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第2話 君を慕う

 彼に告白してから、一月程経った頃。  外は木枯らしが吹きすさび、木々やビルはイルミネーションで彩られている。クリスマスが近づいている証拠だ。 「クリスマスか……クリスチャンならまだしも、我々には本来あまり縁がないものな筈なのだけれど」  ――ヴァレンタインといいクリスマスといい、最早本来の趣旨からかけ離れたただの商業化したイベントに対して、皆少々浮かれ過ぎじゃないか、と彼がぼそりと呟く。  彼は基本的にはロマンチストだが、たまにこういった妙に現実的というか、斜に構えたような発言を行う時がある。 「いいんじゃないか、こういうのは雰囲気を楽しむものだし」  俺は宥めるようにそう言う。  まぁそうなんだけどさ、と言って彼は溜め息を吐いて手元の本に視線を落とした。 「でも何だかんだ言って、クリスマスケーキは食べたいんだろ?」  と、俺が言うと、 「うん」  と、彼は即答する。俺は、 「流石、色気より食い気の春さんは違うね」  と軽く流し、 「そろそろ電気消すぞ」  と言う。すると彼は分かった、と栞を挟み、ベッドサイドに本を置いた。  俺はリモコンで室内の照明を落として彼の隣で目を閉じる。  と、身動ぎし、寝返りを打つ衣擦れの音と、ベッドの微かな揺れ。 「……月浦。あのさ」  彼が言う。  どうかしたか、と俺が目を開けて隣を見ると、彼はこちらを向いて、やや緊張した面持ちで俺を見つめてこう言った。 「その……抱いてほしいんだけど」 「は?」  俺は思わず布団を跳ね除けて、勢い良く起き上がる。 「お前、この前まだ躊躇ってるから答えを出すのを待ってほしいって言ってただろ、一体どうしたんだよ」     唐突な彼の言葉に俺は焦り、必死にそう言った。すると彼は、 「やはりこの状況では、まだ早いだろうか」    と、少し残念そうに言う。   「お……れは、別にいいんだけど……その、こういうのはやっぱりちゃんと付き合ってからの方が……」  いいんじゃないか、と、しどろもどろになりながら俺が言うと、 「あ、月浦、それ多分意味違う。そっちじゃなく」  抱きしめて欲しいって意味なんだけど、と彼は視線を逸らしながら気不味そうにそう言った。 「あ、なんだ、そっちか……」  俺は羞恥で死んでしまいそうになるのを必死で堪えながらそう言う。 「……してもらってもいいかな」  彼が遠慮がちにそう尋ねる。 「いいよ。こっち来て」  彼は躊躇いながら近付くと、やがて静かに俺の腕の中に収まった。  顔をうずめ、強く抱きしめると、彼がつけている香水が僅かに香る。 「月浦、俺のこと好きか?」  俺が、あぁ、好きだよ、と答えると、 「俺も、月浦のことが好きだよ」  心から、と彼は俺の腕の中でそう呟く。眠たげな声だった。  俺を好きになってくれてありがとう、月浦――彼はそう言って、眠りに落ちた。  俺はその言葉を頭の中で反芻し、その意味を考える。それは親友としてなのか、それとも――そうして俺は眠れないまま、暫く腕の中の彼の寝顔を見つめていた。  翌朝、俺は遅めの朝食をとりながら、昨夜の出来事を反芻していた。と、彼が起床しダイニングにやって来た。 「おはよう」  彼が眠い目を擦りながら挨拶してくる。  きっと、またいつも通り何事も無かったかのように笑いかけてくるのだろう――そう思っていた俺に、彼は少しだけ嬉しそうにこう言った。 「月浦、その……昨日はありがとう」 「え?」  俺は予想外の出来事に少々面食らい、間の抜けた声を出してしまう。すると、 「……いや、何でもない」  彼はそう言って、またいつものように笑っていた。俺は彼との関係が少しずつ変化しているのを感じて、自然と笑みがこぼれたのだった。  それから一週間後のこと、俺は、月浦堂を訪れていた彼と談笑しながら、入荷した本の品出し作業をしていた。 