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第13話 秋雨明け

 あれから、いつのまにか一週間が経とうとしていた。  タツがいなくなった日、鬼倉田の家もさすがに一時騒然とした。  正直、タツのような、素性がいまいち不明な若い「部屋住み」みたいな奴が、ある日突然いなくなるのは特に珍しいことではない。こと鬼倉田組に関しては、組長の江太郎が、来る者拒まず去るもの追わず、という(たち)なので、必要最低限の箝口令さえ守られていれば、放っておかれるのが通例だった。  が、タツだけはそうも言ってられない。  なにしろタツは、この世で一番麗しい鬼倉田組の宝である「お嬢」が、自ら見つけて拾ってきて看病までして、四六時中引っ張り回し、一年も可愛がってきた「犬」である。  それを逃がしてしまったわけだから、鬼倉田の若い衆からすれば、それはもう、とんでもない大失態だった。  落ち込む「お嬢」の顔が浮かぶのか、全員頻繁に胃やら目頭やらを押さえては、何かを堪える顔をする。  丸一日、だれがエンコ詰めンだ何だと、喧々囂々、組のあちこちで言い合いを繰り広げていたが、日が暮れた頃になって、他でもない丈一郎が一言、 「もういいよ」 と言ったので、騒動はその場で一気に散会になった。  この一週間、丈一郎は、どうにかタツを見つけようと、自分なりにできることをしたつもりだった。  手掛かりは、十日前に学校にまで押しかけてきた駿河という男と、辻田の宴席で貰ったあの名刺だ。  駿河は、直近で丈一郎の顔を見たことがある様子だった。ということは、きっとあの名刺の主が駿河だったのであろうと推測するに難くない。  丈一郎もそれに気づいてすぐに名刺を探したが、もうどこにも無かった。自分の部屋にも、スーツのポケットにも、タツが使っていた部屋にも。  いずれ丈一郎がこのことに気づいて探すに違いないと、先回りして、タツが持って行ってしまったのだと思う。  となると、もうあの宴席の出席者を片っ端から当たるしかない。  しかし丈一郎は、所詮、まだ高校生の、江太郎の息子でしかなく、出席者の一人として名簿を貰えるほどの立場ではなかった。  そのうえ、あの宴席は、辻田の顔が広いがゆえに招待客が多すぎた。記憶を頼りに関連していそうな企業を辿ろうにも、想像するだけであまりにも果てしなかった。  きっと江太郎やトクあたりは名簿を持っているけれども、まさかこんなことでは頼めないし、理由を問われても説明ができない。  八方塞がりだ。もうどうにもできない。  十日も経つと、駿河の顔の記憶すら危うくなってきている。もともとあまり特徴が無いと思っていたので、どうにか思い出そうにも他の記憶に紛れて思い出せない。 「……さいあく」  縁側に膝を抱えて座り、一人、夜の庭を眺める。  庭のツツジは、秋の空気に押し負けて、二つ、三つ、狂い咲きしていた。  一年ほど前、丈一郎がタツを拾って帰った日、ツツジがちょうど満開だった。タツは、縁側から熱に浮かされたままそれを見て、よく咲いてンな、と小さく零した。 「タツのばか」  立てた膝に顔を埋めて文句を言う。  本音を言うと、別に驚きはしなかった。初めて会った日からずっと付き纏っていた不安が、ここにきてついに的中してしまったなと、ただ落胆し、嘆くばかりだ。  タツは、丈一郎に好きだとは言っても、決して、ずっと一緒にいるとは言わなかった。  好きだと言われて、さすがに落としたと思ってからも、常に微かに不穏な気配を漂わせる。  本当ずるい。ずるすぎる。  せめて、嘘つき、嫌い、もう知らない、と好き勝手に罵らせてくれればいいのに、それすらもさせてくれなかった。  嘘はついてない。嫌いにもなれない。だから全く忘れられそうにない。 「 好きにさせたまま、居なくなんなよ」    ばか。ばか。ばか。ばか。  繰り返し、熱い目尻を何度も擦る。ぽろぽろと拭ったはずの涙が落ちた。 「……若?」  遠慮がちに後ろから声をかけられ、丈一郎ははっとした。  無意識に声のする方を振り向くと、トラがそれは心配そうに、こちらを覗き込んでいた。 「大丈夫ですか」    見てしまってごめんなさい、とトラは正座で背を丸める。 「いや。俺のほうこそ、変なトコ見せたし」  こんなことで泣くなんて情けないということは、丈一郎もよくわかっている。