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第10話 蜜月(前編)
見慣れた街並みが春雨に煙る。咲き初めの桜、その花弁を濡らす空の涙が零れ落ちていく。静かに零れる一滴一滴を眺めながら、俺は傘を開いた。
いつもの喫茶店からの帰り道、俺と彼は他愛もない話をしながら歩いていた。途中、一本の満開の桜の木の前で不意に彼が立ち止まる。自然と会話は途切れ、俺は隣にいる彼の方を見た。彼はぼんやりと雨に濡れた桜を見上げている。
「春?」
俺は声を掛けた。彼は暫く何かを考えるように黙り込み、軈て徐に口を開くと、桜を見つめたままこう呟いた。
『君のいない世界はまるで色を失った絵画のよう 意味を成さず 透明な景色の中を私はただ一人 彷徨うだけ』
「……透と一緒にいたい。ずっと」
彼の言葉を聞いて、胸が温かくなる。俺は微笑みながら優しくこう答えた。
「俺も春とずっと一緒にいたいと思ってるよ」
彼は緩くかぶりを振り、目を伏せてこう言う。
「毎日一緒にいたいんだ。離れている時間が惜しくて」
目が覚めて隣に君がいない時、嬉しい事があった時や悲しい事があった時も、直ぐに会いたくなる。だから、
「……透と一緒に住みたい」
駄目かな、と彼は俯く。
俺は少し考えてから、傘を閉じる。周りに人はおらず、薄い青に染まる視界は静寂に包まれていた。俺はそっと彼の差す傘に入ると、傘に隠れて唇を重ねた。
「……いいよ。一緒に住もう」
「いいのか?」
彼は顔を上げ、嬉しそうに俺を見上げる
「あぁ。俺も、春と離れているのは寂しいから」
ずっと望んでいた事。ささやかな願い。結婚は難しくとも、せめてただ傍にいられたなら。
俺は、こちらを見上げる彼にこう言った。
「俺の家で一緒に住もう」
「ありがとう、透」
嬉しそうにそう言う彼を見て、俺は微笑む。
「引っ越しはいつにする?」
「じゃあ……」
数日後。月浦堂に、瀬川と彼がやってきていた。
「えっ、春ちゃんたち同棲するの?」
「あぁ。来月透の家に引っ越すんだ」
「そっか、おめでとー」
瀬川が笑う。黒い髪も、ピアスのない耳も、大分見慣れてきた。瀬川はいいなぁ、と羨むように言いながら、小川さんの方を見る。
「俺たちもしようか、瑞稀」
「うーん、まだ少し早いかな。俺も最近仕事を始めたばかりだから、もう少ししたらね」
笑いながら小川さんがそう言った。先月から、小川さんは週に二日の頻度で、ここ月浦堂で働き始めた。社会復帰への第一歩を踏み出した小川さんの事を、俺たちは温かく見守る事にしたのだった。
その日の夜。泊まりに来た彼と本を読みながら話をしていた時の事だった。
「透ってさ、優しいよな」
「ん?……そうか?自分で意識したことは特に無いけれど」
「優しいよ」
「だって透が怒るときって誰かの事を想って、っていうのばかりだろ。自分の為に怒ってるのは、見たことが無いからさ」
「まぁ、確かに言われてみればそうかもな。基本的に自分の事は後回しにしがちだし、何をされても言われてもあまり腹は立たない方だと思う。余程の事がない限り、相手の事情や気持ちを考えると、ある程度は仕方ないかなって思うんだ」
「へぇ……出来た人間だな」
「そうでもないよ。単に自分に自信が無いだけなんだと思う」
「じゃあ、この春さんが自信をつけてあげよう」
彼は笑いながらそう言った。
「……?」
「おいで」
彼が両手を広げる。
近寄ると、俺を優しく抱きしめながら一つ一つ長所を挙げ、褒めてくれた。
「透のいいところ。先ずは料理が上手いだろ、無闇に他者を否定しないところに、俺を大切にしてくれるところに……」
ゆっくりと、時間をかけて幾つも挙げていく。俺は少し気恥ずかしさを感じならも、その行為を欣幸に思い、彼を強く抱きしめる。
「……で、最後にキスが上手いところ」
そう言って彼は俺に向き直ると、静かに唇を重ねた。
「ありがとう、春」
「自信ついたか?」
「あぁ」
「これからは自分の事も大切にしてくれよ。俺からの頼みだ」
「分かった」
よし、じゃあ寝ようか、と言って彼が立ち上がる。
