52 / 60

第十章 記憶と忘却 3

 小野寺が駅へ降り立つのを見ていたかのように、携帯電話が震えた。  メールだった。そこからの道程が事細かに指示してある。  ……ここに来るまで何度も引き返そうと思った。  今こうしてこの場所にいてなお、足は先への一歩を踏み出そうとしない。  だが、そんな小野寺の背を押すように再びメールが送られてきた。 『目立つ行動をするな』  人の流れに逆らって立ち尽くす彼を、どこかから見ているのだろうか。  小野寺は辺りを見回したくなる気持ちをぐっと堪え、ようやく足を動かし始めた。  タクシーは使うなと釘を刺され、バスと徒歩でその山の麓にたどり着いた。  丘と言うには高く、山と呼ぶには少々低いような気がするが、神崎はここを確かに山だと書いて寄越した。  人が二人並んで歩ける程の舗装された道が上へと続いているものの、ひどくがたついた表面を見ると、この道もどこまで続いているか怪しい。  申し訳程度に置かれているガードフェンスは、錆びが浮いて黒色がほとんど剥げ落ちていた。一部は倒れ、一部は完全に壊れている。  小野寺は念のため、周囲に視線を配ると、フェンスの隙間から中へと入った。  それからどれほど歩いただろう。  勾配は相変わらず緩やかだが、どこまでもだらだらと続いてかえって疲労が増す。  鬱蒼と生い茂る木々は密生し、見上げても光をあまり感じない。  とうの昔に舗装路は途絶えていた。今足下にあるのは石ころだらけの荒れた道だ。  それでもまだ道があるだけマシだろうか。  時折足を止めて息を吐く。歩き続ける内、頭の中は空っぽになってゆく。  そうして青臭い緑の匂いにも慣れてきた頃、小野寺は不意に開けた場所に出た。  それほど広くはない平らな土地の、その奥まった場所に、古い建物が建っている。  周囲を木々に囲まれ、おそらく山の外側からは建物の存在など全く分からないだろう。  三階建てと思しき建物は、コンクリートの外壁が剥き出しになっている。  はめ込まれたガラスは割れ、外壁に這う蔦の枯れた痕と、コンクリートに深く刻まれたヒビが、建物の過ごした年月を示していた。  辺りに漂う、湿った建物の匂いが鼻につく。カビと埃、土いきれと、枯れ葉の腐臭。そして……。  僅かに鼻腔に残る匂いの正体に思考が沈むより前に、目の前の建物の入り口で動く影を目が捕らえた。  ぎくりと身体が強張る。 「良く来た」  神崎が、勝ち誇った笑顔で小野寺を出迎えた。 *  神崎は小野寺を連れて建物の中へ入った。  外から見た通り、建物は痛みが激しく一部は壁が崩れていた。  床には埃や土が厚く積もり、湿気で固くなっている。窓ガラスは殆どが割れてなくなっていた。  廃墟としか言いようのない状況で、神崎の足は上の階へと向かっていた。 「大丈夫なのか」  初めて小野寺が言った。 「何がだ」 「上の階、崩れねぇの」 「大丈夫だ。戦前の建物だから、骨格は頑丈だ」  戦前、と言われて改めてその古さを思い知る。  二人は三階まで階段を上りきると、廊下を辿って一番奥の部屋へと入った。  その部屋だけは、当時の面影を残していた。  格子の填った窓は、ガラスも健在だ。無粋な鉄格子ではなく、瀟洒な洋館を思わせる繊細なデザインが小野寺の目を引いた。  中央に皮革のはめ込まれた重厚な洋机が、部屋の隅に鎮座している。細工の施された足の様子と言い、この部屋を使っていたのがそれなりの地位の人間だったことを物語っている。  神崎は勝手知ったる様子で部屋の隅へと歩いて行くと、何のためらいもなく足下の壁を蹴りつけた。  と、突然、部屋の左手からがたりと大きな音がした。小野寺が慌ててそちらを見る。  つい今し方までただの壁だったところに、大きく四角い穴が開いている。 「……隠し扉?」 「あぁ」  神崎は短く答えると、壁の穴をくぐった。無論、小野寺もついて行かねばならないのだろう。  小野寺が穴をくぐると、そこは人一人が肩を擦りそうなほどの幅の空間があった。音が下へと反響する。 「階段だ」  前方で揺れる灯りがある。神崎が懐中電灯で足下を照らしているのだ。 「これで地下まで降りる。離れると、転げ落ちるぞ」  そう言って、神崎は壁のスイッチを押した。ごりごりと砂を噛むような音と共に穴が閉じる。  あとは、真っ暗闇の隙間が奈落の底まで続くばかりだ。  小野寺はごくりと唾を飲み込むと、神崎の後に続いた。  幸いなことに、階段はそれほど長くは続かなかった。  ぐいぐいと目を押しつけるような暗闇が、ふと和らぐ。  空気が変わった、と感じたとき、急に目の前が明るくなった。  咄嗟に眼を細め、神崎の姿を追う。彼が明かりを点けたのだろう。  