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第16話 陥落

 自分をベッドに押し付けている男の顔と、男の手元におさまっている水色のラムネのような粒を順繰り何度か見比べる。  まだ日は高くて明るい。だから今一体何が起きているのか、鮮明に認識できてしまう。  何も知らずに「うん」と言えたらどれほど楽かと、辰樹は思った。 「……丈一郎には、何もしねぇって約束だっただろ」  苦し紛れに低く言う。  辰樹がこの家に戻ってくる条件として、あの時駿河に辰樹から提示したのがこれだった。  駿河は、丈一郎の顔も、学校の場所も知っている。自分との関係性だって、きっと勘づいているに違いない。となるともう、丈一郎が実はどんな立場の人間か、駿河もわかっているだろう。  丈一郎には手を出して欲しくなかった。その見た目と生まれで、これまで何度も嫌な目に遭わされてきて、これ以上、しかも自分のせいで、我慢を強いられて欲しくない。  丈一郎は、こういう話になるといつも、「もう慣れたから何でもない」という顔をする。本当にしれっとした顔で、もはやわざとらしいくらいに「何でもない」を装ってみせるが、その裏で一体どういうふうに泣いてきたのか、あの海の日の夜に知ってしまった。 「もちろん、私は何もしませんよ」  でも、颯希さんはどうでしょうね?  サラリと言われて背筋が凍る。 「颯希になんか言ったのか」 「それはもちろん『ボス』ですから。重要なことは報告しますし、聞かれたら知っていることは答えます」 「ふざけんな! はっきり言え!」  唯一動く頭を振り乱して叫んだ。  腕が自由に動くなら胸ぐらを掴んでいたと思う。  でも今はそれはできないから、代わりにただ目の前の男を睨みつける。 「そんなに睨むことないじゃないですか。ただ、事実を伝えたまでです」  ――丈一郎くんは、辰樹さんの恋人ですよって。 「駿河! てめえっ!」  反射的に殴りかかろうとして、駿河の下でジタバタと藻掻いた。起き上がろうと身を捩り、足はどうにか一発入れたがって暴れている。  しかし、駿河にずいっと身を倒されて上から羽交い締めにされた。 「自分次第ですよ、辰樹さん。今日みたいにまた貴方がヘマしたら、颯希さん、あのかわいい丈一郎くんに何しちゃうかわかんないでしょう?」  さぁ、と水色の玉が口先に当たる。  離れて見るとラムネみたいで可愛らしいそれは、近くで見ると粉を噴いて汚らしかった。  恐る恐る、突き出されている駿河の手首に向かって手を伸ばす。  ふと、丈一郎にアイスや飴玉をやった時のことを思い出した。丈一郎に食い物をやると、何故かやたらと勢いよくかぶりついてくるから、必ずと言っていいほど、食い物を持つ手に丈一郎の唇が当たる。  薄くて、整っていて、口紅でも塗ったみたいに血色が良かった。  食べる時に少し首を傾けて長い睫毛を伏せるのが、嘘みたいに綺麗で好きだった。  忘れたくない。覚えていたい。  あの誰より美しい顔も、あざとく甘えて見せる仕草も、あいつのつけた「タツ」という名も。 「覚えてろよ」  典型的な捨て台詞の後、指を咥えようと口を開いた。  誰に向けて言ったか分からない。もしかすると、不甲斐ない自分相手だったかもしれない。  しかし、水色の玉が辰樹の口の中に転がり入る直前に、ピンポーン、と玄関扉のベルがひとつ鳴った。  気が削がれて駿河が顔をあげる。辰樹もつられてドアの方を見た。  駿河は一旦無視しようとした。一度は辰樹から逸らした視線をまた戻す。  誰も出ないのか、その間も呼び鈴は鳴りっぱなしだった。  ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。 「……うるさいな」  駿河が苛立たしげに舌を打つ。  その時、がちゃん、と、やたら大袈裟に、玄関の鍵の落ちる音がした。  やっと誰か顔を出したのかと、駿河が苛立ちながらも仕切り直した時だった。 「お邪魔しまぁーす」  ふざけたように間延びする、聞き覚えのある声がした。 「……丈一郎?」  信じられなくて声に出る。  瞬間、上で押さえつける駿河の顔色が変わった。 「なんで……ッ!」  駿河は突き放すように辰樹を解放し、慌ててドアの外へ出て、廊下の様子を窺っている。