53 / 60

第十章 記憶と忘却 4

 沢野は登庁してすぐ、周囲に妙な空気が充満していることに気付いた。資料室への人の出入りも、いつもより慌ただしい。  こういう時、口の軽い同僚というのはありがたい。  さりげなく、既に出勤していたその男の机に近づくと、水を向けた。 「よぉ、なんかあったのか」 「あぁ、おはようございます」  ずいぶんと年若い同僚は、沢野と階級が同じだった。つまり、ポカさえしなければすぐに上へと上がってゆくはずだ。 「なんか、外事二課の方で妙な動きをかぎつけたらしくて」  この口の軽さが命取りになるかもな、と沢野は思いながら、興味深そうに相槌を打った。 「二課ねぇ。ってことは、北?」 「だと思いますよ。村瀬係長が色々指示出してるようでしたし」 「村瀬……」  村瀬は、沢野の同期だ。北絡みの動きに詳しく、更にありがたいことに、落ちこぼれの沢野を毛嫌いしない程度には親交があった。  沢野は適当に会話を切り上げると、人の出入りに紛れて資料室を出た。  村瀬は外事課のフロアの中で特に目立っていた。  これから会議が始まるのだろう。資料の山を抱えた署員が通り過ぎてゆく中、会議室の手前でその目当ての男を捕まえる。  突然腕を引かれた村瀬は驚いたように沢野を見たが、案外抵抗なく、沢野が腕を引くに任せて階段脇のスペースへと付いてきた。 「忙しいところすまな……すみません。警部。五分、いや三分、時間を下さい」 「沢野」  険を含んだ声に、忙しいとはねつけられるかと思ったが、相手の意図は違うところにあった。 「水くさい言い方はよせ」  思いの外強く言われて、沢野は顔を上げた。その表情と言葉に嫌悪がないことに、自分が心から安堵していることに気付き、沢野は慌てた。  ――今はそれどころじゃない。 「すまん。どうも卑屈になっていかんな」 「そんな、俺は――」 「時間がないんだろう。単刀直入に訊く。言いたくなければ言うな」  尚も言い募ろうとした村瀬も黙って頷く。沢野が言った。 「北の動きがあったと聞いた」 「……あぁ」 「何があった」 「お前が四課で良かったよ」 「あぁ?」 「四課から情報を得るためだ。お前になら、漏らしても問題ないだろう?」  そう言うと、村瀬は人好きのする笑顔を浮かべたが、すぐに顔を引き締めた。仕事の顔だ。 「北の軍関係者が妙な動きを見せているんだ」 「妙……?」 「中近東やら北方やらを、ちょろちょろと動き回っている」 「しかしそれは毎度のことだろう。テロを計画してるならともかく」 「今回の対象は、武器や傭兵を取り仕切っている奴でな。それが支援国と接触したとなると、新たな兵器の買い付けということもある。緊急性はないだろうが、分析を急いでいるところだ」 「それだけか?」  沢野は自分より幾分高いところにある顔を、睨むように見上げた。  外事二課の妙な空気の原因がこれだけだとは思えなかった。もう少し踏み込んだ情報が寄せられたのではないのか。  言外にそう匂わせると、村瀬は眉を寄せた。 「やけに食い下がるな」 「……」 「……」 「そこまでは言えねぇか」  沢野が肩の力を抜いた。これから集められた情報を分析するところなのだ。部外者にそうホイホイと喋れる物でもなかろう――。  沢野はそれ以上問うことをやめ、踵を返そうとした。  と、村瀬が彼の臂を掴んだ。 「南からのタレコミだ。対象が入国を企てている、と」  小さく潜めた声が、驚くべきことを告げた。 「……どこに」 「ここ、だよ」  思わず村瀬を見返した。 「日本に、北の要人がノコノコやってくると言うのさ」 *  半ば確信めいた物を感じながら、沢野は拠点の一つに急いだ。  もう半月以上、かの場所には立ち寄っていない。だが、いる。彼は、居る。  出来るだけ周囲から浮かぬよう、早まる足を押さえつけて歩を進める。  背を丸め、足先だけを見つめて、まるで周りに興味がないよう装って歩く。  やがて呼吸までが空気に溶け込んだ頃、沢野は滑るようにアパートの階段を上った。  彼は居た。  数度招き入れられたことのある扉の前に蹲り、微動だにしない姿はとても人のようには見えない。誰が見ても、ボロ切れの山にしか見えないだろう。  だが沢野の足音を耳にし、彼は汚れた顔を上げた。 「……暁」  名を呼ぶと、暁の顔がくしゃりと歪んだ。  沢野はそのまま暁の腕を掴み立たせると、無言で鍵を開け、二人で縺れるように部屋へと入った。  ソファまで向かうのももどかしい。  沢野はざっと暁の身体を検分し、盗聴器の類も、彼自身の身体に新たな傷がないことも確認した。そして、乱暴にソファに暁を座らせ上から押さえつけるように覆い被さった。 「暁」  顎を掴み、顔を上げさせる。  汚れた頬に伝った涙の跡が、白く光っている。 