6 / 8

第6話 夏の前

 あっという間に七月になり、定期考査も終わって一学期が終わろうとしていた。  鬼倉田一家の面々も、それなりに良い方の成績を取り、終業式が終われば、無事に夏休みを迎えられることになっている。  約一名を除いて。 「もうーっ! トラのせいで海に行けなくなったじゃん!」  終業式翌日、つまり夏休み初日に、何故か丈一郎たちは学校の教室にいた。あの一件以来、妙に親しくなった寺井もいる。  他に誰も生徒がいないにも関わらず、四人は一箇所に固まり、ぎゅうぎゅうに頭を突き合わせていた。  不満気な顔の丈一郎の正面、つまりその固まりの中心にいるのは、半泣きで補習課題の束を抱えたトラである。 「若ぁ……すいません、オレがアホなばっかりに……」  トラは眉を八の字に下げて、丈一郎に己の不出来を謝罪している。  こうして殊勝に謝っているが、今回の定期考査のトラは、なんと主要五科目中、四科目で赤点を取った張本人だ。   前々日、担任に「鷲江! お前、高三だぞ? 舐めてんのかテメェ!」と組のモンばりのキレ方をされながら、大量の補習課題を叩き付けられ、終業式を前にして夏休み延期が発覚していた。  夏休みに入ったらすぐ海に行こうと、一ヶ月も前から丈一郎が提案していてこの体たらく、怒られても致し方ない所がある。 「まぁまぁ。ちゃんと課題が終われば、来週にはちゃんと行けるから」  丈一郎の左隣から、寺井が穏やかに宥めている。  海に誘った時、寺井はしばらく申し訳なさそうにしていた。元の控えめな性格に、面倒事に巻き込んだ負い目が輪をかけている感じだ。  しかし割と気が合うらしいのはこれまでのやり取りでわかったし、何よりこの前の礼がしたかったのか、数日後、寺井の方から「海の近くに親戚の別荘があるから、よかったらそこに一泊しないか」と提案してきた。  その親戚というのが、要は寺井の叔父らしいのだが、海外出張で年中飛び回っており、ほとんど家を空けている。それならいっそ日本の住まいを別荘扱いしてしまえと、海の近くの小さな平屋を買ったらしい。  「年に二、三回帰ればいい方だから、誰か時々使ってくれたら助かるんだって」と寺井は照れ臭そうにしていた。   「確かに面倒だから、さっさと終わらせよ。トラ、わかんないのどこ?」 「若っ! ありがとうございます! どこがわかんねぇのかもわかんないす……っ!」 「信じらんねぇ。そのセリフ、漫画でしか聞いたことねぇけど」 「タツ! うるせぇぞコラァ!」  変わらず会話は騒がしい。  でも。 「タツは数学教えてやって」 「……ああ」  丈一郎とタツの間の空気は、以前よりもどこか余所余所(よそよそ)しい。  あの日のストーカーが、結局、捕まったのか捕まってないのか、丈一郎たちの耳に入ってくることはなかった。  その代わり、トクが、あの近辺をシマにしている田村という男に頻繁に連絡をとるようになり、江太郎の部屋を訪れ、何かを二人で密やかに話す時間が増えていた。  ただ、どうあれ、もう二度とミサがストーカーに追われることは無くなったし、おかげで無事寺井の兄とも(なご)やかで(むつ)まじい関係に戻った。寺井もそれで何かが吹っ切れ、ミサへの淡い気持ちも昇華したらしい。  丈一郎の見渡す限りだが、大半はそれなりに上手くいったように見える。  自分とタツだけが、上手く回る輪に乗れず、取り残されている。 「若?」  鬼倉田の黒塗りの車の後部座席に、丈一郎がトラと横並びで乗る。「トラの補習の付き添い」なんて理由でも当たり前に迎えに来るのだから、流石の過保護だ。 「若? 若ー?」 「あっ、ごめん。トラ、どうした?」  ぼーっと窓の外を見る間、三度もトラに呼ばれていたことに気付いた。聞こえていなかったわけでもないのに、返事ができなかった自分に驚く。 「大丈夫ですか?」  若、最近なんか変ですよ。  トラが心配そうに目を伏せる。  そんなトラに、丈一郎は怪訝な顔をした。 「何も変じゃない。いつも通りだよ」 「でも……」  トラは大きな背を出来る限り縮こめて、心苦しそうに指折り数える。  いつもはギリギリまで寝て、寝起きのぼんやりした顔を、兄さんたちに追い立てられながら学校に行っていたというのに、ここ一ヶ月は、早朝から自分で起きて支度をし、送りの車が出るのを待っている。  突然学校を抜け出したり、面倒事に楽しげに首を突っ込んだりすることもない。  