鬼倉田の家に生まれた男が、たかが「部屋住み未満」が一人逃げたくらいで、いちいち泣いていてどうするのだ。  丈一郎が今何で泣いていたのか、さすがのトラも、わかっているという顔だった。  眉根を寄せて、下手をすると丈一郎よりも悲しげに、ぎゅっと口を引き結ぶ。 「若。オレも、若が好きですよ」  突然トラが、あの、と遠慮がちに言ったので、何事かと思ったら、そんな当たり前のことだった。  知ってるよ、と泣き笑いで思わず吹き出す。  確かにわざわざ言われたこともないが、今更になって改まって言うことでもないと思った。  けれども。 「若が好きなのがタツだってのは知ってます。知ってますけど、オレはずっと若が好きです」  次に言われたことは思ってもみなくて、思わず、えっ、と声が出た。 「トラ」  冗談だろ、と言いかけた。  優しいトラのことだから、ふざけて笑わせてやろうと気を遣ったんだろ、と。  でも、おずおずと見上げてくるトラの視線は真剣で、それ以上は言えなくなった。  見上げてくる吊り目が三白眼で鋭くて、いつものでっかいネコみたいなトラじゃなかった。  十八歳の、男だと思った。 「オレは……トラは、どうなっても、死ぬまで若とずっと一緒にいますから」  涙でひたひたに濡れた頬を、そっと指の甲で拭われた。  自分よりも数段太い指はひどく熱くて、触られたところから勝手に火照る。 「だから、若。泣かないで。笑って」  真剣な顔でそう言うトラに、ふと、五歳のトラが重なった。  みんなからお嬢と呼ばれるのが嫌で、庭のツツジの植え込みの影で泣いていた時。  あの時もトラは丈一郎にとても懸命に言い募った。  丈一郎さま、泣かないで、笑って、と。 「……トラ、俺」  何か言ってやらなくちゃ、と気ばかり焦る。  でも、全く想定していなくて、どうしたらいいかわからない。  十八年、生まれてからずっと一緒だった。  一緒にいるのが当たり前で、「いなくなる」なんてありえない。  今までずっと、トラは、アホで、明るくて、やさしかった。だから何か突拍子もない事を言われても、すべて「アホだから」で片付けられた。  そんなトラが、ただひたすらに丈一郎を好きなことも、とっくに普通のことだった。例えば、雛鳥が生まれて初めて見たものを親と思ってついていくような、盲目で無条件の愛だとばかり思っていた。  だから考えたことがなかった。考えてみようともしなかった。 「若?」  未だに何も言えずに下を向いている丈一郎に、トラは、「何も言わなくっていいです」と苦笑した。 「オレ、アホだから、難しいことはどうせよくわかんねぇし……だから、若は気にしなくて大丈夫です。いつも通りでいてください。オレ、若が泣いてるのだけがイヤなんです。ほんと、そんだけだから」  丈一郎の頬を撫で、涙を拭ってやっていた手が、遠慮がちに背に回る。  そのまま抱きしめられると思ったが、結局そんなことにはならず、トラの両手は寸前で宙に浮いたまま止まっていた。  丈一郎の斜め上あたりには、緊張しているのか、照れているのか、とにかく真っ赤でガチガチに強張るトラの顔がある。  気づけば、小柄な自分がデカいトラの体躯の中に、すっぽり納まるような体勢になっていた。それがなんだかものすごくマヌケで、思いきり笑ってしまった。 「あ、若、笑ってますね!」  よかったぁ……と、トラはその場で気が抜けたようにへたり込む。  さっきまで鋭かったりガチガチだったりした顔が、いつものふにゃふにゃとした笑顔に戻っていて、こっちまで力が抜けてしまった。   「若」 「……なに?」 「タツに、会いたいですか?」  目を細めて、優しく、そっと聞かれる。  しばらく悩んで、微かに、うん、と頷いた。  それを見て、トラは、おしっ! と勢いよく、拳を握って立ち上がる。 「オレ、兄さんたちに、タツのこと、最近見かけてないか聞いてみます!」 「トラ」 「こういうの、多分若からは聞きづらいじゃないですか。聞かれた方も、何かなって警戒? するっていうか。でもぉ、オレだったら、何聞いても許されると思うんすよねぇ!」  アホなんで! と、トラは胸を張った。  何それ、とまた笑った。  「若、好きですよ」と、トラが言う。  「俺もだよ」と、丈一郎は笑って返した。  昼休み、丈一郎は屋上にいた。秋雨で、二日ほど雨が続いたので、今日もまだあちこちしっとり湿っている。  