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第5話 再生
米山薫が逮捕されてから数ヶ月後。月浦堂でその事件について話をしていた俺と彼の元に、その青年はやってきた。
小川瑞稀です、と青年は名乗る。
「良かった、春さんもいらしてたんですね。ちょうどこの後、ご挨拶に伺おうとしてたんです」
小川さんはそう言った後、
「お二人とも、あの時は助けていただき、本当にありがとうございました」
お礼に伺うのが遅くなってしまい申し訳ありません、と、俺と彼に向かって深々と頭を下げる。その姿を見て、
「良かった、元気そうで。心配してたんだ」
と彼が嬉しそうに言う。
「……ずっと眠れない日が続いていたのですが、あの人が逮捕されて、やっと少しずつ落ち着いてきたんです。これも、お二人のお陰です」
そう言って小川さんは微笑んだ。俺が、
「お気になさらないで下さい。当然の事をしたまでですから」
と言うと、小川さんはありがとうございます、と言った。
更に小川さんは現在、クリニックでカウンセリングを受けている最中で、医師からのサポートも受けているのだという。それを聞いた俺たちは、心から安堵した。
然し、本当に彼によく似ている、と俺は小川さんの容姿を見て改めてそう思った。彼も同じ事を考えていたようで、
「それにしても君、本当に俺によく似てるね。まるで生き別れの兄弟と会った気分だ」
と笑う。
「はい。俺も、春さんを初めて見た時は驚きました」
小川さんはそう言い、
「あとこれ、良かったら受け取って下さい」
と、二人分の菓子折りを差し出す。
「あ、ここのマカロン、俺好きなんだよ。ありがとうね」
と、彼が喜ぶ。俺は、気を遣わせてしまい申し訳ありません、と言いながら菓子折りを受け取った。
と、その時、ドアベルが激しい音を立て、勢い良くドアが開く。
「おはよう月浦、久し振りだな。元気にしてたか?」
静かな店内に似つかわしくない、底抜けに明るく、まるで拡声器でも使用したかのような大音量の声が店内に響いた。
赤い髪に、幾つも開けたピアス。全身黒の派手なデザインの服、背が高く、年の割に幼く、整った顔立ち――見慣れた旧友の姿がそこにはあった。
「五月蝿いぞ瀬川、そんな大声出さなくても聞こえてるから」
俺は耳を手で押さえながらそう言う。
「ごめんごめん、怒るなよ」
瀬川は悪びれたそぶりも見せず、そう言って屈託なく笑う。そして、俺の隣にいる彼を見るなり、
「おっ、ラッキー、春ちゃんもいるじゃん。元気だった?俺は元気だよ。相変わらずいつ見ても麗しいねー。あっ、この前ね、春ちゃんに似合いそうな服が入荷したから持ってきたんだよ。後で着て見せてー」
と一息にそう言う。その後、瀬川はあれ、と言って小川さんの方を見て驚いていた。
「春ちゃんが二人いる……」
なぁ、月浦、これってどういう事?と瀬川は不思議そうな顔で俺に尋ねる。
「小川さん、彼は俺の旧友で瀬川と言います。少々騒がしいですが、根は良い奴なんですよ」
これでも、と俺は溜め息を吐いて、小川さんにそう紹介する。小川さんはやや面食らいながらも、
「はじめまして、小川です」
と、会釈をする。
「はじめまして、瀬川明《せがわあきら》です。月浦とは高校時代からの腐れ縁なんだ。あぁ、それにしても君、春ちゃんに負けず劣らず美しいね。良かったら今度俺とデートしない?」
瀬川が嬉しそうな顔で捲し立てる。小川さんはそのあまりの勢いの良さと派手な見た目に、少々たじろいでいるようだった。
「その辺にしておけ瀬川、引かれてるぞ」
「あっ、ごめんね。俺いつもこんな調子だからさ、月浦たちからも呆れられてるんだよね」
「いえ、ちょっと驚いただけですから」
元気な方ですね、と小川さんは笑った。彼は、
