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第十一章 瞬間と悠久 1

「……はい明日ですね。夜の八時に……、分かりました、瞬にも伝えます。えぇそうなんです、走りに出るときは全部置いて行っちゃうんです。急な用があるとき困るって言ってるのに、邪魔されたくないって……。ホントそうですよ。もう頑固で! ――あ、ちょっと待って下さい、今帰ってきたみたいです」  玄関の物音に気付いた真は、電話から顔を離してリビングの扉が開くのを待った。  だが予想に反して瞬は姿を見せない。  怪訝に思って扉から玄関を覗くと、玄関の三和土でずぶ濡れのウェアを脱いでいる瞬の姿があった。 「わ、なにそのかっこ!」 「雨、急に降ってきた」  頭から雫がしたたり落ちる。指で払ったが、それでも水滴が目に沁みて瞬は顔をしかめた。 「え、全然気付かなかった! 待ってて、タオル――」 「あぁいいよ、それより、電話?」 「え、あ、うん、柴さん。まだつながってるよ」  そう言って、真は慌ただしく電話を差し出した。 「タオル、タオル……」 「マコ」 「はいはい、なーに?」 「なにか、焦げた匂いが……」  瞬が言うやいなや、悲鳴のような声を残して真が駆けだした。  それを苦笑で見送ると、瞬は濡れた髪を掻き上げて、電話を耳に押し当てた。 「替わりました、瞬です。すみません、出てました」 『いえ、こちらこそ申し訳ありません』  電話の向こうで、いつもの落ち着いた声が笑った。  ここしばらく柴浦とも東城とも顔を合わせていない。二人とも組の方の仕事に忙しく飛び回っているらしい。 「今日は、真にご用でしたか」  瞬は靴を脱ぐと、濡れたウェアを足から抜いた。べちゃ、と意外に大きな音が玄関の高い天井に響く。 『えぇ、柘植が真さんにレシピを渡したいと』 「……そうでしたか」  瞬は静かに息を吸い込んだ。 『ついでと言ってはなんですが、柘植が皆さんに色々ごちそうしたいそうなので、瞬さんもいらして下さいますか』 「何時ですか」 『明日午後八時に。せっかくなので、あちらの皆さんもお呼びしましょう』 「……俺から連絡しますか?」 『いえ、行き違いになるといけませんので、私が』  柴浦はいつも通りの調子で、静かに、時折声に笑みを含ませながら話し続けている。 「柴さんの友達も参加したいんじゃないですか? 甘党だそうですし」 『えぇ、彼も、ぜひと』  途端に、瞬の鼓動が早くなった。  雨に濡れた掌の中から、携帯電話が滑り落ちそうになる。  瞬は電話を掴む手に力を込めた。薄いプラスチックの外装が、みし、と音を立てた。 「分かりました。明日、真と伺います」 「……あぁそう言えば、明日は正面からは入れないので、地下からお入り下さい」 「はい」  それから何を話したか。  瞬は上の空で返事をいくつか返すと、静かに電話を切った。雨に濡れて冷えているはずなのに、身体の芯が燃えるように熱い。  電話を握った手を見ると、指が小刻みに震えている。瞬は自分の手を握りしめると、身体を折り曲げ中へ抱き込んだ。 「あぁ……」  そのままその場に座り込む。  抑え込んでも抑え込んでも、身体の中心から起こる震えが止まらない。  瞬はきつく目を閉じ、歯を食いしばった。 「瞬!」  玄関へもう一度様子を見に来た真が瞬に駆け寄った。 「どうしたの? 気分悪い?」  辛うじて首を振ると、瞬はゆっくりと立ち上がった。 「大丈夫。風呂入れば」  震えなどすぐに治まる。そう呟くように言うと、何かを察したのか真もそれ以上何も言わなかった。  ただ黙って浴室へ瞬の背を押す。  瞬は緩慢な動作で頷くと、そちらへ足を向けた。  湯が溜まりきらない内から浴槽に入り、浅い湯に浸りながら、瞬は今し方の柴浦との通話を反芻していた。  柴浦は敬と涼も呼ぶと言った。そして、あの公安の沢野も来る。  ――やっとだ。やっと時が、来た。  温かい湯気と湯に包まれて、ようやく緊張が解ける。先ほどの悪寒のような震えも既に治まっていた。  瞬は、湯の中の自分の手と足を見た。  ぐ、と力を込めるとすぐに筋肉は堅く張り詰め、鋭敏な反応を返してくる。  瞬の身体は、一ヶ月で一回りほども太く、大きくなった。鋼のように固い筋肉が全身を覆っている。  この自分の肉体がとても一ヶ月で作れるような代物でないことは、瞬も気付いていた。  やはりこれも、自分の《願い》が実現した結果なのだろう、と瞬は思った。  九歳から十九歳へと組み替えられた自分の身体が、今再びこうして作り替えられた。 「……悠」  小さく呟いた声は水音の中に紛れて消える。  だが喉を振るわせたその言葉は、瞬の胸を焼き焦がすのに十分だった。  胸を掻きむしりたくなるほどの切なさに襲われ、瞬は握りしめた手を胸に強く押し当てた。  会いたい。触れたい。抱きしめたい。声を聞きたい。  堰を切って溢れてくる思いに飲み込まれそうになったとき、ふいに浴室の扉が叩かれた。  遠慮がちなその音に、瞬の意識が引き戻される。 「……瞬」  浴室の外で、真が小さく声を掛けた。 「着替え、置いて――」 「マコ」 「……」 「……やっと、だ」  感情を抑えた掠れた声だったが、真の返事もまた震えていた。 「うん……うん」  真も先ほどの電話の意味を汲み取ったのだろう。余計なことは何も言わず、ただ、うん、と繰り返しただけだった。  瞬はそれきり黙ると、ようやく溜まった湯船の中へ頭の先まで勢いよく潜り込んだ。 *  きっかり時間通りに、瞬と真は事務所の三階奥の扉を叩いた。  やはり人払いされているらしく、いつもは誰彼と人が行き交う三階フロアに、今日は誰もいない。  地階から取り次ぎをした柘植も何かしらの緊張を感じ取っているのか、途中強張った表情で瞬を見たが、会釈だけして三階から立ち去った。  ノックの後すぐ耳慣れた声と共に扉が開かれ、二人は中に招き入れられた。軽い挨拶の後、瞬は部屋の中をゆっくりと見回した。  その場には、真田を筆頭に東城と柴浦が控え、そこからやや離れた所に敬と涼の二人、そして窓のブラインド脇に沢野が立っていた。  真がすぐに敬たちに駆け寄る。  その後ろ姿を見送った後、瞬は窓際の沢野を見た。彼と会うのは今日で二度目だ。  火を点けていない煙草をくわえたまま、ブラインドの隙間越しに外を眺めているらしい。  瞬は東城の方へ向きかけていた足を止め、沢野へと近づいて声を掛けた。 「……沢野さん」 「あぁ、どうも」  沢野は瞬に目を向けると、笑顔を作った。 「ご無沙汰です」 「……」  沢野の作り笑いに、返事をすることなく見つめ返すと相手はすぐに、茶化すような道化た表情で言った。 「なんだ、まだ俺、警戒されてるのか」 「……いいえ」 「へぇ、じゃ、何か話したいことでもあるとか?」  瞬が口を開くより前に、背後から声が飛んできた。 「瞬さん、その碌でもない男には近づかないで下さい」 「……んだよ、俺のどこが――」 「お前の妙な思いつきのせいで、こっちは丸一日掛けて、全フロアのセキュリティを洗い直したんだぞ」 「あぁ、それか」  沢野は口から煙草を離すと、手でそれを弄んだ。 「集まるにしたってこの人数だろ? 外で落ち合うことも考えたんだが、そこら辺の安いホテルじゃ組長さんが悪目立ちするし、立派なホテルじゃ俺が浮く。それにどこだろうと結局盗聴や尾行の心配がついて回るからな。それならいっそ、意表を突いてみようかなと」 「何が意表だ。単に面倒になっただけじゃないか」  柴浦が珍しく感情を込めて嫌味を飛ばした。だが沢野の方は煙草を持った手を鷹揚に振ってみせただけだった。 「ま、良いじゃねぇか。結果オーライだ。外を張ってる奴も、妙な動きも見あたらない。……そろそろ始めよう」  その言葉に、真田が立ち上がった。 *  机に広げられた地図を、沢野が指さした。 「ここが研究所に電気を送っている変電所だ。独立していて、町一帯の電力供給ラインとは別系統になっている。まぁ当然、それなりの警備が敷かれてるわけだがな」  沢野は地図の周りに写真を並べた。監視カメラや、出入り口に立つ警備員の姿が写っている。 「でもま、それほど厳重というわけでもない。お前さん達なら容易に侵入も可能だろう」  沢野はこつこつと地図を叩いた。 「ここを襲撃するのか?」  涼が訊いた。 「いや。襲撃……とは違うな。まず手始めに、軽くショートさせる。ほんの少しの故障程度に見せられればそれでいい」 「ぶっ壊して向こうの動きを止めて、一気に突っ込むんじゃないのか」  喧嘩っ早いところは変わっていないらしく、涼が意気込んで言った。そしてそれを、今度は敬が呆れたようにたしなめる。 「突っ込むって、どうやってあの森を抜けるんだよ。俺が運べる人数なんてたかがしれてるぞ」 「んなもの、何度か往復すりゃいいだろ」 「他人事だと思って……」  脱線しそうになる二人を沢野が笑って止めた。 「まぁ待て待て。敬君にやってもらうのは別口だ。瞬君は電気を操れると聞いたが」 「はい」  瞬が静かに頷いた。その返事に沢野も頷き、もう一度地図を叩いた。 「敬君が瞬君をここに送り込む。そして変電所の機材を故障させる。これを数日間続ける。そして、その後一気に、潰す」 「襲撃ではなく、あくまで故障だと思わせるんですね」  敬が言った。 「あの所長が騙されますか」 「使い古された手だが、平和ボケした連中なら騙されてくれるだろうよ」 「別の補助電源があるはずですが」 「ある。だが、必要最低限の部分にしか廻せない」 「なぜ分かる」  きっぱりと言いきった沢野に今度は柴浦が訊いた。 「根拠はあるのか」 「あぁ。電気系統の設備図を、専門家に分析させた。補助電源は三ブロック分に供給される。その中にセキュリティ関連の部門は含まれていない。メインが復旧するまでの一、二時間、研究所の周囲に張り巡らされた監視の網が麻痺する。それが我々の動ける時間というわけだ」 「――それで、こちらの手勢は?」  敬が真田を見た。腕を組んだまま地図を睨んでいた真田は、その問いに顔を上げた。 「三十……と言いたいところだが、ここをがら空きにするわけにもいかん。そこそこ腕の立つ者をとなると、動かせるのは多く見積もって二十」 「向こうの《不死の兵》はおそらく十五名ほどだ」  沢野が淡々と言う。東城が、先の松永との一件を思い出して、ぐ、と唸った。敵はあのときの倍いるのだ。 「我々公安も、人員を割く」 「おい、公安のどこが動くというんだ。研究所は極左というわけでもなかろう?」  柴浦が訊いた。だが沢野は渋面を作ったまま答えようとしない。 「沢野――」 「言うな。こっちにも事情があるんだ。何もかもお前さん達に知らせるわけにはいかないんだよ」  そう口にしてから、小さい声で「一本吸わせろ」と続けた。  柴浦が眉根を寄せたまま相手に灰皿を差し出すと、沢野は少しほっとした様子で煙草を右のポケットから取り出した。先ほどから弄んでいた一本だろう。酷く撚れて曲がっている。それに火を点けて美味そうに煙を吸い込むと、ようやく落ち着いたのか再度口を開いた。 「公安としては、悠君奪還を目的とはしていない、とだけ言える」 「研究所に、他に何か目当てがあるのか」 「訊くなッつってんだろうが。……まぁ最終的な目的は違うが、途中までは同じだ。我々も、侵入する上で監視システムをどうにかしておきたい。厄介な兵隊を無力化したい。で、最終的にそっちが保護、こっちは対象を拘束、というわけだ」 「どれくらい投入される」  柴浦が畳みかける。だが、沢野は肩をすくめた。 「それもノーコメント。つーか俺も知らされてない。