濡れている屋上にわざわざ来る物好きは、丈一郎以外にはいなさそうだった。ざっと見回しても、他の生徒の影はない。  何となく振り向いて塔屋を見上げる。  当たり前だが誰もいない。  それなのに、何故か脳内で、起こすなよ、と見下ろしてくるタツの声がした。その声に、居ないくせになんなんだよ、と苛立ち、ムッと眉根を寄せた。  それでも、だれもいない屋上は考え事をするのに向いている。  フェンス沿いの日が当たる乾いた場所を見つけ出し、腰を下ろしてスマホを開いた。  トラからの通知があって開いてみると、早速「すみません」から始まっていて、トラの地道で懸命な聞き込みに、特に進展がないことを既に察する。  スマホの検索履歴は、辻田が手をつけている事業に関係しそうな社名でいっぱいだった。そこに直接、駿河の顔がある可能性はほとんど無いに等しいが、それでも調べていないと気が済まなかった。  はぁー、とため息をついて天を仰ぎ、青空を眺める。  タツと学校を抜け出しアイスを食べに行った日も、こんな天気のいい日だった。  丈一郎は、あれからあのアイス屋に行かなくなった。というか、行けなくなった。  せっかく好きなソーダとバニラのアイスがあって美味しいアイス屋だったのに、抹茶アイスとあの丸テーブルを見ると、あの五月の「デート」の日を思い出してしまって、味なんてしやしないからだ。 「鬼倉田くん」  ふと、自分のことを呼ぶ声がして、丈一郎は視線を下ろした。  すると、寺井が建付けの悪い屋上のドアを、ガタガタさせながら開けたところだった。 「教室行ったらいなかったから、ここかなって」  寺井は、ぱたぱた走り寄ってきて、丈一郎の隣にストンとしゃがみ込む。 「寺井も屋上来るんだ」  ちょっと驚いて聞いた。真面目でおとなしい部類の寺井が、屋上のドアの開け方を知っていると思わなかった。 「はじめて来た。前に鷲江くんと鷹橋くんに、開け方教えてもらったことあったけど」  寺井はそう打ち明けてはにかんだ。  三人とも暇だとよく屋上にいるからと、一度タツとトラに連れてこられたらしい。  でも丈一郎も、タツもトラも、別に示し合せて来るわけでもない上に、三人の他にも不良みたいな生徒がちょくちょく授業をサボりに来るから、一人で来たことは無かったと言う。 「……鷹橋くん、まだ学校来ないね」  タツが学校に来なくなり、もう三週間になる。でも校内では一体どう伝わっているのか、目の前でコソコソ噂話をされることも、同級生が根掘り葉掘り聞いてくることもなかった。  だから今の寺井の発言には、全くもって遠慮がないなと思ったが、変にその話題を避けられるより、いっそ潔くて好きだと思った。 「鬼倉田くんは大丈夫? 平気?」 「何が?」 「鷹橋くん、いなくって」  寺井の質問に、丈一郎は口を尖らせた。  寺井は、あの海の日から丈一郎がタツを好きなことを知っている。その後付き合うようになったことまで気付いているかは微妙だが、妙に察しがいいから、わかってしまっていたかもしれない。 「平気、なわけないじゃん」  ぼそっと言う。  そうだよね、ごめん、と寺井は軽く謝った。別にいいけど、とムスッとしたまま短く返す。  でも正直、嫌な気はしていなかった。寧ろそうやって気軽に聞いてくれると気が紛れる。  周りの、腫れ物に触るような態度に、丈一郎はうんざりしていた。相手は気を使っているのかもしれないが、そうやってやたら気にされると「何にも知らないお前に心配される筋合いねぇよ」という、変な反発心が芽生えて余計に荒む。  でも寺井だけが、普通の「友達」として、普通に「好きな人の話」をしてくれた。  だから嬉しかった。寺井となら、今も、タツの話ができる。普通に愚痴って、聞いてもらえる。 「タツもさぁ。勝手にいなくなるとか、どう思う? 最悪でしょ?」 「……なにそれ。鷹橋くん、今、家出中ってこと?」 「そう。やばくない? 俺のこと、放ったらかしてさぁ」  こんなにかわいい俺をだよ? とわざと大袈裟にあざとく小首を傾げてみせる。すると寺井も冗談交じりに、うわっ、やばい! めっちゃカワイイ! と手を叩いて褒めてくれた。 「さみしい?」  ふと寺井が聞く。  素直に、うん、と頷くと、よしよし、と寺井に頭を撫でられた。  ホントに寺井はいい奴だ。タツともトラとも違う。ある意味唯一無二だと思う。  だからそのまんま、ホントいい奴だな、と言ったら、なに急に照れる、と笑っていた。 