「……でさ、その時店長が俺に言ったんだよ」  君はそんなだから結婚出来ないんだよ、って――  彼がそう言った、ちょうどその時。入り口のドアベルがカラン、と音を立て、来訪者の存在を知らせる。 「こんにちは」  入り口には、一人の女性が立っていた。  黒髪のショートヘア、ワインレッドのワンピースを着た、明るい笑顔が印象的なその女性は、ここ月浦堂の常連の一人、山根美優さんだ。  「お久しぶりです、月浦さん」  と山根さんは軽く会釈しながらそう言う。  と、山根さんが、俺の隣にいた彼に気づく。  「こちらの方は……?」  「あ、彼は俺の親友で、中野と言います」  と俺は彼を紹介する。 「中野です、はじめまして」  彼は、そう名乗りながら微笑んだ。 「はじめまして、山根です。月浦さんにはいつもお世話になっています」    綺麗な声で、山根さんはそう言って微笑み返す。そして、 「お元気でしたか、月浦さん」  と山根さんはこちらに向き直り、そう言った。 「お陰様で元気にやってますよ。山根さんは?」    そう俺が言うと、 「元気です。ここ最近仕事が忙しくて、ろくに本も読めない日が続いてたんですけど、今日は気分転換も兼ねてお邪魔しました」    と、山根さんは少し疲れが滲む笑顔でそう言った。そして、 「今日は、何かおすすめの本はありますか」  と、山根さんが尋ねる。 「ちょうど先日、お探しだった漱石の全集が入荷しましたよ。月報も全て揃っていて、状態もとても良いので、おすすめです」  と俺は笑顔でそう答えた。  嬉しい、これずっと欲しかったんです、と山根さんは顔を綻ばせる。 「それから、哲学書で何かおすすめはありますか?出来ればニーチェのものがいいのですが……」   「コレクターの方向けで、ニーチェの全集もあります。状態も中々良いので、もし宜しければこちらもどうぞ」 「素敵な装丁ですね。ニーチェは以前から妹が気になっていると言っていたので、ありがたいです。こちらもいただけますか?」  勿論。どうぞ、と俺は言って、カウンターにニ種類の全集を並べた。 「それから、この前おすすめしていただいた本、とても面白かったです」     そう言った山根さんは楽しげに本の感想を俺に伝える。  俺と山根さんは暫し本の話題で盛り上がり、談笑した。  彼は接客中の俺に気を遣ってか、積極的に会話に加わろうとはせず、何故か少し落ち着かない様子でカウンターの傍で本を読み出した。  そして、 「最近の作家さんで何か面白い本はありますか?」  と山根さんが尋ねる。  それなら、と俺は彼をこちらへと呼ぶ。 「実は彼は作家業に携わっているんですよ。良かったら一度読んでみませんか?専門は純文学なので、山根さんもきっと気に入ると思います」  平積みの本の中から一冊取り出し、山根さんに渡す。  頁を捲り、暫く文字を目で追っていた山根さんは、軈て嬉しそうに微笑みながら、こちらもいただきます、とそう言った。  ありがとうございます、と俺は頭を下げ、彼もまた山根さんに感謝の言葉を述べた。山根さんは、そうだ、と両手を合わせ、  「もし良かったらサインしていただけませんか?まだ数頁しか読めてないけれど、引き込まれるような、とても魅力的で素敵な文章だったので……」     と申し訳なさそうにそう言った。俺は、 「良かったな、春。ほら」  隣にいる彼にサインペンを手渡す。彼はペンを受け取り、本を開くと、さらさらと自らのサインを書き入れた。 「どうぞ」  彼は笑顔で山根さんに本を手渡す。が、その手が僅かに震えているのを、俺は見逃さなかった。 「ありがとうございます。大切にしますね」  そう山根さんが笑顔で言う。山根さんは、彼のその些細な変化に気付いてはいないようだった。  会計を終えた山根さんに全集の配達先を確認し終えたところで、山根さんは俺たちにこう言った。 「実は今度妹が結婚することになって。