「以前は俺にもよくデートを申し込んでたんだよ、彼。タイプの相手を見ると男女問わずに口説きたくなるんだってさ。だから、まぁ、話半分に聞いてあげて」
と笑いながら言った。
「因みに春ちゃんは月浦の方がいいんだってさ、物好きだよねー」
と瀬川が言う。そして、
「しかも付き合ってるんだよ、この二人。リアルに美女と野獣カップルだよな」
と言いながらケラケラと笑った。
「野獣ってお前……」
俺は呆れ果てて言葉を失う。瀬川は、俺と彼の関係を知る数少ない存在の内の一人だ。彼と俺が話し合った結果、瀬川になら言っても大丈夫だろう、と結論を出したのだった。
小川さんは少しだけ驚いた表情をして、そうでしたか、と微笑む。
「で、小川くんはこの二人とどういう関係なの?」
瀬川がそう尋ねると、小川さんは、
「お二人は、俺の命の恩人なんです」
と微笑み、瀬川に事件の事を説明し始めた。小川さんは時折言葉を詰まらせ、目に涙を浮かべながらも、懸命に事実を伝えてくれた。
瀬川は最初黙って話を聞いていたが、話を聞く内に徐々に顔色を変え、軈て深刻な面持ちになり、そして静かに拳を握りしめ、涙を零した。
「辛かったね……ごめんね、俺、何も事情知らなくて……。そんな事があったのに、いきなりデートに誘ったりして、無神経だったね」
本当にごめん、と瀬川は小川さんに頭を下げて謝罪する。
俺たちが瀬川を信頼している理由、それは、彼がこういった実直な人柄の持ち主だと知っているからだった。小川さんは慌てて、
「良いんです、瀬川さんのせいではないので。それに、春さんたちのお陰でもう大分落ち着いてきましたし」
誘ってもらえて嬉しかったです、ありがとうございます、と言い、微笑んだ。
瀬川は涙を拭いながら、こう言った。
「じゃあ、元気になったら、俺と本当にデートしようよ。楽しいことを沢山してさ、少しずつでも辛い記憶を塗り替えていけるように。俺、小川くんの力になれたら嬉しいな」
そう言った瀬川は鞄からペンとメモ帳を取り出し、何かを書きつけた。
「はいこれ、俺の連絡先。何かあったらいつでも相談に乗るから、良かったら連絡してね」
小川さんはメモを受け取ると、ありがとうございます、と笑った。
「それじゃ俺、これから仕事だからそろそろ帰るわ。はい、春ちゃんこれ、プレゼント」
「今度着て見せてねー。約束だよ」
と、黒い紙製のショップバッグを彼に手渡す。そして、
「小川くん、春ちゃんまたね。ついでに月浦も、またなー」
「俺はついでかよ」
ひらひらと片手を振りながら去っていく瀬川を、俺たちは笑いながら見送った。
「じゃあ、俺もそろそろ失礼します」
と、小川さんが言い、俺と彼は、
「またいつでも来て下さい」
「今度はうちにもおいで。待ってるね」
と、小川さんを見送った。
其の日の夜。泊まりに来た彼は、小川さんから貰った菓子折りを食べながら、瀬川からプレゼントされた服たちを試着していた。
「明くん、派手だけどセンス良いよな」
と、彼が感心しながら言った。
「あぁ。あいつ本当に服好きだから」
アパレル勤めも長いしな、と俺は言う。
俺こういうのあんまり着たことないからよく分からないんだけど、似合ってる?と、彼が尋ね、俺は頷く。
彼は細身のシャツに、アシメトリーなデザインが特徴のロングカーディガン、そしてスキニーパンツを身につけていた。
その他にアクセサリーやベルトに至るまで全身瀬川がコーディネートしたものだ。
「あ、まだ入ってた」
『これは俺とお揃いだよー。春ちゃんに絶対似合うから沢山着てね』
と、彼は服と共に入っていたメモを読み上げる。
中からはガーゼ素材の黒いシャツが一枚。それはシンプルなデザインだが、計算されたパターンで作られており、美しいシルエットをしていた。
「透、写真撮ってよ。明くんにお礼言うから」
分かった、と俺は言い、彼のスマートフォンで何枚か写真を撮る。