俺はそんな彼の腕を掴み、引き止めた。
「どうかしたか?」
「……上手いのはキスだけ?」
そう言って俺は彼に唇を重ねた。ゆっくりと息を奪うような口づけをした後、彼は瞳を蕩けさせながらこう言った。
「……もう一つあった」
「何?」
ちゃんと言わないと分からないよ、と俺は耳元でそう囁く。
彼は俯き、言いにくそうに口籠る。耳朶をほんのりと紅く染めながら。
「……君は最近、意地が悪くなったな」
そういうのは俺の専売特許なのに、と彼は溜め息と共に呟く。
「ちょっとした意趣返しだ。やられっぱなしは癪だから」
怒るなよ、と俺は笑う。
成程日頃の行いか、と、彼は観念したように言い、こう続けた。
「……抱くのが上手い」
これでいいか、と、彼は言い、俺を見上げた。
「ここまで言わせたんだ、褒美はあるんだろうな」
「勿論」
食い気より色気を選ぶならな、と、彼の頭を撫でながら俺はそう笑った。
それから数週間後。遂に彼が俺の家に引っ越してきた。
「それでは失礼します。ご利用ありがとうございました」
「お世話になりました」
引っ越し業者が帰った後、俺は彼の荷物の荷解きを手伝っていた。
「春、これはどうする?」
「あ、それはこっち」
貸して、と彼が手を伸ばす。俺は開封済みの段ボールの一つを渡した。彼は自室にそれを運ぶ。
「少し休憩しようか」
俺が声を掛けると、彼は、
「あぁ、これ片付けたらそっちに行くよ」
と答えた。
俺はキッチンで二人分のアールグレイを淹れ、棚にあった買い置きのショートブレッドと一緒にリビングへと運ぶ。
リビングにはまだ彼は居らず、俺はソファで本を読みながら彼を待った。
疲れからか、いつの間にかうとうとと舟を漕ぐ。気付けば俺は、意識を手放していた。
――夢を見た。
空はちょうど黄昏から夜の闇へと変わる狭間。
霧深い森の中、湖のほとり。
蝶の羽ばたきすら聞こえてきそうな静寂の中、ただ彼と二人きりだった。
湖を覗き込むようにして屈み込んでいる彼の白い首筋を斜め後ろから見下ろすようにして、俺は彼の事を眺めていた。
濡羽の黒髪、白い指先。潔癖で繊細、そして優しい、見慣れた彼の姿が、そこにはあった。
その時、可笑しい、と俺は強い違和を感じる。俺は知っている。彼は"あの日"確かに交通事故で亡くなった。俺は葬儀にも出た。棺いっぱいに手向けられた白百合に埋もれた彼に別れを告げたのを覚えている。何故ここに彼がいるのだろう、ここは何処なのだろう。
罪の、ような――
俺は、結局彼に想いを告げられないまま彼を喪った。その結果、未だに強い後悔と喪失感に苛まれ続けている。俺は、もうこれが最後かもしれないと、自らを奮い立たせた。
「……春」
意を決し名を呼ぶとゆっくりと彼が見上げるようにして俺を振り返る。
「何だ」
どうかしたか。
嗚呼。この声、この表情だ、とそう思う。途端に強烈なノスタルジアが込み上げる。
彼は、生前と変わらずとても美しかった。
――静寂。
玉響のように僅かな時間だった。然しまるで途方に暮れる程の歳月が経ったかのような錯覚に陥りかける。
絡みつく焦燥を振り払おうと俺は緩くかぶりを振った。そして、
「……愛してる」
ずっと好きだった。
「ずっと」
泣き出したい気持ちをぐっと堪え、渇いた咽から絞り出すように言葉を紡ぐ。
「……うん」
彼はいつものように茶化す訳でもなく、ただ俺をじっと見つめ、
「知ってたよ」
とそう呟く。そして、
『……月のひかり泉にゆらめき映ゆる時、
われ、おん身を思う』
『われ、おん身のもとにあり、よしやおん身遠く隔たりてあるとも、おん身わがかたえにあり』
と静かに諳んじた。その頬を、降り始めた雨が一筋、涙のように伝う。
「あぁ……やっと聞けた」
そう言って立ち上がり、俺の方へと手を延ばす。
「ありがとう、月浦」
木蓮の花を思わせる、その柔らかで温かなたなうらが、俺の両の手を優しく包み込む。
「やっと、言えた……」
緊張の糸が切れ、震え嗚咽する俺の肩を彼がそっと抱き寄せ、そのまま抱きしめる。
降り頻る雨の中、泡沫の抱擁。彼の手にした永遠は、俺にはまだ遠く。
どれだけの時間が経ったのだろうか、それは一瞬にも、永遠にも思えるひと時だった。