さっきの本は、その妹への結婚祝いにプレゼントしようと思ってるんです」  山根さんは自分のことのように幸せそうな表情でそう言った。俺は、   「それはおめでたい話ですね」    と言うと、隣にいる彼に対して同意を求める。 「なぁ、春」 「……え?あぁ、そうだな」  彼はワンテンポ遅れてそう言うと、 「おめでとうございます」  と即座に笑顔を作りそう言った。山根さんは笑顔を返すと、こう言った。 「そういえば、月浦さんてご結婚されてるんですか?」 「いいえ、独身ですよ。いい年をしてお恥ずかしい話ですが……」  俺は隣の彼の様子を気にしながら、笑顔でそう言った。   「本当ですか、こんなに素敵なのに勿体無いですね」      山根さんは意外そうな表情でそう言った。 「ありがとうございます、中々縁がなくて」  と俺は少々困った笑みを浮かべてそう返す。正直、この手の話題は苦手だ。 「彼女さんもいらっしゃらない?」 「えぇ。もうかれこれ数年は」  俺がそう言うと、 「じゃあ、私が立候補しようかな」  と山根さんは上目遣いにそう言った。 「またまた」  俺は笑ってそう言う。  その時、彼の表情が僅かに曇った。が、直ぐに取り繕うように再び笑顔になる。 「……?」  どうかしたのだろうか、と俺は少々心配になる。すると山根さんはこう言い、 「だって月浦さん、優しくて、かっこよくて、知的で。正に女性が理想とする男性像そのものなんですもの」  そして、少し間を置いてから笑いながらこう言った。  なんて、冗談です、すみません。困らせちゃいましたね。  隣にいた彼が、小さく溜め息を吐くのが見えた。 「はは、お上手ですね」   俺は笑いながらそう言った。ふと見れば彼はまた先程と同じように微笑んでいて、しかし気のせいだろうか、ほんの僅か、哀しみを滲ませているように見えた。  と、山根さんは腕時計を見て焦った様子で、もうこんな時間だ、と言う。 「そろそろ行かなきゃ。じゃあ、またお邪魔しますね!」  元気よく挨拶しながら手を振る山根さんに、俺は頭を下げて、またお待ちしています、と言い、入り口まで見送った。 「……綺麗な人だったな」  背後から彼の声がする。掠れた、小さな声だった。  優しいし、と彼はそう続ける。  振り返ってみれば、心ここにあらずと言った様子で、山根さんの去っていった方をぼんやりと見ている彼の姿がそこにはあった。 「春?」  どうかしたのか、と俺が尋ねると、彼は一言、 「……なんでもない」  とそう言って再び本を読みはじめた。  その日一日、彼は終始暗い顔をして何かを考え込んでいた。そして夜になると、珍しく彼は家に泊まらずに帰宅した。  それ以降、休みの度に泊まりに来ていた彼は、仕事が忙しいから、と言って顔を見せなくなった。メッセージを送っても何処かそっけなく、俺たちの間にはまるで目に見えない冷たい壁が出来てしまったようだった。  そうしてニ週間程経った頃、久々に彼から連絡があった。俺は彼に会えるという事実に喜びを隠せなかったが、その反面、言葉に出来ない強い違和を感じていた。   「久しぶり。悪いな、急に」  そう言う彼に笑顔はない。彼は、無表情のままこちらを見ていた。 「別にいいよ、それより元気だったか?」  と俺は心配してそう言った。   「あぁ。元気だよ」   彼は短く答えて、靴を脱ぎ家に上がる。俺はやはり彼の様子が可笑しいことに気づき、こう言った。 「でも春、お前何か最近変だぞ。本当に大丈夫か?」   「大丈夫だよ。気のせいじゃないのか」  彼は冷たい声音でそう言って、俺は結局、それ以上かける言葉を見つけられなかった  部屋に入り、俺たちはなんとなく二人並んでソファに座る  そうしてどちらともなく本を開き、暫く二人で黙って本を読む。気不味い沈黙が小さな部屋を支配する。最初にその沈黙を破ったのは、意外にも彼の方だった。 「月浦」 「……抱いて」  素っ気ない態度のまま、彼は久々にそう俺に言った。