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第4話 救済
――薫side
月浦堂を後にした私は、駅の付近の駐車場へと向かっていた。
月浦透。彼は優しいが、どうも頼りない。
私が見る限り、春を支えるには明らかに力量不足だ。
さっきも事実を突きつけただけであんなに憔悴しきった顔で震えていた。
あとで不安から、月浦が春に余計なことを吹き込まなければいいのだけれど、と私は独り言ちる。
少々やり過ぎたか、と私は反省する。ただ、これで堂々と春にアプローチが出来るようになった。今までは指輪を贈った相手探しで中々話が前進しなかったからだ。春にそれとなく聞いても、彼はただ微笑み、
――大切な人から貰ったんだ
と言うだけだった。が、春と一緒に過ごす内に、どうやら頻繁に話に出てくる"親友"の月浦が渡したであろう、ということは察しがついた。
春は月浦の話をする時、とても穏やかな美しい顔をする。
私はいつしか、会ったこともない月浦に羨望と嫉妬の入り混じった感情を抱いていた。軈て私は月浦を疎ましくすら思い、春の話を聞くのも苦痛になる程だった。
だが、実際話をしてみればなんということはなかった。至って普通の男。春に対する想いは本物なのだろうが、あの動揺の仕方を見るに、月浦自身の弱さや、彼への何らかの後ろめたさがあることは確かなようだった。然しどの道それらは取るに足らないことだ、と私はそう感じた。
最も重要なのは、私にも可能性はある、という事実だった。それが今日の最大の収穫だ。春が付き合っているのが月浦ならば、春が同性愛者か両性愛者かまでは不明だが、男性と交際することに抵抗がないのは確実である。
幸いにも春は私に強い好意を抱いてくれているようだった。友人たちの中でも私と会う頻度が特に高いと言い、私の前では柔らかい表情を見せてくれることも多かった。あとは月浦を揺さぶり身を引かせるなりして、春には時間をかけて私への気持ちを育ててもらえればいいのだから――そう考えながら私は、自然と笑みがこぼれるのを止められなかった。
「春、私の家に遊びに来ませんか?」
春と出かけた先で、私はそう言った。
「行きたい。あ、でも今週は駄目なんだ」
透の家に泊まるから、と春は笑う。私は不愉快な気持ちになりかけたが、それを笑顔で隠す。
「分かりました。ではまた来週にでも。あぁそうだ、」
折角ですから良かったら泊まっていきませんか、と私は彼に提案する。
春は直ぐに、
「いいのか?」
と問う。私は微笑みながら勿論、と答える。
じゃあそうしようかな、と嬉しそうに笑う彼を見て、私は満足する。
翌週、仕事の打合せを終えた私は、彼が泊まる際に必要なものを一通り買い揃え、帰宅する。
部屋の片付けをし、スマートフォンを手に取り、彼にメッセージを送る。
『来週は手ぶらで来て下さい。楽しみにしていますね』
返信は来なかった。春は恐らく今頃、月浦と会っているからだ。私は溜め息をひとつ吐いて、ソファに体を深く沈めた。
翌週、彼は私の家を訪れた。待ちに待った来訪に、私の胸は躍る。
「いらっしゃい春。どうぞ」
そう言って迎え入れた私に、彼は笑いかける。
「お邪魔します」
私たちは暫くリビングのソファで談笑し、次回作の構想などについて話し合った。春は面白いアイデアを持っており、私に様々な提案をしてきた。私たちは夢中になって話し込む。
軈て日が傾いた頃、私は彼にこう言った。
「そういえば、先日月浦さんのお店に行った時、貴方のその指輪の話をしたんです」
「……そう、なんだ」
彼は僅かに動揺し、俯く。
「月浦さんとお付き合いされているのでしょう、聞きましたよ」
「透が言ったのか?」
彼は訝しむようにそう言った後、何かを諦めたようにそうだよ、と認めた。
「……春、貴方が同性を愛すると知って正直嬉しかった」
「……何で?」
「私は貴方に好意を持っています、春。恋愛対象として」
彼は一瞬目を見開き、違うんだ、薫さん、と言う。
「俺は別に男性が好きなんじゃなく、透が好きなだけで……」
「分かっていますよ」
