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第9話 邂逅(後編)

 ――春side  運命――それは君との出会い。  宿命――それは逃れられないもの。希望であり、絶望。  致命的なのは、君へのこの感情。  俺はその日、君に出会った。君というたった一つの運命に。  ――夢をみた。  君の傍にいられなくなる日が来た。俺は遠い場所に行かなければならなくて、強い喪失感と後悔に苛まれた君を抱きしめる。本当は置いていきたくないのに、ずっと傍にいたいのに、それは叶わなかった。  そんな――夢だった。  傘を打つ雨の音。微かな土と雨の匂い。青く染まる視界、咲き乱れる紫陽花の小路。  訪れた古書街の一角で、俺は小さく溜め息を吐く。 「ここもか……」    目的の本を求め、歩き疲れた俺は、ここで最後にしよう、と「古書肆 月浦堂」と書かれた群青色の看板を見上げながらそう思った。  傘を畳み、店の前に置かれた陶器製の傘立てに立て掛ける。俺は深呼吸をして、ドアノブに手を掛け、そっと扉を開けた。 「いらっしゃいませ」  俺が入店すると同時に、一人の青年が慌てて立ち上がり、声をかけてきた。整った顔立ちに、優しげな瞳と声が印象的だった。店主にしては若いが、従業員だろうか。そんな事を考えながら俺は会釈をし、挨拶した。 「こんにちは」  俺は迷わず純文学と書かれたコーナーに向かう。目についた一冊を手に取ると、俺は静かに本を開いた。果たしてここには目当ての本はあるのだろうか、と考えながら。  ふと視線を感じて、そちらを見ると、先程の青年と目が合った。視線が交わった瞬間、微かな熱を感じる。それは恍惚とした瞳だった。誰かといるとたまに感じることがあるものだ。いつもは苦手なそれが、その時は不思議と不快ではなかった。  俺は、陰翳礼讃はありますか、と尋ねた。  青年は、俺が今日何回も聞いた言葉を繰り返した。  あぁ、やはりここもか――俺は青年の質問に答えながら落胆の色を滲ませる。  然し、青年が差し出した一冊を見て俺は気を取り直す。この本は、文庫版を流し読みしたことがあり、その内容自体には興味を持っていたものの、まだ所持してはいなかった。更に、旧字・旧仮名遣いが醸し出す当時の独特な空気感に触れられると言う点に惹かれ、俺は購入を決めた。 「文学がお好きですか」  青年が本を包みながら俺に尋ねる。  俺は少し悩んでから、昔から読書が好きだったこと、読むだけでは飽き足らずに自分でも小説を書き始め、現在作家として活動していることなどを伝えた。  青年は月浦透と名乗り、この店の店主であるのだと、そう言った。  これが、透との出会いだった。  俺の書いた本に興味を示してくれた透に、持ち歩いていた内の一冊を献本する。  渡した「Fatale」は俺の代表作だった。透は素直に俺の本を褒めてくれた。  その当時、俺は褒められて嬉しい反面、自信を無くしかけていた。俺は自分を、単純に才能が無いと自己評価していた。本の売れ行きは正直あまり芳しく無く、自分の文章が大衆受けはしない事も自覚していた。  然し、そんな俺に透は美しい文章だ、と言ってくれた。  更に透は、俺の書いた本を月浦堂で取り扱いたいと申し出てくれた。俺は、少しだけ自信を取り戻せた。  俺と透はそれをきっかけに次第に打ち解けていった。透はとても優しく、たまに俺のだらしなさに呆れながらも俺の我儘に付き合い、甘やかしてくれた。人付き合いが元々苦手だった俺は、今まで受けたことのない、透が向けてくれる純粋な友愛の情が心地よかった。そう、思っていた。  いつしかたまに向けられる熱を帯びた視線すら好意的に捉えていた俺は、その時既に透に対して友人以上の特別な感情を抱きつつあった。然し、俺は戸惑ってもいた。この感情は単に友情の延長線上のものなのか、それとも――  勤めている雑貨店に透が訪れた数日後。俺は透の家にいた。  俺と透はいつものように二人で本を読んでいた。と、不意に視線を感じる。まただ。俺は気づかないふりをして文字を目で追い続けた。