メッセージを送信すると、直ぐに返信が届いた。
『めちゃくちゃ可愛い。最高』
だってさ。良かった、喜んでくれて。そう言って彼が笑う。
その後、俺達は食事と入浴を済ませ、ベッドに横になる。
彼は中々寝付けないようで、何度も寝返りを打っていた。米山に襲われたあの日以来、ずっとこうだった。
「透、抱いて……」
軈て彼は乱れた呼吸で、縋るように泣きながらそう言い、俺は彼を愛した。
「……怖かった。透以外の誰かに触られるのが嫌だった、気持ちが悪くて仕方無かった……」
彼は行為の後、泣きながらそう繰り返した。人前でこそ明るく振る舞っているが、やはり彼の心の傷は思っていたよりもずっと深かった。俺は彼の悲痛な叫びを受け入れ、彼と共に苦しんだ。
翌日の昼下がり。瀬川から電話があった。
『小川く……あ、瑞稀くんから連絡がきたんだ。やっぱり凄くいい子だね、あの子。早く元気になれるといいんだけど』
と、瀬川は珍しく落ち着いたトーンでそう言った。
「春もそうだけど、あんな目に遭ったんだ、直ぐに何もかも元通りって訳にはいかないだろう」
今は彼らのために俺たちができる事を探して、精一杯やるしかないさ、と、俺は言った。
『うん……そうだよな。俺、頑張るよ』
そう瀬川は言う。そして、俺たちは一時間程話をしてから電話を切った。
そして、季節は本格的な夏になる。彼の心の傷は、あれから少しずつだが癒えてきているようだった。以前のように泣きながら抱いてほしいと言うことも減ってきて、俺は心からその変化を喜んだ。
そんなある日、俺は気分転換と称し、彼を誘って夏祭りに行くことにした。
「お祭りか、いいね。何年振りかな」
と、朝食後にデザートのプリンを食べながら彼は笑った。
「そういえば、ちょうどこの前押し入れを整理してたら浴衣が出てきたんだ、着るだろ?」
俺が言うと、
「え、いいのか?」
と、彼が嬉しそうに言う。
「あぁ。昔祖父から貰った有松絞りの無地と、注染の変わり縞だ。綿のもあるぞ。どれがいい?」
「じゃあ無地ので」
「分かった。準備しておくよ」
俺はそう言うと、どさくさに紛れて二つ目のプリンに手を伸ばそうとした彼の手を軽く叩いた。
数日後。店に来ていた瀬川に、俺は夏祭りの話をしていた。
「えっ、なになに二人で夏祭りデート?」
いいなぁ、と瀬川が羨ましそうに言った。
「春の調子が少しずつ良くなってきたから、気分転換にな」
「俺もデートしたいよー!お前らばっかりずるいぞ」
そう嘆く瀬川に、"デート"と言えば、と、俺は以前から気になっていた事を尋ねた。
「そういえば小川さんの方はどうなんだ?」
たまに連絡をくれるものの、あれ以来姿を見せない彼を、俺と彼は心配していた。
「うん、最近は大分落ち着いてきてるみたい。まだ偶に眠れない時はあるみたいだけど……」
あっ、そうだ、と瀬川が言う。何か思いついたらしい。
「瑞稀くんも誘ってダブルデートするっていうのはどうかな。皆で遊ぶなら誘いやすいし、春ちゃんは勿論、瑞稀くんにも気分転換は必要だと思うんだ」
と、瀬川は言う。
「俺たちは別に良いけど……ちゃんと小川さんに許可取るんだぞ」
くれぐれも無理は言うなよ、と俺は念押しする。
「分かってるって。じゃあ、善は急げだな」
と、瀬川はスマートフォンを取り出し、メッセージを送った。
数分程して、小川さんからの返信が届いた。
『是非ご一緒させて下さい。楽しみにしてますね』
「だって。やったね」
瀬川がバシバシと俺の背を叩きながら歓喜の声を上げる。
「良かったな……」
と、俺は呆れ、溜め息混じりにそう言う。
然し、小川さんが承諾してくれた事は素直に嬉しかった。彼は小川さんの事を殊更に気にしていた。気分転換の手伝いが出来るということならば、彼も喜ぶだろう。
俺たちは待ち合わせ場所と時間を相談し、話を進めた。
