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第15話 飼い殺しの鷹は獲物をとれない
この白鷺 の家に戻ってきて、一体何日が経っただろう。はじめのうちは朝が来る度一応数えていたのだが、あまりに代わり映えのない日々に、指折り数えるのすら億劫になり、折る指が片手で足りなくなった辺りで早々に辞めた。
寝て、起こされて、抱かれて、また寝る。
昼も夜も関係なく、そのサイクルが繰り返される。
「はっ、くっそ……颯希 のやつ、好き放題しやがって」
自分以外に誰もいない部屋で、辰樹はイライラと不平を垂らした。
常に重だるい下半身を緩慢に起こし、ベッドサイドから温 いペットボトルの水を引っ掴む。
テーブルには水の他にも、昼食だったサンドイッチがほぼ手付かずで残っていた。すっかり表面が乾燥して、トーストだったっけ? と思うほど固くなっている。
何しろ部屋どころかベッドの上からほとんど出ないので、どうにも腹のすきようがない。
鬼倉田の家にいた時は、なんというか、とにかく健全だった。毎日、朝の六時に起きて、一汁三菜揃った朝食を食べ、身支度をして、丈一郎とトラと一緒に学校に行く。現代の高校生の朝としては信じられないくらい、お手本みたいな生活だ。
いくら面倒くさくても、そうしないと組の兄さんたちに叱られる。というのもあるが、それよりも自分には、意外に寝汚くて全く自分で起きない丈一郎を、毎朝きちんと学校にやるという重大な責務があった。
兄さんに起こされたばかりの寝ぼけ眼の丈一郎の目を覚まさせて、寝起きで不機嫌にブツブツ言われながらも朝メシを食わせ、トラと一緒に家から放り出して送りの車にぶち込む。
丈一郎は、学校では絵に描いたような優等生なのに、家に戻ると急に、幼く、わがままで、甘えたになる。
自分も、丈一郎に出会った日、名前を聞かれ、辰樹だと一応名乗ったら、「じゃあ『タツ』だね」と、すぐさまあだ名を付けられて、次の瞬間には、タツ、タツ、と嬉しそうに懐かれた。
その時は、奔放で、自分本位で爛漫な、まさに「お嬢」だなと思った。無条件に可愛がられて育った人間の最たるものという感じだ。
しかし、それはあくまで丈一郎という人間の外殻に過ぎず、幼い頃から否応なしに清濁合わせ飲まされ生きてきた、十八歳の「少年」の鎧だったとすぐに知った。
「あー……ばかか、また……」
そこまで思考して、辰樹は頭を抱えた。
また無意識に、丈一郎のことを思い出してしまった。
この一年を忘れたくはないと思うが、こうも度々思い出すのは、それはそれでつらい。
こうなるから、あまり好きになりたくなかった。
あの海の日の夜、自分の前でわんわんと泣く丈一郎に、ついに我慢できなくなってキスしたことを、今になって後悔している。
でも、あの時はどうにも耐えられなかった。
あの芯の強い丈一郎が、ぼろぼろと涙を零して泣くのを、自分が良かったと何度も繰り返し喚いているのを、ただ見ているだけなんて、自分にはとても。
「辰樹?」
突然背後から声をかけられ、辰樹は、ビクッと肩を震わせた。
振り向くと、颯希がいつものように柔らかく微笑んで立っている。
「考え事? ノックしたのに全然気づかないから、勝手に入ってきちゃったよ」
「別に……ていうか、そもそもいつも勝手に入ってくるだろ」
何言ってんだ、と精一杯で怪訝に返す。
しかしこれも颯希には特に効かず、それもそうだね、とただ受け流された。
「お昼も残したの? ちゃんと食べなきゃだめだろ?」
颯希が、サイドテーブルの上の乾燥したサンドイッチを流し見て、叱るような口調で言う。
声色で怒っていないことはわかるのに、これだけで心臓の下の方が詰まったようになってしまう。
「……腹、減らねぇから」
「んー、でもちょっと痩せたんじゃない?」
ほら、と、後ろから腰に手を回されて、抱きしめられる。
「ほら」も何も、この一年のこと、テメェは一切知らねぇだろうが、と毒づいたが、声にはならず息だけが出た。
「夕飯は食べような? そうだ! 今日の夜は僕と食べよう。仕事、早く終わらせるから。和食にしてもらおうか。辰樹、和食が好きだもんね? 塔子 の煮物とかお味噌汁とか、美味しかったな。なんていうか、出汁が違うんだよ」
後ろから抱きしめられながら耳元ではつらつらと囁かれ、下ではTシャツに潜り込んだ手が、じわじわと筋肉が薄くなり始めた腹や胸の辺りをさする。
「颯希、おま、しごとは……っ」
「休憩中。二十分で出るから」
ちょっとでも辰樹に会いたいんだ。
