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第3話 告白とオイタ

 丈一郎が、特に何の脈略もなく校舎裏に呼び出されるのは、もう既に今月三回目だった。  呼び出してくるのは名前を聞いてもいまいちピンと来ない生徒ばかりで、待ち合わせ場所で向かい合って初めて「コイツか」と思うことも少なくない。  今日の相手も、全く顔が思い浮かばなかった。  名前の雰囲気から、男子だということくらいしか分からない。  試しに、ついさっき引き出しから見つけた呼び出しのメモをタツとトラに見せてみたが、書かれたフルネームを見ても、さぁ? 知らねぇな、と二人とも揃って首を捻っていた。  でも、言われることは想像がつく。  男子も女子も、同級生も後輩も、みんなわざわざ丈一郎を呼び出して告げたいことは大抵一緒だ。 「おっ、丈一郎。また告白か?」 「なに? 今日は男じゃん」 「マジか、美人も苦労すんなぁ」  通りがかりにクラスメイトが野次馬根性で覗き込み、無責任に口々感想を言う。  言うだけ言っていなくなる友人たちの背中に、丈一郎は、フン、と鼻を鳴らした。 「まぁ、でもぉ! 若がモテるのは当たり前のことなんで!」  揶揄われてむくれ顔の丈一郎の背後で、何故かトラがものすごく自慢げに胸を張る。 「若ってば、昔っから本当美人で……っ! 許嫁にって他の組の連中が娘連れてくるんすけど、もうっ! 若がやばすぎて! 若の顔見ただけの見合い相手がバッタバッタ失神するんすよ! あの頃の若、鬼倉田の光源氏って感じでしたよねぇ……」 「いや、光源氏は別に見ても失神しねぇだろ……」  目を閉じてうっとりと丈一郎の思い出話を語るトラの隣で、アホすぎる、とタツが呆れ果てていた。  トラの丈一郎の思い出話は、丈一郎を敬愛するあまり、めちゃくちゃ尾ヒレが付いている。  今の話も九割フィクションだ。確かに、実際に顔を合わせた丈一郎が美人すぎて、自分が許嫁だなんて恐れ多いと見合い相手に断られたことは数知れない。逆に、見合いの仲人のはずのぶっ飛んだ変態爺の方に、嫁に欲しいと言われたこともある。  が、さすがに失神させたことはない。と思う。多分。  というか、見ただけで失神するならそれはもう妖怪か魔物だ。メデューサか俺かは。 「えっ、これ今日の昼じゃねぇの」  アホのトラから逃げるようにして、タツが丈一郎の方に身を寄せた。その時にたまたまメモが目に入ったらしく、内容を見て目を丸くする。  それに釣られて丈一郎もメモを改めて見直した。  えっ、とやはり声が出た。 「ほんとだ、これ今日だ」  メモに書いてあった日付も時間も、今日の昼休みで間違いなかった。  何しろこのメモに丈一郎が気がついたのはついさっき、三時限目の体育の後の話だ。  朝は入っていなかった。体育で教室に人がいない隙に入れられたのだろう。昼休みは四時限目の後だから、メモが入れられてから待ち合わせの時間まで一時間ほどしか無かったということになる。  いくら何でもさすがに急だな、と丈一郎は首を傾げた。これでは丈一郎がメモに気づかないまま昼休みが過ぎる可能性だって、大いにあったはずだ。 「やめとけば? 流石にきめぇ」  タツが顎を上げ容赦なく言う。  まぁ、ドライなタツらしい。どうでもいいと思う範囲が他人より大分広いので、切り捨てるのも異様に早い。 「おい、タツ! テメェ、キメェの一言で片付けんな! テメェには思いやりってモンがねェのかよ!」  が、ちょうど根っから暑苦しい方も一緒にいたために、「じゃあほっとくか」というわけにもいかなかった。  全く理解できないといった様子のタツに対し、トラはぐうっと拳を握りしめ、話す声に力を込める。 「だってですよ、若! 『あの』若に告白しようってんです! 世界で一番素晴らしい存在の若にです! そりゃァね? なかなか勇気も出ませんて! こいつも悩んで悩んで、やっと若の机にメモ入れたんだと思います、きっと! だから話くらいは聞いてやってください!」  そうトラは力説し、丈一郎の前で、お願いします!と勢いよく手を合わせた。  いや絶対にそこまでじゃない、と丈一郎は眉根を寄せる。