水色の玉は勢い余って放り投げられ、ちょうど辰樹の手の中に落ちた。  駿河がドアを開けたことで、外の音がよく聞こえるようになった。  ドン、ドンっ、という何かが床にぶつかるような音。バンっ、とドアを殴るような衝撃音。  その中に小さく紛れる、革靴の足音。 「あ、やっと見つけた」  ヒッ、と駿河が息を飲んでドアにもたれる。 「この家、めちゃくちゃ広いね? 俺んちより広いかも。おかげで、すっごい探しちゃった」  ――お久しぶり、駿河さん。  開きっぱなしのドアの隙間から見えた光景に目を丸くした。  そこでは、詰襟姿の丈一郎が、片頬を上げ、にんまり笑い、腰を軽く曲げてそれは美しくお辞儀をした後、そのまま倒れかける駿河の襟首をギリギリと捻りあげていた。 「丈一郎!」  思わず叫んで、立ち上がった。  なんでこんな所に丈一郎がいる。  こんな所に来て欲しくないから、致し方なく自分が来たのに。  なんで。なんで。 「タツ!」  丈一郎は、それは嬉しそうな顔をしてこっちを見た。さっきまでとはうってかわり、無邪気で満面の笑顔だった。  捻り上げていた駿河を叩きつけ、パタパタとこちらに駆けてくる。振り返りざまについでのように、倒れる駿河を回し蹴りで一発蹴っていた。 「バカ! 何してんだお前!」  いろんな感情が入り交じり、とりあえずキレて叫んでしまった。  開口一番でキレられて、丈一郎は、むっ、と不満げに頬を膨らませる。 「……せっかく会いに来たのに」  むすっとしたまま、丈一郎はひどく恨めしそうに見てきた。 「タツは俺に会えて嬉しくないの?」  呑気にも、いつもの甘え口調で聞かれたのがもどしかった。  苛立ちのような感情につられ、あのなぁっ! と思わず声が出て、どんどん語気が荒くなる。 「そういう問題じゃねぇだろ! 何でこんなふざけたこと……っ!」 「そういう問題だよ!」  えっ、とそこで言葉に詰まった。  珍しく言い返してきたと思ったら、思いきり抱きつかれたからだった。 「俺は会いたかった! タツに会いたくて毎日泣いてた! どうしたらまた会えるんだろうって、ずっと、ずっと考えてた!」 「……丈一郎」 「タツはそうじゃないの? こんなに嬉しいの、俺だけ?」    丈一郎の綺麗な顔が見上げてくる。見上げてくる両眼が赤くなって潤んでいた。 「……泣くな」  泣き顔に何も言えなくなって、胸に埋まる頭を撫でた。  泣かれてしまうと、もう無理だ。自分は何より、丈一郎の泣き顔に弱い。 「会いたかったよ、俺だって」  毎日のように思い出して、つい名前を口走ってしまうくらいには。  さすがにそこまでは口に出さなかったが、それでも丈一郎は、さっきまでの泣き顔を、ぶわっとキラキラ輝かせ、見たことないくらいに愛らしく笑った。 「若っ! わーかーぁっ!」  ふと、ドアの方から響く大声に、二人はあわてて抱き合っていた腕を離した。  いいところだったのに、と丈一郎が文句を言う。 「もうっ! 置いてかないでくださいよ!」  ドアの前ではトラの奴が、ぜーはー言いながら仁王立ちしていた。肩で息をしながらも、右腕ではしっかり駿河を押さえ込んでいる。丈一郎の用心棒の役割を、よくよく全うしていて感心した。 「こんなことしていいと思ってるのか!」  トラに押さえつけられながらも、駿河は激しく怒鳴っていた。乗り込んできたのがたった高校生二人だけであることに気付き、一気に高を括っている。  その光景を眺めながら、丈一郎は顎に手を当て微笑んでいた。サラリと揺れる黒髪の合間に、青筋のたつこめかみが見える。 「不法侵入に暴行に……! 高校生のガキが、どうなっても知らないからな!」 「そっちこそ」  駿河がそう脅しても、丈一郎は何処吹く風だった。  微笑んだままポケットに手を入れ、取り出したスマホを何やら操作する。 「何してる! 警察呼んだって捕まるのはお前らだぞ!」 「警察? そんな甘っちょろいトコに言うわけないじゃん」 「強がりか? じゃあ一体どういう……」  駿河が訳もわからず強気に返した、その半ば。 「よう、丈! どうした、どうした」  スピーカーになったスマホから、老齢の男の無駄に快活な声が辺りに響く。  それを聞き、駿河の顔から表情が消えた。 「辻田のおじさん、ごめんなさい。