そして、夏祭り当日。日が暮れた頃、ある神社の鳥居の前で、俺と彼は瀬川たちを待っていた。
「まだかな、二人とも」
お腹空いた、と彼は小さく欠伸をしながらそう言う。
「早めに着いたからな。まだ時間あるし、先に何か軽く食べるか?」
俺はそう言って縁日の屋台を指差す。彼は、
「いいや。大丈夫だよ」
と笑った。そして、今日の俺は食い気より色気を取るんだ、と呟いた。
「何だ、珍しいな。気にしてたのか」
俺が笑うと、彼は微笑みながら俺を見つめ、
「あぁ。デート、久し振りだからな」
と言って、静かに目を伏せた。
俺は浴衣姿の彼を見るのは初めてだったが、実際、今日の彼は何とも言えない、滲み出るような色香を纏っていた。
普段は行為の時以外あまり見せない彼のその姿に、俺の胸は高鳴り、少しだけ緊張していた。
暫くして、瀬川がやって来た。瀬川は、赤い髪に大量のピアス、そして背が高いと言うだけでも充分目立つのに、普段よりも更に派手な格好で注目を集めていた。通り過ぎる女性たちの視線と共に、時折、かっこいい、などという言葉が聞こえる。
彼も俺も目立つのは正直あまり得意ではない。が、これでは否が応でも目立つ。俺は瀬川を少しだけ恨めしく思いつつ、呆れながらこう言った。
「お前、なんと言うか……今日は一段と目立つな……なんかやたらボロボロだし」
「これはね、パンクファッションていうんだよ、透おじいちゃん」
初デートだからね、気合い入れないと、と瀬川が笑う。そして、俺の隣にいる彼を見るなり、
「あっ、春ちゃん!今日は一段と美人さんだねー。浴衣よく似合ってるよ、なんかまた綺麗になった?」
と相変わらずのマシンガントークを繰り広げた。そうして暫く三人で話をしていると、時間通りに小川さんが現れた。
「こんばんは、遅くなってすみません」
小川さんは焦った様子で駆け寄る。瀬川は小川さんと合流した瞬間、
「あぁ、瑞稀くんも浴衣だ!凄く似合ってるよー、とっても綺麗だね」
と、感激した様子で言った。小川さんは、ありがとうございます、と微かにはにかんだ。
「ねぇねぇ、俺は?どうかな?」
と、瀬川が目を輝かせて小川さんに尋ねた。
「かっこいいです、とても」
そう小川さんは答えて微笑んだ。瀬川は、ありがとう、瑞稀くんにそう言ってもらえると嬉しいよ、と笑って、
「じゃあ全員揃ったことだし、そろそろ行きますか」
今日は楽しもうね、と、小川さんの手を取り、歩き出した。
小川さんは一瞬戸惑う様子を見せ、そして直ぐに嬉しそうに微笑んだ。
彼は二人のその姿を見て、少し寂しそうな表情をした後、俺の手をじっと見つめる。俺は少しだけ悩んで、
「はぐれないように、繋ごうか」
と言う。彼は、
「いいのか?」
と、ぱっと顔を輝かせる。俺は微笑み、
「いいよ、ほら」
と片手を差し出す。彼は俺の手を取り、そっと握った。俺が手を握り返すと、彼は俯いて、静かに微笑んだ。俺はそんなささやかな事で喜ぶ彼が愛おしくなって、今すぐに抱きしめたくなるのを我慢するのに必死だった。
そうして、俺たちは暫く四人で屋台を見て回る。その内に、
「俺あれやりたい」
と、彼が金魚掬いの屋台を指差した。
「じゃあ俺もやろうかな」
小川さんが言う。
「なぁ月浦、どっちが多く掬えるか競争しようぜ」
瀬川が腕を捲りながら意気込む。俺は溜め息を吐きながら、
「負けても泣くなよ」
と言い、瀬川が、
「いや、泣かねぇよ」
と真顔で返すのを見て、彼と小川さんは可笑しそうに笑っていた。
俺たちは屋台の店主に代金を支払い、暫し夢中で水中の金魚たちを追った。そして――
「負けた……しかも俺が一番ビリってどういうこと……」
瀬川は肩を落として嘆く。
「だから言っただろ、泣くなよ」
俺が言うと、瀬川はやや食い気味に、
「泣いてねぇよ……」
と、そう言う。そして少し歩いた後、
「なぁ月浦、もう一回。もう一回だけやろうぜ。次はあれで勝負しよ」