「あ、そういえばさ。実はね。ミサちゃんをストーカーしてたやつ、捕まったんだ」 「えっ?」  しばらく二人でじゃれ合った後の突然の話題転換に、丈一郎が目を丸くする。  あの時のことはトクにも一応話したが、全く動向が見えなかったので、まさか事の顛末を寺井の口から聞くことになるとは思わなかった。 「今更? ストーカーされてるって言っても、そもそも取り合ってもらえないって言ってなかったっけ」 「うん。だから別で」  ――薬物所持?  あえて軽い口調で言った寺井に、丈一郎の視線が揺れた。 「ミサちゃんが前いたサークルの友達が教えてくれたんだって。職質? された時に持ってて、そのまま現行犯逮捕だってさ」  よっぽどヤバそうだったんじゃない? と、寺井はこともなげに言う。  ストーカーやクソな中学の同級生にはあんなに怯えていたくせに、意外と他人事(たにんごと)で驚いた。まぁでも、どんなヤバい事件だろうが、自分にさえ関係なければ、普通はどうでもいいものなのかもしれない。  しかし、ということは、あの時タツがかけられた液体には、やっぱりそういうクスリが混じっていたということだろう。あの時も大分挙動不審だったから、男がクスリを始めたのは、ミサをストーカーし始めた頃と同時期だろうか。 「そんな奴にストーカーされてて、ミサさん、災難だったね。何事もなくてよかったよ」 「ほんと。鬼倉田くんたちのおかげ」  いくら警察に言っても何にもしてくれなかったもん、と、寺井が当時を思い出して顔を顰めた。 「あの時の動画だって一応警察に出したのにさぁ。逃げるとこしか映ってないからストーカーの証拠にはなんないって、まともに見てもくれなかったんだよ?」  そりゃ確かにちゃんと撮れてないんだけど、と、寺井はスマホを取り出して、あの日の動画を丈一郎に見せた。  そういえば、確かに今の今まで見たことがない。  あの日はタツのことでとにかく頭がいっぱいで、ストーカーが去った後は他のことまであまり気が回らなかった。  まず画面の端に、小さくあの男の姿が映る。そのさらに向こうには、怯えた様子のミサとそれを守るようにして前に出るトラがいた。  構える寺井の手が震えていたせいだろう。縦向きの画面はずっと細かく揺れている。 「……あ」  男が動くと同時に、その影からタツの姿が見えた。わかっていることなのにドキッとする。その後に自分が走り出てきて、タツに、バカ、来んな、と吠えられていた。  男がこっちに走ってくる。  思ったよりも距離が近い。さっきまで離れた場所から撮っていたので、ズームにしてあったのかもしれない。  男はチラチラと後ろを気にする素振りをしながら逃げていった。近すぎて肝心の男の顔はほとんど映っておらず、腰辺りにピントが合っている。  男がこちらに背を向けた時、ジーンズの尻ポケットがアップになった。  ポケットには男のスマホが入っていて、何かの画面がずっと明るく光っている。よく見ると時々自動でスクロールするので、SNSの類かもしれない。  なんだろうこれ、と、思った時だった。 「えっ!」  男のポケットのスマホの画面が一瞬だけ全く違う絵面になった。  異変を察知したからか、操作ミスだったのか。とにかく通話画面が開いてしまったようだ。  そのせいで、ストーカー男が直前までやり取りしていたであろう相手のアイコンがスマホの画面いっぱい映し出される。 「寺井! ちょっと貸して!」 「えっ? うん」  寺井のスマホを半ば力ずくで奪い取り、丈一郎は食い入るように画面を見た。  さっきの場所まで巻き戻して一時停止し、指で広げてアップにする。  ただでさえ小さい画像を、さらに無理して引き伸ばしたので、かなり荒い。荒いがわかる。  黒いマスクをつけた、大した特徴のない若い男の写真のアイコン。  その下の文字は、アルファベットで「srg」。  ――見つけた。  丈一郎はコクンとひとつ息を飲んだ後、高揚する胸に頬を染めた。 「ねぇ! この動画、俺に送って!」 「もちろん全然いいけど……何かあったの?」 「めちゃくちゃある! ごめん、あんまり詳しく言えないんだけど……でも、ずっと探してたもの見つかりそうなんだ! 寺井のおかげ! 寺井、天才! 最高!」  ありがと! と、勢いよく寺井の肩を掴んで抱きついた。  寺井は力負けして、うわっ、とよろめき、落下防止のフェンスに背をついた。