ただ結構な数が投入されるとは聞いている」  外事二課が中心となって、公安機動隊が動くという話をちらりと耳に挟んだ。だが沢野も立場上、それを村瀬に確認することは出来なかった。資料課の沢野は、あくまでもオブザーバーなのだ。  瞬く間に一本吸い終わって、沢野は吸い殻を灰皿に押しつけた。と、そのタイミングで瞬が口を開いた。 「沢野さんに確認したいことがあります」  少し緊張を孕んだ固い声に、沢野はあぁ、と思った。  やはり聞いてくるか。 「あなた……、暁と会いましたね」 *  しばらく、誰も何も言わなかった。  敬と涼も黙ったまま沢野を見ている。真が心配そうにちらりと瞬を見たが、それでも彼も黙っていた。 「あなたは研究所をよくご存じのようだ。暁に聞いたんでしょう」  疑問ではなく決めつける。それに対して、沢野はまだ沈黙を続けた。 「あなたは、暁を信用しているんですか」 「……」 「それは、あなたが暁と同じ力を持っているからですか」  そう問われて、沢野は一つ溜息を吐いた。 「気付いてたのか」 「俺じゃありません。真が……真は、こういう気配に敏感ですから」  沢野が無意識に真を見た。さっと顔を伏せるその様子は、まるでのぞき見を咎められでもしたかのようだ。 「……ごめんなさい」  小さな声で謝罪の言葉を絞り出した真に、沢野は笑って見せた。 「いや謝るような事じゃ無い。あんた達にはそのうち知られるだろうと思っていたからな」  そして懐に手を突っ込んだ。すぐに半分潰れた箱を取りだし、慣れた仕草で一本口にくわえる。  そのまま火を付けようか逡巡した挙げ句、目を眇めて言った。 「その通り、俺は暁と同じ催眠暗示能力を持っている」  言いながら、沢野は視界の端に立つ極道達の反応を探った。少しは動揺でもするだろうか、と思ったが、男達は微塵も動かなかった。 「あなたが暁を信用する理由は……同情ですか」  脇に逸れた意識を、瞬の固い声が引き戻す。沢野は改めて、目の前の若い男を見た。  前に会ったときよりも、彼の頬の肉はそげ落ち、眼光は鋭さを増している。  あの時、この青年はただ途方に暮れた様子で泣いていた。だが今日は、燃え上がるようなきつい眼差しで沢野を見つめている。  声も態度も上辺は落ち着き払っている。しかし、その腹の内は怒りや苛立ちで煮えたぎっているのだろう。  愛する者が今なお蹂躙され続けている。その一端を担った暁と、その男に通じている相手が目の前にいる。  燃え上がらぬよう押さえつけられた怒りは、じりじりと胃の腑を焦がし鈍い痛みを絶えず与え続ける。  だが沢野も、向けられた怒りの矛先を甘んじて呑むつもりはなかった。 「ま、そう思われても仕方ないか」  瞬を、沢野が軽くいなす。 「仲間は得難い。あんた達も同じだろう」 「仲間? ――同じ?」  瞬の眉がぴくりと跳ねた。  真が、隣に立つ敬のシャツをぎゅっと握った。心を読まずとも立ち上る気配だけで身が竦む。傍らの敬と涼はただ黙ったまま、二人のやりとりと見守っている。 「で? 暁と通じている俺は信用できないってか?」 「信用はしています。あなたにも立場がある。いくら暁に同情していたとしても、職務上曖昧な情報を信じるとは思えない」 「そりゃまぁ――」 「けれど」  いつも通り軽口で煙に巻こうとした言葉を、唐突に瞬が遮った。 「けれど俺は、あんた達をアテにはしない」 「何?」  沢野もまた、表情を一変させた。 「今更一人でやるとか言い出すんじゃねぇだろうな」 「言葉通りだ。あんたが暁を信じるのは勝手だが、俺は暁を信じていない。暁は所長には逆らえない。所長が殺せと言ったら、暁は必ず悠を殺す。そんな奴を信じることが出来るか?」 「それは……」 「あんた達が手を貸して欲しいというのなら、手は貸す。あんたが立てた計画にも乗ろう。だが俺の邪魔はするな」 「……おいおい、お前――」  沢野が慌てて口を挟んだ。だが、瞬はそれにも構わず続けた。 