トラが世界で一番丈一郎に対する熱量が高いだろうに、それを基準にしてしまったらおかしいだろう。  でも、と丈一郎はふと考える。  確かに万が一、自分がタツに告白するとなったら多分めちゃくちゃ二の足を踏む。相手のことを好きだからこそ、うまくいかなかった時のことを考えて怖い。  このメモの送り主ももしかしたら、トラの言う通り、とまではいかなくても、近しいことは考えたかもしれない。 「行く」  一転してさらっと頷いた丈一郎に、はぁ? とタツが即座に反応した。トラは、さすが若です! と感銘を受けて涙ぐんでいた。  昼休み、メモに書かれた時間通りに校舎裏に行くと、待っていたのはメガネの大人しそうな少年で、丈一郎は面食らった。  こうして呼び出してくるには珍しいタイプだ。丈一郎がモテるというのは間違いないが、大半にとっては高嶺の花で、その気持ちを行動に移す輩は意外に少ない。なのでこれまでも、本人を呼び出してまで告白してくるのは、男女共に見るからに自分に自信がありそうな奴が多かった。 「鬼倉田くん。今日はありがとう、急に呼び出したのに来てくれて」  少年は顔を合わせて早々、遠慮がちに礼を言った。  どうやら急だった自覚はあるらしい。 「寺井(てらい) 康人(やすと)くん。同じ三年だよね。四組だっけ」  丈一郎がそう返すと、寺井がハッと顔をあげる。   「まさか鬼倉田くんが、僕なんかのことを知ってるなんて思わなかった」  信じられない、と寺井は淡く頬を染めた。  実際、さっきまで知らなかったもんな、と丈一郎は心の中だけで苦笑する。トラにあれだけ言われて会うことにしたので、じゃあまずどこのどいつか(さが)してこいと命じたのだ。    三年四組、寺井 康人。同学年だが丈一郎と同じクラスになったことはない。成績は可もなく不可もなく。クラスの中でも物静かで目立たない方。  そんな寺井が、丈一郎を、それも待ち合わせの一時間前に呼び出すなんて暴挙に出たというのだから、改めて驚く。  丈一郎の背後では、校舎の影に隠れてトラとタツがこっそり様子を伺っている。トラは先程の話でどうしても気になって仕方ないらしい。タツはこの一件のことは本気でどうでもよさそうだったが、それはそれとして「アホが余計なことをしそうで不安」ということだった。 「僕、鬼倉田くんに、どうしてもお願いしたいことがあって……絶対迷惑だと思うし、こういうの良くないのもわかってるんだけど、でも、その……」  寺井はおずおずと前置きして打ち明ける。「告白」の前振りによくある常套句だ。  何となく次に来る言葉の想像がついたところで、寺井が意を決したように声を張る。 「鬼倉田くん! 鷹橋くんか鷲江くん、どちらか一人でいいから、一日だけ僕に貸してくれないかな?」 「……は?」 「はぁあ?」  投げかけられた話は想像とはまったく別で、丈一郎は何も言えずに目を丸くした。  そして丈一郎の後方でも、突然当事者になったタツとトラが、ひどく驚いた声を上げていた。  寺井の話はこうだった。  寺井の三つ年上の兄には高校の頃から付き合っている彼女がいる。その彼女は近所に住んでいる幼馴染で、元々家族ぐるみの付き合いだったので、二人の交際を両家共に歓迎していた。  が、最近そんな彼女の様子がおかしい。兄からのデートの誘いすら予定があるからと断ったり、常にスマホを気にしていてコソコソメッセージを打ったりする。  これが数週間も続くうち、気のいい寺井の兄ですら、もしかしてこれは浮気なのではとさすがに疑いを持ち始めた。そしてついに先日、彼女に直接問い詰めたらしい。  すると。 「ミサちゃん……あっ、兄貴の彼女の名前なんだけど、ミサちゃん、ストーカーに遭ってるらしいんだ」  寺井は申し訳なさそうに明かすと、ごめん、こんなこと鬼倉田くんに話して、とさらに申し訳なさそうに謝った。 「相手はサークルのOBみたい。飲み会でナンパされたらしいんだけど、彼氏がいるからって断ったら逆ギレされて、付きまとわれるようになったって。ブロックしても他の番号から連絡してきて、待ち伏せされたり、家まで着いてこられたりとか」  エスカレートしていく行為に、このままでは寺井の兄や寺井家に迷惑がかかると不安になって、できるだけ距離を置くようにしていたのだと言う。 