56 / 60

第十一章 瞬間と悠久 2

「おいおい」  モニタを眺めて作業をしていた男が、その手を止めて苛々と呟いた。すぐに隣に座る同僚がひょいと顔を上げた。 「なんだ? どうかしたか」 「まただよ。またエラーが出た」 「システムエラー? この間からヤケに多いな」  言いながらディスプレイを覗き込む。 「思いつきで手を入れるからあちこち齟齬がぼろぼろ出てくんだよな……」  男は頭を掻きむしると、キーボードを叩いた。途端にビープ音が響き渡る。 「くそッ」  音はすぐに止んだが、男の目の前のディスプレイには、エラーメッセージと思しき数字の並ぶ小窓が次々と表示されては消えてゆく。 「ウィルスじゃ――」 「やめてくれよ! うちのセキュリティにかぎってそんな」  小声で続けながら男はキーボードを必死に叩く。  隣の男が、壁に大きく広がる電光掲示板に目を向けた。一箇所が赤く明滅している。 「また同じ所だな」 「あぁ、あそこはちょっと特殊なところでさ。色々厄介なんだ……クソ、これでどうだ」  男が実行キーを押すと、エラーメッセージが消えた。同時に電光掲示板の明滅も止まった。 「特殊って?」 「引き継ぎの時聞いてないのか?」  数週間前の異動でここに来たこの同僚は、聞いていない、と首を振った。 「近隣一帯とは別経路なんだな」 「あぁ、それほど大きい施設でもないのに、占有している。システムもここで一応統括管理しているけど、ここは何かあったらすぐに飛んでいかないといけないんだ。この前定期点検に行ったら、警備員に睨まれた」 「警備員? こんな小さな無人変電所に? なんだそれ」  男が肩をすくめた。 「やめとけよ、知ろうとするな。俺たちは黙って言われた通りにやってればいいんだからさ」 「それにしても、ちょっとエラーが多すぎるぜ。一度止めてバグ取りしないと、暴走してからじゃ大事になる」 「この前、ここのシステムにだけアップデートが入ったんだよ。たぶん、それが原因だろうな」  そう言って男は電話を睨み付けた。 「迂回路は」 「ない」 「……止めても大事、止めなくても大事、か」 「……だよなぁ。しょうがない、上に掛け合うか……」  男は静かになったディスプレイをもう一度見遣ると、渋々立ち上がって電話の受話器を手に取った。 「……上手く行ったみたい」  真が、二人を見上げて言った。  ここは、変電所の統括センターの建物から数十メートル離れた場所だ。  真と敬、そして瞬は、敷地内の人気のない建物に忍び込んだ。ここ数日の成果の確認のため、真がテレパシーで内部の動向を探っていたのだが、センター内の慌ただしい様子から、すぐに彼らの工作が効果を上げたことが分かった。 「職員の人が責任者に電話してた。送電を止めるか止めないかでちょっと揉めてたけど、おおごとになって困るのはこちらだって職員が言ったら、相手も納得したみたいだよ」 「で? いつ止めるって?」  敬が小声で言った。 「やるなら早いほうが良いから、明後日だって。明日専門の人を呼んで対策の相談をするって言ってる」 「まだ揉めそうか?」  瞬が訊いた。 「うーん、どうかな、電話の相手は渋々って感じだったみたいだけど」  その真の返事に、瞬は少し思案げな顔をしたが、すぐに二人を見て言った。 「一旦ここを離れて沢野さんに報告しよう。もしかしたら後でもう一度、仕掛けた方が良いかも」 「駄目押しか」  瞬が黙って頷いた。どうにも腰の重い上役をその気にさせるために、もう一押し必要かもしれない。  敬は頷きを返しながら、横目で瞬を見た。あれだけ手厳しく沢野に喧嘩を売ったのにと、少し可笑しくなって口の端で笑う。と、気配を感じたのか、瞬が敬を見て口を尖らせた。 「……なんだよ」 「何でもない」  行こう、と言いながら、敬は二人の腕をとった。 *  悠は、突然目覚めた。  どくどくと気味の悪い鼓動が耳につく。