「あんたたちが追っている人間が、もし悠を盾に取ったら? あんたは俺を止めるか? でも俺は絶対に従わない。悠の命を守るためなら、俺は躊躇うことなくそいつも殺してやる」  瞬は机に手を突いた。地図に目を落とす。沢野が付けた変電所の印からゆっくりと指を滑らせ、やがてその東側の一点で指を止めた。 「俺の目的は、ただ一つだ。他の事なんて知ったことか」  パシン、という鋭い音と共に焦げ臭い匂いが立ち上った。  瞬が地図から指を離すと、ちょうど研究所の場所が黒く焼け焦げていた。 「俺は悠を取り戻す。邪魔をする奴は、誰であろうと焼き尽くしてやる」  瞬が、地図を辿っていた指を沢野の胸に向けた、そしてゆっくりと、指をその心臓の上に押し当てた。  二人の視線が絡み合った。瞬が力を込めれば、その身から高圧の電流がほとばしり出る。命を握られている危うさに、沢野の背を冷や汗が滑り落ちた。だが動揺を押し隠すように、沢野は瞬を睨み付けた。 「それが戦争の引き金になるかもしれなくてもか」  沢野が重々しい口調で言った。その口から漏れた単語に、柴浦が身じろぎした。外交が絡むという事なら出張ってくる部署にも見当が付く。  不意に瞬が笑った。喉の奥に籠もるような、乾いた嘲笑だった。 「同情で気を引こうとしても無駄だよ。あんた達がどうしても俺を助けたいというならどうぞご自由に」 「一人でどうこうできる相手じゃねぇだろう!」  突然の激しい口調に、真が怯えたように半歩下がった。その肩に涼がさりげなく手を添えた。  ――大丈夫だ。  涼の声が、真の内に小さく響く。  ――瞬のは本心じゃない。あれは牽制と、瞬が自分を煽るために、相手を利用しているだけだ。  真が、肩に置かれた手を握った。  ――あおる……?  呟くように胸の内に零れた問いには答えず、涼は瞬を見つめた。荒々しいやりとりは尚も続いている。 「お前さん、この若頭に鍛えてもらったようだが、そんな程度で思い上がってると足下を掬われるぜ。奴らの兵隊は、あんた達がやり合った時よりも多い。能力が強化されている可能性もある。それに――」 「そう思いたければ思えばいい。俺の言いたいことはそれだけだ」  またもや相手の言葉を遮って冷たく言い放つと、瞬は沢野から視線と指を外し、彼から離れた。  そして一つ小さく息を吐くと、 「下でコーヒーを淹れてきます」  小声で言い、くるりと踵を返して部屋を出て行ってしまった。沢野が呼び止める暇もなかった。 「真さん」   扉の閉まる音に被さるように、柴浦が言った。  さっと顔を上げた彼の顔には、まだ怯えが残っている。柴浦は穏やかな口調で続けた。 「申し訳ありませんが、瞬さんのお手伝いをお願いできますか?」 「……あ、はい」 「下に柘植がおりますので、訊いていただければ分かると思います」 「わかりました、すぐに――」 「いえ、急ぎませんので、どうぞ下で一息入れてきて下さい。ここでは息が詰まるでしょう」  冗談めかしたような言葉に、真は一瞬首を傾げた。が、すぐにその意を汲んで深く頷いた。 「ありがとうございます」 「いえ。ではお願いします」  柴浦はさっと扉に寄ると、今し方瞬が出て行ったばかりの扉を押し開いた。  真が部屋を出て行くと、途端に部屋は妙な静寂に包まれた。  沢野のライターの音だけが、カチリカチリと響く。その音がやけに忙しなく、沢野の苛つきが手に取るように分かって、柴浦は溜息を吐いた。 「やれやれだな」 「……まったく、可愛くねぇ――」 「お前のことだ」  そう返されて、沢野は思わず柴浦を見た。 「俺が、なんだって?」 「公安はこんな甘い人間を飼ってるのかと呆れたんだ」  咄嗟に言葉が出ず、沢野は火を付け損なった煙草を口からむしり取った。 「お前まで何を」 「……あんたは、あいつの腹が分からないか」  それまで口数少なく成り行きを見ていた東城が、口を開いた。