気づけばいつの間にか雨は止み、空には満ちた月が浮かんでいる。
ふと腕の中を見ると、抱き締めていた筈の彼は、一頭の美しい烏揚羽に姿を変えていた。
――"向こうの俺"に宜しく。
"今度は"後悔せずに幸せになれよ、と、そう静かに別れを告げる声が、俺の耳元で朧気に聞こえた。
蝶は霧の中、濃紺の空に浮かぶ満ちた凍える月へと羽ばたき、還っていく。
そんな――夢だった。
「……透、大丈夫か」
彼の声がする。はっとして目を開けると、彼が目の前にいた。気付けば俺は全身に冷や汗を掻いていた。頬には涙が伝っている。
「魘されてたぞ。大丈夫か?」
彼が心配そうにそう言った。
俺は彼の姿に、声に安堵して、思わず彼を抱き寄せる。
「なんだ、どうしたんだ?急に……」
「……春が生きてて良かった」
「……」
俺は彼に夢の内容を話した。彼は黙って俺の話に耳を傾け、軈て静かに目を伏せた。
「……ただの夢だよ。気にするな」
「あぁ、そうなんだけど……何か不思議な夢で」
彼は俺の目をじっと見つめ、こう尋ねた。
「……夢の中の俺は何か言ってたか?」
「こっちの春に宜しくってさ」
後、俺に"今度は後悔するなよ"って言ってたな、と俺は言う。彼は暫く何か考え込むように俯き、軈て顔を上げる。
「分かった」
そう言った彼の頬を涙が一筋伝う。
「春……?」
大丈夫か、と俺が言うと、彼は涙を拭いながら、
「大丈夫だよ。少し疲れたから、今日は先に休ませてもらってもいいかな」
「……あぁ、良いよ」
彼はそう言って立ち上がった。俺は冷めた紅茶を片付けようとキッチンへ向かう。その俺の背後から、彼がこう呟いた。
「……ありがとう、月浦」
「……え?」
俺は俄に驚き、彼に問いかける。
「今、なんて……」
彼は、一瞬はっとした表情をしてから、笑顔でこう言った。
「何でもないよ、透」
おやすみ、と彼は寝室の方へと去っていく。俺は彼が夢の中で俺を"月浦"と呼んでいた事は知らない――筈だった。
俺は暫しの間、今しがた目にした不思議な光景にただ呆然としていた。
数日後。荷物の片付けも終わり、俺たちはリビングで本を読みながら寛いでいた。
「良かったな、予定より早く片付けが終わって」
と、俺が言う。彼は、
「透が手伝ってくれたお陰だよ。ありがとう」
と笑う。俺はスマートフォンのメッセージアプリを開きながら、
「今度引っ越し祝いしたいから遊びに来たいって、瀬川たちが言ってたよ」
と言った。
「分かった。待ってるって伝えておいてくれ」
「あぁ」
そう答えて、俺は彼の横顔をじっと見つめる。
先日のあの夢があれ以来頭から離れなかった。俺は彼が、あの夢について何かを知っているように感じる。
然し追及しようとすると、笑ってはぐらかされてしまう。
何か理由があって答えたくないのかもしれない、俺はそう思ってそれ以上追及するのをやめた。
その時、以前彼と映画を観に行った時の彼の言葉を思い出した。
『あぁ。後悔はしないようにした方がいい』
いつ何が起きるかなんて、誰にも分からないのだから、と。
そして百合の花束を瀬川から贈られた時の彼の、"懐かしいな、あの時も皆から貰ったんだ"、というあの言葉。
ただの夢。そうなのかもしれない。否、そうであってほしいと俺は思っている。
夢の中の彼の死因は突然の交通事故だった。俺たちは"向こう"の俺たちと違い、後悔しない道を選べた。あの時、勇気を出して彼に想いを伝えて本当に良かったと思っている。
不思議な事に、あの時、確かに何かが変わったのだと、そんな気がする。選択を間違えなくて良かったと、俺はこの時そう強く思った。
それから一週間後。瀬川たちが自宅に遊びに来た。
「春ちゃん引っ越しおめでとう!はい、これ、俺と瑞稀から。春ちゃんの大好きなお店のケーキと、お祝いの花束だよー」
ついでに月浦もおめでとう、と瀬川は笑った。
「俺はまたついでかよ」
俺は呆れながらそう言う。
笑いながら、瀬川が彼にケーキの箱と花束を渡した。
「ありがとう、嬉しいよ」
彼は笑顔でそれらを受け取った。
「春さん、透さん、おめでとうございます」