あんなに嫌がっていた迎えの車にもすんなり乗り、家に帰るとずっと一人で部屋に籠ってしまう。  一言で言うと、おとなしい。  そして何より。 「タツと喧嘩でもしました?」  学校や友達の前以外で、タツと喋ることがほとんどなかった。  以前は、丈一郎の方が、やたらとタツに絡みに行っていた。物静かなタツの三倍の勢いで、喋り、抱きつき、押し倒す。そしてタツは、それを、ハイハイ、と適当に受け流しながら聞いてやっている。  と、そんな印象だったのだが、今は、信じられないくらいに丈一郎がつれなかった。下手をすると、家に帰ったら一言も口を聞かなかったりもする。  タツもわざわざ自分から話しかけに行く方ではないので、自然と距離が空いてしまう。  今日だって、寺井と歩いて帰ると言うタツに、丈一郎は何も言わず、流れるように車に乗った。   「べつにィ……」  ぼんやりした声で、丈一郎がトラに答える。  だって本当に何にも無かった。悲しいくらいに何にもない。  あの日の翌朝、タツにはっきりと予防線を引かれてから、丈一郎は、懸命にその線を越えようとするのをもう辞めた。  どうにか線を越えたくて、飛んだり跳ねたり、引っ張ったりもしてみたが、他でもない当の本人から入って来るなと言われてしまい、正直言って心が折れた。  それも、あんまり優しく拒絶されたので、ヤケになることもできないまま、遅効性の毒みたいに、後からジワジワ蝕んできている。 「若がおとなしいと、オレ、さみしいです。べっ、別に、タツの奴と仲良くしてくれってンじゃないですよ! でも、若の嬉しそうな顔を見るのが、オレの一番の楽しみなんで」  トラが隣で、くすん、と鼻を鳴らしている。  トラの場合、この仕草に一切裏がなく、本心なのがまたすごい。腹の中(うち)がありまくる丈一郎とは大違いだ。  トラは自分に盲目でかわいいと、丈一郎も思っている。ほぼ生まれた時から一緒にいるのに、飽きもせず丈一郎にくっついてくるし、アホではあるが、根っから素直で良い奴だ。  あれは五つか六つの頃。丈一郎にも幼いなりに物心がつき始めて、お嬢、お嬢、と当たり前のように呼ばれるのが、嫌で嫌で仕方なかった。  でも、みんな特に悪気はなくて、むしろ可愛がって呼んでいるのもわかるから、嫌だなんてとても言えない。  言えなくて、でも悔しくて、よく一人で植木の影にコソコソ隠れて泣いていた。 「じょういちろうさまっ! どうしたんですか! なかないで!」  ある日、そんな丈一郎を、ついにトラが見つけてしまった。幼いトラは、涙をこらえた真っ赤な頬と子供特有の舌っ足らずで、精一杯慰めに来た。 「だれかにいじめられましたか! どこのどいつですか、そのクソやろうはっ! そんなヤツ、トラが、ぶちのめしますからね! トラ、つよいですよ! だから、じょういちろうさま、なかないで! わらって!」  すごい剣幕で畳み掛けられ、丈一郎は目をぱちぱちさせた。それで、もう色んなことがどうでも良くなり、そのまま、プッ、と吹き出してしまった。 「本当はヤなんだ。みんなが、お嬢ってよぶの」 「えっ? そうなんですか?」 「うん。だって、おれ、男だもん。女みたいな呼ばれ方いやだよ。みんな、そんなつもりないと思うから、言わないけどね」  内緒だよ、と丈一郎が打ち明けると、トラは、はいっ、はいっ、と何度も頷く。 「じゃあ、トラが、じょういちろうさまに、ピッタリな呼び方、かんがえます!」  そう宣言したその日から、トラは丈一郎を「若」と呼ぶようになった。  時代劇の再放送で殿様の息子がそう呼ばれていたのを見て、きっと丈一郎に似合うと、大層気に入ったかららしい。  「お嬢」は嫌だし、でも今更「坊ちゃん」なんて呼ばれたくもないから、丈一郎も悪くないと思った。 「トラはかわいいな。昔から」  昔のことを思い出したら、そんなことが口をついて出た。  すると、トラはただでさえ縮こめていた背を更に小さくし、「そんなことないです」と、首を横に振って困っていた。照れ臭そうに頬を染め、俯いているのが健気だった。  そんなトラを見ているうちに、もしも自分が好きなのがトラだったなら、どんなにか気楽だっただろうかと、酷い考えがふと()ぎる。  トラはかわいい。とにかく丈一郎のことが大好きで、それを隠すどころか、寧ろ誇りにしている。トラの世界は丈一郎を中心に回り、丈一郎の幸せがトラの幸せであると言う。  