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第8話 邂逅(前編)
――透side
運命と言うものがあるのなら、それはきっとあの日の出来事を言うのだろう。
彼との出会い。それは梅雨時の、ある雨の降りしきる午後の事だった。
僅かに湿った空気と、古書の匂い。静寂は鼓動と微かな呼吸の音すら浮き彫りにし、それらは軈て、窓の向こうから硝子を通して入り込む陰鬱とした青い空気に染まる。まるで海の底にいるみたいだと、そう思う。いつものように、俺は店にいた。ぼんやりと本の背表紙を眺めながらカウンターの奥にある椅子に腰掛け、時計の秒針が刻む音に耳を澄ませる。
どのくらいの間そうしていただろうか。その内カラン、とドアベルが控え目な音を立てて鳴り、扉が開く。俺は慌てて立ち上がり、
「いらっしゃいませ」
と言う。そこには一人の青年の姿があった。彼を見た瞬間、俺はその姿に目を奪われる。彼は西洋のアンティークのビスクドールのような白く透明感のある肌に、長めの黒髪、憂いを帯びた黒壇の瞳を持っていた。その静謐な佇まいはまるで一枚の絵画を切り取ったようで、俺は感嘆する。
男性に対して美しい、などと感じたのは、これが初めてだった。
「こんにちは」
ビスクドール――否、その青年は無表情のままそう言って、俺に向かって会釈をすると、本棚に向かって静かに歩き出す。
純文学のコーナーで立ち止まった彼は、一冊の本を手に取り、開く。頁をそっと捲る白い指先の、その繊細さ、美しさ。俺は不思議と目が離せなかった。窓から差し込む光で仄かに青く染まる指先に、俺は暫しの間見惚れていた。
暫くして彼はこちらをちらと見て、その柔らかそうな唇を開く。
陰翳礼讃 はありますか、と、彼は微かに熱を帯びた瞳で、静かにそう言った。それは落ち着いていて、耳に馴染む心地のよい声だった。そして、
「一九三九年の初版、もしくは一九三五年の攝陽随筆 でも構いません――出来るだけ、状態の良いものを」
と彼は続けた。俺は少し悩んでから、
「そちらは稀覯本 となっておりまして、状態の良いものは特に貴重です。残念ながら中々市場に出回らないのが現状ですね……」
と、答えた。
「やはりそうですか……」
ここも駄目か、と言いたげに彼は小さく溜め息を一つ吐く。
「何故そちらの本をお求めに?」
俺が尋ねると、
「……当時の空気感を味わう為に、旧字・旧仮名遣いで読みたくて」
と、彼は落胆した様子でそう呟いた。
「そうでしたか」
どうしたものかと考えあぐねていたその時、俺はふと思いつき、本棚から一冊の本を取り出すと、彼に見せた。
「谷崎潤一郎がお好きなら 『文章読本』は如何ですか?こちらの随筆集は一九三四年の初版になりまして、状態も中々です。旧字・旧仮名遣いのものですし、もし宜しければ」
「拝見しても?」
彼が尋ねる。俺は、
「どうぞ」
と答え、本を彼に渡した。差し出された手からふわりと漂う微かな香水の香りが、鼻先を掠めた。彼は静かに頁を捲る。その神経質な白い指先を先程よりも間近で見られる事に、俺は仄暗い悦びを微かに感じていた。鼓動は自然と速くなり、不思議と胸がざわつく。自分が自分でないようなその感覚に、俺は僅かに戸惑った。この感情に名前をつけるとしたら、一体――
目を伏せ、本に視線を落としていた彼は軈て顔を上げると、微かな笑みを口許に浮かべてこう言った。
「……こちらを」
お願いします、と。
「畏まりました。お買い上げありがとうございます」
俺は本を受け取り、会計をする。そして本を包みながら、興味本位でこう彼に尋ねた。