「アキラ」  沢野の声が、少し柔らかくなった。白い筋を親指で辿る。 「何が、あった」 「……」  暁の視線が、沢野の物にぶつかった。すぐに逸らされるそれを、今度は沢野の方が捕らえる。 「暁」  何度か色を変えて名を呼ばれる。だが沢野は力を使わなかった。暁が自分で口を開くのを待っているのだ。  暁もその意図に気付いたのだろう。噛み締めていた唇がゆっくりと解けた。 「……俺、は」  沢野の指が、優しく唇に触れた。かさつき、緊張でかすかに震えている。 「俺は、悠に酷いことを」  もう片方の手が、暁の髪の中に差し込まれた。ゆるゆると頭を撫でられ、彼の身体のこわばりが徐々に溶けてゆく。 「酷いことを、して、しまった」 「……命令されたのか」  そう問い返すと、暁は目を閉じ頭を振った。 「最初は、命令だった。でも途中から、俺は自分で……」  途中で掻き消えてしまった言葉は、余計に暁の重荷を際立たせた。  こうして小野寺に言われた通り悠から離れてみれば、後に残ったのは悔恨しかなかった。  自分は所長の命令を楯に、無理矢理悠の心まで奪おうとした。悠の弱みにつけ込んだ。  ……そしてそれを、ちゃんと分かっていた。洗脳されたわけではない。自分の意志で、悠を蹂躙したのだ。 「暁」  頭の上から降ってきた声に、暁は身を固くした。 「神崎は、悠を使って何をしようとしている」 「……」  目を閉じたままの暁の顔が苦悶に歪む。それでも尚、沢野は言った。 「お前が悠に何をしたか、予想は付いている。俺はそれを責めるつもりもないし、それを許すつもりもない」  暁が、はっと目を開けて沢野を見た。 「俺に、お前を許す権利なんてない」   暁を許すことが出来るのは、暁に傷つけられた者だけだ。そして、何人もの命を奪った暁には、永遠にその機会は失われた。  沢野は胸の内に沸き起こった激しい怒りを必死に抑え込んだ。  それは、自分の手を汚すことなく、重い罪を暁に背負わせ続ける神崎への怒りだった。 「……お前は、俺に叱って欲しかったんだろう? 叱って、もう二度とするなよって許して欲しいんだ。……でも俺にはそれは出来ない。俺は、お前を助けてやることは出来ないんだ」  救いのない言葉を口にしながら、沢野の手は優しく暁の頬をなぞった。 「ごめんな」  沢野がそう呟くと、暁は驚いたように目を見開き、彼を見上げた。  だが、すぐに頬を緩めた。 「あんたが、そんな顔することない」  そして沢野の手を取った。 「俺こそ、分かってるつもりだった。覚悟が足りてなかった。嫌なこと言わせて……すまない」  暁はかえって落ち着きを取り戻した様子で、静かに笑った。 「ありがとう」 「……バカだ。……お前はバカだよ」  沢野はゆっくりと暁の頭を胸に抱え込んだ。 「もっと、楽に生きられればいいのにな」  その言葉に、暁は無言で応えた。  暁が一つ大きく息を吐いたのを合図にするように、沢野は腕を解いた。しばらくの間の後、口を開いた彼の声は、以前の冷静な物に戻っていた。  沢野はちらりとその表情を見遣ってから、少し離れて腰を下ろした。 「さっきの質問だがな、所長は悠の精子を使って、あの子の能力を引き継ぐ次の世代を作ろうとしている」 「……クローンを作っているんじゃないのか」 「俺も、所長の研究の核心は知らない。ただ、悠を利用して作ったのは、能力を一時的に移した男達だ」  沢野は眉を顰めた。 「人工授精して能力を持つ赤ん坊を生ませようとしたとも聞いている。ただ、そちらは難航しているらしい……だから所長はあんなに執拗に……」  暁が言葉を切った。沢野は気づかぬふりをして話を続けた。 「彼の精子を使っても、同じ能力の赤ん坊が生まれるとは限らんだろう」 「……所長も承知の上だ。悠の能力は元々身体に備わる生来の物だから、成長を待たずに確認できる。もし能力を持たない赤ん坊だったとしても、他に使い途はいくらでもある」  沢野は頭を過ぎった子供の末路に、盛大に顔をしかめた。 「つくづく腐れ外道だな」 「……あぁ」  神崎は研究の核心部分に暁を近づけさせていない。慎重な男だ。ごく限られた者しか、そこには携わっていないのだろう。 「その、能力を移された男達だがな。神崎はどれくらいの数を作っているんだ」 「……」  暁は中空を睨んだ。脳裏に、研究所で目にしたことを描き出す。 「……今あそこにいる詳しい数は分からない。俺が実験に付き合ったのは一度きりで、そのときは八人だった。そのうち一人が死んだ。その後で補充したと思う」 「なぜそう思う? 見たのか」 「何人か、見たことのない男が研究所に居たのは確かだ」 「人数は」 「そいつらは五人程度……だったな」 「たったそれだけ? 他の者は別の場所に移してでもいるのか……?」 