丈一郎の言うことに、トラは「はい」以外の答えを知らない。 「トラ」 「はい、若」 「はやく補習課題終わらせて、海行こう」  ね? と淡く笑いかけ、俯いている黒と金のトラ柄の頭を撫でた。  トラは、猫みたいな吊り目をキラキラさせて、はいっ、と嬉しそうに笑う。  タツといると自分は撫でられる側だったから、撫でてやるのは新鮮だった。自分に頭を撫でられたトラは、自分より遥かにでかいのに、懐いたネコみたいな顔をしていた。 「……若」 「ん?」 「海、楽しいといいすねぇ」  トラは、キラキラした目を細めて言う。  トラらしくない含みのある言い方だったし、きっともっと何か言いたいことがあったに違いない。  けれども、丈一郎は、それをあまり確かめたくなく、ただ、うん、とだけ頷いて流した。  火曜から始まったトラの補習は、無事三日目を終えていた。  トラ本人の努力と、丈一郎たちの多大なる手助けにより、課題は担任が組んだスケジュールの倍のペースで進み、来週いっぱいかかるはずだった補習が、上手く行けば明日、つまり金曜には全て提出できそうだった。 「やるじゃん、トラ」 「この調子なら今週末には海行けるよ! 鷲江くん!」 「若っ! 寺井!」 「まぁ、確かによくやったよな。トラの頭で」 「あぁん?」  連日顔を突き合わせていた面々に褒められ、一部皮肉混じりだったにも関わらず、帰宅してからもトラは嬉しそうにニマニマしていた。  絶対に明日終わらせますから! と意気込んでいただけあって、夕飯の時間以外ずっと自室で課題と向き合っている。 「トラー? お風呂……」  風呂上がりの八時過ぎ、丈一郎はトラに声をかけようと、トラの部屋のドアノブを捻った。  隙間から覗くと変わらずトラは必死に課題に向き合っていて、丈一郎が来たことにも気づかない。いつもなら、丈一郎のものであれば、気配ですら瞬時に察知するトラが、声をかけても気づかないなんて余程のことだ。  人一倍大きな背中が時たま悩ましげに頭を掻き、その向こうからはシャーペンと消しゴムの音が忙しなく交互に聞こえてくる。  いつになく集中している様子だったので、丈一郎は、そのままそっとドアを閉めた。  あの様子なら、きっと本当に明日のうちに、トラの補習は終わるだろう。  ということは、四人で海に行く約束が、もうこの週末に迫っているということだ。  トラに寺井、そして、タツと。  初めは単純に楽しみだったのに、日が迫るごとに実感が増し、どうもソワソワと落ち着かない。  昼間、学校にいる時と同じように、丸一日、全員平等に、ただの友人として振舞っていられるだろうか。  もし、万が一、自分がうっかりしてしまったとして、その時、タツはまた引き潮みたいに、すうっと距離を置くのだろうか。  あの時のように、自分に対して予防線を張るのを見せつけられるのは、もう二度と御免被りたい。 「あ」  上の空で歩いていたら、自分の部屋に戻るつもりが、いつのまにか縁側に続く廊下に出ていた。  昼間はツツジの青々とした葉が茂る庭も、今はすっかり薄暗闇で、夜空にぽっかり半月が浮かぶ。  風呂上がりだし、夜風に当たるのもいいかもしれない。  何となく手持ち無沙汰だったのもあって、丈一郎は来た道を戻らず、縁側に向かって踏み出した。  が、その判断が間違いだった。 「うわっ……!」  よりにもよって、縁側にはタツが座っていた。タンクトップにハーフパンツ姿で、庭を眺めてぼうっとしている。  丈一郎と同じく湯上りで、まだ髪が湿って濡れていた。 「驚きすぎだろ」  驚き余って後ろに軽く()退()いた丈一郎に、タツがじんわり振り向き、眉を顰める。 「ごめん……タツがいるって思わなくて」 「はぁ? 何言ってんだ、今更」  いつから一緒に住んでんだよ、と、タツは立てた膝の上で気怠く背を丸めた。  ――え、どうしよ。やばい。  丈一郎は、思わずタツの視線から顔を背ける。  よく考えると、タツと二人きりでこうして面と向かうのはあの日以来かもしれない。ついでに言うと、真正面から顔を見たのも久しぶりだ。  久しぶりにまともに見た、好きなひとの顔の破壊力は尋常じゃなかった。  元々タツの、艶っぽさも感じるシャープな顔立ちが好きだったが、今はもう見ただけで心臓がバクバクして破裂しそうだ。  我慢できずに、ちらりと横目でもう一度見る。  学校では学ランの襟に隠れている、なだらかな項が涼やかで、微妙にサイズの合わないタンクトップの隙間からは、鎖骨が肩に向かって斜めに伸びているところまで見えた。  