重く、ずしりと腹に響く声だった。 「あんたは、『一人でやろうなんて、思い上がるな』と言ったな」 「……えぇ」  沢野は手の中の煙草を固く握りしめた。掌の汗で、煙草は呆気なくバラバラに崩れた。 「神崎は、一人が立ち向かってどうこうできるような奴じゃない。悪知恵と兵力と後ろ盾と地の利と、それに人質だ。俺たちの方が圧倒的に不利だ。それは瞬だってよく分かってるはず」 「だからだよ。分かっているから、腹括ってるんだ」 「玉砕覚悟の特攻のつもりですか」  沢野が吐き捨てるように言った。 「それこそバカバカしい」 「……死にものぐるいでやる覚悟がなけりゃ、人を助ける事なんて出来ねぇ。あんたらのようにお仲間が雁首揃えて助けてくれる訳じゃねぇんだ」 「覚悟一つで人が救えるんなら、俺だって覚悟を決めてやりますよ」 「腹の据わってない者に、背中を預けるわけにはいかねぇな」 「こっちだって、カビの生えた美学に付き合うつもりはない」 「――それくらいにしておけ」  低く冷静な声が、間に割って入った。激しかけていた二人は、ぴたりと口を噤んだ。 「言い争いは結構だが、彼らを軽んじる事は誰であっても許さない。それはあなたも十分承知のはずだ」  真田が静かに言った。だが、沢野を我に返らせるには十分だった。 「……軽率でした。若頭にも、侮るようなことを口にしました。申し訳ない」  沢野はあっさりと頭を下げた。 「……いや……」 「お前もだ。瞬さんの感情に引きずられるな、未熟者が」 「う……すんません」  叱られて東城が肩を落とす。その様子に、酷く悪いことをしてしまったような気がして、沢野は頭を掻いた。  その二人を前に真田は続けた。 「まぁ、我々が共闘しているとはいえ、こっちが公安さんの都合を忖度するというのもおかしな話でしょう。悠さんの救出のタイミングに関して既に譲歩したのですから、後は好きにやらせて貰います」 「え、……ちょ……!」 「お互い、慣れたやり口というものがある。必要とあらば手は貸しますが、干渉はナシといきましょう」  飄々と言った態で言われ、沢野は反論する隙もない。結局瞬の台詞と同じ事を改めて宣言されたのと同じだ。 「公安さんが人質の人命をおろそかにすることがないよう祈ってますよ」  終いにはそこまで釘を刺され、沢野はぐっと言葉に詰まった。 「あなたはいいでしょう。我々との意思の疎通もある。だが、そっちの二課さん方が同じように人命優先で臨んで下さると信じて良いものかどうか」  真田は軽く溜息を吐いて、そう嘯いた。  遂に、沢野が声を張り上げた。 「分かりました! 分かりましたよ。俺は統括する立場にはありませんが、うちの連中が暴走しないよう手を打っておきます」 「頼りにしていますよ」 「――沢野さん」  話が途切れるのを待っていたのだろう。真田の言葉の後を受けるように、敬が言葉を滑り込ませた。  沢野はと言うと、うんざりしたような顔で反対側に立つ青年を見遣る。 「まだ、なにか?」 「……瞬は」  一つ一つ言葉を押し出すように、敬が言った。 「いや、瞬だけじゃない、俺たちみんな、怖いんです」 「……怖い? この計画が?」  目を伏せて首を振る敬の声は、少し震えていた。 「俺たちは、研究所が、……怖い」 「……」 「特に瞬は、悠をずっと近くで見ていたから。あの、酷い拷問を……」  ふとした折りに、未だにフラッシュバックする血の光景に、敬はずっと悩まされ続けていた。  敬たちでさえ、研究所のことに話が及ぶと、肚がすっと冷え、身体に震えが走る。増して瞬はどれほどだろうか。  敬の傍らに立つ涼が、後を続けた。 「瞬は、逃げ出したいのを必死に耐えている。悠を助けるために、研究所に飛び込むのを躊躇いたくないんだ。だから、あぁやって退路を断つしかない……」  暁の事を蔑んで見せたのも、全て自分のことの裏返しだ。  敬は、この場に真がいないことに心から感謝した。