「そうかもしれないけど……いや、でもそんなに人数は居ないと思う」  暁が、考えながらゆっくりと言った。 「あの薬の効果はそう長くは持たないと言っていた。二三日に一度、注射しないと効果が維持できないらしい。だから、十人かそこらでもかなりの薬が必要になるはずなんだ。それ以上の人数を賄うには、あそこで作れる量じゃ無理だと思う」 「薬の生産まであそこでしているのか!?」  さすがの沢野も、驚きを隠せなかった。そこまでの設備があるとは予想していなかったのだ。地下に広がっているあの建物はどこまで未知数なのか。 「俺も実際に見た訳じゃないが、まとまった人数が繰り返し打ち続ける薬を作るには、上の研究部門だけじゃ無理だろ。あの所長が、ヤバイ薬を外注するわけないしな」  暁が、自分の言葉に得心したように頷いて言った。 「所長がまた男達に催眠を掛けるよう言ってくるかもしれない。出来るだけ探っておく。薬を作っているかどうかも知りたいんだろう?」 「あぁ……それともう一つ。研究所に普段、来客はあるか?」 「客? 外部の人間か? その男達の他に?」  暁が首を傾げた。 「……いや、今まで見たことはないな。上の居住区に迷い込んでくるガキは時々いたが、脅せば二度と来なくなるし」 「これからそんな予定があるという話は聞かなかったか? 近いうちに……」 「どうかな……。外で誰かと会うときは、俺は連れて行かれないから。大抵、忠を連れて行くんだ」 「忠ってのは何者だ」 「所長の息子だよ」  そう言ってから、暁は笑った。 「何?」 「いや、言葉にすると案外陳腐だと思ってさ。奴が所長の息子だなんて」  神崎と別れた妻との間の子。出産の直後に二人は別居しその後神崎はアメリカへ渡った。当初子供は母親が育てていたが、息子が二歳になるかならないかの頃に神崎が引き取っている。その後母と子が接見した記録はない。別居から数年後彼女は再婚して渡欧し、一度も日本へ戻っていない。  無味乾燥な人生の記録を脳内のファイルから呼び起こす。忠青年は、神崎と共に帰国した後は、ずっと研究所で過ごしてきたのだろう。  神崎が彼を引き取ったのは、十中八九あの能力のことを知ったからだろう、と沢野は思った。  利用できる手駒にするために、神崎は子供を手に入れた。もしかしたら母親が先にその異能に気付き、恐れて彼を手放したのかもしれない。  沢野はふいに、忠と己とを重ね合わせようとしていることに気付いた。  孤独だ。この力には、どこまでも孤独がついて回る。  沢野は首を振った。  ――引きずられるな。同調するな。 「暁」  沢野が、目の前の端正な顔に語りかける。 「お前、どうしてここに来た?」  突然変わった話に暁は怪訝そうな顔をしたが、やがてその意味が分かったのかふいと目を逸らした。 「……他に、行くアテがなかった」 「今まではどうしてたんだ?」 「どうって、適当に……雨に濡れなければ、別にどこでも構わない……」  語尾が頼りなく消えてゆくのに、沢野が笑う。 「素直じゃねぇの」 「からかうな」  言い返してやろうと暁が顔を上げると、そこにあったのは予想外の顔だった。  普段の隙のない仮面はどこかへ消え、沢野は優しく解けた表情で暁を見ていた。 「俺を思い出してくれて、嬉しいよ」  その偽りのない言葉に、暁の顔が一気に赤く染まった。  こめかみに口づけを落としながら、沢野は掌で暁の身体のかすかな震えを感じ取っていた。  暁の中には依然として、神崎への恐怖が巣くっている。  こうして沢野に従順に抱かれながらも、あの男の言葉一つで暁は容易に寝返るだろう。  だからこそ、そのときが来るまで捜査の手が及んでいることを悟られてはならない。  暁を籠絡した手を緩めてはならないのだ。    なぁ、暁。  お前は気付いていないだろう。  お前の言葉も、態度も、何もかもがずっと叫び続けてる。自分を見て欲しい。自分を愛して欲しいって、ずっと叫んでるんだ。  俺も同じだから、分かる。  俺もお前も、孤独を拗らせすぎた。愛しても、愛しても、それが返ってこないことに疲れちまった。  力を恐れられ、厭われ、利用された。力を隠して生きれば、役立たずと蔑まれた。  でも、俺ならお前に欲しい物を与えてやれる。お前なら、俺に欲しい物を与えることが出来る。  傷の舐め合い? 別に良いじゃねぇか。誰に迷惑を掛ける訳じゃない。  なぁ、暁。  お前はいずれ、罪を償わなくちゃならない。  俺は、お前の重荷を代わって背負うことは出来ない。手を貸して軽くしてやることも出来ない。  でも、俺はずっと、お前の側で、お前が荷物を背負って歩いて行くのを見ていてやる。  そして、一緒に歩いて行ってやるよ。手を貸してはやれないけれど、せめて道に迷わないように手を引いて。  なぁ、暁……。

ともだちにシェアしよう!