と、型抜きの屋台の前で瀬川がそう言った。
「お前さぁ……」
俺はそう言い、呆れながら仕方なく勝負を受けることにした。
結果は……まぁ言わずもがなだった訳だが。
「嘘だろ……」
瀬川が絶望的な表情でそう呟く。
「明さん、元気出して下さい」
小川さんが必死に励ます。彼は、
「そうだよ明くん、惨敗したからって落ち込むことはない。それに、あそこまで見事に負けられるのは最早一種の才能だよ」
どんまい、と憐れむように言った。
「春ちゃん、それ傷口に塩……」
と、瀬川が言う。
俺たちは笑いながら歩き始めた。
「春、何食べたい?」
そろそろ空腹に耐えかねる頃だろう、と俺が尋ねると、彼は、うーん、と悩む素振りを見せ、
「じゃあ、《《先ずは》》たこ焼き」
と、屋台を指差す。嫌な予感がした。
案の定、彼はその後も焼きそば、綿あめ、かき氷に唐揚げなどを買い込み、あっと言う間にそれらを平らげたのだった。
「……今日は食い気より色気なんじゃなかったのかね、春さんよ……」
俺は彼にイチゴ飴を渡しながら唖然としてそう言った。
「ごめん、いざ食べ物を前にしたら理性が……」
彼は視線を逸らしながら、気不味そうにそう言った。
「凄いですね、春さん。お腹空いてらっしゃったんですか?」
小川さんが目を丸くしながら言う。
「あぁ、春ちゃんはね、これが通常運転なの。超がつくほどの甘党な上に、幾ら食べても太らないんだよ」
不思議だよね、と瀬川が頷きながら小川さんに説明する。
そうだったんですね、と小川さんが納得したように言う。
「まぁたまには良いか……」
俺は諦め、そう言いつつ、こう続ける。
「明日からはまた俺が管理するからな、春」
「分かってるって」
彼はそう言って笑った。
その時、会場内にアナウンスが流れる。
『本日開催させていただきます花火大会は、夜八時から開始する予定となっております。どうぞ、皆様お誘い合わせの上、是非ご観覧下さい』
「よし、じゃあ見に行こうか、瑞稀くん」
綺麗に見える穴場を知ってるんだ、と瀬川が小川さんの手を取りながら言った。小川さんは、はい、と言って笑う。
「花火なんてあったんだ」
いいね、と彼が微笑む。
「俺たちも行こうか」
俺が再び手を差し出すと、彼はうん、と言って手を握る。
俺たちは、近くにある商業施設の屋上に向かった。
「ここ、毎年花火の時期に屋上を開放してくれるんだよ」
と、瀬川が階段を昇りながら、そう説明する。到着すると、広い屋上に俺たち以外は四、五組程度で、人はまばらだった。空には星が輝き、空気は澄んでいる。
「そろそろ八時だな」
俺が言うと、皆が空を見上げる。
パァン、という乾いた打ち上げ音が響き渡る。数秒後、大輪の赤い花火が夜空を彩った。俺たちは一時暑さも忘れて色とりどりの花火に見入る。
「綺麗ですね」
小川さんが目を輝かせてそう言うと、瀬川が、
「瑞稀くんも綺麗だよ」
と言って微笑む。そして、
「今日は無理言って誘ってごめんね。来てくれてありがとう」
と続けた。小川さんは、
「いえ、俺の方こそ誘っていただけて嬉しかったです。今日は一日とても楽しかったです。ありがとうございます」
と言った。
「本当に?じゃあ、良かったら今度また出かけようよ」
今度は二人きりで、と瀬川が笑う。小川さんは、はい、と言って微笑んだ。
「あいつ、ちゃっかり次の約束取り付けてるよ」
やるな、と、俺が言うと、彼が
「明くんにも、そろそろ遅い春が来たかな」
と笑った。その時、一際大きな花火が打ち上がった。俺は花火の放つ柔らかい光に照らされる彼の横顔を盗み見る。彼はとても美しかった。
「綺麗だな……」
と呟く彼の額に、俺は優しく口づける。
「透……?」
彼は突然の事に少し驚いた表情をして、軈て柔らかく微笑んだ。
「また来年も来ようか。俺たちも、今度は二人で」
そう言って俺は彼の手を強く握った。