金属のフェンスがカシャンと鳴って、誰もいない屋上に響く。 「……よくわかんないけど、僕なんかが鬼倉田くんの役に立って嬉しいよ」  寺井は丈一郎にのしかかられたまま苦笑する。 「何言ってんの? 寺井はめちゃくちゃいいやつだし、俺の大事な友達だよ」  「僕なんか」なんて言わないでよ。  心底そう思って言ったら、寺井は何度か目をぱちぱちさせた後、そのまま深く俯いてしまった。  やばい。変なことを言ってしまっただろうか。自分は極力常識人でいるつもりだが、何分、生まれが生まれなので、どうにも感覚がズレている時があって油断ならない。  内心冷や汗をかいていると、鬼倉田くん、と蚊の鳴くような寺井の声がした。 「ありがとう。僕のこと、友達にしてくれて」    そう言って、こっちを見た寺井の目は赤かった。  それを見て、色んなことを言いたくなったが、ただ一言、こっちこそ、とだけ返した。  寺井に動画を送ってもらい、屋上を出て、すぐにトラに電話をかけた。  ワンコールも鳴らないうちにトラが出る。 「わっ、若っ? どどどど、どうしました! 何かありましたか! もしかしてまたやばいことになってます?」  電話に出たトラは、死ぬほど慌てていた。  そういえば自分からトラをわざわざ電話で呼び出したことなんて今まで無いに等しかった。だから、また誘拐されそうなのかとか、事件か何かに巻き込まれたんじゃないかとか、とにかく緊急事態だと思ったらしい。 「何ともないよ。悪い。そこまで驚くと思わなかった」  どんだけトラの連絡無視してたんだと過去の自分に呆れて謝ると、トラは、「よかったですぅ、安心しましたぁぁ」と、半泣きで漏らしただけで、健気だった。 「でも、じゃあどうしたんですか? そんなに急用でした?」  キョトンとしてトラが聞く。  それに、そう! と丈一郎は大きく頷いた。 「トラ、兄さんたちに色々聞いてくれてるだろ?」 「はい」 「クスリ買えるアプリとかSNSのアカウント、知らないか聞いてよ」 「……はい?」  さらにトラが電話口でキョトンとしたのがよくわかる。 「……若、また何かしようとしてますよね?」  何かを察したらしいトラが、疑い満載で聞いてくる。  ご名答だ。アホのトラの割によく気づいた。  でも丈一郎は、フフン、と笑って、肯定も否定もしなかった。 「とにかく、何でもいいから分かったら教えて」 「わ、若っ! 待ってください! 若っ?」  一方的に電話を切った。  これ以上話すとトラの心配性と過保護が始まる。それがトラらしくてかわいいが、かと言って全部聞いてやる気も更々ない。  さっきの動画の「あの瞬間」のスクショを撮って保存した。  最近はアプリやSNS上でのクスリの売買が多い。あのストーカー男もSNS上でクスリを入手していたのだろう。  その相手がきっと駿河だった。  あの辺りを仕切っている田村は、元は辻田の舎弟だ。それもかなり筋金入りで、辻田と盃を交わしたくて毎晩泣いて懇願したこともあると言う。未だに田村は、辻田の家の方向に足を向けては絶対に寝ないとも聞いた。  駿河も駿河で、辻田の宴席に呼ばれるくらいなら、表向きでも裏向きでも、それなりに辻田の世話になっているだろう。  それなのに、よりにもよってその辻田の兄弟分の田村のシマで、自分から買ったクスリで「事」を起こそうとしている「バカ」がいるなんて知ったら、駿河は冷や汗ものどころではなかったはずだ。 「ふぅん」  そこまで考え、丈一郎はニヤリとする。  ストーカー男の逮捕も、駿河がトカゲの尻尾切りでもしたつもりかもしれない。 「どうしよっかな」  顎に手を当て首を傾げる。  自分が所詮高校生なのはわかっている。タツやトラみたいに腕っ節も強くもない。鬼倉田組や大人がやるべきことは、トクあたりに頼むしかない。  ――それなら自分も好きにさせてもらおうかな。  変な方面で無駄に経験豊富で、「恐怖」というものをあまり感じなくなってからというもの、刺激がなくてつまらない人生だと思っていた。  まぁでもどうやら、この家に生まれた自分に限れば、ちょっと良いこともあるらしい。  丈一郎は、この先の可能性を想像して、ふん、と小さく鼻を鳴らすと、いったん仕切り直すつもりで、スマホの画面を消灯した。

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