瞬のこんな決意など、真には聞かせたくない。  敬が感情を抑えようとして、小さく掠れた声で言った。 「瞬は、悠が死んだら、すぐに自分も命を絶つでしょう。俺たちはそれを留める事は出来ない」  敬の声は震え続けている。  自分は、悠を殺すぞと脅されれば、所長に膝を折るだろう。助けてくれと、足に縋って懇願するだろう。血を以て繋がれた足枷は、今なお敬を絡め取り、身動きを取れなくしている。  だが、瞬は。――瞬はきっと。 「俺たちは、二人を失いたくない。そのために、皆さんの力を貸して下さい」 *  柘植に教えられた簡易キッチンは、一階の一番奥にあった。扉も何もない、壁を切り取っただけの口から中を覗いたが、案の定湯を沸かしている気配もなかった。 「……瞬?」  声を掛けようか迷った挙げ句、真は小さく名を呼んだ。と、すぐに奥の方で、かたりと音がした。 「コーヒーの場所、わかんないでしょ?」  少し笑いながら声を掛ける。と、折りたたみ椅子に腰掛けて背を丸めていた瞬がゆっくりと顔を上げた。 「あぁ、……うん」  先ほどまでの荒々しさはどこかへ消え失せ、いつもの物静かな声が返ってきた。  真は肩から力が抜けてゆくのを感じた。やはり先の言い争いからずっと緊張していたらしい。 「こっちの棚からカップを出してね。お湯を沸かすから」  真は何でもない風に切り出した。  湯が沸くのを待つ間、二人は言葉を交わさなかった。  ガスコンロの前に立って、真はヤカンの立てる音を聞くともなしに聞いていた。  背後では、瞬が椅子に腰掛けて、時折かすかな吐息を零している。  やがてヤカンの音が甲高く変わった。ぶくぶくと大きな音を立てて蓋を持ち上げる。それを見ながら、まるで瞬みたいだ、と、真は思った。  沸点に達するまでは、外からは様子がまるで見えないのに、沸騰した途端に激しい感情が外へあふれ出す。 「マコ」  瞬が、落ち着いた声で真を呼んだ。 「さっきはゴメン」 「ううん。大丈夫、平気」  真は、後ろを振り返ろうとしてやめた。なぜか今、瞬の顔を見てはいけないような気がしたのだ。  瞬は今俯いているのだろう。少しくぐもった声が、話を続けた。 「驚いたろ? ……恩知らずなことを、言った」 「誰も気にしてないよ。沢野さんだって、分かってくれる」  そう答えると、後ろでまた小さく息を吐く音が聞こえた。 「後悔してるの?」 「いや。……いいや」  衣擦れの音と共に、椅子が軋んだ。  真の背に、温もりが触れた。肩に、瞬の大きな手が置かれる。  その瞬間、真の体が小さく震えた。恐れなのか、昂揚なのか。真は瞬の心を読まないよう己を戒めた。  けれど知らず知らず同調してしまっているのかもしれない。この震えを瞬に知られたくなくて、真は努めて明るい声で言った。 「僕も、行くよ」 「……え?」 「僕も付いて行く。研究所だってどこへだって付いて行くからね」 「ダ、メだ、危険――」 「僕の力は絶対役に立つよ。離れた所からだって、どこにどれだけ人がいるか、中で何が起こっているか全部分かるからね。連れて行ったら絶対お得だよ! それに」  真がくるりと後ろを向いた。遙か頭上にある瞬の顔を見上げる。  眉尻を下げ少し情けない顔になった瞬は、幼かった頃の面影を色濃く残している。真の胸に痛いような愛しさがこみ上げてきた。 「最後まで見届けてあげる」  真が、瞬を見つめたまま言った。 「君が願いを叶えるのを、見届けてあげるからね」  そして瞬の胸をぽん、と叩いた。 「優しい瞬。可愛い、大事な、泣き虫瞬。みんなが君に力を貸すよ。だから思いっきりやっておいで。あのおばかさんを取り返しておいで」  瞬は、喉の奥で引き攣れた声を飲み込んだ。そして口元をきつく引き締めると、ただ黙って頷いた。

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