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第十一章 瞬間と悠久 3
沢野は目を閉じたまま、180秒のカウントに集中した。
明かりの灯る瞬間、少しの変化も漏らさぬよう、耳と肌の感覚を研ぎ澄ます。
だが幸いなことに、何者かが襲ってくる気配はなかった。ホールの照明が通電する、低いぶぅんと言う音だけが耳に届く。
空調も生き返ったのか、ゆっくりと空気が動くのを感じた。
沢野が、ふっと息を吐いた、そのときだった。
一発の銃声が、フロアに轟いた。
沢野は駆けだした。
*
銃弾は立て続けに数発発射されたようだ。轟音が幾度か重なる。
曲がりくねった通路と天井のダクト類に反響して、位置の確定は容易ではない。
沢野は、ただ勘と本能に従って駆けた。
通り過ぎる小部屋の無人を、横目で確認する。それから彼は懐から電話を出した。速度を落とさないまま通話ボタンを押す。
『沢野!』
「銃声だ。状況は」
『SAT1班班長以下四名が十余名の男らと交戦中。銃声はこちらの威嚇射撃だ』
「向こうは素手か」
『あぁ。だが、相手は被弾の後も平気で動き回っているらしい』
「持ち弾全弾撃ち込ませろ」
突入部隊には事前に敵の治癒力のことを伝えてはあったが、やはり目の前に異様な能力を突きつけられ、浮き足立つのも無理はない。
「GPS情報を送れ。ここは迷路だ」
『班長のを送る』
「了解。全員その場で待機の命令を出しといてくれ」
『なんで』
「SATじゃ歯が立たない。それよりマルタイの捜索に注力しろ」
『しかし――』
「こっちは別働隊が向かってる」
『別働隊!? 聞いてねぇぞ!』
「言ってねぇもん。あ、お前もそこで待機ね」
『何?』
「もう一度連絡するから、そこでおとなしく待ってな」
「おまっ、勝手を――」
相手の言葉を遮って通話を切る。ほどなくして詳細な位置情報が送られてきた。どんな顔でこれを送ってきたのかと思うと、沢野の唇がわずかに綻ぶ。
目的地の確認のため、沢野は一旦足を止めた。と、背後から足早に駆けてくる足音が響くのが聞こえた。一人の物ではない。複数いる。
沢野は咄嗟に身を隠そうとしたが、折悪しく周囲に開いた小部屋一つない。
「……くそ」
村瀬の言葉ではないが、自分は攻撃にはとことん向いていない。ひたすら躱し、逃げ、隙を見て催眠をかけるしかない。
幸い通路は狭い。一人ずつなら何とかなるかもしれない――。
沢野は覚悟を決めて、足音の方へと身構えた。徐々に近づいてくる足音に耳を欹てる。
と、ふと重い足音に混じって、軽く小刻みな音が混じっている事に気付いた。そしてそれに訝しむ間もなく、声が聞こえた。
「沢野さん?」
聞き覚えのある声だ。沢野がそちらへ足を踏み出すと、通路の曲がり角から見知った顔が現れた。
瞬だった。それに続いて、真と敬、涼が顔を出す。その後ろを見渡すと、東城以下の面々が顔を揃えていた。総勢十名ほどだろうか。当初の予定からかなり手勢を絞ったようだが、これだけ身動きの取りづらい構造ではかえって良策だったと言えそうだ。
東城は黙ったまま沢野を見、頷いた。
「マコがここにいると言ったので、追ってきました。……直接跳ぶとそちらに混乱を招きそうだったので少し手前にしたんですが、正解だったようですね。監視カメラは使えなくしてきました。しばらくは大丈夫です」
瞬たちも、先ほどの銃声を耳にしていた。今はその音も止んでいる。沢野は頷いた。
「……この先だ」
「えぇ」
瞬が敬を見遣った。敬が一歩前へ出た。
「ここは覚えがあります。この先にかなり大きな部屋があるはずです」