はいはい、と俺は苦笑いしながら、隣に座る彼へと両手を伸ばす。  頭を撫でながら優しく抱きしめると、腕の中の彼が小さく呟いた。 「……違う」 「何が?」  俺は不思議に思い、そう尋ねる。 「そうじゃない」  彼は言うと、身動ぎし、俺の腕から抜け出す。  ――こういう意味だよ  と、彼は、ぐい、といきなり俺の肩の辺りを手で強く押した。 「えっ」  バランスを崩した俺は、そのままぐらりと仰向けにソファへと倒れ込む。  彼は覆いかぶさる様な格好で、俺の上に体を乗せ、顔に吐息がかかる程の至近距離まで近づけると、今にも泣きそうな表情で俺を見つめてくる。 「……抱いてよ、月浦」 「だってお前……まだあれから一ヶ月しか……」  俺は動揺し、理性と欲の狭間で必死に冷静であろうとする。彼は、   「じゃあ付き合おう、いますぐに」    ――そしたら抱けるだろ  彼はそう言って俺の服を脱がせようとする。しかしその指先は微かに震えていた。俺は咄嗟にその手を掴んでこう言った。 「やっぱり変だぞ、お前。一体どうしたんだよ」  彼はふっ、と表情を緩め、哀しそうに微笑みながらこう言った。 「……気が変わったんだ。君としたくなった」 「しよう、月浦」  そう耳元で囁く声は苦しげで、俺は彼の手を掴んだまま目を逸らしてこう言った。 「……出来ない」  どうして、と彼は絶望したような表情で、確かめるようにこう言った。 「俺のこと好きなんだろ」  ――それともやっぱりあの人みたいな、綺麗な女性の方がいいのか  そう言った彼の声には僅かに失望の色が滲む。 「あの人……って山根さんのことか?違うよ。まさか」  俺は必死に弁解する。  なるほど、先日から様子が可笑しかったのはそのせいか、と合点がいく。どうやら彼は何かを誤解しているようだった。その誤解を解こうと俺が口を開きかけた、その時だった。 「じゃあなんで抱けないんだよ!!」  彼は激昂し、急に声を荒げる。俺は突然のことに驚き、暫し呆然と彼を見つめていた。 「……もうやめよう」  彼が疲れ果てた表情でそう言った。   「あの時、彼女……山根さんと楽しそうに話してる月浦を見てたら、もう会わない方が良いんじゃないかって思ったんだ」  彼はそう言って、静かに両の手で顔を覆う。 「君には普通に幸せな家庭を築く力も、権利もある」  なのになんで俺なんだよ、どうして俺なんか――そう彼は呟く。 「そんなの望んでない、第一普通の幸せってなんだよ。好きになったら男も女も関係ないって言ったのは、お前の方だろう」  俺がそう言うと、彼は自嘲気味にこう呟いた。 「……君は俺に騙されてるんだよ、月浦」  君の中で美化された俺のイメージに騙されてるだけなんだ。 「別に騙されてなんかいない。自分で選んだ道だ」  俺はそう言う。すると彼は呆れたように、何かを諦めたようにこう言った。 「月浦……多分、君は俺を誤解してる。何度も言うが、俺は君が思う程綺麗な人間でもなければ、聞き分けが良いわけでもない」  今も君のその優しさに甘えてこうやって酷いことをしているんだ。分かるだろう。 「それもひっくるめて、全部承知の上で好きになったんだよ。お前の優しさも、未熟さも、繊細で神経質なところも。何もかも」  全て愛おしいと思ってる、と俺は言った。彼が俯き、大きく溜め息を吐く。その表情は前髪に隠れて、よく見えない。 「もっと俺を信頼してほしい。今はまだ頼りないかもしれないけど、どんなお前でも必ず全て受け止めるから」  俺はそう言う。 「……好きだよ、春」  不安にさせてごめんな、と俺が言うと、彼は顔を上げ、嗚咽まじりに、ごめん、と呟く。    「焦らなくていいから、ゆっくり好きになってほしいんだ」  自棄を起こして大切な体を軽々しく扱うようなことだけはしてほしくないから、と俺がそう言うと、   「分かった……」  と彼は漸く泣き止む。落ち着いたか、と俺が聞くと、彼は黙って頷いた。  