「月浦さんに愛されて貴方は変わり始めた。まるで蛹から蝶が羽化するようにより美しくなり、作風も生まれ変わり……性格も社交的になった。
ただし、月浦さんは少々貴方に依存している節があるようだ。彼は非常に弱く、脆い。直接話して、そう感じました。
私も貴方を愛しています、春。その才能も、その美しさも、その優しさも、何もかも全て。月浦さんに負けないくらい愛せる自信がある」
春、貴方はまだ《《正しい愛》》を知らない。依存という名の紛い物しか知らないんだ。私なら春を理解出来る、春を解放して幸せにしてあげられる。
「先ずは、ありがとう。嬉しいです、俺を好きになってくれて……」
彼はそう言い、更にこう続けた。
「でも俺は透を愛している。今はまだ二人とも手探りで道を探している最中だから、端から見たらこの関係は不安定で、薫さんが言う通り依存に映るのかもしれない。けど俺はそれでも構わない」
「透が俺を愛し救ってくれたように、いつか俺の愛情で透を救いたいんだ。だから……」
「透の弱さについても……透は俺の未熟さも弱さも神経質なところも、面倒なところも何もかも含めて全て愛してくれた。そして俺も、時に壊れそうになりながらも懸命に俺を愛してくれた、透の弱さを含めて愛してるんです」
「薫さんのことは好きだ。……けど、恋愛対象としてではなく大切な友人としてで……だから」
ごめん、と彼は俯く。
「理解できませんね。私は……月浦さんが貴方を縛りつけているようにしか見えない。春、貴方はもっと自由になれるんです」
「透は縛りつけてなんかいない。俺を尊重してくれました。だから俺は今、ここにいるんです」
本当にそうでしょうか、と私は首を傾げる。
「精神的な面では、どうなのでしょうね。
月浦さんは、貴方には自分がいないと駄目なんだ、と言っていた。傲慢とも取れるこれは、立派な束縛ではないのですか?」
「いい加減にしてください!!俺のことは兎も角、透の事を酷く言われるのは我慢ならない」
彼が声を荒げる。私は溜め息を吐いて、宥めるようにこう言った。
「私は別に月浦さんのことを侮辱しているわけではありません、事実を述べているんですよ。でもそうですね……少し性急過ぎましたね。春が戸惑うのも無理はない」
私はそう言い、更にこう続ける。
「私はただ貴方を救いたい、愛したいんですよ。この気持ちに偽りはありません」
彼は真っ直ぐな瞳で私を見つめ、こう言った。
「救いたいのは……薫さんが本当に救いたいのは、自分自身なんじゃないのか。だって薫さんは、本当の俺を知らない。表面上の、綺麗な俺しかまだ知らないからそう言うんだ」
「そうですか……」
「では、これから知ればいいだけのことです。教えて下さい、春。私はどんな貴方でも受け入れますよ」
彼の耳元でそう囁くと、私は彼の顎に軽く手を添え上を向かせる。
「薫さん……?」
「貴方の全てを見せて下さい、春。美しさも、醜さも、淫らな姿も、全て」
そう言って私は彼に口づけようとした。が――
その途端に彼は私を突き飛ばし、今にも泣き出しそうな顔で、
「ごめん、帰る」
と言って踵を返した。その背に向かって、私はこう叫ぶ。
「結論は急ぎません。ゆっくり時間をかけて答えを出して下さい。私はいつまでも待っていますから」
と。
返事は無く、走り去る足音とドアが閉まる金属音だけが部屋に虚しく響いた。
一人きりになった私は、激しい苛立ちを覚える。テーブルの上に置いていた煙草を手にして一本取り出し、ライターで火を点ける。深く煙を吸うと、肺が煙で満たされる。然し灰皿が幾つもの吸い殻で埋め尽くされても、私の心は満たされなかった。私は苛立ちで震える手で、傍にあったグラスを持ち上げると、勢い良く床に叩きつける。
彼はまだ幼い。自らの価値も、正しい愛も理解できていない。私は自らにそう言い聞かせ、冷静さを取り戻そうとする。
そして、青く砕かれた硝子片を見て、私はこう呟く。
「……早く彼を救わなければ」
私はスマートフォンを操作し、黒く塗り潰されたようなアイコンを選択する。『今から来て下さい』とだけ送信して、私はスマートフォンをソファの上に投げつけた。
