54 / 60

第十章 記憶と忘却 5

「沢野」  部屋を出たところで突然呼び止められて、沢野は声のした方を振り返った。見覚えのある横顔がちらりと見えた。  村瀬だ。  良く通る声を潜め、目立つことを恐れるように背を丸めている。  そこはいくつかある資料室の内の一つだった。部屋の近くで沢野が出てくるのを待ち構えていたのだろう。  中へ入ってこなかったのは、やはり人目に付くのを憚ってだろうか。  沢野と目が合うと、村瀬は小さく視線を動かした。付いてこい、と言うのだ。  沢野は頷いた。  村瀬から離れて歩きつつ、沢野は後を付いて行った。  同期だというだけで、二人の間には接点はない。すれ違う者たちも二人には全くの無関心だ。  やがて村瀬が先に立ち止まった。庁舎内に数多ある会議室の内の一つだ。  村瀬はちらりと沢野を見遣ると、何も言わず部屋に入った。  沢野はと言うと、歩調を緩めず歩き続け、部屋の前を通り過ぎた。まっすぐ前を向いて歩き、階段を下り、庁舎内に設置されている喫煙コーナーへと入った。  ここはもう公安部のフロアではない。陰鬱な公安とは面差しの違う男達が何人も談笑する脇で、沢野は一人排気テーブルへ寄りかかると、懐から煙草を取り出した。  火を点け胸一杯に煙を吸い込む。  ゆっくりと時間を掛けて一本吸い終わると、沢野は緩慢な動作で吸い殻を押しつぶし灰皿へと投げ込んだ。時間にして五分弱。そろそろ良いだろう。  喫煙コーナーを出ると沢野は来た道を戻った。そして件の部屋の前まで来ると、ノックもせず何気ない動作で扉を押し開いた。  半ば予想していた通り、錚々たる面々が沢野の前に並んでいた。 「掛けたまえ」  沢野が静かに扉を閉めると同時に、正面右脇に座る男が口火を切った。沢野に最も馴染みの深い、直属の上司だ。  沢野は敬礼も何もせず、ただ無言で目の前の椅子に座った。そして不躾にその場の全員の顔を見回した。  四課第2係長が端に座り、そこから四課課長と管理官が並んでいる。そしてその隣はおそらく参事官と理事官。そこから二人あって、一番左端に村瀬が座っていた。  この二人は誰だっけな、と考えていると、沢野が答えに行き着くより先に係長が言った。 「第四課第2係沢野巡査部長です」  本当なら沢野が自分で所属を述べるべきだった。案の定、上司は苦り切った顔で彼を見ている。  と、村瀬が苦笑を堪えるような顔で言った。 「沢野。こちらは公安部長と、総務課課長だ」 「あー」  思わず声に出てしまってから、沢野は慌てて口を噤んだ。係長が横で唸る。だが部長はただ、口の端を僅かに上げただけだった。  ――俺の能力を知っている人間が、四人。知らないのが……、何人だ?  村瀬がこの場にいると言うことは、面談の主眼はこの前の北の件だろう。  沢野が何かを知っていると踏んだのか。それにしては、目の前の面子は異様だった。  ――まさか公安のトップまでご登場とは。……部長と総務課まで御輿を上げたとなると……。 「何か私にご用ですか」  沢野がまずしらを切ってみせた。視線は、部長から外さない。  相手もまた沢野から目を離さない。  沢野の視界の端で村瀬が立ち上がった。 「沢野巡査部長。あなたの知っている事を話して貰いたい」 「知っている事、とは?」 「あなたは我々の動きについて、過敏に反応して見せた。何か情報を持っているのではないのか?」  村瀬の口調はあくまでも穏やかだった。上司がもじもじと腰を動かしているのが分かる。何か言いたくてたまらないようだが、事前に村瀬がこの場を取り仕切ることに話が付いているのだろう。  沢野は部長から村瀬へと視線を移した。  どこまで話を明かすべきか、頭の中でめまぐるしくカードが切られてゆく。  ――手の内を晒すのはどっちからだ? 