俺は彼を抱き寄せて、その涙を拭った。 「……月浦、」  彼はそう俺の名を呼ぶ。そして静かに目を伏せると、 『……君が、』 『君が瞳を見るときは  たちまち消ゆるわが憂い。  君にくちづけするときは  たちまち晴るるわが思い。  君がみむねに寄るときは  天の悦びわれに湧き、  君を慕うと告ぐるとき、  涙はげしく流れ落ちたり。』  と、微かに震える唇で諳んじた。 「……好きだよ、月浦」  どうしようもないくらい君が好きだ、だから、と彼は縋るような目で俺を見ながらこう言った。  あんな優しい目で他の人を見ないでくれ。ずっと俺だけを見ていてほしい。 「……俺だけの月浦でいてよ」  彼の中の感情が、堰を切ったように溢れだす。その頬を涙が後から後から伝う様を見て、俺はただ黙って彼を抱きしめた。  その日、彼は家に久々に泊まることになった。二人で軽く夕食を取った後、入浴し、ベッドに入る。俺が明かりを消して、横になろうとした時だった。 「月浦、大事な話があるんだけど」 「何?」 「もう直ぐクリスマスだろ。当日は仕事があるから難しいんだけど、イヴは空いてるから、その……」  その日一日だけ、お試しで恋人になるっていうのは駄目かな、と彼は視線を逸らしながらそう言った。突然の提案に驚いた俺が、 「……いいのか?」  と、問うと、うん、と彼は言う。 「クリスマスとか興味無いと思ってた」  俺が言うと、 「まぁ……折角ケーキ食べるなら、月浦と一緒がいいかなって思っただけ」  冗談はさておき、と彼は居住まいを正し、 「その日は俺を一日本物の恋人扱いしてほしい」  もう少しで決心がつきそうなんだ。だから、もし良かったら協力してほしい。  と、真面目な表情でそう続けた。 「……分かった」  協力するよ、と、俺はそう言って頷く。彼の真剣な顔を見て、彼のために何か出来ることがあるならばしてあげたいと、そう思った。 「何処か行きたいところや、何かやりたいことはあるか?」  そう俺が尋ねると、 「月浦に任せるよ」  と、彼が笑う。 「分かった、考えておくよ」  俺は微笑んで、彼の頭を軽く撫でる。すると、彼は、 「あと、その……今日も抱いてほしいんだけど」  と俯く。 「その言い方心臓に悪いからやめてくれないか……」  俺が警戒しながらそう言うと、悪かったよ、と彼は苦笑いして、抱きしめてほしい、と訂正した。  それから数週間、イヴまでの時間はあっと言う間に過ぎていった。  この日、駅前で待ち合わせた俺たちは、珍しくスーツ姿だった。これは俺の指定によるもので、普段だらしない格好をしがちな彼とは中々行けない場所に連れて行くためであった。 「スーツなんて久々に着たよ」  と、彼が言う。  変じゃないか、と不安そうに見つめてくる彼に、よく似合ってる、と俺は笑ってそう言う。  先ず俺たちが向かったのは美術館。印象派展のチケットを取り、静かな館内で二人で絵画をゆっくりと楽しんだ。  美術館から次の行き先に向かうために駅まで歩いている途中、彼が言った。 「もうすぐ誕生日だな、月浦」   そういえばそうだった、と俺は思い出す。 「何か欲しいものはあるか?」  俺は暫く悩んで、彼にこう言った。 「じゃあ、手、繋いでもいいか」  本当に君は欲がないね、と笑ってから、彼は片方の手袋を外し、    「ん」       とこちらへ差し出す。    俺は周りに誰もいないことを確認してから、そっと彼と手を繋ぐ。少し冷えた指先、骨ばった手の感触。その何もかもが愛おしく、息苦しい程のそれに俺は暫し感じ入る。  人通りの多い路地に入ろうとした時、俺は彼の手を静かに離した。彼は少しだけ寂しそうに笑って、直ぐにまた前を向いた。そして、俺たちは駅へ向かった。  電車に乗り、目的地付近の駅で降りる。そこからはタクシーに乗って目的地に向かう。  到着した目的地はホテル。自動ドアを抜け、フロントで手続きを済ませた俺はロビーで待つ彼に声を掛け、部屋へと向かった。  