三十分程してインターフォンが鳴る。私はエントランスのロックを解除し、そのまま"彼"を待った。
「……こんばんは」
「来なさい」
「はい……」
"彼"は躊躇いがちに歩みを進め、私の前まで来ると、人差し指を上から下へと下げる私の仕草を見てそのまま床に座り込む。
"彼"は虚ろな目で私を見上げる。長めの黒髪、白く柔らかな肌、美しい容姿。見た目こそ春に瓜二つだが、"彼"は《《違う》》。
「……その目は何です」
"彼"は怯えた様子で俯き、申し訳ありません、と震える声で呟いた。
私は軽く舌打ちをしてから溜め息を吐いて、傍にあった布で"彼"に目隠しをした。
"彼"は微かに体を震わせながらされるがままでいた。
「貴方が愛してるのは誰ですか、春」
そう私が呼ぶと、"彼"は震える唇で、薫さんです、と小さく答える。
「……いい子だ」
そう言って私は微笑み、"彼"の頭を優しく撫でる。そして、"彼"の唇に自らの唇を重ねた。
――透side
ある日の夜のこと、俺は書斎の片隅で途方に暮れていた。
彼から借りていた本を返そうと本棚に手を伸ばしたところ、それはするりと掌をすり抜け、大きな音を立てて床に落ちてしまった。それだけならまだしも、困った事に、落ちた拍子に本に挟んであった彼のお気に入りの木製の栞が壊れてしまったのだった。
その栞は薄く切られた香木に繊細な細工で蝶の姿――姿かたちからして恐らく揚羽蝶だろう――を模ったもので、本に挟むと香りが移り、頁を捲ると仄かに白檀が香るという風流な品であった。それが、ほぼ中心の辺りで真っ二つに割れている。
やってしまった。同じ品は手に入るだろうか、無理ならば弁償しなければ…そんなことを考えていると、ふと机上に開かれたまま置かれている、読みさしの本に書かれたある一文が目に留まる。そこに書かれていた文言はこうだった。
"Gib also nicht auf, um es nicht zu bereuen."(だから諦めてはいけない、後悔しない為に)
"――Und dann war es soweit."(――そしてその時は来た)
その時、虫の知らせというのだろうか、俺は、何故か言葉に出来ない妙な胸騒ぎがした。
と、スマートフォンの通知音が鳴った。彼からのメッセージだ。そこには、
『会いたい』
と一言だけ書かれていた。嫌な予感がした俺は直ぐに返信を打ち、一階へと急いだ。
「春……?どうしたんだ」
彼は泣いていた。俺は慌てて、確か今日は出掛けるって言ってたよな、と尋ねる。
「ごめん、透……」
ごめんな、と彼は嗚咽を漏らしながら繰り返す。
「何かあったのか?」
怒らないから言ってごらん、と俺は彼を抱きしめて出来る限り優しい声でそう言った。
と、腕の中で微かに震える彼が、
「……今は言えない、ごめん」
と言った。
「動揺してて……上手く言えないんだ」
「これだけは信じて、透。俺は絶対に透を裏切らない」
彼は俺の目をじっと見つめてそう言った。
「ごめんな、透」
そう再び繰り返す彼に、俺はただ静かに
「大丈夫だから。何があっても、俺は春を信じてる」
と、そう言った。そして、ふと思い出しこう続ける。
「春、すまない。実は本に挟んであった栞を壊してしまったんだ」
同じ物が無かったら弁償するよ、ごめんな、と俺は謝罪する。そして、
「栞が壊れた時、何だか嫌な予感がしたんだ。そしたらちょうど春から連絡があって……」
ただの考え過ぎかもしれないけど、取りあえずお前が無事なら良かった。
話は、言いたくなったら話してくれ。俺はずっとお前を信じて待ってるから。
と、そう言った。
すると、彼はありがとう、と言い、何か考える素振りをした後、少しだけ哀しそうに笑い、栞の事は気にしなくて大丈夫だよ、と許してくれた。
数日後。ある日、店でパソコンを開き事務作業を行なっていた俺の元に、米山さんが再び現れた。
「月浦さん、こんにちは」
相も変わらず穏やかな笑みを浮かべる米山さんに、俺は警戒しながらある疑問を投げかける。
「……米山さん、貴方、春に何かしませんでしたか?」
米山さんは可笑しそうに嗤いながらこう言った。