「文学がお好きですか」
彼は少し間を置いてから徐に口を開いてこう言った。
「……はい、昔から読書が好きで。その内読むだけでは飽き足らず、自分でも文章を書き始めました。現在は趣味が高じて、本業の傍ら文筆の業を営んでいます」
お恥ずかしい事に無名ですが、と。
「そうでしたか。素晴らしいですね」
俺は素直にそう賛辞を贈り、
「宜しければお名前をお伺いしても?」
と、尋ねる。
「中野と申します。中野春。筆名も同様です」
彼はそう答えた。
「中野さんですね。私は店主の月浦透と申します。因みにご専門は?是非ご著書を拝読させていただきたいのですが」
「純文学です。今の時代ではあまり流行らないようですが、一番自分に馴染むので」
と、彼は苦笑しながらそう言う。そして、
「宜しければ一冊どうぞ。献本用に何冊か持ち歩いていまして」
彼はそう言って、鞄から一冊の本を取り出した。カウンターの上の淡く青い光の中に浮かび上がる、『Fatale』というタイトルのそれは、シンプルだが美しい装丁の本だった。
「ありがとうございます。素敵な本ですね」
俺が言うと、
「これは装丁にも拘ったので……」
彼はそう言った。
「そうでしょうね。美しいです、とても」
俺がそう言うと、彼は、ありがとうございます、と言いながら、ゆっくりと雨音がする窓へと視線を向ける。
「……見合う内容になっていれば良いのですが」
と、彼は何処か遠い目をして言う。そして、僅かに翳りのある瞳を隠すようにそっと目を伏せた。そして、
「……また来ますので、もし良かったら感想を聞かせて下さい」
と、彼は静かにそう言った。
「分かりました。お待ちしております」
俺はそう答えた。
「では、今日はこれで」
彼はそう言って去っていった。俺は渡された本に手を伸ばし、ぱらぱらと頁を捲る。その内に、ある一文が目に留まった。
『――その瞬間、言葉は千夜 の静寂に溶けゆく。蜜のように甘く馨しい香り。夜天 に浮かぶ満ちた銀の月と凍星 。私はそれらに静かに酔い痴れていた』
その文章を読んだ俺は、不意に彼の微かに熱を帯びた瞳と、指先の白さを思い出す。おさまっていた筈の胸の高鳴りが、静かに甦る。指先が、僅かに震えた。
寂寥、焦燥、高揚、そして陶酔――文字を目で追う度に俺は文章から滲むようなそれらの欠片を感じ取り、軈て自分の中の何かが少しずつ掻き乱されるような感覚に陥る。彼を、彼の紡ぐ言葉たちを美しいと、俺はそう強く思った。
そうして暫しの間、店内には頁を捲る音と微かな雨音だけがしていた。
一週間程経った頃、彼が再び店を訪れた。
「お久し振りです、月浦さん」
「いらっしゃいませ。こんにちは、中野さん。お元気でしたか」
はい、と彼は答え、微かな笑みを浮かべる。
「そういえば、先日いただいたご著書、拝読させていただきました。とても良かったです」
「本当ですか」
「えぇ。特に、全体に漂う独特な雰囲気と、繊細且つ美しい言葉選びが印象的で。主人公の苦悩も丁寧に描かれていて、哀切を極めた物語だと感じました」
「ありがとうございます、気に入っていただけて嬉しいです」
「それで、もし宜しければ中野さんの作品を弊店で販売させていただきたいと思うのですが、如何でしょうか。とても素晴らしかったので」
「宜しいんですか?是非お願い致します」
「いえ、こちらこそ素敵な作品を読ませていただいてありがとうございます」
「そういえば、先日購入させていただいた文章読本、とても良かったです。今後の執筆活動の参考にしたいと思います」
「それは良かった。お仕事頑張って下さいね」
「ありがとうございます。あと、探している本があるのですが……」