一度きりのことだからもう忘れただろうと思っていたが、この場所に来て敬の記憶は鮮明に蘇った。
血を抜かれガラスケースに入れられた悠を目の前に、藻掻き苦しんだあの場所だ。
あの部屋ならば広さがあり、出入り口は狭い。所長の作った兵隊達はそこで待ち構えているだろう。
「俺たちが先導します」
「分かった。一応フォローする」
沢野が脇に退き、敬が先頭に立つ。瞬、涼、真とその後に足早に続きながら、沢野は肩を並べた男に声を掛けた。
「すまんな」
「何に対してだ」
「……まぁ、いろいろ」
「かまわん」
素っ気ない柴浦の返答に沢野が笑った。
「これだけの面子が揃うと、さすがに心強いな。……組長は置いてきたのか」
真田の顔が見あたらないことに気付いて問うと、柴浦は頷いた。
「さすがに、幹部が居なくなるわけにはいかないからな。若頭が必死に説得した」
「確かに、リスクは分散すべきだな」
訳知り顔に頷き返す沢野を、柴浦はただ黙って流し見た。
「……そう言えば、オマケの二人は?」
「最後尾だ。お前への罵詈雑言を聞かせてやりたかった」
縦に長く並んで進まざるを得ないこの場所では、後方まで確認することは出来ない。沢野は肩をすくめて見せた。
「それだけ元気がありゃ大丈夫だな」
「……良いのか」
沢野が言う二人が何者なのか、勘の良い柴浦は既に気付いていた。
「あぁ」
柴浦は前を見据えたまま言った。
「お前にしては洒落が効いている」
「最後の花道くらいはな」
沢野がそう答えたとき、先頭を行く敬が足を止めた。
通路の突き当たりに観音開きの扉がある。扉は片側が開け放たれていた。
通路から覗き見ただけでは、部屋の内部を見渡すことは出来ない。部屋は右手奥へと広がっているらしい。
部屋の前の通路は極端に狭く、外部の者が容易に突入できないよう、巧妙に設計されている。
彼らから見える範囲に、隊員の姿はない。それどころか物音もしない。
瞬が後ろに立つ真を見た。真は緊張した面持ちで頷く。確かに、だれかがここにいる。
沢野は突入のタイミングについて必死に考えを廻らせていた。
――SATは奴らに制圧された。重火器の類は十中八九奪われただろう。飛び込んだら蜂の巣か。中の様子が分からない以上、発煙弾や閃光発音筒 は使えねぇ。人質が居る可能性もある。誰かが囮になって扉から中へ飛び込んで、残りの者が背後から襲う……? くそっ、んな泥くせぇやり方しかないのか! 考えろ、考えろ……!
沢野が頭を掻きむしった。と、その視界の端でふらりと青年が動くのが見えた。
彼が大きく扉に向けて一歩を踏み出し、沢野は息を呑んだ。
「シュ――!」
瞬は振り返ると、ゆっくりと眼を細めた。唇には笑みがある。
彼を止めようと手を伸ばしたが、それを今度は敬と涼に遮られた。二人もまた笑っていた。
沢野はようやく悟った。
――真が、俺の頭を読んだのか!
三人は、後ろへ向けて軽く手を挙げると、軽く伸び上がるようにして床を蹴り、駆けだした。
*
瞬が最初に部屋に飛び込んだ。
同時に素早く視線を走らせる。
――左奥3、中前3、中奥5、右奥2、入り口脇2。
瞬時に敵を視認し、それを真に伝える。
そのまま部屋の端まで駆け抜けようとして、不意に瞬は足を止めた。
敵意を感じない。それだけではない。人の意志も感じない。
男達は、瞬が目の前に立っていても何の反応も示さない。ただ棒立ちのまま、中空に視線を向けている。まるでできの悪いマネキンのようだ。
彼らが催眠状態にあることは容易に想像が付いた。
ただその男達の手には、何も握られていない。
――銃を持っていない……?