慌ただしく周囲に視線だけを走らせ、ここが研究所であることを思い出した。  詰めていた息を吐き出すと、体温が急激に下がるような錯覚に陥る。  いつもよりも深い眠りの中で、悠は確かに夢を見ていた。  目覚めと同時にその内容は霧散し、欠片も思い出せない。だが、汗ばみ緊張を孕んだ自分の身体を見れば、夢見の善し悪しは容易に想像が付いた。  身じろぎをすると、毛布に触れた箇所がざわざわと粟立つ。  妙な感覚が肌を覆っている。  悠は、時が来たことを知った。 *  小野寺は、ふと足を止めた。  遠目に見慣れない人影を見かけたからだ。  研究員でも職員でもない。神崎が集めてきた男達とも違う。  数人の大きな男に囲まれるようにして、ひょろりとした中年の男が歩いていた。  神崎の客だろうとすぐに思い至ったが、奇異な感覚はぬぐえなかった。  客が珍しいと言うこともあったが、それ以外にも何かが引っかかる。  男は先導する職員と何事かを話しながら、小野寺の向かう方とは逆の方向へ消えていった。  それを見送りながら、胸の内の違和感を探る。  ――あの男……。  小野寺は、再び歩き出しながら、今し方の男の様子を思い出した。  ――……そうか、あの動き。  男は、話をしながら身振り手振りを交えていた。その動きが見慣れないものだったのだ。  ――外国人か。見たところアジア系のようだったが。  研究所にわざわざ招かれたアジア系の外国人。物々しいSP。案内役の職員の様子。どれをとっても、碌でもない想像しか思い浮かばない。そして、こういう想像は大抵外れない。  小野寺は小さく溜息を零すと、ようやくたどり着いた部屋の扉をノックもなく押し開いた。 「今度は何を企んでるんだ」  部屋に入るなり開口一番にそう言うと、中にいた男がにやりと笑った。 *  その日は、どんよりとした曇り空で始まった。  スモークガラス越しに外を眺めながら、沢野は、雨でなくて良かったな、とぼんやりと思った。  時刻を確認すると、夜半を三十分ほど過ぎている。  公安機動捜査隊一個隊とSATが既に待機している。一見してはそれとわからない地味なワゴンが数台止まっているばかりだが、中では命令が下されるのを待つ屈強な男たちが息を潜めている。  そこからやや離れた指揮車両で、村瀬と沢野が額を付き合わせて、簡易テーブルの上の地図を見ていた。  もう何度も繰り返し見た地図だが、作戦開始を目前にして落ち着かない神経を静めるためには、必要な行為だった。 「送電停止まであと……」 「三十二分」  これもまた、既に何度も繰り返された会話だ。  沢野が腕時計から視線を剥がした。 「状況は」  村瀬が車両後部に陣取っている通信班員に声を掛ける。 「動きはありません。静かなものです」 「了解。引き続き対象を注視。逐次報告を怠るな」 「了解しました」 「むら――警部」  沢野が、小声で村瀬を呼んだ。村瀬は返事をするより先に鷹揚に手を振った。 「部下なら気にするな」 「……気にするさ」  視線を地図に落としたまま、小声で続ける。 「無理を通して、申し訳ない」 「それは――」  沢野はゆっくり首を振った。 「警部の立場も重々承知の上で、こんな我が儘を聞いていただいた」 「よせよ、そんな」  村瀬の言葉は、沢野が懐から出した封筒に気を取られて途中で消えた。 「これ、預かってください」  表書を見なくても、村瀬はそれがなんなのか即座に分かった。 「お前が責任を取る必要はないだろう。そもそも部――」 「警部」  沢野が顔を上げた。相手の言葉を押しとどめる。 「二課の精鋭の中に、部外者の自分がノコノコ首を突っ込むだけでも、相当なモンですよ」  そう言って笑った。 「警部は、何が起こっても知らなかったって事にして下さい」 「……どういう意味だ」  村瀬が聞き返す。 