最近の透は、俺と目が合うと直ぐに気不味そうに目を逸らすようになってしまった。俺はそれを少しだけ寂しく思い、それと同時に何故寂しく思うのか、自分に問いかける。俺は、その答えにそっと鍵をかけてしまい込む。気づいてはいけない、そんな気がしたからだった。  視線がより一層強くなる。俺は無言のそれに耐えかねて、遂に透の方を見た。   それは、最初の頃のような恍惚とした瞳ではなかった。渇き、悲哀を滲ませつつも、何処か穏やかで、愛おしいと言いたげな瞳。その痛みを堪えるような切ない表情に、俺は胸が苦しくなる。 「どうかしたか」    本当は分かっている。透が苦しんでいる事を。でも俺は聞けなかった。怖かった。 「何でもないよ、ごめん」  透が目を逸らし、気不味そうに謝罪する。謝らなくてもいいのに、と俺はそう思った。  ある日俺は店長から見合いの話を貰った。俺は気乗りしなかったが、熱心に説得する店長の厚意を無碍にする訳にもいかず、一旦考える時間を下さい、と言い、透に相談することにした。 「月浦、元気だったか」  透は雨に濡れた俺を見て、久々に恍惚とした瞳を一瞬したかと思えば、直ぐに視線を逸らした。俺はまた気づかないふりをした。  その日の夕食の時、俺は透に縁談の件を相談した。  透は微かに手を震わせ、憔悴したような表情を見せた後、 「……いいんじゃないか。お前もいい年なんだし、そろそろ所帯を持つのも悪くないだろ」  そう言って笑った。俺は胸の奥が酷く痛くなった。あぁ、やはり透は優しい。こうやって自分を殺してまで俺を優先しようとしてくれる。透は沢山のものを俺に差し出してくれる。   ――じゃあ俺は?俺は透の為に何が出来るのだろう。どうすべきなのだろう。 「そっか……分かった」     俺はそう言って席を立つ。シャワーを浴びて、ベッドに入る。あれこれと考えてしまい、俺は眠れずにいた。暫くして、透が寝室に入ってきた。俺は咄嗟に眠ったふりをした。  透の足音が近づく。暗闇の中で、俺はまた、熱を、その視線を感じた。  その時、唇に何かが触れた。薄目を開けてみる。それは、透の指先だった。冷えた指先がゆっくりと俺の唇をなぞる。鼓動は自然と速くなり、期待と少しの恐怖心が首を擡げた。  なぞる指先は優しいのに、それは僅かに、然し確かに官能の色を滲ませ、全身に震える程心地良い甘い痛みが走る。俺はそこに自分の知らなかった自分を見た気がした。  軈て透の指先がゆっくりと離れる。  代わりに透の気配と視線、浅い呼吸がすぐ目の前に感じられた。然し気配は躊躇うように、直ぐに消えた。  ベッドが軋む音がして、僅かに体が揺れる。俺はその日初めて、触れられる悦びと、言語化出来ない、透への複雑な感情を知った。  後日、俺は仕事を理由に縁談を断った。今の暮らしが楽しく、仕事で手一杯なのは事実だった。店長は残念そうな顔をしていたが、俺が、気になる人が出来た、と言うと、そういうことなら仕方ない、と言って諦めてくれた。  ある日俺は手土産を持って透の元を訪れた。  透はいつもと違って少しだけ素っ気なかった。俺の泊まりたいという申し出を断わった時の苦痛を滲ませた表情、疲れ果てた様子。  俺は初めての拒絶に戸惑い、寂しさを感じた。  それでも俺はまだ自分の感情の正体が完全には理解出来ていなかった。ただただ漠然と透と一緒にいたい、透の傍にずっといられたら、と思っていた。  俺は鍵を掛けていた箱の蓋を静かに開けた。それはパンドラの箱のように俺の中の様々な感情を溢れさせた。俺は、致命的な傷を負ってでも透にこの気持ちを伝えるべきか悩んだ。答えは、まだ出なかった。  俺は透に縁談を断わった事を伝えた。透は一瞬驚き、その後僅かに安堵したようだった。  今にも泣き出しそうなその表情を見て、俺は自分が透を苦しめているという事実を否が応でも認識させられた。  俺は意を決して"気になる人"について話した。それは、彼を苦しめた俺に出来る精一杯の罪滅ぼしだった。透は青い顔をして俯く。透はそれを自分の事だとは思わなかったらしい。俺は哀しくなった。そして、また透を苦しめてしまったという罪悪感に苛まれた。  