俺と彼は暫しの間本や仕事の話、政治の話などで盛り上がった。
そうして話し込む内に、気付けば話題は互いの好きな食べ物の事になっていた。
「……それで、甘い物に目がないんです。今日も、ほら」
彼は臙脂色の小さな紙袋を差し出す。
「あぁ、そのお店の甘味は美味しいですよね。私もたまに購入しますよ」
俺が言うと、彼は、
「ご存知でしたか。良いですよね、ここ」
と、嬉しそうにそう言った。
そんなふうに彼と他愛もない話をするだけで、俺の心は不思議と躍った。
彼は話してみると意外にも親しみやすく、繊細でありながら情熱的な部分もあり、非常に興味深い性格をしていた。
そして年齢が近く、感性が似通っている部分があるという事もあり、彼とは程なくして打ち解けていった。
ある日のこと、俺は彼に誘われ駅前の喫茶店に来ていた。深紅の天鵞絨張りの椅子に腰掛けた俺と彼は、飴色のよく使い込まれたテーブルの上に本を積み、読書をしながら話をしていた。
「ヴィヴァルディの……何だっけ、この曲」
ふと彼が言う。店内に控えめに流れるこの曲の事だ。
「Vedrò con mio diletto」
俺が本から目を離さずにそう答えると、彼はこう言った。
「好きなんだよね、俺」
落ち着くから、と。
彼曰く、執筆活動をする時はクラシックを聴く事が多いとのことだった。
「俺も好きだよ。綺麗な曲だよな」
本から顔を上げ、俺は言う。
『……私は喜びとともに愛しい人に会えるでしょう』
と、彼は俺の目を真っ直ぐ見つめてそう言った。その瞳は、何故か僅かに悲哀を滲ませていた。
「そうそう。離ればなれになった最愛の相手と再会する喜びを歌った曲だよな」
俺がそう言うと、彼は目を伏せ、
「……あぁ。あとは俺が勤めてる店はオルゴール曲がよくかかってるんだけど、それも好きだな」
と、そう言う。俺は何気なく、
「そういえば中野さんは、本業は雑貨屋さんなんだっけ」
と、尋ねた。
「そう。俺みたいなのは筆だけじゃ食べていけないから」
「あと名前で良いよ。春で」
「その代わり俺も呼び捨てでいい?月浦さん」
と、彼は言う。俺は、
「良いよ」
と答える。すると彼は、
「じゃあ月浦。良かったら今度うちの店においで」
と言った。俺は突然の誘いに少しだけ驚き、
「良いのか?」
と言う。彼は本から顔を上げると、
「あぁ。うちアンティーク品とかも扱ってるから、月浦堂の雰囲気に合うアイテムとかもきっとあると思うよ」
と言った。俺は、
「ちょうど店の雰囲気に合う装飾品を探してたんだ。行こうかな」
と言う。彼は、
「明後日ちょうど出勤日だから、その時来たらいい」
と言った。
「ありがとう、行くよ」
そう返事をして、俺は笑う。
「因みに話が変わるんだけど、月浦の家ってさ、月浦堂の二階だよな」
彼が尋ねる。
「あぁ。そうだけど」
「遊びに行っても良いか?」
胸が、久々にざわついた。
「良いけど、特に何も無いぞ」
散らかってるし、と俺は平静を装い言う。
「行きたいんだ。月浦が普段どんな生活してるのか気になるし」
彼が屈託なく笑う。あぁ、こんな顔もするのだな、と俺はそう思った。その時俺は、憂いを帯びた表情や人形の様に整っている容姿で、何処か浮世離れした彼の意外な一面を垣間見た気がしたのだった。
「この後行きたい。駄目か?」
彼のその言葉に俺の心臓は高鳴った。自分でも何故そうなるのか分からないまま、俺は軽く深呼吸をする。
「……良いよ。お茶くらいなら出せるから」
「ありがとう」
そう言って彼は微笑んだ。