「えぇ、しましたよ」
「彼に告白しました。……更に言えば、キスしようとしました。あんまり彼が無防備だったので」
「ですが彼にはまだ少々早かったようで、反省しています。……春はまだ貴方に気持ちがあるようだ」
よかったですね、と米山さん――否、米山はそう言って微笑む。
俺は反射的に米山に詰め寄り、そして、
「お前いい加減にしろよ、何考えてるんだ!!」
そう叫んで睨みつけた。
「言ったでしょう、彼から目を離すな、と」
「今回は一旦身を引きます。春はまだ突然の事で動揺しているようですから」
「ですが、いずれ彼は私のことを選ぶ。必ず」
――だからそれまで春を頼みましたよ、月浦さん。
そう言って米山は去って行った。
その週の週末のこと。泊まりに来ていた彼が重い口を開いてこう言った。
「薫さんに告白された」
俺は、先日の出来事を彼に話した。彼は、
「ありがとう、透。俺のために怒ってくれて」
と一言言い、微笑んだ。そして、
「もう薫さんには会わない。あの時、最初から透の言ってたことをもっと真剣に聞いてたら良かったんだ」
ごめん、と彼は頭を下げてそう言った。
「良いんだ。春が無事ならそれで」
と、俺は微笑み、彼を抱きしめた。
――春side
透に薫さんの件を話してから一月程経った頃。俺は休日にカフェで執筆作業を行ない、一区切りついたところでパソコンを閉じた。
ぼんやりと窓の外を眺めていたところ、スマートフォンの通知音が鳴り、メッセージが表示されていた。差出人は、薫さんだった。
「……そう言えばブロックし忘れてたな」
謝罪でもされるのだろうか。どの道これで最後にしよう、と心に決めて俺はメッセージを確認した。
『今すぐ来て下さい。ただし、もし月浦さんや他の方が一緒に来たらロックは外しません』
という内容とともに数枚の画像が添付されていた。
「なんだ、これ……」
そこには、俺によく似た姿の一人の青年が写っていた。青年は目隠しをされ、後ろ手に縛られた状態で床に倒れていた。
最後にメッセージにはこう書かれていた。
『警察を呼べば、彼がどうなるか分かりますか?』
俺は背筋が急激に冷えていくのを感じながら、震える指先で透に連絡した。
然し電話は通話中で、何度か繰り返しかけ直したが繋がる気配はなかった。俺は仕方なく、薫さんから送られてきたメッセージと画像を転送してから、
「今から薫さんの家に行く。住所は……」
と、短いメッセージを送信し、急いで鞄を掴んだ。
マンションの前に着いた俺は、深呼吸をしてからインターフォンを鳴らした。
軈てロックが外され、俺はエントランスに入る。
エレベーターに乗った俺は、薫さんの部屋がある階のボタンを震える指で押した。
――"彼"side
薫さんに初めて会ったのは、彼の出版した本のサイン会だった。彼の描き出す、恐ろしくも美しい作品の熱心なファンだった俺は、その優しく穏やかな笑顔を浮かべる彼が抱える闇を、その頃まだ知らなかった。
サイン会でファンレターを出した俺は、手紙の隅に自分のSNSアカウントのIDを書いた。そこでは彼の作品をはじめとした様々な本や音楽、映画などの感想を載せていた。
数日後、ある個人アカウントからフォローされた。DMで彼は米山薫だと名乗る。そこには俺の書いた手紙やSNSでの投稿に対する感謝の言葉が綴られていた。
俺は憧れの作家からのフォローとDMに単純に喜び、友人たちに自慢した。
暫くして薫さんは俺に個人的な話を振るようになった。内容は執筆活動に関する事や、好きな音楽、映画、影響を受けた作家に、日常の些細な出来事など。俺は薫さんとの会話を楽しんだ。
ある日、食事にでも行きませんか、と言われた俺は喜んでその誘いを受けた。
「瑞稀《みずき》くんですね。米山です。いつも話に付き合って下さってありがとうございます」
薫さんは微笑みながらそう言った。俺は緊張しながら挨拶をし、そして話をする内に次第に彼と打ち解けていった。
「よかったら家に来ませんか。この近くなんです」
「いいんですか?是非お邪魔したいです」
俺は彼の誘いを二つ返事で承諾した。