小川さんが言い、俺たちは、ありがとう、と微笑んだ。
それから俺たちは食事をしながら談笑した。
「二人とも幸せそうで良かった」
瀬川が嬉しそうにそう言う。
その時ふと俺は視線を感じて彼の方を見る。と、彼と視線が交わった。その瞬間、ふっ、と彼は柔らかく微笑み、愛おしげな眼差しをこちらに向けた。
俺はそんな彼を見て、心の奥底から幸福を感じ、微笑み返した。
軈て日が傾き、瀬川たちは帰っていった。
「春、夕飯にしよう」
「今日は何?」
「ミネストローネとハンバーグ」
「両方俺の好物だ、ありがとう」
彼が笑う。と、明け放した窓から一頭の蝶が迷い込む。
「あぁ、しまった。逃さないと」
その時だった。背後から声がした。
「……月浦、覚えてるか?俺のこと」
「は……?何言って……」
俺は振り返り、首を傾げてそう言った。
「……幸せにな」
彼はそう言って穏やかに微笑んだかと思うと、その場に崩れ落ちるように倒れた。
俺は突然の事に焦り、彼に駆け寄る。
「春、大丈夫か?春!!」
俺は彼をソファに運び、名前を呼ぶ。
「春!!頼むから目を覚ましてくれ」
パニックになりかけ、暫く彼の名を呼びかけ続けた俺は、軈て冷静になり、急いで救急車を呼ぼうとスマートフォンを手に取る。
と、彼がゆっくりと目蓋を開けて、こちらを見た。
「透……俺、どうして……」
と彼は焦点の定まらない虚ろな目でそう呟いた。
「大丈夫か?すぐ救急車呼ぶから」
「平気……ちょっと目眩がしただけみたいだ」
彼は起き上がろうとする。俺は、
「無理するな、暫く横になってた方が良い」
と言い、ブランケットと冷たい水を持ってきた。
「春、お前何か隠してないか」
「……」
「さっきの事覚えてるか?俺のこと月浦って呼んだ時のこと」
「……覚えてる。蝶を見た瞬間に意識が混濁して、気づいたら勝手に口が動いてた」
その言葉に、俺は背筋が冷たくなるのを感じた。
「……あれは俺の夢の中で、春から聞いた言葉だった。"幸せになれ"って」
彼は、青白い顔で訥々と語り始めた。
「……奇妙な夢を繰り返し見るんだ。透から夢の話を聞く大分前から。……それは、透が見た内容にそっくりだった」
「何度も繰り返し見る内に、不思議な事が起きる度に、俺はこう思うようになった」
「俺は多分きっと、本当に一度亡くなったんだ、って」
「……ここではない何処かの世界で、俺は君を遺して逝った」
その瞬間、何故か俺の目から涙が溢れた。
「春……」
彼はゆっくりと起き上がると、俺を静かに抱きしめてこう言った。
「……一人にしてすまなかった。もう何処にも行かないから」
これからはずっと一緒だ、と彼は優しい声でそう言った。
その言葉を聞いた時だった。何だか頭がぼうっとして、俺は気付けばこう口にしていた。
「……迎えに来たよ、春。行こうか」
彼は少し驚いた表情をして、軈て穏やかな声でこう言った。
「あぁ、待ってたよ。行こう」
彼がそう答えた瞬間だった。強い目眩に襲われ、俺は意識を失う。
誰もいない霧深い森と湖。夢の中、またいつか、と耳元で聞こえた気がした。
気付けば俺は床に、彼はソファの上に倒れていた。
目覚めた後の俺は、ただただ無性に哀しくて、張り裂けそうな凄まじい胸の痛みと喪失感に苛まれる。俺は、この時珍しく子供のように泣き続けた。
彼はそんな俺の頭を優しく撫でながら、黙って抱きしめてくれた。
季節は過ぎ、夏が訪れる。
俺も彼もあれから目眩に襲われることなく穏やかな日々を過ごしていた。
「春、それ幾つ目だ?」
「十五……です」
彼はばつの悪そうな顔をして目を逸らしながらそう答える。
「違う。十七だ」
俺はそう言い、クッキーを食べている彼の手を遮って止めた。
「これは没収します」
俺がクッキーの缶を取り上げると、彼は肩を落とす。
「折角助かった命を、病気で無駄にさせるわけにはいかないからな」
俺はそう言って彼の頭を乱雑に撫でる。
「……ごめん」
「謝罪はいいから、反省してるなら行動で示してくれ」
「分かった」
くしゃくしゃになった髪を直しながら、そう言って彼は笑った。そして、
「……透、キスしたい」
と続けた。俺は返事の代わりに、彼の唇をそっと塞いだ。