喫茶店を出て、駅に向かう。下りの電車に乗り、家に着いた俺たちはリビングのソファで本を読みながら様々な話をした。彼は自身のことについて色々と教えてくれた。
彼は紅茶、中でもアールグレイを最も好むこと。動物好きで、特に猫を好むこと。最近甘いもの好きが高じて菓子作りを始めたことなど。
日が傾いた頃、俺はソファから立ち上がりこう言った。
「夕飯食べてくか?」
「良いのか?」
「良いよ。因みに今日はカレーです」
「食べたい、食べる」
彼が目を輝かせた。俺はその反応を見て思わず可愛らしいな、と思った。父性を擽られるとはこういうことなのかもしれない。
俺は彼の意外な一面を沢山目にすることが出来て、内心嬉しく思った。
「分かった。準備するから、本でも読んで待ってな」
「あぁ、ありがとう。手伝おうか?」
立ち上がろうとする彼に、俺はこう言った。
「いや、いいよ。下準備は終わってるから。あとは煮込むだけ」
彼は分かった、と言ってまたソファに沈む。
そして、俺はこの後、彼の更に意外な一面を知ることになる。
「それにしてもよく食べるな……」
俺は四杯目のカレーを食べる彼を見ながら唖然として言った。
「はは、よく言われる。しかも俺あんまり太らないんだよね」
彼は苦笑しながらそう言う。
「それは羨ましいけど、食べ過ぎは良くない。いつか体壊すぞ」
俺が心配してそう言うと、彼は、
「忠告ありがとう、気をつけるよ」
と笑った。
夕食の後、俺たちはまた本を読みながら話をした。話は尽きなかった。彼は少々不器用で人見知りな節があるが、一度親しくなると心を開き、甘えてくるという事が分かった。
「なぁ月浦、今日泊まりたい」
眠くなってきた、と彼が目を擦る。俺は食べ過ぎだろ、と呆れながら、
「仕方ないな……まぁ良いけど、明日は仕事休みなんだっけ?」
「あぁ」
「風呂は?」
「明日の朝入る。駄目か?」
「分かった。ベッドこっちだから、来て」
と、俺は彼を寝室に誘導する。寝室に着くなり、ベッドに潜り込み、彼はこう言った。
「ありがとう、おやすみ……」
そうして数分後には、彼は深い眠りに就いていた。
「はぁ……まるで子供だな」
俺は彼の寝顔を見ながら独り言ちる。今日一日散々振り回された筈なのに、不思議と嫌な気はしなかった。
その夜、俺は彼の隣で初めて眠った。然しどうにも上手く眠れない。何故か緊張する。
俺は繰り返し寝返りを打った。何度目かの寝返りを打った時、彼の寝顔が目の前にあった。
白く美しい肌、長い睫毛、柔らかそうな唇、そして、繊細な指先。俺はついその美しさに見惚れた。
その時俺は本能的に彼に触れたいと、そう思った。思ってしまった。
咄嗟に、彼は美しいが女性ではない、と、俺は自分に言い聞かせる。彼は大切な友人だ。普通の友人でいたい。まだ戻れる、俺はそう考えながら、胸の奥の痛みを見ないふりをした。
その日、俺は結局朝まで眠る事が出来なかった。
翌日。仕事を早めに切り上げた俺は、彼が勤める店の前にいた。
アンティーク加工が施された白い看板には『Étoile』と青い文字で書かれている。ステンドグラスが嵌め込まれている木製のドアの前で俺は軽く深呼吸してから、真鍮のドアノブを引いた。ドアベルが鳴り、
「いらっしゃいませ」
と聞き慣れた柔らかく落ち着いた声がする。声の主は彼だった。
「月浦、よく来たな」
彼は笑顔でそう言う。
彼は黒いシャツに黒い細身のスラックス、黒いギャルソンエプロンを身に着けていた。静かな店内に従業員は彼一人で、他に来客はいなかった。音楽はオルゴール曲が控えめにかかっているだけだ。
「お邪魔します」
「あぁ、ゆっくり見ていってくれ」