家に着き、リビングに通される。暫く談笑していると、薫さんのスマートフォンに電話が掛かってきた。
「ちょっと失礼します」
そう言って彼は中座し、俺は彼を待つ内にいつの間にかソファの上でうたた寝してしまっていた。その俺の唇に、不意に柔らかい感触の何かが触れた。目を開ければ、薫さんが俺にキスをしていた。俺は驚き、反射的に彼を突き飛ばす。
「なんで……」
俺が言うと、彼は、
「貴方が悪いんですよ、警戒もせずついてくるから」
彼は俺に再び近づくと、突然覆い被さってきた。その後のことは……あまり言いたくはない。
彼は快楽で俺を支配しようとし、抵抗すれば手を挙げ罵倒してきた。
俺は行為の最中に撮られた写真をネタに関係を強要されていた。ばら撒かれたくなければ、というものだ。そして、誰かに口外すれば殺す、とも。今思えば、警察に頼ればよかったのだろうが、その時の俺はパニックと恐怖で冷静な判断が出来なかった。どの道、今となってはもうあとの祭りなのだけれど。彼は言葉巧みに、暴力も行為も「君のためだ」「君のせいだ」と言いながら俺を少しずつ洗脳していった。
ある時を境に、薫さんは特定の人物に強く執着しはじめる。それは、中野春という青年だった。
彼の写真を見せられた俺は驚きを隠せなかった。若干の差異はあるものの、彼と俺の容姿がよく似ていたからだ。
薫さんは、彼に似ている俺を一目見て好意を抱いたのだと言う。
更に薫さんは、あえて俺の髪型や服装を彼に似せようとしていた。俺は彼の代用品だった。
彼には恋人がいるらしく、薫さんは時折嫉妬に狂ったように俺を"中野春"として叱責し、襲った。
俺は疲れ果て、抵抗する気力を失っており、彼に従うばかりだった。が、俺はやはり今更だけれどそんな自分の行動を激しく後悔している。何故なら彼は俺ばかりか、中野春本人を手に掛けようと俺を餌に呼び出す事にしたらしい。
俺に向かって「君はもうお役御免です。やはり、私は本物を手に入れたい」そう宣告した薫さんは、上擦った声で嗤う。その言葉と様子に絶望しながら、俺はこうして今冷たい床に横たわっている。今俺に出来るのは、せめて中野春が彼に騙されずここに来ないか、警察を呼んでくれることを祈ることくらいだった。
そして今、インターフォンの音が、冷たい室内に響き渡った。
――透side
「あぁ、じゃあまたな、瀬川。たまには顔見せろよ」
そう言って、俺は旧友からの電話を切る。高校時代からの友人が久々に連絡をしてきたのだ。大事な報告があったこともあって、つい話し込んでしまっていた。
ふとスマートフォンの画面を見れば、春からメッセージが届いている。
俺は直ぐにメッセージを確認した。
「春!?」
俺は画像を見て、焦り、驚く。
「……いや、違う……誰だ、これ……」
よく見てみると彼ではないのは分かった。そして、転送されたメッセージを読んだ俺は、迷うことなく即座に警察に通報をした。
「事件ですか?事故ですか?」
「事件です」
動揺と焦りを抑え込み、なんとか警察に事情を説明し終えた俺は電話を切り、メッセージに書かれた住所へと向かった。
――春side
「薫さん、どういうことなんだ、これは……」
リビングに通された俺は動揺を隠しきれずにそう言った。
「見たままですよ」
出来る事なら、もう少し時間をかけて貴方の気持ちを動かしたかった。ですが気が変わりましてね。貴方を早急に救うべきだと、そう思ったんです。
薫さんはそう言って微笑み、こう続けた。
「春、君を待っていました。やっと私のものになる覚悟が出来たんですね」
俺はその言葉に絶句する。
そして、慌てて倒れている青年の元へと駆け寄ると、大丈夫ですか、と声をかけ、口を塞いでいる布と目隠しを外した。目隠しを外された青年は、見れば見る程俺によく似ていた。ただ唯一、虚ろな瞳を除いては。
彼は微かに震えており、酷く怯えている様子だった。少し大きめのシャツの下には何も身に着けておらず、内股には白濁した残滓が幾つも伝っていた。薫さん――否、米山に襲われたのは火を見るより明らかだった。