かなり広い部屋の床には、重装備の隊員がばらばらと昏倒している。ぱっと見渡してみたところでは、流血の後はない。
銃器を奪われているが、肝心のそれは部屋の隅に堆く積み上げられていた。
――とりあえず使う気はないのか。
瞬は、松永らの二度目の襲撃のことを思い出していた。
実験と称されたあの時も、松永らは銃を使わなかった。
――俺たちを一息に殺したら、実験にならないからか。
所長は、男達の治癒力を見せつけたいのだろう。おそらくは、今ここを訪れている客人に。より高く薬を売りつけるために。
瞬の後ろに続いて飛び込んできた二人もまた、瞬と同じく足を止めていた。
「……んだよ、これ」
涼が呻くように言った。
「暁、か」
敬が言う。
瞬はそれに答えず、外に向けて声を張り上げた。
「沢野さん!」
すぐに沢野が飛び込んできた。すぐ後に柴浦が続く。東城も部屋に入ったが、無反応の敵の様子に一様に眉を顰めた。
「……ナニナニ、なんなのよこの有様?」
突然降って沸いた聞き覚えのない声に、瞬が振り返る。
扉から顔を覗かせて辺りを見回していたのは、黒縁の眼鏡が印象的な背の小さい男だった。その隣には、こちらも見た事の無い痩せた男がいた。
「さわのー! 訊いてねぇよこんなのー」
その台詞に、沢野の関係者と分かる。もう一人の痩せた男の首には、小ぶりな一眼レフのカメラが引っかかっていた。
「見てわからねぇか」
「わっかんねぇよ! なんなのその気味悪いおにーさんたち!」
「沢野さん」
果てしなく展開してゆきそうな話に、瞬が割って入った。
「今の内に、この人達を運び出しましょう。あと、念のためこいつらも拘束を」
昏倒している隊員たちと棒立ちの男たちを交互に指さす。
「利用されたら困る」
瞬の言葉に、東城が先に動いた。連れてきた組員に一言二言指示すると、場慣れしているのか男たちはすぐに、二人一組で隊員たちを抱え上げ運び出して行く。
その途中、幾度か部屋の中がパパッと光った。瞬は背を向けていたが、たぶんあの痩せた方の男が写真を撮っているのだろう。沢野と眼鏡の男の会話はその間も続いている。
沢野が連れてきたのはおそらくマスコミ関係の者たちだ。公安やSATの醜態をこんな風にさらして良いのかと思ったが、まぁ、沢野が連れてきた時点でそれも織り込み済みなのだろう。
瞬はその結論に達してから、彼らを思考の外に追いやった。
ものの数分で、部屋の中には不気味な男たちと、瞬たちだけとなった。
――マコ。
瞬が、胸の内で真に呼びかけた。
――気配はあるか?
真は、立ち尽くす男達を薄気味悪そうに見ていたが、瞬の問いには黙って頷いた。
――薄いけど、ある。
――薄い?