店内には硝子や陶器で出来た製品や真鍮やシルバーのアクセサリー、木製のオブジェ、小物入れなどが品よく並んでいた。
大きなものはアンティークの椅子やキャビネット、そして人形作家が制作した球体関節人形などまである。
俺はゆっくりと歩きながら、一つ一つの商品をじっくりと吟味した。
と、店の隅にあった、天体モチーフの小さな金属製オブジェが目に留まる。
「それ、綺麗だろ」
「真鍮製のアーミラリ天球儀。アンティークじゃないけど、天体モチーフで、尚且つデザインもインテリアになる美しさだから月浦堂の雰囲気にも合うと思う」
いいんじゃないかな、と彼は言う。
「あぁ、気に入った。これにするよ」
「お買い上げありがとうございます」
彼はそう言って丁寧に頭を下げた。
会計を済ませ、商品を包んでもらう。待っている間に、カウンター横の椅子に腰掛けた球体関節人形を眺める。陶器の肌。長く、羽根の様に柔らかな睫毛に、硝子の瞳と、薄い唇。白い指先はほんのりと桜色に染まっている。その美しさに、俺は無意識に彼の容姿を重ねていた。
ふと視線を移し、俯いた彼の端正な横顔を眺める。そうしていると、不意に一昨日の夜の出来事を思い出した。
――胸が、苦しい。俺は罪を犯したような気持ちになり、彼から目を逸らす。
「月浦、お待たせ」
見れば、白地に青で店名が入った紙袋を持って、彼が微笑んでいた。
「……あぁ、ありがとう。春」
出口まで見送ってくれた彼が、紙袋を手渡してくれる。その時、彼の指先が僅かに俺の指先に触れた。初めて触れたそれは、今まで見てきた時に抱いていた冷たく、何処か幻想的な、この世ならざるものの美しさという印象とは違っていた。触れた先から微かに滲み伝う体温は温かく、その温かさに俺は胸が締めつけられるような痛みに苛まれる。
「今日はありがとう、またな」
彼が笑って手を振る。俺は、
「あぁ、また」
と言って店を後にした。
俺は、家路を辿る道すがら、彼のことばかりを考えていた。
帰宅し、シャワーを浴びると夕食も取らずにベッドに倒れ込む。
「一体何を考えてるんだ、俺は……」
俺は、天井を見つめながら独り言ちる。
どうしたら良いのだろう、俺はどうしてしまったのだろう。
彼の笑顔を思い出す。心の奥底から幸せな気持ちになると同時に、胸が苦しくて仕方なくなる。あぁ、やはり俺は、彼が。彼のことを――
梅雨明けが近い、とニュースの天気予報が伝えた。夏を前に、最後の五月雨が体温を奪っていく。漂うひんやりとした空気はこれから来る季節をまだ予感させない。外は篠突く雨。俺はパソコンを閉じ、窓を叩く雨の雫を、ただただ眺めていた。
今日はこの雨で客足も遠のいていた。
夜の海原を染める夜光虫の輝きに似た、翳りのある深い青が薄暗い店内に差し込む。その光に、俺は仄かに青く染まる彼の指先を思い出す。微かな香水の香りと共に。
誰かを想う事がこんなにも辛く苦しく、堪らなく甘美な痛みを伴うということを俺は今まで知らなかった。恋しいと思う気持ちが、罪悪感を感じる引き金になる、ということも。
と、不意にドアベルが鳴り、来訪者の存在を知らせた。
「月浦、元気だったか」
ハンカチで雨の雫を拭いながら、彼はカウンターに近づく。
薄縹の淡い光の中で、彼の濡羽の髪から雫がぽたり、ぽたりと滴る。伏せた目は長い睫毛に縁取られていて、白い首筋はほんのりと上気したように色づき、艶やかに濡れている。薄く開いた唇から微かに溜め息を零した彼は、匂い立つような色香を纏っていた。
俺は見てはいけないものを見てしまったような気がして、思わず目を逸らす。
「傘が役に立たなくて、すっかり濡れてしまった。すまない」
店を汚してしまって、と彼は申し訳なさそうにそう言った。