「何か企んでいるのか」 「自分はオブザーバーですが、不測の事態の時には自分に従って下さい」 「沢野」 「今日の相手は常識が通じない。……分かるだろ?」  沢野はそう言うと、自分の胸をとん、と突いた。  村瀬には真田達との協力を伏せてあった。例え利益供与のない真っ白な関係であっても、相手は暴力団だ。確実に疑いの目が向けられる。  せめてこの馬鹿正直な友人には、知らなかったことだという逃げ道を残しておきたかった。  村瀬が尚も追求しようと口を開いたそのとき、突然沢野の目の前に二人の青年が現れた。  はっと息を呑む。続いて村瀬が後ろを振り返り、ぎくりと身を強張らせた。 「沢野さん」  青年の片方が声を掛けた。瞬だった。 「驚かせてすみません。車の出入りは見られない方が良いと思って」  彼の傍らに立つ敬が、小さく会釈した。  沢野は小さく頷きを返してから、ちらりと通信班の方を見遣った。沢野らに背を向けて通信機材と対峙している彼らは、突然現れた人間に気付かなかったのか、それとも気付かないふりをしているのか、こちらへは一瞥もくれない。 「送電停止の準備は、予定通り進められています。統括センターの方で動きが慌ただしくなってきました」  瞬が言った。 「分かった」 「こちらの計画も、予定通りですか」  沢野は村瀬を見た。そして頷いた。 「一時ちょうどに作戦開始だ。南西と北西の麓より二班が侵入。二時に作戦地点に合流後、研究所北面の出入り口から突入する」 「分かりました。俺たちは、直接中へ跳びます」 「俺も突入班に同行する」 「時間を合わせましょう。突入時刻のきっかり十分前に、俺たちが仕掛けます」 「……その十分後にSAT第一班突入、更に五分後にSAT第二班並びに公機捜を突入させる。突入の合図は、公安部長が行うからな。まずSATが先行し各フロアを制圧。その後公機捜が現場の調査分析を行い、対象の痕跡を追うと共に、証拠の収集にあたる」  村瀬が言った。その声に動揺はない。瞬もまた村瀬に頷いた。 「こちらも真に、所長の位置を追わせます。分かり次第、真から沢野さんに伝えますから」 「了解。……大丈夫か」 「どれがですか?」  瞬が笑う。 「真の能力なら、間違いはありませんよ。傍受されることのない完璧な通信です」  沢野は何かを言おうとしてやめた。そして、頼りにしてるぞ、とだけ言った。 「もう一人、そちらが探している人間が居るんですよね」  瞬は村瀬に言った。沢野から互いに協力者の存在を伝えられてはいたが、彼らはこれが初顔合わせだった。だが自己紹介をしているような余裕はない。 「……あぁ」 「写真を見せていただけますか」  村瀬は何のためらいもなく、瞬に写真を渡した。瞬は受け取ってししばらく写真を見つめると、やや後ろに立つ敬にも見せた。 「日本人ではない?」 「北朝鮮の人間だ」 「特徴は」 「年齢は五十前。身長は160前後、かなり痩せている。普段は眼鏡を掛けているが、まぁ鬚や髪型なんかは、こういう連中には変装の道具でしかないからな」  二人は頷くと、村瀬に写真を返した。 「この男が、昨日から研究所に逗留していることは確認済みだ」 「そうですか……それならこっちの方も気をつけておきます」 「助かる」  村瀬は写真をしまいながら、ごく自然に礼を口にした。 「何かあったら、真を呼んで下さい。真の受信能力は、半径十五キロの範囲内ですから、十分にカバーできます」 「遮蔽物の影響は」 「ありません。コンクリートの壁越しでも大丈夫です。どちらかというと、思念の強さの方に左右されますが……その点、沢野さんなら問題ないでしょう」  言外に能力のことを言われ、沢野も納得するしかない。 「真の側には誰か必ず居ますから、すぐにこちらにも用件は伝わります」 「……確かに便利だな」 「えぇ」  言いながら、瞬はデジタルの腕時計を差し出した。