ロビーのような少し開けた場所で、神崎が壁のスイッチに触れながら小野寺を見ていた。 「こっちだ」  神崎が歩を進める方向に、蛍光灯が明滅する廊下が延びている。  それとは別の方向にも二本、廊下が延びているがそちらには明かりが灯っていない。  明らかに地下と思しきフロアだが、一体どれほどの広さに広がっているのだろう。 「おい」  やや離れた所から神崎が声を掛けた。慌てて後を追う。  神崎は突き当たりの扉の前で小野寺を待っていた。 「お前に、見せてやるよ」 「……」  なにを、とは聞かなかった。  扉のノブに手を掛けたまま、神崎は小野寺を見た。 「何があるか予想は付いてるって顔だな」 「……まぁな」  その返事を聞いて、神崎は扉を押し開いた。  部屋は広かった。  照明の光度は落としてあったが、視界に不自由はない。  磨き上げられた硬質なタイルが床を覆い、天井の明かりを反射しているのだ。  部屋の中央には、直方体の物体が横たわっていた。  咄嗟に小野寺は、棺桶のようだ、と思った。  その《棺桶》は大仰な機械に繋がれている。コードやチューブ、ダクト類が双方を結びつけていた。  やがて小野寺の耳に、低い虫の羽音のような音が届き始めた。  目の前の物体が機械だと認識したところで、耳が音を拾い上げたのだ。  低く唸り続ける音で、ようやく彼は、この機械が稼働中なのだ、という事実に思い至った。  神崎はゆっくりとその《棺桶》に近づいてゆく。  小野寺に何も言わないところを見ると、付いてこいと言うことなのだろう。  彼もまた静かに歩を進めた。  目の前の物体は、大きかった。成人男性の身長の1.5倍ほどだろうか。  金属製のカプセルのような、ほとんど継ぎ目のない構造だ。  そして、ちょうど実際の棺桶と同じような位置に、小さな窓が一つ開いていた。  それだけを見て取ると、小野寺は顔を上げて神崎を見た。まだ窓から中を覗く勇気はない。  だが、神崎は口の端に笑みを乗せて小野寺を見た。鋭い眼光が相手を射貫く。神崎は無言で先の行為を促した。  小野寺は腹の底から勇気を振り絞ると、今一歩《棺桶》に歩み寄った。  窓から中を覗き込む。 「……あぁ……」  そこにあったのは、予想通り、自分と同じ顔をした遺体だった。 「……死んでる、のか?」 「あぁ」 「冷凍睡眠、とか」 「SFだな。まだそこまでの技術はない」  小野寺はまじまじとその顔を見ながら、神崎に訊いた。 「でもこれ、冷凍しているんだろ」 「細胞をな」 「さい、ぼう?」 「お前、俺が何をやったか、聞いたんだろう?」  小野寺は棺桶から視線を外し、神崎を見た。 「大学が大騒ぎになってる」 「だろうな」  小野寺は言葉を続けようと口を開いたが、一瞬躊躇った。  それを見て神崎が笑った。 「言えよ」 「……」 「お前が口にしようがしまいが、事実は変わらない」 「……訊けば、答えるのか」 「あぁ、全部答えてやる」  そう言うと神崎は腕を組み、背後の機械にゆったりと凭れた。 「どうぞ」 「この人が、お前の兄貴か」 「そうだ」 「亡くなってすぐに冷凍したのか」 「あぁ」 「ここは?」 「おそらくは、日本軍の研究施設だったんだろう。表向きは当たり障りのない役所の分室か何かを装っていたようだな。実際は敵兵捕虜の人体実験でもやっていたんだろうよ」 「何でお前がそんなこと知ってるんだ」 「俺の曾祖父がこの建物の設計に関わっていたらしい。母方の郷里の倉庫にここの図面を見つけた。こんなボロ屋だ。買い取るのは簡単だったよ」  淀みなく答えていた神崎が、にやりと笑った。 「で? 核心に触れないのか?」 「……っ」  神崎は笑みを絶やさない。 「お前、何をしたんだ」 「あれ? センパイはお見通しだったんじゃないですか?」 「茶化すな! 教授もビビって口にしなかったんだぞ!」 「へぇ、クローンを作るのがそんなに怖いのか?」  神崎がさらりと口にした。その瞬間、小野寺の背筋にぞっと冷たい物が駆け抜けた。  研究室で話を聞いてから、半ば予想はしていた。だが認めるのが恐ろしかった。 「クローン胚を作ったのか」 「作った」 「……」 「もちろん、使ったよ」  神崎の白い歯が、めくれ上がった唇から覗いた。 「使っ……」  小野寺は目を見開いた。瞬きすら忘れて神崎を見る。 「だ」 「誰に? もちろん妻に、さ」  小野寺の表情に嗜虐心を煽られたのだろう。神崎の顔が愉悦に歪んだ。 「俺は自分の子など欲しくなかったが、妻は欲しがった。だから俺はまずパイプカットをしたよ。それから妻との性行為に及んだ。当然妊娠はしないな。それから彼女を煽って、不妊治療に誘導した。