瞬は、慌てて周囲を見回した。部屋には窓はなく、天井も高い。四方を白い壁に囲まれ、出入り口は一つ。
無言の男達が三々五々立っている他は、何もない。
と、不意に敬が呟いた。
「おかしい」
思案げに呟いたその顔は、部屋の奥へと向けられている。
「ここは、もっと広かったはずだ」
記憶の中のこの部屋は、入り口から奥までかなりの広さがあった。あの日、床にあったマーカーポイントを思い出す。
――5メートル毎にポイントが6つ……。
だが、今彼らの居る部屋は、その奥行きの三分の二ほどしかない。それに、ここには奥にもう一つ出入り口があったはずだ。
自分の記憶違いだろうか――、敬がそう言おうとしたときだった。
目の前の壁が、一瞬にして消えた。
*
その場にいた誰もが、壁が消えたと思った。
突然部屋が奥へと広がったのだ。やはり敬の記憶の通り、部屋の奥に扉がある。
部屋の構造を確かめようとそちらへ視線を動かして、敬はぎくりと身体を強張らせた。
新たに現れた奥の壁際に、一つぽつんと椅子が置いてあった。
椅子には、何かが座っている。
全く動かないそれを、敬は最初、人形だと思った。
椅子に深く腰掛けているが、上体はずり落ち、首が今にももげて落ちそうな程項垂れている。
無残に切り刻まれた髪は色褪せ、蛍光灯の暗い明かりに白っぽく映る。
腕は両脇に垂れ下がっているが、片方の腕は外れ掛かっているのか、腕の長さが違う。
病衣のような白い合わせの着衣は乱れ、両足はだらしなく開かれて、右の足首はおかしな方向に曲がっていた。
足首には茶色く汚れた薄汚いガーゼが貼られている。
壊れた人形か何かが放置されているのだと、敬は思った。が、それにしては生々しい作りなのが気になる。
と、敬の目の前にいた瞬が、ふらりと動いた。
「瞬……?」
彼の足取りは、なぜかおぼつかない。
何かに操られてでもいるように、部屋の奥へと歩みを進めてゆく。
「瞬、どうした」
敬の問いかけにも返事はない。ただ、歩みは徐々に早くなってくる。
瞬の異変に、沢野と柴浦も気付いた。
柴浦が瞬に駆け寄り、その肩に手を掛けようとする。
だがその寸前、瞬は走り出した。
そして。
ダァン!
と、大きな衝撃音と共に、瞬は障壁にぶち当たった。
壁があった場所に立ちはだかっていたそれは、巨大なガラスだった。
間に特殊なフィルムが仕込まれていたのだろう。
一瞬で色を消したそのガラスは、その厚みにもかかわらず殆ど歪むことなく、向こう側を透過し映し出している。
馬鹿馬鹿しいほどの大仰な仕掛けに、その場の者達は皆言葉を失った。
だが、瞬だけは、ガラスのことなど気にも留めていなかった。
瞬はガラスを殴りつけ、遂に耐えきれず悲鳴を上げた。
「ユウーーーッ!」
ガラスはびくともしない。
「まさか……」
柴浦がそちらを見て絶句する。目を凝らしてみるが、ぼろぼろのその物体――人物が呼吸をしているのかも判別できない。
「あれが悠さん、だと――」
「俺がッ! 見間違うはずないッ!!」
瞬が叫ぶ。
「くそ、割れないっ!」
奥の扉は一体どこに通じているのか。瞬は振り返って敬を見た。
「敬ッ! 中に、跳んでくれっ!!」
この状況に立ち竦んでいた敬は、瞬の叫びにはっと我に返った。閉じられた空間へ直接干渉できるのは、自分の能力しかない。
敬は返事をするよりも先に、目の前の空間へと跳んだ。
ところが。
敬はガラスの障壁を越えようとした瞬間、はじき飛ばされた。
何が起こったのか、敬本人が理解できずにいた。
いつもの通りに溶けてしまえば、コンクリートだろうが鋼鉄の板だろうが易々と通り抜けられるはずなのに。
敬は今、ガラスの前に尻餅をついて座っていた。
「……まさか、そんなはずが」