一瞬でそこまで見た自分に呆れる。こうなるから、この一ヶ月、あまり顔を合わせないようにしていたのに、今のたった一秒で決壊してしまった。 「丈一郎?」  柱の影で一人で悶々としていると、タツに怪訝な顔をされた。  下から覗き込んでくるような上目遣いが可愛い。 「なに突っ立ってんだ」  座れば? とタツが自分の隣を手で指し示す。  一応一度は躊躇したが、やっぱり抗えそうもなく、諦めてタツの手の先に腰を下ろした。  が、何を喋ったらいいのかわからない。  タツを連れ込んで約一年、四六時中あれだけ纏わりついておいて、急に素っ気なくした自覚があるから、今更何を言ってもおかしい気がして気まずかった。  しかも、あからさまに、一か月前の「あの日」を境にしたから尚更だ。 「なぁ」  ただタツから逃げるためだけに、俯いて意味もなく庭の敷石を見ていると、突然タツが丈一郎のシャツの裾を下に引いた。  えっ、と思わず顔をあげると、タツが、指先で白くて丸い半透明の何かを摘んで、自分の方に向けている。 「食う?」  短く聞かれて、また、えっ、と思った。 「なにこれ」 「ハッカアメ」  端的な答えが返ってきて、そういうことじゃない、と思う。  いや、確かにこれが何か聞きたかったのは間違いない。間違いないが、食べるかと自分から聞いておいて、そのハッカアメが、そうやっていつまでもタツの指から離れないのはどういうことかと聞いている。  でもそこで、丈一郎はふと二人でアイスを食べた時のことを思い出し、うっ、と唇を噛み締めた。  そういえば、タツはこういう人だった。  食べ物を分け与える時、何故か相手の口に入れるのが当たり前だと思っている。いや何でだよ、おかしいだろ。タツのばか。  これじゃ、あの時の二の舞だ。  手で受け取れ、自分。今回はアイスじゃなくて飴なんだから、口で受け取る(いわ)れはない。 「たべる」  はい、だめ。無理。  好きな人からの誘惑に理性で打ち勝てるヤツがいたら教えてほしい。  タツの白い手首を掴んで、ぱくっと指ごと飴を咥えた。大雑把に切り揃えたばかりの爪の角が、ほんの(わず)かに上顎に刺さった。 「うまい?」 「……スースーする」 「ばぁか、そこがいいんだろうが」  ぴんっ、と眉間を弾かれて、反射的に目を瞑る。タツのやんわりとしたデコピンは、別に痛くも痒くもなかったけれど、なんとなく、いたっ、と声が漏れた。 「タツこそ、アメ舐めてただけなの? タバコでも吸うのかと思った」 「吸わねぇよ。一応未成年だし、お前ん家だし」 「うちはみんな吸うよ」 「そりゃオヤジさんたちは吸うだろ。でもオレが吸ったら、お前の前でふざけんなって、またトラの奴にドヤされる」  お互い口の中でスースーする飴を転がしながら、他愛もない会話をする。さっきまであんなに気まずかったのに、あっという間にいつもの調子に戻ってしまった。  ズルいなぁ、と丈一郎はタツを見る。一ヶ月前、あれだけ優しくフッておいて、これは意地が悪すぎる。  せっかく諦めようと思って吹っ切ったのに、こんなのやっぱり、また手元に欲しくなってしまう。 「トラ、頑張ってた。今週絶対に海行くって」 「当たり前だろ。だって、お前のためだもんな」  じゃあ最初っから赤点なんかとるんじゃねぇよって話だけど、とタツは茶化すように笑った。  やたら年上っぽい仕草をとるくせに、こうやって笑うとあどけなくも見え、同い年なんだなと思う。 「タツは?」 「あ?」 「タツは、海行くの、楽しみ?」  変な期待を込めて聞いてしまった。  またこの前みたいにガッカリするだけなのだから、止せばいいのに自分は馬鹿だ。  口に出してから後悔して、飴を奥歯でガリッと砕く。 「そりゃ、まぁ」    何気ない口調に、何を言われても気にすまいと身構えた。  なのに。なのに。 「俺だってお前と遊びてぇし?」  ニヤッとされて心臓が止まった。  ふざけて言っただけかもしれない。冷静になれと理性は言う。けれども頭の中に反して、身体はどんどん火照っていく。  だめだ。もう無理。無理。無理。無理。  いくら吠えられても、噛みつかれても、砂をかけられても、どうしても手に入れないと気が済まない。  神様、どうか、お願いします。死ぬまでずっと大事にするから、タツを、辰樹を、俺に下さい。

ともだちにシェアしよう!