「……で?」  寺井の話を一通り聞いたところで、丈一郎は身も蓋もなく聞き返した。 「寺井くんのお兄さんの彼女のストーカーの話と、タツとトラになんの関係があるわけ?」  両腕を組み、肩をすくめる。自然と上目遣いになり、丈一郎の類まれなる美しい双眸が寺井を睨みつけるような形になる。  美しさは()を越すと威圧になると、丈一郎は知っている。案の定、寺井は、ビクッと身体を震わせ、怯えるように、ごめん、と言った。 「そうだよね。いきなり呼び出して変な話してごめん。鷲江くんも鷹橋くんも、すっごく強いって聞いたから、ミサちゃんのこと、ストーカーから助けてもらえたらなって思ってつい……」 「あのさ。それって寺井じゃなくて、まずミサさんが自分で警察に相談することなんじゃない?」 「何度か言ったけど、元々知り合いだし、取り合って貰えなくて」 「だからって俺に言ってもしょうがないでしょ。それに俺はタツでもトラでもないし」 「えっ、でも」    あの二人って、鬼倉田くんのボディガードなんだろ?  当たらずとも遠からず、という所を突然突かれ、丈一郎は一瞬黙る。その沈黙に寺井は慌てて両手を横に振った。 「ち、違うんだ! 詮索したとかじゃなくて、噂で! 鬼倉田くん()はお金持ちだから、そういうこともあるんだなって。だから鬼倉田くんに聞いた方がいいのかと思ったんだけど、違ったらごめん」 「えっ、いや……」  さてどう答えたものかと丈一郎は首を捻る。こんなよくわからない依頼は言うまでもなく断りたいが、変に誤魔化すとボロが出そうで悩ましい。  何より後ろで当のタツとトラが様子を見ている。  まぁ何にしてもまず断ろうと丈一郎が口を開いた時だった。 「若! オレ、寺井に協力します!」 「トラ! このバカ!」  背後からトラが勢いよく飛び出してきた。後ろには引き止めようとして失敗したタツの焦った顔がある。 「鷲江くん、鷹橋くん」  目の前では寺井が驚いた顔をしていた。 「トラ」  丈一郎がひとまず低い声と視線だけで嗜めると、トラは急激に調子を落として、その場でしょんぼりと肩を落とす。  トラにとっては丈一郎の言うことが絶対だ。だからこれでこの話は終わり、決着だろうと思ったのだが。 「だ、だってですね、若」  しかし今日ばかりはトラが珍しく食い下がってくる。 「寺井のやつ、きっとそのお兄さんの彼女のミサさん? のこと好きですよ」 「は?」 「はぁ?」 「わ、鷲江くん!」  突拍子もないことを言い出したトラに、その場にいたトラ以外の全員が慌てた。特に寺井は顔を真っ赤にして沸騰させている。  でも、その中でトラだけは至って真面目な顔をしていた。 「あ、恋とかそういうのかは知らねぇすけど! でもオレ、わかるんです。寺井は絶対、ミサさんのこと、めちゃくちゃ大事に思ってます」  ミサさんのこと喋ってる寺井は、若のこと喋ってる時のオレとおんなじだから。  トラがしんみり言った瞬間、場が一気に静まり返る。その間、寺井がただただいたたまれなく、真っ赤な顔でどんどんと縮こまっていった。  三人の顔を見渡して、丈一郎は、ふぅん、と顎に手を当て考える。  引きそうにないトラと、心底迷惑そうなタツ、そして真っ赤な顔の寺井。順繰りに見て、よし、と一度頷き、顔を上げた。 「絶対に一日だけって約束で」  あと俺も混ぜて。  そうニヤリとする丈一郎に、三人がガバッと一斉に顔を上げた。 「鬼倉田くん!」 「若! さすがです!」 「丈一郎! ふざけんな!」  三者三様の反応。ギャーギャーうるさい周囲も全て、丈一郎は、ふふん、と鼻で笑い飛ばした。 「トラが俺の言うこと聞かないの珍しいからさ。それに、なんか面白そうだし」  結局最後の一文に尽きるのだが、そこに気付かないトラと寺井は肩を抱き合い喜んでいる。  ただタツだけは、はぁー、と信じられないくらい長いため息をつき、その場で深くしゃがみこむと、両手で顔を覆い隠して完全に頭を抱えていた。  計画は三日後の日暮れに決行された。決行まで日が無いのは、いくらタツとトラが強いと言っても高校生、できることは限られていて時間を空けても仕方ないと、丈一郎が述べたからである。  