そんな「健気風 」な台詞を吐くと、細く長い指でずるりと辰樹のTシャツを捲りあげる。
上半身が外気に触れて、一気に、ぞわっと、鳥肌が立った。
「ん……颯希……」
「なんだい? 僕のかわいい辰樹」
今日こそは、いやだと、やめてと言おうと心に決めて臨んでも、結局、ため息と喘ぎ声しか出てこない。
その間にも颯希は勝手にコトを進めて、辰樹の下半身を丸出しにする。
沈黙は承諾。濡れる秘所は肯定の証。
それをずっと繰り返している。
これもサイクル。しかもなんと、十五年モノ。
「あ、颯希っ、さつき、あ、あっ……」
「ははっ、毎日してるからすぐ入っちゃうね」
「ん、んんっ、あ、ああっ!」
四つん這いでずぶずぶと後ろから突かれていると、本当にただの「犬」になったような気になってくる。
なんでこんなふうになったのだろう。
十五年前、不慮の事故で両親が亡くなり、母方の祖母の塔子に引き取られた。
祖母は長年この白鷺の家で家政婦をしていた。どうしても帰りが遅くなってしまうから、幼い自分を家にひとりでは置いておけず、気を遣われたのか遣わせたのか、祖母の勤務終了までの夕方の時間をこの家で過ごすようになった。
そこで颯希と出会った。この家に子供は颯希だけで、お互いが遊び相手になるのはごく自然な流れだった。
それから十五年、煮詰め続けた結果が、こうだ。
一体どこで何を間違えた。颯希と自分との間の歯車が狂ったのはいつなんだろう。
ああ、自分がこの家に来なけりゃよかったのか。
それはそう。おっしゃる通り。間違いない。
「全部、僕が辰樹に教えてあげたんだよ」
「う、あっ、あ、あっ!あっ!」
「ココ、気持ちいいよね。知ってるよ。僕がいっぱい触ってあげたもんね。一年も、僕がいなくて大丈夫だったの? こんなトコ、僕以外誰も触ってくれないだろ?」
「う、んんっ、は、ぁっ、あ、あ」
頭が徐々にぼーっとしてくる。思考に無理矢理モヤをかけ、快感だけを選んで拾って、ぞくぞく這い上がる気味悪さに上書きをする。
これは、颯希と付き合っていく上で身についた、ある種の知恵みたいなものだ。
まともな頭で考えてたら本当にやってられないから、どこかで理性を飛ばしてやり過ごしていかないといけない。
「あ、んんっ、ん、んっ」
が、今回ばかりは、ちょっとさすがに飛ばしすぎた。
「あ、ん、んんっ、やっ、じょういちろ……っ!」
思わず口をついて出た名前にハッとして、一気に血の気が引いた。
青ざめる顔で慌てて口元を押さえ、恐る恐る後ろを見る。
「さつき、ちがっ……ちがう、今のは……っ」
「辰樹?」
名前を呼ぶ声が一段低い。
やばい。ミスった。何やってんだバカか。
ナカに埋め込まれたモノが一気に抜かれる感覚に、背筋が下から上にぞわぞわと痺れる。
だめだ。待って。行かないで。
自分はいい。自分はいいが、それよりも。
「あと三分か。名残惜しいけど切り上げようか」
「さつき、待って。ちがう、颯希」
「そうだね。僕も本当はもっと構ってあげたいけど、さすがに時間が足りないな」
続きは夕食の時にね、と冷や汗の浮かぶこめかみにキスを落とされる。
そのキスで余計に心拍が上がる。
「さつき、わるいっ、ごめ……っ、もう、しない! もうしねぇから……」
「いいんだよ。辰樹は悪くない。仕方ない、仕方ないよ」
――逃がした僕が悪かった。
颯希はそれだけ言い残し、ジャケットを羽織って出ていった。
また間違った。どうしてこうなる。
でもこれ以上は間違えられない。少なくとも丈一郎のことだけは。
いつもなら行為の後は泥のように眠るのに、今は全く寝られなかった。いったん寝て忘れようにも、目を瞑ると数時間前の光景が鮮明に浮かんで、気持ち悪くて目を閉じたままでいられない。
寝ないと時間の流れが遅い。大分経っただろうと思っても、ずっと日が高かった。
日が暮れないと、颯希はこの部屋には来ないだろ う。「あれ」で、ここ数年はアプリの開発会社の社長をしていて、それなりに忙しい生活をしている。
白鷺の家は所謂「資産家」というやつで、颯希もその家の「お坊ちゃん」だった。
今の会社も、元はといえば学生時代の仲間内のお遊びだと言っていた。試しに作って世に放ったアプリに想像以上の反響があり、そこへお坊ちゃんの資金力を掛け合わせた結果がこれである。
と言っても、辰樹はその様をただ横から見ていただけで、「あの」颯希が、社長なんてよくやってるな、という感想しか無かった。もしも自分が社員だったら、三日で辞めていると思う。
何ならむしろ羨ましい。契約上、辞める選択肢が用意されているのだ。自分だって、こんな関係、やめれるものならすぐにでもやめたい。