部屋は眺めの良い高層階で、彼と俺は並んで暫し景色を楽しむ。時期が時期だけにスイートこそ難しかったものの、上品で落ち着いた雰囲気の、中々いい部屋が取れたと思う。  予約していたレストランの時間までまだ余裕があったため、俺たちはベッドに腰掛け本を読むことにした。数分程経った時、ふと視線を感じて、俺は隣にいる彼の方を見る。すると、彼が至近距離でじっとこちらを見ていた。 「春、近い」  俺が驚いて言うと、 「駄目か?」   と彼が寂しそうに言う。俺は慌ててこう言った。 「駄目じゃない……けど」  寧ろ嬉しい、とは流石に気恥ずかしくて言えず、俺は口ごもる。  あ、もしかして、と彼は言う。 「キスしたくなる、とか?」  そう問われ、俺は顔を背け、耳朶まで赤くしながら言う。 「別に……そんなんじゃ……」    彼はそんな俺じっと見つめて、俺はいいけど、と呆気なくそう言い放つ。 「えっ」  俺は思わず耳を疑う。すると、 「してみたいんだろ?俺と」  違うのか、と彼は不思議そうに首を傾げる 「まだ付き合ってもないのにキスなんて出来るわけないだろ」  そう言う俺に、《《今日は》》恋人だろ、と彼は笑い、こう続ける。 「まぁ……でも、実際してみたらもっと好きになるかもしれないし」  月浦の誕生日も近いから、俺からのプレゼントだと思ってよ。  手、繋ぐだけじゃ寂しいからさ、と彼はそう言って笑った。 「……駄目か?」  彼がそう尋ねるものだから、俺は少し考えてから、 「……春が後悔しないなら、いいよ」  と溜め息を吐いて折れる。根負けだ。 「決まりだな」  彼の顎に手を添え、軽く持ち上げる。彼は身動ぎ一つせず、じっと俺の目を見つめていた。外は黄昏時、部屋には柔らかい夕陽が差し込んでいた。しんとした静寂の中、俺は世界に彼とただ二人きりになったような錯覚に陥りかける。軈て彼は静かに目を伏せ、俺はそっと彼の唇に自らの唇を重ねた。  最初は軽く触れるだけだった。次第にそれでは満足出来ず、どちらともなく舌を絡める。  ゆっくりと味わう様な口づけをした後、互いに名残り惜しそうに唇を離した。  彼が熱に浮かされたようなとろりとした瞳で俺を見上げている。その恍惚とした表情は美しく、俺は思わず見惚れた。 「見惚れてるのか」   「……あぁ。綺麗だな、って」   「素直になったな、月浦」  彼は満足そうに微笑んだ。  それで、と俺は言う。 「好きになったか」  俺が問うと、彼は神妙な面持ちでこう言った。 「……少し」  いや、かなり、と、彼は訂正をする。  「月浦は、どうだった」 「……よかった。凄く」  ずっとこうしたかったから、春と。  そう言って、俺は、気付けば自然と涙を零していた。彼はそんな俺を見て困ったような笑みを浮かべ、ただ黙って俺の頭を撫で、抱きしめてくれた。そして俺が落ち着いた頃、躊躇いがちにこう言った。 「……月浦、出来ればもう一回、したいんだけど」 「いいよ」  おいで、と言うと彼は静かに従う。そうして俺たちは再び唇を重ねた。  もう一回、まだ足りない、もっと、と彼は次第に積極的になり、繰り返し俺を求めた。普段見せない大胆さに少々驚きながらも、俺は自分に溺れていく彼を見て内心喜び、彼が求めるままに応じた。  時間が来るまで求め合った俺と彼は、乱れた服と髪を直すと、ホテル内のレストランで夜景を見ながら食事をした。  食事を終え、部屋に戻った俺たちは、窓際の椅子に腰掛けながら、二人で談笑をしていた。  残すイベントはあと二つ。俺は内心で緊張しながら、彼と言葉を交わす。 「月浦、今日は一日俺の我儘に付き合ってくれてありがとう。凄く楽しかった」 「喜んでくれたなら俺も嬉しいよ。俺の方こそありがとう」 「明日仕事が終わったらまた連絡するから」  年末年始も泊まっていいか、と彼が尋ねる 「いいよ」  と、答えながら、俺は徐に椅子から立ち上がる。