「いいや、大丈夫だ。それより風邪引くなよ。タオル持ってくるから待ってな」
俺は二階の自宅からタオルを持ってきて、彼に渡した。
「ありがとう」
と、彼は微かな笑みを浮かべてそう言った。
「あ、これこの前の……置いてくれてるんだ」
カウンターの後ろ、棚の上に置かれた天球儀を見て彼は笑みを深くした。
「あぁ。この前はありがとうな」
俺が言うと、彼はこちらこそ、と言ってからこう続けた。
「月浦、今晩泊めてよ」
何気ないその言葉に、俺はまた胸が苦しくなる。
「……良いけど」
俺は少し躊躇って、結局そう答えた。
「良かった」
彼が笑う。
「因みに夕飯はオムライスがいい」
と彼が楽しげにそう言う。
「はいはい」
俺は溜め息を一つ吐いて分かった、と言う。
彼は上機嫌で鼻歌を口遊む。そんな彼を見ていると、一瞬全てを忘れそうになる。俺と彼はただの友人で、こんな生活がずっと続いていくのではないかと。
そうだったらどれだけ幸せだろうか、と俺はそんな事を夢想する。それが詮無いことと知りながら。
軈て日が暮れ、夜になる。店を閉め、先に二階に上がった彼を追って階段を登る。
彼はソファで眠っていた。読みかけの本を片手に、気持ち良さそうに寝息を立てている。
俺は本を取り上げると、彼にブランケットを掛けてから、夕食の支度をする。
「春、出来たぞ」
俺は彼の肩を軽く叩く。
「まだ眠い……」
彼は小さくうぅ、と唸り声をあげながらかぶりを左右に緩く振り、俺の呼びかけを拒否した。
「じゃあ俺だけで二つとも食べるぞ、オムライス」
俺が言うと、
「……起きる」
彼はそう言ってやっと起き上がった。
「いただきます」
「はい、どうぞ。召し上がれ」
彼の瞳はまだとろりとしており、片足を夢の世界に浸しながらスプーンを手に取る。
彼はスプーンを口に運び、一口、また一口と食べる。
咀嚼する微かな音と、カチャ、と皿にスプーンが当たる音だけが静かな室内に響いた。
軈て、月浦はさぁ、と彼が口を開く。
「彼女とかいるのか」
心臓が跳ね上がる。俺は焦りを隠すようにグラスの水を口にしてから、こう答えた。
「……今はいないけど。何で?」
ふぅん、と彼は言って、こう続けた。
「もてそうなのに。意外だな」
そして、彼は少し間を置いて更にこう続けた。
「……俺はさ、今度お見合いするんだって」
と、彼は他人事のように言った。
最初、言葉の意味が理解出来なかった。数秒の間を置いて、意味を理解した俺は目の前が一気に暗くなり、背筋が急激に冷えていくのを感じた。スプーンを持つ手が、微かに震える。
「……へぇ、そうなんだ」
俺は掠れた声で、やっとそう言った。
「どうすべきだと思う?俺は正直あまり興味ないんだけど。ただ、店長の紹介だしちょっと断りづらくてさ」
「……いいんじゃないか。お前もいい年なんだし、そろそろ所帯を持つのも悪くないだろ」
俺は笑いながらそう言った。必死で平静を装いながら。本当は、胸が苦しくて仕方なかった。いつかはこんな日が来ると、心の何処かでは分かっていた。けれどこんなに早く来てしまうとは、現実は残酷だ。
こんな俺に今出来ること、それは彼の幸せを願う事だ。そう俺は自分に言い聞かせる。自分にとって、とても大切な何かから目を背け、誤魔化しながら。
彼は俺をじっと見つめ、一瞬だけ哀しそうな目をしてからこう言った。
「そっか……分かった」
ご馳走様、美味しかったよ、と彼は言って席を立つ。
俺は一人きりになり、急にダイニングが広くなったように感じる。
「……良かったんだよな、これで」
俺はそう独り言ちて、窓の外に視線を移す。
雨は、まだ止まない。