ゆっくりと舌を差し入れ、幾度も角度を変えながら深く口づける。
互いに、呼吸すら惜しいと言うように求め合った。
「ベッド行きたい……」
そう言いながら、とろりとした瞳で見上げる彼の頭を撫で、俺は分かった、と彼を抱き抱えて寝室へと移動する。
彼をベッドに乗せ、そのまま組み敷いた。
再び深く口づけを繰り返しながら、彼のシャツの釦を少しずつ外していく。
「透……ずっと一緒にいよう、ずっと」
最期まで、と口づけの合間にそう泣きながら彼は言う。俺は流れ落ちる涙に舌を這わせて、彼の涙を拭った。
「……ちゃんと最期まで一緒にいるから」
勿論あの世でも、と俺は言った。
彼は俺の言葉を聞くと、安堵したような表情を浮かべ、穏やかに笑った。
「だから二度と俺を遺して逝くなよ」
俺は祈るように静かにそう言う。
彼は俺の言葉には答えず、代わりに俺の手を取ると、ゆっくりと指先を口に含み、舌で丁寧に愛撫する。伏せた目とその恍惚とした表情に、背筋にぞくり、と甘い痺れが走った。
「……俺を愛してくれる透のこの指が好き。透の優しい瞳と、声が好き」
「透は、俺の何処が好き?」
「その白くて繊細な指先と……笑った顔も、俺に抱かれた時に見せる蕩けた瞳も全て、大好きだよ」
何もかもが愛おしくて仕方ないんだ、と俺は言う。
「じゃあ……俺の全てを透のものにして。俺が君から二度と離れられないように、どこにも行けないように」
彼が哀願する。
「身も心も、何もかも……」
俺は彼を何度も愛した。指先から、身体の奥深くまで。
「……ありがとう、透」
行為のあと、彼は泣きそうな顔で俺を見てそう呟いた。
俺は彼の指に自分の指を絡めて深く口づける。口づけの後、彼は泣きながら今直ぐ逝きたい、と言った。
「いっそ君と今直ぐ一緒に逝けたらいいのに」
「……俺は自分がいつ死ぬかなんて分からない。君を遺して逝かない、と約束したくても出来ない。けれど本当は、君を遺して逝くのも、遺されるのも嫌だ」
「怖いんだ、また君を喪うのが……怖くて仕方ないんだ」
怖い、と微かに震え、尚も呟く彼の唇を、俺は黙ってそっと塞いだ。
俺たちは再び深く繋がり合い、愛し合う。
行為の途中、俺は彼の白い首筋に手を掛けて、緩く締めあげた。彼の身体が小さく跳ね上がる。
「と……おる……?」
「……今逝ったら、春は幸せか?」
彼は嬉しそうに微笑みこう言った。
「あぁ……どうせ逝くのなら、君の手で逝きたい」
その言葉に、表情に、彼の中に潜む危うさを見た俺は、どうしようもなく哀しくなって、耳元でこう囁く。
「……駄目だよ、逝かせない」
「俺より早く死なせない。決して」
「……愛してるよ、春」
絞めあげる力を徐々に強くすると、比例するように彼と深く繋がり合った部分も少しずつ強く締め付けられていく。息が完全に止まらないよう、加減をしながら俺は彼の首を絞め続けた。
「とお…る、もっと……強く……」
彼は恍惚とした表情で俺の頬に手を添え、苦しげにそう言う。
「駄目だ」
彼の中、奥深くをゆっくりと味わうように愛しながら俺は言う。
「あ、あぁ……っ」
軈て彼は何度か全身を震わせ、果てた。俺は、彼の首筋から静かに両手を離す。
「っ……はぁ……」
涎を垂らし、苦しげに呼吸をしながら、彼はどこか恨めしげに俺を見上げる。
「二度と死にたいなんて言うなよ」
頼むから、と俺は彼の左手を取り、指輪に口づけながらそう言った。
「……遺していかないと約束出来なくてもいいから、せめてもっと自分を大切にしてくれ」
「俺を悲しませたくないなら、そう約束してほしい」
「……分かった」
彼は唇を噛み締め、何かを諦めたように静かにそう呟いた。
俺は彼を強く抱きしめ、優しく頭を撫でる。暫くそうしている内に、彼は俺の腕の中で寝息を立て始めた。
「……おやすみ、春」
俺はそう言って彼の額にそっと口づけた。
(※ゲーテ著、高橋健二訳「ゲーテ詩集」収録「恋人を身近に」/新潮社/一九五一年/百六十四〜百六十五頁より引用)
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