と、いうのは建前で、早くしないと諸々が鬼倉田の組の連中にバレて全ておじゃんになってしまう、というのが本当のところだった。  鬼倉田の「お嬢」に過保護な保護者たちがこれを聞いたら大騒ぎだ。下手すると卒倒するかもしれない。 「じゃあ、計画通りで……っ!」  パン、と両手を合わせる寺井の前には、私服のトラがいる。いつもの虎柄のスカジャンでなく、大人しいモノトーンのシャツにジーパンを合わせていて、普段の印象からの違和感が強い。  今日の計画は、トラが、ミサの彼氏である寺井の兄のフリをしてミサと並んで出歩き、ストーカーが現れたところで、密かに後ろを尾行ていたタツが後ろから捕まえる、という何とも古典的なおとり作戦だった。トラのこの格好もその作戦の一環である。 「オレに彼氏のフリなんてできますかねぇ……」  トラは図体(ずうたい)に似合わず不安げに視線を斜めに落とす。  この計画を決めた時、彼氏のフリならタツの方が適任なのでは、と多分誰しもが思っていた。  トラは、見た目はでかくて怖くて、威嚇としてはもってこいだが、生まれてこの方ずっと丈一郎だけを一筋で来て、男女の恋愛とは無縁だった。根本の性分も急にそれっぽい動作をできるほど器用な性格じゃない。  じゃあタツは、と言われると、実際どうかは分からないが、少なくともトラよりは落ち着きがあるし、雰囲気からそれなりに手馴れているような感じがする。  が、丈一郎が決してそれを許可しなかった。  実際何度となく、タツの方が、という話になったが、「タツはだめ。トラで」と一切迷いなく拒否した。  当たり前だ。例えフリだとは言え、自分の好きなひとが見知らぬ女に彼氏っぽい仕草をするのを見たい奴なんているはずがない。 「迷惑かけてごめんなさい。あまり知り合いを巻き込みたくなかったんですけど……」  寺井に連れられてやって来たミサは、可愛らしい普通の女子大生だった。特に派手なわけでも、かと言って垢抜けないというわけでもなく、ちょうどいい塩梅だ。丈一郎の周りにはあまり「普通の」人間がいないので、なんだか妙に新鮮に感じる。  その申し訳なさそうな様子を見るに、遠慮する ミサを寺井が押し切ったのかもしれない。丈一郎も待ち合わせの一時間前に呼び出されたし、気が弱いくせに変なところで強引だ。 「あ! 全然ス! オレらができることなんて大したことないスけど! ストーカーとか大変っすね」    トラは計画通りミサと並んで歩きながら、ペコペコと頭を下げている。  普段丈一郎にばかり相対しているための癖なのだろうが、正直全く彼氏には見えない。 「すぐバレるんじゃないの、あんなんじゃ」 「鷲江くん、大丈夫かなぁ」 「だからトラには無理だっつったろ」  トラとミサの数メートル後方で、三人はその様子をハラハラしながら見守っていた。  ほぼトラの行動にかかっている作戦だが、このままだと失敗に終わる未来しか見えない。  しかし、それも織り込み済みだ。怪しまれた時点で強行突破することになっている。随分雑な話だが、トラやタツのような「でかくて怖そうなヤツ」が知り合いと分かれば大人しくなるだろうという打算もあった。  ミサの家の方に向かって十分ほど歩いた辺りで、ふとずっと同じ方面に歩いてくる男が一人いることに気がつく。キャップを目深に被って俯きがちに歩く様は見るからに怪しい。 「ねぇ寺井、アイツ?」  丈一郎が隣の寺井の肩を静かに叩く。  寺井は、ちらりと男を横目で見て、多分、と小さく頷いた。  痩せ型の小柄な男だった。トラが一発殴ればそのまま吹っ飛びそうである。  「普通」だとああいうのでも怖いんだなと丈一郎は改めて気付く。  子供の頃からずっと変なのに狙われたり襲われたりしてきたので、最早何が起きても丈一郎には恐怖という感覚がほとんど湧いてこなくなった。今日みたいな「オイタ」をしがちなのも、これが原因だと思う。  「恐怖」は強い刺激だ。その刺激を感じられない。そんな人生が丈一郎はつまらない。 「おい」  不意にタツが何かに気付き、寺井のパーカーのフードを引く。  見るとずっと二人の斜め後方辺りで一定の距離を保っていた男が、さりげなく距離を詰めてきている。  