忙しいのに」 「なぁに言ってンだ! かわいい丈からの電話とあっちゃぁ、何ほっぽっても出るに決まってんだろうが」  辻田は電話口で、あっはっはと楽しそうに笑っている。 「実はおじさんに、どうしても報告したいことがあって」 「おぅ、どうした、改まって。なんか欲しいモンでもあンのか? どうせならゆっくり丈のオネダリ聞きてぇや。二人で温泉でも行くか?」 「温泉はちょっと」  辻田のセクハラを涼しい顔で受け流しながら、丈一郎がニヤリと駿河を流し見る。  駿河はもう顔面蒼白で俯いていた。これから何が起きるのか、否応にも想像できてしまうのだろう。その近い未来に怯えて、ガクガク顎を震わせていた。 「あの、おじさんトコって、クスリご法度じゃなかったですか?」 「おう、よく知ってンな。こまけぇ頃から賢かったもんなァ、丈は」 「ありがとうございます。そうですよね? でも、俺、なんか変な話聞いちゃって……心配になったから、念のためおじさんに言った方がいいかもって……」  丈一郎は、急にしおらしく眉根を寄せる。  でもその影で、口元はうっすらにやついているのが横目に見え、よくやるなと辰樹は隣で呆れていた。 「今、俺の目の前に、おじさんトコの田村さんのシマで、クスリさばいてるバカがいるんですけど、どうしますか?」  語尾にハートでもつけていそうなくらい弾んだ声。  三日月型に引かれた真っ赤な唇。  日本人形のように可愛く麗しい笑顔で、丈一郎が駿河に死刑宣告を下していた。 「……そりゃァかわいいオネダリだな、丈」  辻田の低い声がする。  スマホのスピーカー越しでも、地獄から響くような重低音だった。  駿河は青ざめたまま、一気にその場で崩れ落ちた。突然で、トラも抑えきれずにつられてよろめく。 「こんな、こんなガキに……っ!」  駿河は泣きながら悔しげに暴言を吐き、床を叩く。  丈一郎はそんな駿河にツカツカと革靴のヒールを鳴らして歩み寄った。後ろ手に手を組み背中を丸め、駿河の顔を覗き込む。   「あのさ、駿河さん」 「な、なんだよ」 「タツはさ? 俺が拾ったんだよ」 「はぁ……?」 「すっごく可愛がってたんだよね、俺。タツはもうとっくに俺のなの。だから勝手に手ェ出してんじゃねぇよ!」  ずっと可愛らしく喋っていた丈一郎が、いきなりドスの効いた声で凄んだ。そして、ドンッ! と激しく駿河の顔のすぐ横で、かかとを上から振り下ろす。  ヒイッ、という、駿河の情けない悲鳴が聞こえた。  丈一郎はその悲鳴に満足そうに顎を上げる。 「鬼倉田の『お嬢』、舐めてンじゃねェぞ、コラァ!」  さっき振り下ろした足を重心にして、前に乗り出し、丈一郎が啖呵を切った。  駿河は腰を抜かしていた。小さく体を震わせていて、もう何もできやしないと見るだけでわかる。  トラの奴は後方で、丈一郎のその姿に目を輝かせ、ぽっ、と淡く頬を染めていた。  ちょっと前なら自分はそれを見ても、またトラがアホなことを、としか思わなかった。  でも、今は悔しいことにわかってしまう。  自分のために啖呵を切る丈一郎は、強く、気高く、美しく、ああこの人に一生ついていきたいと、自然と思わせる眩しさだった。  ふと、向こうのほうから、辰樹! と自分を呼ぶ声がして、辰樹はびくりと肩を揺らした。やっとこの騒ぎを聞きつけたのか、酷く焦っているのが声だけでわかる。 「颯希」  なりふり構わず走ってきた、という体の颯希を見て、辰樹は少なからず驚いた。薄茶色の髪は乱れているし、シャツは襟元のボタンが三つも開いていてだらしない。完璧主義の颯希が、いくら家の中だとはいえ、見た目に気を使わないなんてありえない。 「辰樹! どういうことだ、これは!」  颯希はこの惨状の理由を、声を荒らげて辰樹に聞いた。  入口にいた丈一郎にもトラの奴にも、顔面蒼白で膝をついている駿河にすら一切見向きもしない。全て無視して、まっすぐに辰樹のところに向かって詰め寄る。 「お前が呼んだのか? まさか、またこの家を出ようとしてるんじゃないだろうな? こんなことしてまで、この家に、僕と一緒に居たくないって言うのか!」  肩を強く揺さぶられ、荒々しく矢継ぎ早に問われて、辰樹は呆然としてしまった。  辰樹を問い詰めてくる颯希は、眉間に皺が寄るほど激しく顔を歪めていて、自分相手にこんな顔もするのかと変に感心してしまったからだ。  