俺の言うなりになる医者を用意しておけば、後は簡単だったよ。人工授精と称して、クローン胚を胎内に入れてやった」  小野寺は口を開いた。だが何も言葉に出来ずそのまま口を噤む。代わりに神崎が続けた。 「胚は胎内で順調に育った。経過は何の問題もなかった。そしてついこの前、生まれた。男だった」 「……生まれた……」 「だが、失敗作だった」  小野寺が、目を見張った。 「失敗? 無事に生まれたんだろう?」 「DNAの塩基配列が、マスター細胞と違う箇所がいくつも見つかったんだ。本当ならあり得ない。どこかで検体の汚染があったとしか思えない」  神崎は淡々と言葉を並べている。しかし、小野寺はそこに滲む苛立ちを敏感に感じ取った。 「それから俺は、何度もクローン胚を作り直した。だが今度は、胚が全て死滅してしまった」 「胚が……死滅? 操作のミスか?」 「ミスはない。……ない、はずだ。細胞分裂の段階で、必ずそれは起きた。こちらから刺激も加えていない、単なる培養段階で、突然細胞が死に始める。まるで細胞自死(アポトーシス)の暴走だ。もとより成功率が低いのは承知の上だったが、それにしても移植にすら行き着かないのは異常だった。それで俺は上に助言を求めてしまった」  神崎が肩をすくめた。 「それで、露見したのか……」 「俺も相当焦っていたようだな。こんな所でつまらんミスをやった」  殊勝なことを口にしながら、神崎は露見したことに関してはそれほど重要視していないようだった。 「まぁ、そろそろ今の状況にも飽きてきていたところだったからな。アメリカに行けるならちょうど良い」 「ちょうど良いって……向こうで何するつもりだ。お前まだ、兄貴を作るのを諦めてないのか」 「諦める? なぜ諦める必要がある」  神崎が腕を解いた。 「まずは金だ。金はいくらあってもいい。今はこの建物しか買えないが、ゆくゆくはこの敷地を全部買うつもりだ」 「こんな辺鄙な場所、買ってどうするんだよ。研究ならもっと開けたところに……」 「そこで堂々とクローンを作るのか? バカバカしい。ここなら旧時代の遺物が眠っているんだ。これを利用しない手はない」  神崎は物分かりの悪い生徒に向け、一つ一つ噛んで含めるように言った。 「金さえあれば、研究は続けられる。金さえあれば、都合の悪い事実など簡単に潰してしまえる」 「それは……」  違う、とは言えなかった。 「自死細胞があるというなら、治癒能力に秀でた細胞もあるはずだ。それを見つけ出して、自死を止める」  神崎の口調はそれでも尚、自信と希望に溢れていた。挫折など露ほども疑っていない。 「……俺に何をさせるつもりだ」  まさか手に手を取ってアメリカへの逃避行、などとは、万に一つもないだろう。  そう思っていると、神崎が満面の笑みで小野寺を見た。 「それでこそ、俺が見込んだ男だ」  床の照り返しを受けて青白く光るその眼を見て、小野寺は今更ながらに悪寒で身体が震えた。 「俺が留守の間、ここの様子を見ていろ」 「……俺にここの管理が出来ると思うのか?」 「管理などしなくていい。ここを動かしている電源は下界と完全に切り離されているし、予備の補助電源もある。電気が切れることはない。俺が戻るまで、ここでやることは何もないからな」 「それじゃ俺がいる必要はないじゃないか」 「侵入者を見張るんだ」 「はぁ? ここに来た奴を棒ッ切れで叩き出せってのか」 「いや、もし侵入者が居たら、そいつの素性を調べて俺に報告しろ。逐一な」 「調べてどうす――」 「後はこっちで手を廻す」 「……」 「二度と近づく気が起きないようにするだけだ」 「……俺に期待するな」 「いいや、俺のことを調べ上げたんだ。お前の探偵能力には十分期待してるよ」  神崎の口端の歪んだ笑みを見たとき、突然、小野寺の脳裏に彼の言葉が蘇った。  ――お前は俺の奴隷だ。  初めて身体を開かされたあの日、神崎が下した宣告。  あのときも、彼は同じ表情で小野寺を見ていた。  その言葉の意味が今ようやく分かった。  自分は、態の良い性欲処理相手でもない。神崎の死んだ兄の身代わりでもない。  時間を掛けて苦痛を刻み込まれ、抗う意志を巧妙に奪われた。  時折思い出したように掛けられる甘い言葉が、傷ついた身体をじくじくと蝕んで、一人では立てないように作り替えられてしまった。  小野寺は酷い目眩に襲われた。足下から得体の知れない冷気が這い上り、体中から力を、自由を奪ってゆく。  ――俺は、奴隷だ。  急速に全ての音が遠ざかる中、神崎の声だけがもう一度耳に届いた。 「返事は?」  小野寺はそれに、頷いた。  それ以外の返答など、あるはずがなかった。

ともだちにシェアしよう!