互いに時刻を合わせ直し、改めて決行の時刻を確認すると、そのまま二人は何も言わず車内から消えた。  村瀬が、ふっと息を吐いた。 「目の当たりにすると、結構クるな」  その言葉とは裏腹に、村瀬は至って冷静だった。その胆力に内心感動すら覚えながら、沢野が言った。 「写真まで……良かったのか」 「お前の協力者だろう? この程度ならどうってことないさ」 「さすがと言うべきかバカというべきか」 「そう褒めるな」 「……」  沢野が返答に窮している内に、村瀬は椅子に掛けてあった上着を手に取った。  厚い胸板に巻き付いていたホルスターが上着に隠れるのを、沢野はぼんやりと見つめた。  この武器を自分たちは使うことになるのだろう。  沢野にはどこかよそ事のようにも思える。その視線に気づいたのか、村瀬が沢野へ目を向けた。 「……武器携帯命令、出てただろう」 「いらね」 「おい。違反は厳罰だぞ」 「分かってるよ。だがなぁ、俺が持ってたところで役に立たねぇし」 「そう言う問題じゃない」 「俺みたいなへたくそが撃って、味方に当たったらそれこそ大問題だろ」  そう言って、沢野はかがんでいた姿勢を正した。 「どうせ辞めるつもりだ。クビになるならそれでもいいさ」  沢野は肩をすくめた。村瀬もこれ以上何を言っても無駄と思ったのだろう。一瞬眉間の皺を深くした後、くるりと後ろを向いた。 「時間だ。いくぞ」  銃は使えなくとも、自分には――自分たちには武器がある。  己の力で暁を、そして前を行くこの友を守ることが出来るのだろうか。  沢野はこれから始まることを前に、震えるような感情を抱いていた。 *  ――やっぱり映画なんかとは凄みが違うな。  瞬は、上層から彼らの動きの一部始終を見ていた。  ここは近隣で最も高い建物の屋上だ。そして瞬は、その端に細く高く聳え立った避雷針の先端に立っていた。  瞬は不思議なことに全くふらつくことなく、銅製のポールの張り出しに立って下界を睥睨している。 「なぁ、お前良くそんなところに立てるな」  恐ろしい物でも見るように、避雷針の下から涼が見上げている。 「ん……なんか、ここ、落ち着く」 「……だろうなぁ」  それきり涼は口を噤んだ。瞬と同じ方角へと視線を向ける。  深夜だ。町の中心部から外れたこの辺りには、僅かな明かりしかない。  それでも、木々の間から漏れ光る街灯に、時折人影の動くのが見える。 「しかし、プロってのはすげぇな。結構な重装備なんだろ?」 「うん。防弾チョッキだけでもすごい重さだった」 「それに武器を山ほど持って、あれだけ動けるんだからなぁ」  素直な賞賛の言葉に、瞬も頷く。  派手な号令も行軍もない。彼らはただ静かに待機していた車輌から出て、滑るように山中へと消えてゆく。 「シミュレーションも完璧だって」 「シミュレーション? 何のだ?」 「同じ傾斜、同じ距離、似たような繁り具合の山で、何度も侵入の模擬演習を繰り返して、侵入経路と所要時間の確認をしたらしい」 「……つくづくプロだな」  もう一度瞬が頷く。と、そのとき涼から少し離れた場所に、唐突に二つの人影が現れた。闇に隠れてはいるが、顔を見ずとも誰だか分かる。  背の高い方の人影が言った。 「今、しんがりが入った」  その言葉と同時に、瞬と涼が腕時計のストップウォッチ機能をスタートさせる。 「何分かかるって?」 「三十六分」 「早ぇなぁ」  今日何度目かの感嘆の台詞に、近づいてきた声が呆れて言った。 「お前も少しは緊張したらどうだ」 「おぅ、してるぜ。お前と同じくらいにはな」  すかさず返される軽口に応じようと口を開きかけたところで、不毛なやりとりになるだろうと思い直す。  代わりに敬は上を見上げた。 「お前、良くそんなところに立てるな」  何の気なしに言った台詞だったが、瞬と涼と、二人から同時に見つめ返されて敬もひるんだ。 