怪しいと思い、三人も合わせて男の方へ近づいた。トラとミサは話すうちにだんだん打ち解けてきたのか、会話が弾んで気づいていなさそうだ。 「え?」  不審に思って様子を伺っていると、男は歩きながら上着の下に手を忍ばせ、何か小さな筒を取り出す。それをシャカシャカと手元で振り、親指をひっかけキャップを開けた。 「トラ!」  それを見た丈一郎が勢いよく叫んだ。と、同時にタツも丈一郎の傍から駆け出している。  寺井だけが訳も分からず、キョロキョロと視線を泳がせていた。  丈一郎に呼ばれたトラが反射的に振り返った。ミサも釣られて後ろを向く。 「えっ、なに? きゃあっ!」  男はミサに向かって勢いよく手元の液体をぶっかけた。  トラはミサの手を引っ張って後ろに下がらせ、液体がかかるのを防ごうとする。が、ミサは恐怖からか咄嗟に動けず、間に合わない。  まずい、と思ったが、ミサに液体がかかることはなかった。さっき先に駆け出したタツが、男とミサの間に素早く割って入っていた。 「汚ぇモンぶっかけんな、クソ!」    液体はタツのこめかみ辺りにかかり、しとしとと頬を伝って滴っている。()けようとして顔を背けた時に口に入ってしまったらしく、地面に向かって透明な液を吐き出していた。 「トラ! ミサさん連れてけ!」 「お、おう!」  タツに言われてトラがミサの背を抱き後ずさり、そのまま離れて距離をとる。 「この、クソガキが!」  男は捨て台詞を吐き、慌ててこの場から逃げようとする。その時に勢い余ってキャップが落ち、男の顔が(あらわ)になった。  馬鹿だな、と思いながら丈一郎は寺井に「スマホ出して、動画撮っておいて」と囁き指示する。  慌ててスマホを取り出す寺井を一旦置き、自分はタツの方へと走り寄った。 「タツ!」 「バカ! 来んな!」  丈一郎を見たタツは、焦った声で叫びながら、それでも男を捕まえようと手を伸ばしていた。  が、一拍間に合わず、男はそのまま暗い路地を逃げていった。  間一髪で逃げられてしまい、タツは、チッ、と舌打ちをして座り込む。  でも丈一郎は、もうストーカーどころではなかった。液体を見てさっき想像したことが当たっているなら最悪だ。 「タツ! 大丈夫? かけられたのヤバいやつじゃない?」 「知らねぇけど……一応トクさんあたりに言っといた方がいいかもな」  タツは、はぁ、と息を吐きながら言い、証拠に液体の入れ物ぐらい()りたかったとまだ悔やんでいる。 「そんなのどうでもいい。寺井が動画撮ったし、すぐ捕まるよ。それよりタツが」  思わず液体がかかった辺りに触れて払おうとしてしまい、タツにまた、バカ、と止められた。 「丈一郎、トラはどうした」 「ミサさんと一緒にいる」 「そうか。じゃあ寺井と一緒に帰れって言え。お前も」 「えっ? なんで? タツは?」 「俺は」  ――ちょっと今日は帰れねぇわ。  タツは、ふっ、と嘲るように軽く笑うと、ちらっと流し目に丈一郎を見た。  その顔に丈一郎はドキッとした。  頬を微かに紅潮させ、口を半開きにして荒く息を吐き、唇は唾液と、さっきのよくわからない液体で濡れている。  ただでさえ普段から妙に退廃的なのに、今は。 「やだ、帰らない。俺、今日はタツといる」  一人になってほしくなくて、タツのTシャツの裾を掴む。 「タツ、お願い。一人でどっかに行かないで」  この手を離したらこのままタツが消えてしまいそうで不安だった。それくらい今のタツは、不安定で儚げで、頼りない。  タツも、確かに一度は丈一郎の手を振り払おうとした。だから本当は、何もかも一人でやり過ごそうと思っていたのだと思う。  でもあんまり丈一郎が不安げな顔をしていたせいだろうか。タツは振り払う手を止めて、丈一郎の手首を掴み、ギュッと強く握りしめる。 「後悔しても知らねぇからな」  地べたにかいた胡座に頬杖をつき、下から上目で睨め付けられる。あまりに色っぽくて魂ごと持ってかれそうになったけれど、「お嬢」の威信にかけ、負けるか、と思って「そっちこそ」と笑ってやった。

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