どうか、深く傷ついた彼らに、優しい未来が待ち受けていますように、と願いながら。
それから暫くして、花火が終わり、俺たちは人混みを掻き分け、駅に向かっていた。瀬川は小川さんの手を、俺は彼の手を取り、互いにはぐれないように歩く。
駅に着くと、
「今日は楽しかったです。じゃあ、また」
と小川さんが手を振り、瀬川は、また連絡するね、と手を振り返した。俺たち二人もそれぞれ手を振り、別れの挨拶をする。
「じゃあな月浦、春ちゃん。また今度」
と手を振った瀬川を見送って、俺たちはどちらともなく顔を見合わせ、笑う。
「帰るか」
俺が言うと、彼が頷く。
「うん」
帰宅するなり、彼はソファの上でだらしなく横になる。はだけた浴衣の裾から覗く白く長い脚が見えて、俺は目のやり場に困りこう言った。
「がっつりはだけてるぞ、春さん」
彼はこちらをちらと見ると、
「……わざと」
だったら君はどうする、と、そう言い、俺に背を向けた。
「こういうのは恥じらいが必要なんだよ。お前のそれは単にだらしないだけ」
俺は内心暴走しそうになる欲望を押さえ込みながら、そうからかうように言った。
「本当に嘘が下手だなぁ、君は」
彼はこちらに向き直ると、可笑しそうに言う。
「こっちに来て、透」
囁くように彼が言う。俺は、はいはい、と苦笑いしながら彼へと近づく。本当に、彼には敵わない。
「明くんがまた綺麗になった、って褒めてくれたけど、君は今日の俺を見てどう思ったのか」
君の言葉で、声で聞きたいんだ、と、彼は静かに、然し確かに艶が滲む瞳をこちらに向け、俺を見上げてきた。
「……綺麗だよ、手折りたくなる程に」
俺は自分の中にある狂おしい程の劣情の影を見抜かれ、大人しく事実を認めた。
「俺の手でどんどん春が美しくなっていくのを見て、そう思った」
「……ありがとう」
「これからも君のために俺は美しくなる。……君だけのために」
彼が静かに目を伏せ、俺は浴衣から覗く彼の白い脚に優しく触れる。
神聖なものに触れるときのように、そっと手を添え持ち上げると、俺はその冷えた爪先へとゆっくりと口づける。
彼の方を見上げると、穏やかな笑みを浮かべて俺を見つめていた。
その表情を見た俺は、自分の中の何かが溶け崩れていくような錯覚に陥る。不意に、俺は不可侵のそれを、急に侵したい衝動に駆られた。
俺はふと思いつき、そのまま彼の指先を口に含む。
彼が僅かに驚く。
「……透?どうしたんだ」
やめろってば、彼はやや焦ったようにそう言う。軈て、
「透、擽ったい」
そうくすくすと笑う彼を余所目に、俺は尚も彼の白い指先を愛撫する。静かに、ゆっくりと彼の指先は俺の中で溺れていく。僅かに乱れた呼吸が俺の頭上から聞こえてくる。俺は目を伏せると、彼の指を甘噛みして、強く吸い上げた。
「……透、それ、は……」
駄目だって、とそう言いながらも、彼は俺の手を振りほどこうとはしない。
「やめて……透」
頼むから、そう哀願され、俺はやっと彼を解放した。すると、
「――透」
「……?」
キスしたい、そう彼は言って、俺の腕を掴む。
俺は静かに顔を寄せると、彼の望む通り口づけた。
暫く互いに求め合うように唇を重ねた後、ゆっくりと唇を離す。
熱に浮かされたような彼の瞳はとろりとしており、唇からは切ない程甘い声が洩れ出ていた。そして、
「……ずっと傍にいてよ、透。俺が年老いて、例えいつかこの美しさが失われてしまったとしても……ずっとこうやって傍にいて愛して」
お願いだ、とそう言って彼は俯き、はらはらと涙を零した。
「……分かった、約束する」
俺は頷き、静かに彼を抱きしめた。
俺は彼の美しさを深く愛していた。それは容姿に限った話ではなく、俺を求める指先や、不意に向ける微笑み、穏やかで優しく、少しだけ不器用な言葉たちなどだった。俺はそれらを彼の耳元で囁き、こう言った。