「北の要人が日本への入国を企てているという情報が入った」  村瀬が言った。 「それに関して、対象がメールを受け取っていることが分かった。いくつも間にプロキシサーバやダミーを噛まされて、出所を突き止めるのに時間が掛かったが、今朝方ようやく判明した」  続いて村瀬が口にした地名は、沢野の予想を裏切らなかった。間違いなく、そこはあの研究所のある場所だった。  沢野の反応を見ているのだろう。村瀬が言葉を切る。沢野は無言で先を促した。 「お前はここに何があるか、知ってるんだな」  村瀬の言葉からも徐々に遠慮がなくなって行く。沢野が立ち上がった。 「さわ――」  村瀬の言葉を手で遮り、沢野は懐の内ポケットから数枚の折りたたんだ紙を取りだし、村瀬へと放った。 「そこには、研究所が建っている」 「……研究? 何を研究している。バイオか? 病理か?」  村瀬は沢野から渡された資料に目を通していたが、すぐに顔を上げた。部長へと資料を廻す。 「表向きは、脳科学研究だ」 「脳科学?」  係長が声を上げた。多分に非難の響きがある。沢野はそれをまるきり無視した。 「実際に行われているのは遺伝子研究だ。特殊な遺伝子から、奴は……」  一瞬、沢野は躊躇った。と、目の前の男が初めて口を開いた。 「神崎義隆か」  沢野が目を見張る。それだけではない。村瀬もまた、驚いて部長を見た。 「……奴を、ご存じでしたか」  沢野が言うと、部長は静かに頷いた。 「私が警備局にいた頃に、対象として名が挙がった。以来行動を注視していたんだが、その内横槍が入るようになってな」  沢野が頷いた。神崎が清掃業を請け負い始めたのはその頃なのだろう。  部長は知っているのだ。ならば。  ――こっちも腹を括るか。  沢野は別のポケットから新たな書類を取り出した。細くぞんざいに折りたたまれたそれを、手の内で伸ばす。  そして、その書類を部長へと手渡した。 「神崎がここ数年の内に関わっていたと思われる事件の一覧です。後で詳細をまとめて提出します」 「……証拠は」 「実行犯を名乗る人物と接触しました。証言は取れます」 「……っ、沢野!」  とうとう我慢できなくなったのか、係長が立ち上がって叫んだ。 「貴様、勝手をするなと言っただろう!」 「申し訳ありません」  係長を一度も見ることなく、沢野は頭を下げた。 「全て私の独断です」 「当たり前だ! 私に断りもなく――」 「遠藤係長」  係長の甲高い声を、部長が遮った。 「処分の裁定は後ほど」  今は黙っていろ、と遠回しに言われ、係長は言葉を飲み込んだ。  沢野が軽く頭を下げ、再び口を開いた。 「証言は取れますが、証拠にはなりません」 「なぜだ」 「彼が私と同じだからです」  部長の目つきが険しくなった。壮年期を過ぎたとは言えその眼光は鋭く、沢野はそれだけで圧倒されそうになる。それを何とか踏みとどまり、正面から見返した。 「証拠としては扱えませんが、特捜辺りに情報を流せば、そちらから上手く浚ってくれるかと思います」 「なるほど」  そう言うと、部長は手元の書類に目を走らせた。例の農水副大臣の項でも見ているのか、その口端が笑ったように持ち上がった。特捜に恩を売る算段でもしているのかもしれない。  とそのとき、やりとりを黙って聞いていた村瀬が、間に割って入ってきた。 「待って下さい。この男と我々の対象と、一体どういう関係があるんです」  優秀な外事二課とはいえ、さすがに突然降って涌いて出た男に戸惑いを隠せない。沢野はまた迷うような素振りを見せたが、やがて言った。 「神崎は、遺伝子操作によって《限りなく不死に近い人間》を作り出した。それを、新たな兵器として売り込もうとしている」 「……な、んだって?」  こんな場ではなく、酒の席であったら間違いなく馬鹿にされるか笑い飛ばされるか。