俺ははっきりと気持ちを伝えるべきか悩んだ。もしも俺の勘違いだったら?透は俺を大切な友人だと思ってくれていて、縁談の件もただ親しい友人が遠くなる事を寂しく思っているだけだったら?そんな考えが頭を過ぎる。  その時不意に、彼の恍惚とした瞳、何かを渇望するような、切ない表情、そして唇を優しくなぞる指先を思い出した。仮に透が俺に対して友人以上の感情を抱いてくれているとして、果たして彼を幸せに出来るのだろうか、と俺は悩む。  俺は好きになったら男性も女性も関係ない、という持論を持ってこそいたが、それを無責任に誰かに押し付けるという事もしたくはなかった。  これは所謂"普通の幸せ"ではない。透は、彼女がいるかという問いに"今は"いないと答えた。つまり、いずれはまた出来るかもしれないということ。俺のこの感情は透の可能性を潰してしまう、奪ってしまうのではないか。そう考えると俺の胸は絶望で潰れそうになった。  俺は悩みに悩み、結局この問いについて、答えを出す事を先延ばしにすることにした。  茹だるような暑さに、逃げ水が揺らめく。子供たちの燥ぐ声と、駆けていく足音。  ふと見れば空蝉。樹木に残された脱け殻に、俺は自分を重ねた。その頃の俺は透への感情を自覚しかけては、その度に否定する事を繰り返していた。体は重く、魂は何処か遠いところにあるようで、俺は虚しさと痛みばかりを感じていた。  そんな蒸し暑いある日の事。その日、俺は透の家にいた。  気になる人がいると打ち明けたあの日以来、透はあまり笑わなくなった。代わりに、視線は痛い程雄弁にその胸の内を語っていた。俺は透が自分に執着しているのかと思うと、気が狂れそうな、泣きたいような、何とも言えない気持ちになった。     俺は自分の行動と直接的ではない言葉で、彼への気持ちを伝えることにした。いつか、彼が自ら気持ちを打ち明けてくれる事を願った、最後の賭けだった。もし違ったら。もし受け入れられなかったら。その時は諦め、ただ友人として透の傍にいよう、と、俺はこの時そう思った。 「……っ」     本を読んでいた時の事だった。透が紙で指先を切ってしまった。 「絆創膏あったかな……」  立ち上がる彼の手を掴み、俺はこう言った 「貸して」  小さな深紅の玉が浮かんだ指先を、俺は静かに口に含んだ。舌で傷口を柔く撫でる。微かな鉄の味が口内に広がった。  「春……?」  透が息を呑むのが伝わってくる。俺はゆっくりと唇を離した。数十秒程の出来事が、永遠に感じられた。俺は透を見てこう言った。 「……気をつけろよ」 「あ……あぁ、そうだな」  すまない、と透はそう言った。耳朶まで紅く染めながら。  その表情を見た俺は、微かな悦びを密かに覚えた。希望と、絶望が混ざり合い、美しく官能的なものへと変わっていく。俺はただ静かに濡れた透の指先を見つめていた。  ある日ぼんやりと夜道を歩いていた俺は、横断歩道の真ん中で急に目眩を感じ、その場に蹲ってしまっていた。  強い目眩に、意識が遠のく。  覚えているもの。車のクラクションと、眩しい光。甲高いブレーキ音と、強い衝撃。全身に走る激痛と凄まじい熱。  薄れゆく意識の中で、俺は君のことを思い浮かべる。まだ何も聞いていないのに、まだ何も出来ていないのに――  俺は深い哀しみと後悔の中で静かに目蓋を閉じた。  暗闇の中、何かが見えた。白百合に埋もれた自分の、生気のない顔。霧深い森と、満ちた月。  と、頭の中に声が響いた。 「……月浦を頼んだ」  聞き覚えのある、あれは俺の声――?  次の瞬間、眩しい光とブレーキ音、クラクションが再び鳴り響く。俺ははっとして音のする方を見た。車は俺の目の前で辛うじて停止していた。   「大丈夫ですか?」  横断歩道の向こうから駆け寄ってきた見知らぬ女性が心配そうに声をかけてくれた。 「すみません……」  手を借り、立ち上がった俺の耳元で、聞き覚えのある声が聞こえた。 「……良かった」  慌てて振り返っても、そこには誰もいない。  俺は首を傾げる。あれは確かに――  数日後。いつものように月浦堂に俺はいた。    