「……なんだよ」 「……」 「やだねぇ、お前と同じこと口走っちまうなんて」 「なっ……仕方ないだろう。危なっかしく見えたんだから」 「そうだよ! 瞬、危ないから降りといでよぉ」  真が避雷針の真下でポールを握りしめて、心配そうに見上げている。  これからもっと危険な場所に向かおうというのに、と瞬は胸の内で苦笑しながら、軽く足場を蹴った。金属が撓んで軋みを上げる。  そのまま瞬はふわりと地に降り立った。そして背後の三人へ振り向いた。 「そろそろ行こうか」  軽く、さりげない調子で、瞬が言った。  三人は、それぞれの表情を引き締めると、頷いた。 *  暗闇の中、部隊はシミュレーションの通り粛々と進んだ。沢野も彼らの後について山道を駆け上がる。  相当きつい道行きだったが、後れを取らないよう必死に付いて行く。  先を行く第二班先頭には村瀬がいる。自分だけが脱落するわけにはいかなかった。  ぜぇぜぇと上がる自分の息に、この場に間諜が居たら一発でバレるな、などと埒もないことを考える。  やがて肺と太股が限界を訴え始めた頃、公機捜を中心とした部隊は突然足を止めた。  沢野も息を整えつつ周囲に目を配る。と、眼前に聳え立つ黒々とした建物に目を奪われた。  この建物を自分の目で見るのは初めてだった。  周囲を塀で囲まれているが、檻としての機能は果たせそうにない。所々崩れたまま放置されているのが、暗闇の中でも見て取れる。  一カ所広く切り取られ開いた入り口には、門扉も何もない。伸び放題の草が風に扇がれて不気味に手招きしている。  その荒れた様子のせいで、逆に、足下に広がる研究所の心臓部のことを考えずには居られなかった。  ――この下に奴が居る。  にわかに、沢野の背を悪寒が駆け抜けた。恐れなのか。それとも武者震いか。  沢野がふっと息を吐いたとき、気配が動いた。  SAT第一班が突入を開始した。 *  彼らは次々と、そして淡々と研究所内の部屋を制圧していった。  拍子抜けするほど何の抵抗もない。前もって停電の通達があったためか研究員の姿もなく、警備員らしい男二三人を拘束しただけで、フロアは一層毎に彼らの管理下に置かれてゆく。  だがその一方で、肝心の神崎の姿も、北の工作員の姿も、そして悠も見つからなかった。  隊員らから続々ともたらされる報告にも、徐々に戸惑いの色が濃くなってきている。 「S班よりB班。地下一階、オールクリア。制圧しました。誰もいません」 「K班よりB班。地下二階、オールクリア。警備員を一名拘束。それ以外は無人です」  地上階で対策本部を設け待機していた沢野らは、淡々と述べる通信班の声を聞いていた。その一方で、沢野はめまぐるしく思考を巡らせていた。  あまりにも簡単すぎる。  ここに北の要人と神崎がいる事は間違いない。神崎がここを空けるはずはないし、出て行ったという報告もない。  まさか他にまだ出入り口があるのかと嫌な考えが頭を過ぎったが、それをすぐに打ち消した。  暁は、出入り口は山腹に開けられた一箇所と上の居住施設の一箇所だけだと断言した。彼は、沢野の影響下でそれを語った。嘘を言う隙はない。裏で入手した設備設計図の分析でも同様の結論が出ている。  ……未だ、瞬たちからの報告ははいっていない。彼らはまだ、上の居住区の方を探っているのかもしれない。  沢野の隣で、村瀬もまた唸った。同じように、不可解な状況を分析していたのだろう。 「妙というか……異様だな」 「あぁ」 「読まれてたか」 「おそらく」 「……罠?」  周囲に聞こえないよう、村瀬が小声で呟く。それを沢野は一蹴した。 「こんなあからさまな罠があるかよ」 「それじゃ、ガサ入れを読んで別の場所に籠もったか」 「いいや、神崎は逃げない」 「――S班。地下三階、オールクリア。やはり誰もいません」  沢野の言葉に、通信班の声が重なる。  沢野が立ち上がった。 「最下層で奴は待ってる。