そんな内容にもかかわらず、部屋の中は真剣そのものだった。  誰も笑わず、席を蹴って立つ者もいない。ただ村瀬だけが未だ戸惑いの渦中にいた。 「それは、どういう……」 「実際に、神崎が作り出した者たちと対峙した者がいます。その治癒力は尋常でなく、浅い傷は瞬く間に癒え、骨折でも五分程度で完治するとのことでした。致命傷を与えることはまず不可能とのことです」 「外科的な操作によるものなのか?」  村瀬の混乱を無視して、部長が訊いた。 「いえ。薬品……というか、遺伝子治療の要領で、注射によって因子を体内に入れることで効果を発揮させています。一回の注射で効果は二三日持続するそうです」 「ということは、対象が動いたのはその薬目当てか」 「おそらく。件の男達はそのサンプルと言った所でしょう」  部長は押し黙った。沢野は一つ息を吐くと、こちらを凝視したまま固まっている村瀬を見た。 「村瀬警部」 「……」 「突拍子もない話だということは重々承知しています。けれど、まず信じていただくより他ない」  ――あぁ、もう少しで友情なんてものが芽生えるかも、なんて思ったんだが。甘かったな。  胸の内で嘆息する。慣れているとは言え、やはり知人から寄越される白い目は堪えるのだ。  だが、嘲りの言葉を覚悟していた沢野は、返された言葉に耳を疑った。 「信じるも信じないも、お前がそう言うんならそう言うことなんだろう」 「……はい?」  咄嗟に意味が分からず、沢野が目を見張った。しかし今度は村瀬の方がそれを無視した。  大きな手を熱心に振るい、独り言のように言う。 「それで対象の行動の理由が分かりましたよ。奴は今回、窓口だったんだ。紛争国を廻って注文を取ってから、その薬の効果を確かめに来るんだな」 「しかし、神崎はなぜ自分で売り込みに行かないんでしょう?」  初めて総務課長が口を開いた。眼鏡の物静かな男だ。だが実際の公安捜査活動の差配は、この男に掛かっている。 「こう言っては何ですが、格下の者相手に、北の要人がわざわざここまで来るとは」 「神崎にはここを離れられない理由があります」  沢野が言った。 「神崎はアメリカで地盤を固めて帰国の後は、長期間かの地を離れたことは一度もありません。奴の宝が、研究所の地下に眠っているからです」  ――鍵は二人だ。 「神崎の目的は、死んだ人間を生き返らせること。薬も、取引も、奴の清掃業も、全てはその資金のためだ。そしてその鍵になる者がいます」  沢野は、もう一度懐に手を入れると、手帳に挟んだ写真を取り出した。部長に手渡す。 「子供か」  沢野が頷いた。 「治癒能力を持った少年です。彼の遺伝子をオリジナルに、件の薬は作られています。けれど、彼が神崎の手の内にあることで、我々にもチャンスが生まれました」 「未成年者略取誘拐で攻めるつもりか」 「はい。かなり酷い虐待を受けているという証拠もあります。以前同居していた者の証言も取れます。このセンは確実です。これなら、他の奴らもしばらくは手出しできないでしょう。揉み消すにはでかすぎる」 「令状を取るには十分ですね」  総務課長がぼそりと言った。 「この子供が監禁されているというのは確実なんだな?」  部長が念を押した。沢野が頷く。 「一週間以内に、証拠を出します」 「……五日だ。五日間で証拠と、この」  部長が、机のリストを指で叩いた。 「穴だらけの報告書を完璧にしたまえ」 「はい――」 「あのっ!」  沢野の返答に、なぜか村瀬の声が被さった。 「なにかね? 村瀬警部」 「自分も、沢野巡査部長の報告書作成に加わっても構いませんでしょうか」 「はぁ!? 何言ってんだお前!」  沢野が叫んだ。あまりのことに、部長も、上司も、階級差も、全てが吹っ飛んだ。 「二課のエースがわざわざ貧乏くじ引くことねぇだろが!」  部長が五日で、と言った。