「どうしたんだ、その花」  俺は大輪の白百合の花束を抱えていた。 「明くんからのプレゼント」  懐かしいな、あの時も皆から貰ったんだ、と俺は呟く。 「あの時って?」 「……なんでもない、こっちの話」   俺は慌ててそう言い、笑った。 「綺麗だろ?」      「……あぁ。綺麗だな」  陶酔が滲む瞳。透が俺に見惚れているのが伝わってきた。俺はいつものように気づかないふりをする。が、その時不意に俺は少しだけ意地の悪い事をしたくなった。 「……なぁ、俺は?」  綺麗か、と俺は尋ねる。 「……男に綺麗はないだろ」  透が視線を逸らした。透は嘘が下手だ。 「明くんはいつも言ってくれるぞ」    俺が食い下がると、   「あいつは特例だろ……」  と呆れたように言った。 「本当に素直じゃないな、君は。少しは明くんを見習ったらどうだ」    溜め息を吐いて俺が言うと、透は、 「嫌だ」  と無表情でそう言った。 「あーあ、なら明くんのデートの申し出、受けようかな」  俺は透の気を引きたくて、巫山戯てそう言う。 「勝手にしなさい」  俺は知らない、と透は溜め息を吐いてそう言った。     俺は寂しさを誤魔化して笑った。  それから時は経ち、俺は遂に透から想いを打ち明けられた。俺は素直にそれを喜び、もう少し時間をかけて答えを出したいと返事をした上で、暫く穏やかな日々を送っていた。  あの奇妙な夢の事も、忘れかけていた。  然し、山根さんと会った日を境に、少しずつ俺は可笑しくなっていった。  俺は一人で自室のベッドに横たわり、透の事を考えていた。  女性の恋人。普通の幸せ――  俺は泣き出しそうになるのをぐっと堪えた。  やはり、これ以上一緒にいないほうがお互いの為なのか。そしたら、透は俺の呪縛から解放されるのだろうか。最初から俺がいなければ、透は"あの時"後悔も喪失感も味わわずに済んだのだから。俺を知らなければ、俺さえいなければ、出会わなければ。  そう考えれば考える程、俺は胸が苦しくなった。  思い出すのは、抱きしめられた時の透の腕の感触と優しい声。熱を帯びた、恍惚とした瞳。触れられた指先の冷たさと僅かな官能。俺はそれらに再び悦びを覚えた。背筋に走る甘く痺れるような傷み。蘇るのは視線から伝う微かな快楽、触れられたいという淫らな欲望。俺だけを見ていてほしいという願望。軈て俺はそれらに支配され、その夜俺は初めて透を想って自らを慰めた。 「……ごめん、月浦」  涙が頬を伝う。ごめんなさい、とそう繰り返しながら、俺は透を都合の良い想像の中で穢した。  身勝手な自涜の後に残ったのは後悔と、甘美で苦い背徳感だけだった。  時間が経つにつれ、冷静になった俺は超えてはいけない一線を越えてしまった気がして、良心の呵責に苛まれた。  これは本当に友情の延長線上なのか、と俺は再び自問自答する。答えは明白で、突きつけられた現実は重く、ただ只管に辛かった。  透が山根さんと親しげに話をしていたのを見たその日から、自分の中で何かが燻り続けていた。俺はその苦痛から逃れるように幾度も透を想って自涜に溺れた。快楽に身を浸している間、俺は身を焦がすような熱と傷み、そして辛い現実を忘れられた。  好きだとか、愛しているだとか、様々な言葉や感情を並べてみる。が、どれもしっくりこなかった。俺は狂おしい程の何かの影を自分の中に見出す。こんな自分を知りたくなかった。綺麗なままでいたかった、と俺は気づけばそう呟いていた。  透はどうなのだろう、とふと思う。俺に触れたくて、狂おしい何かに支配されるような事があるのだろうか、と。その時、不意に脳裏にあの夢の内容が過ぎる。あの夢の中で、俺は深い後悔を感じていた。あんなふうに後悔するくらいなら、いっそ透に自ら触れて全てを壊してしまおうか、そう思いかけては踏みとどまる。淫らな願望と、独占欲だけが膨れ上がっていく。 「辛い……辛いんだ、月浦」  君を想うと辛いんだ、そう俺は呟いた。  俺の精神は限界を迎えようとしていた。  ある日、透の家を訪れた俺は遂に自棄を起こして彼に詰め寄った。 「じゃあなんで抱けないんだよ!!」  