誘ってんだよ、俺たちを」  そう言って、沢野は村瀬に背を向けた。 「おい――」 「ちょっくら行って、奴の顔を拝んでくるわ」 「……お前、教場の時から武道系はからっきしダメだったよな!」  村瀬が声を張り上げた。足を止めて振り向いた沢野は、笑っていた。 「ンだよ、今それを言うか?」 「柔道も剣道も、大抵お前、一番先にひっくり返ってた」 「あー、向いてなかったからな」 「……お前はここで待機しろ。俺が行く」 「ばーか。大将が先頭切って突っ込んでどうすんだよ」  安っぽい台詞に自分で肩を竦める。と、会話に割り込むように通信班がカウントを始めた。 「電力復旧まであと十分です」 「……おっと、いよいよ開始だな。まぁ、やばくなったら助けてーって電話すっから」  暗に、警察無線を使わないことを伝える。村瀬の顔が更に険しくなった。 「格好つけてんじゃねぇよ」 「おぉ、俺も案外サマになるだろ? んじゃま、そういうことで。大将は後からゆっくり来いよー」  沢野はへらりと笑うと、地階へ続く階段へと消えていった。 *  沢野は階段を駆け下りながら電話を取り出すと、画面も見ないまま短縮ダイヤルを押した。  回線が開くと同時に言う。 「地下五階だ」 『分かった』 「今どこだ」 『地上の居住区外に待機している』 「あと……七分で電力が復旧する。エレベーターは使うなよ」 『無論だ。ところでここに予定外の人間が居るんだが』 「……何人だ」 『二人』 「悪いんだが、そいつらも連れ来てくれねぇか」  沢野が言うと、電話の向こうで男が黙った。だが、すぐに返事があった。 『連れて行くだけで良いか』 「あぁ。後の自分の始末は自分らでやるだろ」 『了解した』 「すぐに敬に向かわせる。彼に運んで貰え」  それだけを言い終えると、沢野は返答を待たずに電話を切った。  この建物は階段の位置がバラバラで、一気に駆け下りることが出来ない構造になっている。それが余計に沢野を苛立たせた。  ――真。  走り続けているためにまとまらない思考の中で、それでも強く、真に呼びかける。と、すぐに彼の頭の中に声が響いた。  ――はい、聞こえてます。  驚くほどクリアな音声……ではないはずだが、まるで高性能のイヤホンを通じて聞こえてくる音声のようだ。  ――地下五階だ。そこに奴らがいる。  ――探ってみます。  ふっと気配が途切れる。一瞬の後、再び脳内の回路が開いた。  ――いました。所長です。あの思考波は間違いありません。  ――他には。  ――かなりの人数が……、います。  やはり神崎は、待ち構えている。  ――悠君は? いたか?  ――いいえ、上にはいませんでした。  ――下には? 確認できないのか。  ――えぇ……、眠っているか、意識がないのかも……。  歯切れの悪い言葉が続く。時折思念が揺れるのは、悠が見つからないという動揺のせいだろう。  ――今、俺が下に向かっている。瞬たちにもこちらに来るよう伝えてくれ。  ――はい。  ――あ、それから!  危うく、地上で待っている者たちのことを忘れるところだった。  ――上に柴浦達が待機しているんだ。敬に運んでくれるよう言ってくれないか。  ――大丈夫です、もう向かってます。  沢野は、飽きるほど繰り返し見た図面の記憶を頼りに階段を探した。もう一つ階段を下りれば、地下五階だ。  ――先に行ってる。  ――……お気を付けて。すぐに僕らも行きます。  思念の波が遮断された。同時に、沢野は歩調を緩めた。非常灯に薄く照らされたホールを見つけたのだ。  弾む息を抑えつつ階段を下りきると、最下層のホールの手前に立った。いきなり飛び出すような馬鹿な真似はさすがにしない。  先にSAT数名がフロアの制圧に向かっているはずだ。  物音一つしない暗闇を、沢野はじっと見つめた。  電力回復まで、あと三分。

ともだちにシェアしよう!