颯希の嫌味ったらしい笑顔が頭に浮かんで薄ら寒くなった時、ふと、ガチャリとドアノブを回す音がした。
颯希かと、反射的に身構える。
窓の外を見るとまだ明るい。一体なぜだ。怪訝に眉を顰めると、ドアの向こうに人影が見えた。
「えっ」
しかし、入ってきた人物は、辰樹にとって全く想定外だった。
「駿河?」
目立ちすぎる颯希とは全く真逆の「普通」を体現したような男の姿に、辰樹はキョトンと首を傾げた。
「申し訳ありません。颯希さんじゃなくて」
駿河は、さも申し訳なさそうに眉尻を下げて言う。たかが自分相手に何なんだと、そのバカ丁寧さにイラッとくる。
「いまさら何だよ」
駿河と会うのは、ここに戻ってきた日以来だ。
「言われた通りに戻ってきてやったんだから、もう俺には用なんかねぇだろ」
ムッとしたまま、辰樹は駿河を睨みつける。
駿河のことは、颯希とはまた別の意味で苦手だ。
鬼倉田の家を出たあの日、辰樹のことを迎えに来たのは駿河だった。
半ば無理やり連れていかれた辻田という男の宴会で、丈一郎のジャケットから滑り落ちてきた名刺もまた、駿河のものだ。
あんな席に顔を出していた上に、丈一郎に面と向かって名乗って名刺を渡し、挙句、知ってか知らずか、丈一郎の学校まで来た。
一つ一つは瑣末で、なんてことがない。偶然と言われればそれまでだ。けれどもそれらが、二つ、三つと集まってくるうち、気持ち悪くて吐きそうになる。
そして駿河が突然学校に押しかけて来た日の翌々日、その気色悪さについに我慢ができなくなり、辰樹は名刺に書かれた番号に自ら電話をかけていた。まるで真綿で首でも絞められ続けているようで、そうしないと、うまく息ができない気がした。
「もちろんですよ。私は、貴方には全く興味ないので」
颯希さんと違って。
駿河は、そう上辺だけで微笑んだ。颯希とは違い、ベッドに座ったり絡みついてきたりしない。
ベッドサイドに立ったまま、愛想笑いで誤魔化して、視線では辰樹を見下ろしている。
「さっき……一時間くらい前ですかね? 颯希さんが仕事部屋で荒れ狂ってましたよ。危なくパソコン投げてぶっ壊して、デスクトップのデータ全部吹っ飛ぶところでした」
「……はァ? だから?」
「どうせ『また』、辰樹さんのせいでしょう?」
白々 しい。
駿河はそう心底嫌そうに吐き捨てて、ちっ、と軽く舌打ちをした。
「なんで颯希さんも、貴方みたいな、どうしようもないのが好きなんでしょうね」
あからさまに蔑まれ、見下される。
駿河から、幾度となく感じてきた自分への嫌悪。
この灼(や)かれるような嫌悪を向けられる理由に、辰樹は以前から気づいている。
駿河は、颯希の大学時代の後輩で、今の会社の創業メンバーのひとりだ。一応役職で言ったら、CFOらしい。颯希の友人なのだから、駿河もまたご多分に漏れず「お坊ちゃん」で、苦労なんて知りもせずに育ったはずだ。
にも関わらず、駿河はずっと颯希の秘書のようなことをしている。颯希のスケジュール管理、仕事の電話や来客対応はもちろん、身の回りの世話、食事内容の把握、健康管理、さらにはメンタルケアやプライベートまで。
駿河は自ら望んで、ほぼ二十四時間、颯希の周りをハエのように飛び回っている。いくら颯希にうざったがられようが、関係なく。
「俺だって好きでこうなってんじゃねぇよ」
お前と違って。
辰樹は、そう駿河を見上げて鼻で笑った。
イラッとしたのか、右目の端がピクっと動いて面白かった。
「俺に構ってねぇで、颯希に構ってもらえばいいだろ。この一年だって、俺がいなくて正直せいせいしてたんじゃねぇの?」
「できることなら私だってそうしてます。貴方がいると、ろくな事が無い」
「……でも結局、そのろくでもねぇ奴、必死に呼び戻してんじゃねぇか」
ハッ、と短く嘲るのと、ドン、とベッドに突き倒されたのがほぼ同時だった。ベッドの上とはいえ、勢いよく打ち付けると腰に響く。
畜生、と思って顔をあげると、駿河の何の変哲もない顔が、どうにも複雑に歪んでいた。
「貴方にはわからない!」
駿河が、辰樹を上から押さえ付けたまま喚く。
「颯希さんがどれだけすごい人か……颯希さんの作った会社がどれだけ素晴らしいか、貴方知らないでしょう! 颯希さんの作ったものにどれだけ価値があると思ってるんです! それを……たまたま子供の頃に知り合ったって言うだけの! 貴方の一挙手一投足で、突然全部グチャグチャにされる私の気持ちが、貴方にわかりますか!」
――私が颯希さんと颯希さんの作ったものをどんなに愛して守っても、颯希さんは貴方にしか興味持つことないじゃないですか!