激昂した俺を見て、透は呆然とする。 「……もうやめよう」  俺は最早全てに疲れ果てていた。焦りと諦めもあった。 「君には普通に幸せな家庭を築く力も、権利もある」  なのになんで俺なんだよ、どうして俺なんか――そう俺は呟く。  そんなの望んでない、そう言った透に甘えてしまいそうになる気持ちを何とか堪えて、俺はこう言った。 「……君は俺に騙されてるんだよ、月浦」  君の中で美化された俺のイメージに騙されてるだけなんだ。 「別に騙されてなんかいない。自分で選んだ道だ」  透はそう言う。透は真っ直ぐで優しい。でも透は知らない。俺が透を夜な夜な淫靡な想像で穢していることも、醜い独占欲に塗れている事も。  俺は諦めまじりにこう言った。 「月浦……多分、君は俺を誤解してる。何度も言うが、俺は君が思う程綺麗な人間でもなければ、聞き分けが良いわけでもない」  今も君のその優しさに甘えてこうやって酷いことをしているんだ。分かるだろう。  俺はそう言った。透は優しい声で、俺の何もかもを愛していると言ってくれた。  そしてどんな俺でも必ず全て受け止めてみせると、そう言った。  俺はその言葉に酷く安堵して、ごめん、と嗚咽混じりに言い、詩の力を借りて透に歪なこの想いを伝えた。  透は、ただ黙って俺を抱きしめてくれた。  クリスマスの数日前。俺は透の家にいた。  「冷えるな……」  マシュマロ入りのホットココアを飲みながら俺は震えていた。 「エアコンの温度上げるか」    透はリモコンで温度を上げ、ブランケットを渡してくれた。 「ありがとう」        俺は笑ってそう言った後、マグカップをローテーブルの上に置き、こう言った。 「月浦、あっためて」     俺は両手を伸ばして透に抱きつく。 「はいはい」  透は笑いながら俺を抱きしめてくれる。  俺たちはソファの上で抱き合う。俺は透の胸に顔をうずめて、こう言った。 「イヴ、楽しみだな」   「あぁ。そうだな」  その時、俺はふと思いついて、身動ぎし、透の腕から抜け出す。 「……どうした?」  透の頬に手を添え、俺はゆっくりと指先で唇をなぞった。あの時透がしたのと同じように。 「……何か感じるか?」   俺が言うと、  透は驚いたようにじっと俺を見つめた後、気不味そうに目を逸らす。  「……起きてたのか」 「あぁ」 「あの時は、その……すまなかった」  魔が差したんだ、と透は俯く。 「どうして謝るんだ?」  俺は嬉しかったよ、月浦に触れられて。 「……そうか」  透は何とも言えない、複雑そうな表情をした。 「ところで」  何か感じるか?と俺は再び唇をなぞりながら、透の耳元で囁いた。  透が再び俯く。耳朶が微かに紅く染まっている。俺は更に追い打ちをかける。 「なぁ、答えてよ月浦」  俺は耳元でそう囁く。そして、とどめを刺すように更にこう続ける。 「……俺は感じたよ」  囁く声は自分でも驚く程甘かった。透は、困り果てたようにこう言った。 「……俺が悪かった。だからその……赦してくれ」  本当にすまなかった、と俯き繰り返す透を見て、俺はくすくすと笑いながら満足して離れた。 「いいよ、気にしなくても」  俺はそう言って、ホットココアを口にした。  透の純粋な反応を見ていると、俺はついからかいたくなってしまうのだった。    そしてクリスマスイヴ。俺たちは初めて手を繋ぎ、唇を重ねた。  想像の中での口づけと違って、透の唇や舌は熱く柔らかで、俺はその行為に直ぐに夢中になった。何度も求め合う内に、胸には甘い傷みが走った。たった一日だけの恋人。いつまでもこの時が続けば良い、俺は本気でそう思った。 「見惚れてるのか」   「……あぁ。綺麗だな、って」   この言葉を聞いた時、俺はとても嬉しかったのを覚えている。明くんや他の人に言われる"綺麗"とはまた違った、不器用な透の初めての俺への素直な言葉。俺にとって何よりも特別な一言になった。  その後渡された指輪を透は捨てて良いと言っていたけれど、俺は端から捨てる気などなかった。  答えはもう、決まっていた。  ――俺も、透のことが好きだよ  俺は透にそう告げた。  