるとき、一目君に会えたら、僕は笑って逝ける。
監視カメラに拾われるのを恐れた小声は、小野寺の耳にだけ届いた。
小野寺は何も言わず、ただ全てのものから悠を覆い隠すように、彼を抱きしめ続けた。
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