ということは、五日間で神崎を逮捕できるまでの完璧な報告書を仕上げられなければ、そこで全てが終わるのだ。事件も、そしてキャリアも。  もとより出世とは関係のない沢野だからこそ、上役にも強硬な態度で臨めただけだ。 「お前の経歴に泥が付くだけだ。やめとけ――」 「もちろん、例の対象の件は徹底的に洗います」 「人の話を聞けッ!!」  とにかく思いとどまらせようと怒鳴る。だが、村瀬は全く聞く耳を持たず、沢野に向けて五月蠅そうに片手を挙げただけだった。 「部長」 「四課が他課の補助をするのは何の不思議もない」 「……」 「いずれにしろ、北の件が神崎と関わりがあるか否かを見極めねば、二課は動けないのだからな。……沢野巡査部長、並びに村瀬警部」 「はい」  二人が、その場で姿勢を正した。 「二人に、資料レベル3までの閲覧を時限的に許可する。参事官」 「は」  ここまで一度も口を開かなかった参事官が答えた。 「キーの発行を」 「すぐに手配します」  それだけを言うと、部長は立ち上がった。それに合わせて、総務課長と参事官以下の者も席を立つ。  係長は鬼の形相で沢野を睨み付けていたが、上司の手前一言も発することなく、真っ先に部屋を出て行ってしまった。  そして最後に、村瀬だけが部屋に残った。沢野の前に立ち、さっきまで部長が座っていた机へ寄りかかる。 「……さて、沢野巡査部長」 「……」 「沢野」  口を固く引き結んだ沢野に、村瀬が笑った。 「相変わらず強情な奴だな」 「るせぇ」  そう一言漏らすと、沢野はどかりと椅子に腰掛けた。急にどっと疲れた気がする。 「良いから話せよ。俺はちゃんと聞く耳があるぜ」  そう言って、ゆったりと足を組んだ。  沢野とは違い、ぱりっとしたそこそこの仕立てのスーツに身を包んでいる。糊のきいたシャツはクリーニング上がりだろう。 「余計なことに首突っ込んで、お前のキャリアに傷がつくぞ」 「まぁな、この世界にいるんだ、そりゃぁ昇任も大事だ。年上の部下や年下の上司とも上手くやらなきゃならん。もちろん事件も待ってはくれない」  沢野は目の前の男を見上げた。久しぶりに村瀬の顔をちゃんと見たような気がする。  人の良さそうな下がり眉が、公安らしからぬ容貌を作っている。一見すると屈強さにはほど遠い体つきだが、その実、彼が学生時代に柔道部で主将まで務めたことを沢野は知っていた。厚ぼったく形の変わった彼の耳を見ながら、沢野は村瀬の話を聞いていた。 「全部、流されているような気がするんだ。周囲にも、事件にもな。しかもそれに慣れてきている。ルーティンワークに、気持ちがすり切れてきてる」 「で、刺激が欲しくなった?」 「茶化すな」  村瀬が呆れたような口調で言った。 「まったくお前は、ちっとも変わってない。軽薄な振りして、隠し事が上手くてな」 「あー。そう? そうだったかなぁ」  軽く流そうとしたが、村瀬は騙されなかった。 「証拠にならないってのはどういうことだ? 不死の人間? 不死の遺伝子を持った少年? 死人を生き返らせる?」 「なんかこう、そうやって並べられるとホント、嘘くせぇなぁ」 「ちゃ・か・す・な。俺は信じると言っただろうが」  まっすぐに投げて寄越される言葉に戸惑い、返答に詰まる。 「それとも、怖いのか?」 「怖……ッ!?」 「俺は白い目で見たりしないし、それでお前を遠ざけたりはしない」  真摯な言葉で問い詰められる。沢野は唸った。 「あー……、くそ」 「諦めろって」 「この物好き!」 「何とでも言え。さぁ言え」  沢野が睨むと、にやにやと人の悪い笑顔が返ってきた。 「……時間がない、話は資料を漁りながらだ」  沢野がそう言って勢いよく立ち上がると、村瀬がまた笑った。 「一人より、二人の方がはかどるぜ」 「……今の台詞、忘れるなよ」

ともだちにシェアしよう!