信じられない思いのまま、もう一度跳ぶ。しかし今度もまた同じく、障壁に阻まれはじき飛ばされてしまった。
「ダメだ、瞬! この壁が越えられない!」
「……な、バカな……っ!」
驚きと戸惑いで互いに顔を見合わせる。
けれど今、原因を考えあぐねている暇はなかった。
瞬はガラスの前から身を翻すと、脇に積み上げてあった銃を手に取った。この場にある最も強力な破壊の力と言えば、これしか思いつかない。
しかし当然のことながら、引き金の引き方さえ分からない。
「柴さん、お願い……お願い、これでっ!」
焦りを含んだ瞬の頼みに先に動いたのは、沢野だった。
小走りに銃器の山に近寄り、瞬の持つ拳銃を一瞥すると、それを取り上げてぞんざいに拭い元の山に放り投げた。そして別の武器を中から探り出す。
引っ張り出されたのはかなり大きなライフル銃だった。
「……PSG1……これくらいなら……」
言いながら安全装置を外す。そして、ガラスからやや離れたところに仁王立ちになった。
「下がってろ! 跳ねるぞ!」
柴浦が瞬と敬の腕を掴んで、引きずるように下がった。
「耳、塞いでろ」
後ろに立つ真らに言うと、沢野は引き金を引いた。
タン、タン、タン、と想像よりも軽い音が空気を叩く。その発射音に重なるようにビィン、と何かが振動するような耳障りな音が空気を震わせた。
「……くそ、ダメか」
沢野の顔が歪んだ。
銃弾は、ガラスの表面に薄くひびを入れただけで、弾かれて離れたところに転がっている。
沢野は深追いしなかった。すぐに電話を取りだす。
「――おう、すぐに技術解析班を寄越せ。扉に妙なパネルがある……特殊な鍵が使われている模様。外からじゃ簡単に開けられねぇぞ。あとブレイカー持ってこい。ガラスの破砕の必要がある。かなりの厚みだ。あぁ? わっかんねぇよ、たぶんアクリルかポリカとの複合材だ。7.62ミリ弾じゃ傷しかつかねぇ。……るせぇよ! こっち来るときついでに持ってこい。今すぐだ。すぐだぞ! じゃぁな」
乱暴に通話を切ると、沢野はライフルを山に戻してから柴浦に言った。
「お前らはこいつに触るなよ。指紋とか射撃残渣とか色々めんどくせぇからな。――瞬」
沢野が声を潜めた。労るような、諭すようなゆっくりとした口調で続けた。
「応援がすぐ来る。なに、こんなガラスすぐにぶっ壊して――」
だが、その言葉は途中で立ち消えた。
*
この場の誰の物でもない、全く別の声が突然部屋に響き渡った。
「――久しぶり、と言えば良いかな?」
全員の動きが止まった。瞬と敬、涼と真はその声の主に気付いて、凍り付いた。
ガラスの向こう側の白い壁が、切り取られたように口を開けた。壁と一体になっていて、扉がある事に誰も気付いていなかった。
口の向こうから現れたのは、一人の恰幅の良い男だった。その後に小柄な痩せぎすの男と眼鏡の男、そしてもう一人、白衣の男が続く。
最後の白衣の男が現れたとき、東城の表情が一瞬変わった。だが、それに気付いた者は誰もいなかった。
恰幅の良い男は後ろの二人に折りたたみ椅子を勧めると、自分は壁際へと歩を進める。
瞬が叫んだ。
「所長ッ!」
「やぁ、瞬君」
神崎はこの状況にあっても、彼らの記憶通りの平静な様子で悠に近づいた。
「あぁ、君の到着を心待ちにしていたのに、途中で待ちきれなかったようだな」
神崎が、瞬に見せつけるように悠の髪を梳いた。
「き、さま……悠に、悠に何を……」
激しい怒りで言葉尻がわななくのを抑えられない。
「さぁ、見ての通りだが?」
そのまま乱暴に髪を掴み、悠の顔を起こした。
目を閉じたままの顔は血の気がなく、唇までも真っ白だ。神崎が髪を掴んだまま揺すぶると、悠の腕がぶらぶらと作り物のように揺れた。
「……い……生きて、る、よな……?」
「……さて?」
神崎がうそぶく。