迷って、悩んで、苦しみながらやっと出した答え。透は俺の事を大切に、幸せにすると約束してくれた。  俺はその日、初めて透に抱かれた。ずっと待ち望んでいたその瞬間に、俺の心は打ち震える。透の腕の中で、俺は溺れるように静かに、ゆっくりと乱れていった。透はそんな俺を綺麗だと言い、愛おしそうに見つめていた。 「透、俺だけを見ていて、永遠に」  俺は独占欲を露わにしながらそう言い、透はそんな俺を受け入れてくれた。俺は幸せを手に入れると同時に、不安でもあった。もしいつか、透が他の誰かを、女性を選んでしまう日が来たら――俺はそれが怖かった。    透は、そんな俺の不安を溶かし、全てを包んでくれた。  俺は透に愛される度、少しずつ自分に自信を持てるようになった。透は俺を決して見放したりしない、そう感じたからだ。俺は愛し愛される喜びを知り、変わっていった。その変化は仕事や私生活にも反映され、俺はまるで生まれ変わったかのように人生を謳歌した。全て透のお陰だと、そう思った。  この頃から俺は、あの夢を再び見始めた。幸せな現実に反して、夢を見る頻度は高くなっていった。然し、それについて俺は誰にも、透にすら相談しなかった。単純に、心配をかけたくなかったからだった。俺は恐怖心を紛らわせるように友人たちとの予定を次々と入れ、少しだけ透と距離を取った。透といるのは幸せだったが、透の顔を見る度あの夢を思い出し、辛くなるのも事実だったからだ。そして、あの夢が何を表しているのかを俺は薄々気付き始めていた。ただ、認めるのが怖かった。  ある日、透の家に泊まりに来ていた俺は、ふとした思いつきでこう言った。   「海に行きたい」  「海って……まだ冬だぞ」  流石に早すぎないか、と透はやや驚いた様子でそう言った。 「冬の海が良いんだ」 「綺麗で、静かで。今度書く予定の小説にそのシーンを入れたいんだ。だから実際見ておきたくて」 「駄目かな」  俺は尋ねる。 「分かった。いいよ」  透はそう答えた。  電車を乗り継ぎ、バスに乗る。軈て海に着いた俺たちは、海岸を並んで歩いていた。吐く息は白く、キンと冷えた空気は僅かに青さを帯びている。打ち寄せる波と潮の香り。  辺りを見回す。人の姿は他に無く、俺はこう言った。 「手、繋ぎたい」 「いいよ」  「ありがとう」  俺は手袋を片方外して、透の方へと差し出した。透の手は温かく、優しく俺の手を包んだ。俺は自然と笑みが溢れる。 「こうしてると、イヴの時を思い出すな」 「そうだな」 「……今日は誰もいないから」   ずっとこうしていられる、と俺は言った。 「そう考えると冬の海も悪くないな」  と、透が笑う。 「だろ?」  俺はつられて笑った。  暫く歩いて、俺はふと足を止める。遠くの水平線を見つめながら、俺はこう言った。 「渡したいものがあるんだ」 「何だ?」 「これ」   もし良かったら受け取ってほしい、そう言いながら、俺はコートのポケットから取り出したそれを、透の掌に乗せた。  「鍵……?」 「俺の家の合鍵。いつも透の家にばかりお邪魔させてもらってるからさ、たまには俺の家にも来てよ」 「ありがとう……行くよ、必ず」  透は微かに笑って、嬉しそうにそう言った。  待ってる、と俺は笑った。 「あとさ、これ」  俺は左手の手袋も外して、薬指に嵌めた指輪を見せる。   「俺だけだと寂しいから、透とお揃いにしたい」 「分かった。じゃあ、今度一緒に買いに行こうか」 「あぁ。約束な」  俺がそう言うと、透は穏やかな瞳で俺を見つめた。そして、辺りを見回してから、俺を静かに抱き寄せ、そっと口づけをしてきた。  冷えた唇と、熱い舌の感触。仄かに香る、香水の香り。俺は暫しの間それらに酔い痴れた。  帰宅した俺たちは、どちらともなく互いを求め、唇を重ねた。長く味わうような深い口づけ。背筋から腰にかけて伝う甘く痺れる様な痛みに、俺は体を震わせる。腰が砕けそうになるのを堪えながら、俺は透に向かってこう言った。 「透、したい……」  今直ぐに、そう言いながら見上げる視線に自然と熱が籠る。唇から漏れ出る吐息が、熱い。 