駿河はそう叫ぶと、スーツのスラックスのポケットから、ジッパーのついた小さくて透明な袋を取り出した。
中には、薄いピンクと水色の、ラムネみたいな玉が一つずつ。
「……駿河、お前、そんなんやってんの?」
この玉が何か、辰樹は知っている。
やばい、と、脳がけたたましく警鐘を鳴らしていた。
「会社のためですよ。資金繰りってやつがあるんです。颯希さん、センスはとんでもないんですけど、経営には興味がないし、金銭感覚も規格外なので、私がどうにかするほかない」
「だからって」
「はじめはね、ちゃんと正攻法でやってましたよ。でもどうしても限界がある。颯希さんのやりたいことを全てやるには金がかかるし、会社を維持するにも金がいる」
駿河はそう言って自嘲気味に笑った。
辻田のところとも、金集めで繋がったのかと合点がいく。
はじめは正攻法だったと言っていた。
けれどもアプリ開発の会社なんて、この世に、数千、数万とある。いくら多少のネームバリューがあったとしても、流行りは次から次へと移ろい変わり、その波を一度でも取り逃した者は、まるではじめから無かったかのように、あっという間に消されてしまう。
白かった金は徐々にグレーに染まっていき、そして今はもう真っ黒だと、きっとそういうことなのだ。
「でもこんなん、アッチでも許されねぇだろ。バレたらどうなるかわかってんのか」
ビニール袋の中で転がる玉を辰樹が睨む。
「わかっててやってるに決まってるでしょう? バレなきゃいいんです、バレなきゃ」
それを、駿河は笑い飛ばした。
「辰樹さん」
駿河が身体の上に乗り上がる。馬乗りになり、両膝で辰樹の肩関節を押さえた。
まずい、と思うが、あまり力が入らない。ここしばらくの不健全な生活で、やはり筋力も体力も落ちたらしい。
「やっぱり颯稀さんは、貴方がいないとダメでした」
悔しいですが、と、駿河は目を伏せる。
この一年、颯希はかなり荒れていた。
満帆だったはずの新しいアプリの構想は頓挫して立ち消え、私生活では男女問わず取っかえ引っ変えした挙句に四方八方で揉め事を起こし、白鷺の家の資産を次から次へと食い潰す。
堅実だった颯希の父は数年前に病に倒れ寝たきり生活、ほかの家族は世間知らずなお嬢様生まれの母ひとり。颯希が唯一懐いていた家政婦の塔子はもうとうに亡く、愛する辰樹は蒸発した。
ずっと隣にいるはずの駿河の方には目もくれない。夜中になると、辰樹、辰樹、と狂ったように名前を呼ぶ。
「だからもう、貴方に逃げられたら困るんです」
「うるせぇな。もうどこも行かねぇって言っただろ」
「でも、今日みたいに、どうせまたヘマするじゃないですか」
ハンっ、と小馬鹿にしたように言われて、辰樹はぐっと唇を噛んだ。
どうあれ今日のあれが自分の落ち度なのは間違いなく、何か言い返したいが言葉が出ない。
「その度に颯希さんに暴れられるのは御免です。貴方にご執心の颯希さんは嫌いですが、貴方なんかのことで我を失う颯希さんはもっと嫌いです。だから」
駿河がビニール袋のジッパーを開ける。手のひらの上に、ころんと水色の玉が一つ乗った。
「飲んでください」
指先で摘んで、鼻先に突きつけるように差し出される。
「しばらくぼーっとするだけです。それに気持ちよくなれますよ。新しいクスリで体に残らないって聞いてます。あ、聞いてるだけですけど」
「は……?」
「貴方が颯希さんと絡むと、本当ろくな事がないので。もういっそ、静かにお人形しててくださいよ」
駿河は静かに笑っている。
これはさすがに蹴り倒すかと右足を振りあげようとした時。
「丈一郎くん、でしたっけ? すっごく可愛いですよね、彼」
ゆっくりと首を傾げられ、一度は浮かせた右足を辰樹は下ろすしかなくなった。
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