颯希が必死になるという場面を、この十五年、少なくとも辰樹は一度も見たことがない。  自分よりも五つも年上で、常に何歩も先を行き、颯希が自分を見る目には、いつも歴然とした余裕があった。  その余裕は、まるで狼が気まぐれに餌のうさぎを食べずに可愛がるような、もはや完全に別の生き物に対するそれで、この差は絶対に埋まるわけがないのだと敢えて知らしめているのだと思っていた。 「何とか言え! 辰樹!」  それなのに、今、自分にこうして怒鳴ってくる男には、その余裕が全くなかった。  髪を振り乱し、喉奥を晒して、問うてくる姿は、自分と同じ「人間」にしか見えようがない。 「颯希」  十五年前、この家のダイニングではじめて顔を合わせた時、颯希は分厚くて小難しい本を読んでいた。外国の本を翻訳したものらしいが、少し専門的な内容で発行部数が少ないから珍しい本だと辰樹に教えた。  しかしその時まだ六つだった自分には、本のタイトルの意味すらわからなくて、きょとんと小首を傾げることしかできなかった。  そんな自分を、颯希は馬鹿にしなかった。  これはこういう意味だよ、こういう話なんだよ、辰樹も大きくなったら読めるようになるからね、と、ページをめくりながら、一つ一つ丁寧に教えてくれて嬉しかった。  だから自分も、すごい、かっこいい、俺も颯希みたいになりたいと、素直な気持ちで言ったと思う。  あの日から、颯希は自分に何でも教えてくれるようになった。  小難しい本のことも、庭に咲く花や木々のことも、テーブルマナーも、ピアスホールの開け方も、それからセックスも。  自分はその度に、あの日と同じく喜ばなくてはならなかった。  回数を重ねる度にどんどんと広くなっていく颯希との溝を、ひしひしと染み入るように感じつつも、嫌だとはとても言えなかった。 「颯希、俺……」  肩を掴まれたまま、俯き、ぼそっ、と、零すように口を開く。  ちらりと一瞬視線を上げると、颯希の肩越しに、不機嫌そうにムッとしている丈一郎が見えた。めちゃくちゃ何か言いたげで、うっかり笑ってしまいそうになった。 「俺、好きな奴いるから」  さっき、つい笑いそうになったままの笑顔で、辰樹は目の前の颯希に言う。 「だからもう、颯希とは一緒にいられねぇよ」  颯希の必死だった顔に、段々と、諦めが滲んでくる。  辰樹の肩を掴む両手の力が抜けていく。俯いて下に垂れる薄茶色の髪の向こう側から、文字にできない嗚咽が漏れた。 「……なんで、僕じゃダメだったんだ」  ――あんなに可愛がってあげたのに。  この期に及んで言われた言葉で納得した。  薄々勘づいてはいたが、それでも自分の中でずっと認めきれずにいたことだった。 「だって、颯希は、俺のこと、絶対に『好き』って言わねぇだろ」  「かわいい」とは何度も言われる。でも「好き」だとは絶対に言われない。   そんな十五年だった。それで十五年過ごした。やっとおしまいにできると思った。 「……嫌いだ、辰樹なんか」 「颯希」 「大嫌いだ。早くどっか行ってくれ。顔も見たくない」  辰樹なんかと会うんじゃなかった。  そんな元も子もないことを言われたが、何も悲しくも悔しくもなく、何ならいっそ清々しい。 「タツ!」  むこうで丈一郎が、ムスッとしたまま呼んでいる。  ついに我慢できなくなったらしい。  年齢以上に幼くも見えるその仕草が、さっき思いきり啖呵を切ってた奴とは思えなくて、見たらやっぱりまた笑ってしまった。 「じゃあな」  それだけ言って、もう何も言わない颯希の隣を摺り抜ける。  他にも言おうと思えばいくらでも言えるが、視線の先で待っている「ご主人様」の機嫌を取る方が先決だった。 「おいで!」  丈一郎が、両手を広げてもう一度呼ぶ。  仕方ないので行ってやる。これ以上呼ばせて、後でグチグチ言われたらたまらない。  もう自分は、丈一郎には逆らえないのかもしれない。そう思いながら広げられた腕の中におさまると、えらいじゃん、と、よく分からないが褒められた。  何だよそれ、と言い返しかけたが、当の「ご主人様」があんまり満足そうなので、「飼い犬」として一応飲み込み、我慢した。

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