それから一週間後。梅雨明けをした夏の空は眩しく、晴れやかだった。
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
俺はそう言って頭を下げる。ドアが閉まるとカウンターまで戻り、椅子に腰掛け、カウンターに頬杖をついて窓の外を見る。
あれからずっと、俺は相も変わらず彼の事を考えていた。
哀しみや苦痛、寂しさ。今の俺が彼を思い出す時に感じるもの。
それでも俺は考えずにはいられなかった。ふと、カウンターの上に置いた彼の著書に視線を移す。ファタール――運命、宿命、そして致命的な、何か。
俺にとっての運命は間違いなく彼だった。然し、それもこの胸の痛みと共にもう直ぐ終わる。さて、これからどう生きていこうか――そんな事を考えていた、その時だった。
ドアベルが控えめに音を立てる。そこには、彼がいた。
「月浦」
元気か、と彼は尋ねる。
「……あぁ、元気だよ。春は?」
「元気だよ。これ、差し入れ」
彼が臙脂色の紙袋を差し出す。
「水羊羹。暑くなってきたからさ。月浦、それが一番好きだって言ってたろう」
あとで一緒に食べよう、そう言って彼は笑う。
「今日、泊まってもいいか?」
もうそれ以上優しくしないでくれ、いっそ突き放してくれれば楽になれる――俺の心はそう悲鳴を上げていた。
「……今日は疲れてるから、ちょっと難しいかな」
俺はこの時、初めて彼の申し出を断わった。
「あぁ……そうか。忙しいからってあんまり無理するなよ」
彼は最初驚いた表情をして、それから少し残念そうにそう言った。俺は胸の痛みを堪えながら、出来る限り自然にこう尋ねた。
「それで、見合いの件はどうなったんだ」
いつするのか、という意味だった。しかし彼は、
「それなら、断わったよ」
と言った。
「は……?」
俺は俄に驚く。彼は執筆活動を含めた仕事に集中したいという理由で断った、とそう笑って言った。
「良いのか、折角の縁談なのに……」
俺は喜びたいような、泣き出したいような複雑な気持ちでそう言った。
「あぁ、良いんだ。俺は今みたいな生活が性に合ってるし」
それに、と彼は言う。
「最近気になる人が出来たんだ」
だから、見合いは出来ない、そう彼は言う。
見合いを断った、という彼の言葉に一瞬喜びかけた俺は、また奈落の底に突き落とされた気分になる。
「どんな人なんだ?」
「……とても優しいよ。優しくて、俺の我儘にも嫌な顔一つせず付き合ってくれる人。俺のことを本当に大事にしてくれる人。その人といると、安心して、笑顔になれて、とても幸福な気分になれるんだ」
彼はそう言って穏やかに微笑む。それは思わず見惚れる程に美しい笑みだった。
「……名前は?」
俺は最後の悪足掻きにそう尋ねる。
「秘密。これだけは、君にも言えない」
彼は何故か少しだけ寂しそうに笑ってそう言った。俺は絶望的な気持ちになる。俺の知らない彼が、まだいた。しかもそれは俺の介入出来ない禁足地に、だった。
「……分かった」
俺は震える指先を静かに握りしめ、そう言った。
「……今日はそれを言いに来たんだ。だから、もう帰るよ」
またな、とそう言って彼は去っていった。
店を閉めた俺は、シャワーを浴び、ベッドに横になる。食事は、喉を通らなかった。
ふと机の上に置いたあの硝子のオーナメントが視界に入って、俺は彼の笑顔を思い出す。
その時、俺は初めて彼を想って泣いた。泣いて、泣き疲れて、そして、この気持ちを封印する事を心に決めたのだった。
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