俺は、その生き写しのような容姿に自分を重ね、俺も一歩間違えれば彼のようになっていたのかもしれない、とそう考えると恐ろしくて仕方なかった。
「……君、大丈夫か?怖かっただろう」
助けに来たから安心しなさい、とそう声をかけ、腕を縛っている縄を解こうとする俺に、彼は掠れた声でこう言った。
「後ろ……逃げて、早く……」
その言葉に背後を振り返ると、すぐ目の前に米山がいた。彼は無表情で俺の腕を強く掴むと、抵抗する俺をソファまで引き摺るようにして連れて行く。凄い力だ。
そのまま突き飛ばされ、俺はソファに倒れ込む。米山は俺の上に馬乗りになって俺の腕を押さえ込むと、無理矢理唇を重ねてきた。口内に生温い舌が捩じ込まれ、乱暴に俺の舌を探り、絡め取る。
「っ……!!」
俺は突然の事に驚き、激しく抵抗する。と、乾いた音が辺りに響き、俺の左頬に凄まじい痛みが走った。突然の殴打に俺が言葉を失っていると、米山が血走った目で俺を見下ろし、こう言う。
「往生際が悪いですよ、春」
大人しくなさい、すぐ悦くしてあげますから、と微かに嗤いながら強引に俺の服を脱がせようとする。俺は必死に抵抗する。
シャツの下から冷えた指が俺の肌を這う。生温い舌の感触と、シャツの釦が外されていく感覚、ベルトを外す音が耳を犯す。
怖い、怖い怖い怖い。嫌だ……頼む透、早く来てくれ――
俺の頭は恐怖で真っ白になる。
その時、インターフォンが鳴り、ドアを激しく叩く音と大声が聞こえた。
「米山さん、いらっしゃいますか?警察です。お伺いしたいことがあるので、此処を開けて下さい」
米山が舌打ちをして、
「あと少しだったのに……」
と口惜しげに呟く。そして、
「……春、貴方は誰にも渡さない」
そう言って俺の首に両手をかけ、首を絞め始めた。俺は米山の両手を掴み、必死に外そうとする。が、息が出来ない苦しさで徐々に意識が遠退き、手に力が入らなくなる。もう駄目か、と諦めかけたその時だった。
玄関の鍵が開く音がすると同時に、警察官とマスターキーを持った管理人らしき人物が入ってきた。
「何をしてるんだ、早くその人から離れなさい!」
薫さんは駆け付けた数名の警察官によって取り押さえられ、警察へと連れて行かれた。床に倒れていた青年も助け出され、俺たちは解放された。そして、警察官の後ろから、
「春!!」
と、叫びながら透が駆け寄り、周りの目も気にせず俺を抱きしめた。
「ごめんな、遅くなって……無事で良かった……」
本当に良かった、と透は泣きながらそう言った。
「ありがとう、透……お陰で助かった」
来てくれるって信じてた、と俺は彼の抱擁に心から安堵し、そう言った。
そして俺たちは、その後警察で事情聴取を受けた。捜査の結果、彼は幾つかの罪に問われ、逮捕された。聞くところによると、裁判、そして獄中でも米山は一部の容疑を否認し続け、自らの正当性を主張し続けたそうだ。有名人気作家が起こしたという事件はニュースになり、一時世間を騒がせた。
それから暫くの間、米山に襲われた際のフラッシュバックに悩まされた俺は、一時的に不安定になり、透に縋った。
無理矢理押し当てられた、熱い唇。血走った目、強い力、罵倒、乱れた衣服と荒い息遣い、肌を這う不快な感触――透以外の、誰かとの行為。
「……助けて、透」
はっとして目を開ける。俺は自分の発した声で目覚めた。全身に冷や汗をかき、呼吸は乱れ、心臓は激しく脈打っていた。俺は不安と恐怖に押し潰されそうになりながら、震える手で隣にいた透に抱きついた。
透は、黙って俺の手を取り、俺が落ち着くまで幾度も幾度も話を聞いて、優しく抱きしめてくれた。俺は自ら積極的に彼に抱かれる事で不快な過去を塗り替えようとしたが、相手が透だと分かっていても行為そのものに時折恐怖を覚え、その度に震えながら彼を拒絶した。その結果俺は自己嫌悪に陥り、透を遠ざけようとした。然し透は俺が落ち着くまで優しい言葉をかけ、ただ静かに抱きしめてくれた。その時俺は、透の愛情は、米山が言っていた依存などではなく、"本物"なのだと、強く確信を持ったのだった。
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