そうして彼の前まで歩みを進めると、屈み込み、自らの唇を重ね、彼の唇を塞いだ。 「……月浦?」 「名前で呼んで」    恋人だろ、と言ってからもう一度唇を重ねる。 「……透」 「よくできました」   俺はそう言って蕩けた瞳をした彼の額に口づける。そして、 「これ、春に」  「……よかったら、今日の記念に受け取ってほしいんだ」  と、俺はスラックスのポケットから小さな黒いケースを取り出し、ケースを開いて中身を取り出し、  「ベタかなって思ったけど、他に思いつかなくて……」  そう言いながら彼の左手を取り、薬指に銀色に輝くそれを嵌める。  指輪は、彼の為に誂えたかのようにぴたりと嵌った。  彼は静かに、しかし愛おしそうに右の指先で指輪を撫でる。 「つきう……透」  「いいよ、無理しなくても」  そう俺は笑って言い、続けて、 「流石に給料三ヶ月分て訳にはいかないけど」  と、冗談めかして言う。  「俺なりに頑張って、春に似合いそうなのを探してみたんだ」  だから、と俺は祈るようにこう言った。 「……明日になったら捨てて構わないから、今日だけそれを嵌めててくれないか」  俺の言葉を聞いた彼は少しだけ哀しそうな顔をして、 「ありがとう、大事にするよ」  と微笑んだ。俺は彼を抱きしめて、ありがとう、と言う。 「俺も用意してきたんだ」  俺が離れると、彼は鞄から包を出して、よかったら、と俺に差し出す。 「俺も、透に似合うかなって思ってさ」   中身はブランドものの黒いマフラーだった。    俺は微笑み、 「ありがとう、じゃあ折角だし早速使わせてもらおうかな」   と言う。コートを手にした俺を見て、彼は   「何処か行くのか」  と、不思議そうな顔で尋ねる。俺はマフラーを巻いてコートを着ると、 「さて、何処でしょう」  と笑い、彼の手を引いて部屋を出た。  ホテルから歩いて十分程の場所にある大きな公園で行われているイルミネーション。ここで最後だ。  ライトアップされた花壇。淡く仄白い光の粒子たちが木々を鮮やかに染める。彼は嬉しそうに、  「連れてきてくれてありがとう」  と、俺に感謝の言葉を述べる。 「どういたしまして」  俺はそう言って微笑んだ。  俺たちは暫く公園を散策しながら、イルミネーションを眺めていた。  大きな噴水の前にきたところで、 「少し休もうか」  と俺が言い、二人で並んでベンチに腰掛ける。人の姿は他に無く、俺たちは今日一日を振り返りながら色々な話をした。絵画の感想、レストランから見た夜景が美しかったことなど。一時間程経ったところで俺は腕時計を見て、 「今日はどうだった?」  と、少しだけ緊張しながらそう彼に問いかける。 「楽しかった、凄く」  そう言って彼は微笑む。 「それは良かった」  俺はほっと安堵の溜息を吐く。すると、 「……透とちゃんと付き合ったら、きっと毎日こんなふうに楽しいんだろうなって」  そう思った、と彼は白い息を吐きながら静かにそう言った。 「透は?楽しかったか?」  と彼が問う。 「楽しかった……と言うより幸せだった、かな」 「ありがとうな、春」  と俺は言う。   「……もう直ぐ時間だな」  俺は再び時計を見る。日付が、変わろうとしていた。 「透」  彼が俺の名前を呼ぶ。 「何だ?」  言いながら、俺は彼の方を見る。と、ぐい、と俺のしていたマフラーの両端を掴み、自らの方へと強く引き寄せた彼が、冷えた唇を重ねた。触れるだけの、優しい口づけだった。  その時、公園の時計が夜中の十二時を知らせる鐘を鳴らして、彼は俺から静かに離れる。 「……ありがとう、月浦」  彼はそう言って、少しだけ寂しそうに微笑んだ。 (※ハインリヒ・ハイネ著、片山敏彦訳「ハイネ詩集」収録「君が瞳を見るときは」/新潮社/一九五一年/四十六頁より引用)

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