「だから、大丈夫。春の美しさは決して失われたりしない」
そして俺は、彼の涙を指先でそっと拭う。彼は俺を見つめて、ありがとう、と、とても美しく微笑んだ。
夏祭りから数ヶ月経ち、季節は秋になっていた。彼は完全に落ち着きを取り戻しつつあり、俺たちは穏やかな日々を過ごしていた。
瀬川と小川さんはあれから何度か個人的に会う仲にまで進展したらしく、俺たちは小川さんの回復と瀬川の献身的に愛情を注ぐ行為を素直に喜び、見守ることにした。
そんな時、瀬川がいつものように店に来て、こう言った。
「春ちゃんさぁ、ほんと綺麗になったよな」
瀬川は彼をまじまじと見つめながらそう言った。
「俺も瑞稀くんをそんなふうに綺麗に笑わせてあげたいんだよね」
「どうしたら良いと思う?」
と、瀬川が尋ねる。彼は少し困ったように笑うと、
「まぁ、その……焦らなくて良いんじゃないかな」
と言葉を濁し、俺の方を見る。俺は軽く咳払いをして、そうだな、とだけ答えた。
「あ、そういうことね」
なるほど、と、瀬川は何かを察したらしく俺をじっと見つめる。俺は気不味さから徐に本を開き、読むふりをした。そんな俺を見て瀬川は、
「でもさぁ、相手はあの瑞稀くんなわけで……無理だよ俺、自信ない」
と、珍しく気弱な言葉を吐く。
「だってさ、あんな目に遭った子にそんなん出来るわけねぇじゃん」
「そりゃあ俺だってキスくらいしたいけど、でもあの子、頭を撫でようとしただけでも凄く怯えるんだ。よっぽど酷い目に遭わされてたんだね、可哀想に……」
瀬川は俯き、拳を握りしめながらそう言った。彼は、
「うん……でも明くんはよくやってるよ。瑞稀くんがここまで回復したのは、君のその明るさや優しさ、愛情によるものも大きいと、俺は思う」
「だから、今は焦らずあの子の傍にいてあげて。本当に辛い時に、寄り添って支えてあげてほしい。"愛"というのはなにも、肉体の関係だけが全てなわけじゃないから」
と瀬川を励ますように言うと、
「……そうだね、分かったよ」
と、瀬川はそう言って笑った。
それから更に数ヶ月経ち、季節は冬になる。俺は泊まりに来た彼と、仕事の合間を縫ってクリスマスに会う約束をしていた。
「今年はどうしようか。春は、何処か行きたいところとかあるか?」
と、俺は彼に尋ねる。彼は本を読みながら、
「うーん……俺は今年は透の家で二人きりでゆっくり過ごしたいな」
一日中透としてたい、と、彼は本に視線を落としたままそう呟く。
「……珍しいな、春がそんなに積極的なんて」
彼にしてはやけにストレートで大胆な発言に、俺は少しだけ驚く。
「別に……最近あんまりしてなかったから」
と彼はどこか寂しそうにそう言った。
お互いに忙しかったからな、と俺は言い、
「春がそうしたいなら、俺はいいよ」
そう笑って続ける。すると、
「まるで俺だけしたいみたいな言い方だな」
彼はやや不満げにそう言い、本を閉じる。そして、俺の目を真っ直ぐに見てこう言った。
「正直に言えよ、俺としたいのか、したくないのか」
「……凄くしたいです」
俺は彼に気圧され、正直にそう答える。
「よし、じゃあ決まりな」
と、彼は笑った。最近すっかり彼に主導権を握られてしまっている気がする。これも彼が以前の明るさを取り戻しつつある証拠だと捉えながら、俺は苦笑いを浮かべた。
その時、瀬川から俺のスマートフォンにメッセージが届いた。
『瑞稀くんと付き合うことになった。嬉しすぎて死にそう』
だってさ、と俺がメッセージを読み上げると、彼は、
「おめでとうって伝えといて」
と言った。
瀬川たちも少しずつ前進し、互いに信頼関係を築いているようで、俺は安堵する。この穏やかな日々がいつまでも続く事を、俺は心から願った。
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