「俺もちょうどそう思ってた」  透は愛おしそうに俺を見つめてそう言った。  そして、床に俺を組み敷くと、また深く口づける。冷たい床の感触と、シャツの下を指が這う感覚。軈て最も敏感な部分を探り当てられた俺は、小さく悲鳴をあげた。俺はそれを擦り、摘まれ、刺激され、身を捩る。愛してる、そう耳元で何度も囁かれ、俺は透から与えられる強く甘い刺激に溺れた。気を遣りかけては幾度も焦らされ、を繰り返す内に俺は気が狂れそうになり、 「透……もう、赦して」  お願いだから、と懇願する。然し透は、 「そんな顔しても駄目だ」  自分から誘ったんだろう、と耳元で囁いた。俺は羞恥と快楽で意識を失いかける。  口づけがどんどんと深く、長くなっていく。響く水音が鼓膜を犯す。軈て透の手を、次から次へと溢れる自身の蜜で汚しながら、俺は果てた。 「綺麗だよ、春……今まで見た中で一番綺麗だ」  透が恍惚とした瞳で俺を見つめ、そう囁く。  俺は返事をする余裕も無いまま、只管淫らな声をあげながら、透の腕の中で溶けるように、ゆっくりと乱れていった。  そして――透の手によって幾度も気を遣った俺はぼんやりと天井を見つめていた。微かに滲む汗と、互いの香水の香りが混ざり合い、何とも言えない、噎せ返る程の官能的な香りが辺りに漂う。瞳は涙で薄っすらと潤み、呼吸は浅く、心臓は激しく脈打っている。  俺は、自分が今、恍惚とした表情をしているのが分かる。 「……透」  好きだよ、と俺は言いながら透の方を見た。  透は俺を見て、俺もだよ、と笑った。  俺は透に抱きつき、子供のように甘えながら、こう尋ねる。 「なぁ、俺、綺麗だった……?」 「あぁ、とても」  透が俺の頭を撫でながら優しくそう答える。  良かった、と安堵した俺は静かに微笑み、透に口づけた。  俺たちはシャワーを浴びて、夕食を取ると、ベッドの上で再び愛し合った。行為の最中、不意に透がこう言った。 「春……俺のことを考えながら自分でしてみて」  春の見たことがない顔が見たい、と透は言い、俺をじっと見つめる。  俺は急激に現実に引き戻され、過去の自涜行為による罪悪感を思い出し、躊躇う。 「でも……」 「見たいんだ。もっと春の事を知りたい」 「……いいよ」  俺は少し悩んでから、承諾する。  自らにそっと触れ、淫らな声と吐息を漏らしながら緩く扱いた。行為は少しずつエスカレートし、俺は羞恥と快楽で可笑しくなりそうになる。目の前で透が見ていると思うと、僅かに緊張し、そして興奮した。  透の俺へと注がれる視線が痛いほどに気持ち良く、俺は呆気なく果てた。 「ありがとう、可愛かった」  一気に緊張が解け、呆然とする俺を抱きしめて、透はそう言って嬉しそうに俺を抱きしめる。  ――可愛い?こんな俺が?  俺は朦朧とする頭でその言葉を反芻する。俺は透のその言葉に、優しさに、泣き出しそうになるのを必死で堪えた。そして、 「……透もしてよ、俺のことだけ考えながら」  乱れた息のまま俺がそう言うと、透は、 「それは……ちょっと」  と口籠る。俺はその様子を見て意地の悪い事を考えた。 「なんで?俺ちゃんとしたじゃん」  ずるい、と俺は言い、透の耳元でこう囁いた。 「それとも……俺じゃ興奮出来ない?」 「……分かった」  透は諦めたようにそう言うと、躊躇いながら自身に手を添え、ゆっくりと扱く。軈て俺の名前を吐息混じりに呼びながら、動きは徐々に激しくなる。その姿はとても淫らで、俺は身体の奥が甘く疼くのを感じた。程なくして果てた透は、俯き、耳朶まで紅く染めながら、 「ごめん……」  と言った。俺はそんな姿が堪らなく愛おしくなって、透を抱きしめた。 「ありがとう、透」  俺はこの日、透の言葉に救われ、自らを慰める行為を穢らわしいとは思わなくなった。  透は何度も俺を救ってくれた。弱い俺を受け入れ、美しいと言ってくれた。俺はこの時、俺の全てを受け入れてくれた透を生涯大切にしようと、心から誓ったのだった。    

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