「知りたければ、直接ここに来て脈でも取ってみるといい」
「この――ッ!」
瞬が激高した。大切な人をガラクタのように扱われ、瞬の頭に一度に血が上る。
瞬がガラス越しに神崎に詰め寄ろうとしたとき、背後から力強い声が飛んだ。
「神崎ッ!」
声と共に、幾人かの足音が続く。ガチャ、と武器を構えた数名の警官隊が、部屋の後方を占拠した。
「この建物は既に制圧済みだ。抵抗すれば罪状が増えるだけだぞ」
声の主が沢野に並んだ。村瀬だ。
「……公安が、何の用かね」
神崎は顔色一つ変えることなくそう言うと、薄く笑った。
「逮捕状が出ている。大人しく同行してもらおうか」
――正攻法だな。
沢野は黙ったまま神崎を観察した。ふてぶてしいほどに落ち着いている。公安が来ることも予測していたのだろう。
自分が逮捕されるはずがないと高をくくっているのかそれとも、逮捕されないと確信しているのか。
「罪状を読み上げた方が良いか」
「好きにしたまえ」
神崎は悠の髪を弄ぶ。それに一層、瞬が苛つきを募らせる。
――落ち着け。真、瞬に伝えろ。落ち着け、と繰り返せ。まだ始まったばかりだ。勝機は必ずある。焦るな。絶対に悠を助けるから。
沢野が後方の真を見ることなく、そう胸の内で伝えた。真からの返事はなかったが、ガラス際に立つ瞬の肩がびくりと震えるのが見えた。
――そうだ、焦るな。時間を稼ぐんだ。
「外患援助罪、傷害罪、未成年者略取誘拐、拉致監禁、殺人未遂、殺人罪の容疑で逮捕状が出ている」
「……外患援助?」
「そこの男だ」
村瀬が指さしたのは、部屋の隅に腰掛けた無表情な男だった。男は、傍らの眼鏡の男としきりに言葉を交わしている。おそらく通訳か何かなのだろう。
「北のスパイを隠匿し、我が国への脅威を煽ったことは明白だ」
「そこの人なら、先日偶然ここを訪れてね。道に迷ったらしい。言葉も通じにくいので二三日滞在していただいただけだが」
「くだらないヨタ話は弁護士でも雇って聞いてもらうんだな」
村瀬の強弁に神崎が笑った。余裕の笑みだ。
「それに、未成年者略取誘拐? それは一体何の冗談かね?」
「冗談?」
沢野が初めて口を挟んだ。
「何が冗談だ」
「誘拐したのはそっちではないのか?」
「な、んだと?」
「悠君は、自分でここに戻ってきたのだよ? 彼は、申し訳なかったと私に謝罪までした」
「瞬を楯に脅迫しただろう」
「心外だな。私は身寄りのない子供を引き取って、衣食住を世話し、学校にも通わせた。十分彼らに尽くしていると思うのだがね」
沢野の目が、怒りで燃え上がった。
「虐待していただろう!」
「誰がそんなことを言った? 証拠は?」
「その少年の状態が全てだ!」
「彼は自傷癖があってね。自分で自分の身体を傷つけてしまうのだよ。精神科医とも相談の上で治療に当たっている」
「虐待の証言はいくつも上がっている」
「未成年の証言にどれほどの信憑性があるのやら。そう思わないかね、瞬君?」
そう声を掛けられ、瞬はぎりぎりと奥歯を噛んだ。あまりの悔しさに、頭に血が上って目眩までする。
「何なら本人に聞いてみたまえ。虐待を受けているかどうか。虐待などあり得ないと、彼も言うだろうがねぇ」
「……その良く滑る舌を、根本から切り落としてやる」
瞬の背後で、突然唸るような声がした。思わず瞬が振り返った。
「貴様の腐った言葉なんぞ聞きたくもねぇ」
東城が、拳を握りしめて神崎を睨み付けている。腹の底から溢れ出る怒りが、言葉となって一層激しさを増す。
「チンピラ風情が、大きな口を叩く」
「は! こっちの素姓も調べ済みか。分厚いガラスに守ってもらわなけりゃ、口の一つも利けねぇ臆病者が、そういう小細工だけは得意とみえる」
神崎の眉がぴくりと跳ねたのを、瞬は見逃さなかった。
「私を煽ろうとしても無駄だ。ここでの傍若無人な振る舞いは――」
「ご託はもういい。俺の息子を返して貰おう」
「……っくく、これはまた大層な寝言を吐いたな。それとも、ヤクザの慣習に則って、固めの杯でも交わしたか」
神崎が嘲るように言う。だが、東城はそれを豪快に笑い飛ばした。
「まったく、貴様は度し難い阿呆だな」
東城が高らかに言う。
「貴様は、悠を脅して、拷問で縛り付けて、完全に自分が支配したと思ったんだろう? だから油断した」
そう言うと東城はゆっくりと懐に手を入れ、一様の紙片を取り出した。
「貴様は悠を物としか見ていない。悠を取るに足らない、利用するだけの物としか見ていない」
神崎が、口元から笑みを消した。
「その傲慢さで、貴様は足下を掬われるんだ」
東城が、紙片を開いて見せた。
「戸籍謄本だ。悠は、正式な手続きの下、俺の息子になった」
「……何を勝手な……」
「勝手? 勝手だと?」
東城が、声を張り上げた。
「悠は貴様のモノじゃねぇ! いいか、悠は俺の息子だ。親の元から勝手に息子を連れ出したてめぇは立派な犯罪者だ。その汚ねぇ唾を悠に吐きかけるな。今すぐ悠を離せ!」
瞬は、あっけにとられて東城を見つめていた。何かを言うべきだったかもしれないが、言葉が見つからない。
ただ胸の内にひどく熱い固まりが膨らんでくるのを感じる。
「……坊、お前さんに相談もなしに、すまない」
東城が瞬に言った。いたわりと慈愛に満ちた声が、じわりと胸に染みる。
「お前さんたちがここに留まる縁 を、作っておきたくてな」
あの手この手で法の目をすり抜けてくるであろう神崎に、搦め手の布石を打つ意味もあった。顧問弁護士との間で秘密裏に進められた計画だった。
「事が全て済んだら、お前さんも養子に迎える準備がある。なぁ、瞬」
胸の固まりは喉を過ぎ、目まで届くと、涙になって零れ出た。
「とう、じょうさん」
「泣くのは後だ。皆で帰るぞ。笙子が待ってる」
「――はい!」
瞬が袖口で頬を拭った。柴浦の力強い手が、瞬の背を後押しする。
しかし、彼らを嘲笑うように神崎が声を上げた。
「甘ったるいドラマはもう結構だ。私を逮捕するというなら、するがいい。――ただし、彼らを相手に耐えきることが出来たら、と言う条件を付けようか」
神崎が言葉を切った。視線が瞬の背後へと動く。瞬たちは、それに釣られるようにそちらを見た。
相変わらず微動だにしない男たちの中に、音も無く、中空から二人の男が現れる。顔を確かめるまでもなかった。
真が堪えきれず声を上げた。
「……あ、アキ……っ」
見上げるほどの長身の青年は、しかし真の記憶の中にある暁ではなかった。表情のない顔はやつれ、視線を床に落としたまま真の方を見ようともしない。
「よーぉ、こりゃまたお揃いで」
真っ先に軽口を叩いたのは、もう一人の青年、忠だった。こちらは全く変わりない。
「んー? 見た事ねぇ奴も混じってるけどぉ?」
「警察の皆さんだ。丁重におもてなししろ」
「へーい。もう始めて良いのか」
「……そうだな。暁」
神崎が呼びかける。暁が顔を上げた。
土気色の顔に、炎がともる。
「はい」
「動かせ」
「……はい」
暁が頷く。それを合図に、男たちがゆっくりと動き出した。
「私の作った、死なない人間と、暁、忠。彼らとお手合わせ願おう。こちらは銃器は使わない。が、君らは特に制限なしでも良かろう」
「……こんなの、ゲームじゃねぇんだぞ」
沢野が独りごちる。それを神崎が拾い上げてまた笑った。
「無論、これはゲームではない。気を抜けば、頸椎をへし折られるぞ」
そう言い放つと、神崎が高らかに手を打った。
男たちが、一斉に瞬たちに襲いかかった。
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