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揺らぎ

ライアスと別れた後、落ち着かない気持ちのまま真っ直ぐに研究室に向かった。 正確な時間は言われていなかったが、シェリオスが戻ってくる夜まではまだ時間があった。 別に出迎えをしなければいけないわけではないとのだが、シェリオスが帰ってきた時には部屋に居たいとは思う。それまでにこのよく分からないモヤモヤを何とかしようと思いついたのが、昨夜よく眠れた研究室での昼寝だった。 どうせ誰もいないのだからと勢いよく開けたドアの先に黒がゆらりと揺れると、驚きに声を荒らげてしまった。 「なんでいるんですか!」 「俺の研究室だが?」 予定より早く戻っていたらしいシェリオスは、こめかみをひくつかせながら不満そうに睨んできたが、何事もなかったかのようにカバンを漁り始めた自分に、諦めたように深いため息をついていた。いつものシェリオスに、こっそり笑みを浮かべながらインクの入った紙袋を差し出すと、中にある瓶を一つだけ取り出してみせた。 「出かけてたのか?」 「あ、はい…インクが切れそうだったので」 「二つも買ったのか?」 「買っといて損はないかと」 「助かる」 インクの入った瓶を机に一つ置くと、もう一つを備え付けの引き出しにしまう。先程まで不満そうに見えた顔が僅かに口角を上げていることに満足したのと同時に、ライアスに言われた言葉がまたも頭の中をグルグルと回り始めた。どうにも落ち着かない気持ちのままカバンを強く握りしめると、視界に薄らと影が差した。それが、シェリオスの伸ばした腕だと気づくより先に耳を掬うように撫でる感触に小さく身体が跳ねた。 「イヤリングはどうした?」 「え?…あっ!」 シェリオスの言葉に、外したままだったイヤリングの存在を思い出して、慌ててポケットにしまっていたイヤリングを取り出すと、シェリオスの纏う空気が少し重くなった気がしなくもない。だが、なくしてはいないのだから怒られる理由はないだろうと考えている自分を、まるで考えを読んだかのようなシェリオスの言葉に心底驚いた。 「なくしてないからいい、わけじゃないからな」 「何で分かったんですか?」 目の前で揺れるイヤリングをシェリオスは耳へ付け直すと、その指がそっと耳を撫でた。 それだけなのに、触られた箇所がいつもより熱を帯びた気がして視線を足元へと逸らしてしまった。 「怒ってますか?」 「怒ってはいないが…おもしろくはない」 零れるような声に何故か胸の奥がぎゅっと痛んだ。 ライアスが何を思ってシェリオスを化物と言ったのかは分からなかったが、少なくとも自分の目に映る彼は恐怖の対象とはどうしても思えなかった。 耳を撫でた手が次は髪を梳かし始めると、シェリオスの機嫌がちょっとだけ戻っているように見えた。 「レイヴァート様を大事にします!」 「…………は?」 黒い瞳を真っ直ぐに見つめながら宣言すると、シェリオスの腕の動きがぴたりと止まった。 瞬きすらしていないのではないかと思うくらいに固まっているシェリオスを不思議そうに見つめ返すと、その喉の奥から絞り出したような苦しげな声が耳の近くに落ちてきた。 「お前…のことだから多分意味が違うんだろうな…」 「意味はそのままですよ?」 それ以上何も言わないまま深く息だけを吐き出したシェリオスに抱き寄せられると、突然のことに傾きかけた身体が腕の中に閉じ込められた。 そのまま肩口へ額を押し付けるように顔を伏せてしまったシェリオスになぜか落ち着かなかった。 「お家、疲れちゃったんですか?」 「お前な⋯」 何度目になるかわからない深い溜息をついていたシェリオスは、微かに怒りを含んだような声を出すと、腰に回されていた腕に抵抗する暇もなく横向きに抱えられた。 「えっ」 自分を抱えたまま、近くのソファへと腰を下ろすと、がっちりと太ももを挟み込む形で膝の上へと乗せられていた。その手際の良さに呆気にとられることしか反応が出来なかった。 「俺もお前を見習って、好きにやってみようと思ってな」 「十分好きにやってるじゃないですか」 「お前より俺の方がマシだ」 初日にいきなり指名してきた人が何を言っているのかと思ったが、言い合いをしたいわけではないとその言葉を飲み込んだ。それでも、多少の反撃はしたい。 「好きにするのに、俺を膝に乗せる必要はないと思いますけど」 「うるさい」 事実だと思うのだが怒られたことに納得できないと頬を膨らませると、シェリオスは楽しそうにその頬をつついてくる。完全に遊ばれているとは分かるが、シェリオスの機嫌が嘘みたいに良くなっていることに思わず笑いが零れてしまっていた。 「落ち着いたか?」 「ん?何がですか?」 「何か気にかかっていただろ」 その言葉に、無理やり押し込めていた気持ちがじわりと浮かび上がってはくるのだが、兄であるライアスを悪く言いたくない気持ちもあって、一瞬言葉に詰まった。化物と言われていると本人に話していいものかと察しが良すぎるシェリオスにはたまに困ることがある。 「何もないですよ?」 「嘘つけ。何もなくてお前が急にあんなこと言うか」 「いつも通りでした」 「クミル…」 滅多に名前を呼ばないくせに、こんな時だけ呼ぶのは卑怯だと思った。 初めて会ったときからシェリオスは、こちらが隠そうとしていることなどお構いなく踏み込んできてはいたが、別に嫌な感情は抱かなかった、と思う。怖かった気はするが嫌だと思ったことは一度もなかった。 「⋯レイヴァート様が、化物と言われていると、聞いたんです⋯」 「それで?お前も逃げたくなったか?」 「違います!レイヴァート様から逃げたいと思ったことは一度もありません!」 「お前が感情的になるのは珍しいな」 「それ、兄にも言われました。でも、レイヴァート様をそんなふうに言ってほしくなくて」 ライアスと似たようなことを言うシェリオスを見上げながら、自分がどれだけ余裕がないのか突きつけられたような気がして、シェリオスの服を皺が出来るほど強く握りしめた。 「兄⋯」 何か思い当たることがあるようにつぶやくシェリオスに、この前のディルクに似た違和感が重なるような曖昧さを感じていると、握りしめていた手を解くように、シェリオスの指がゆっくりと絡められた。 胸の奥が妙に落ち着かなかった。 「お前は怒るんだな⋯俺は怒ることも諦めたぞ」 「そこは諦めちゃ駄目です!」 力強く否定すると、シェリオスは嬉しそうに目を細めた。 本当に今日は気持ちが落ち着かないことばかりだと思うも、シェリオスが嬉しそうにしてくれるならとりあえずはいいことにした。 「代わりにお前が怒ってくれるんだろ?」 「怒ります」 「なら、いい」 そう言ったシェリオスは髪に小さく唇を落とすと、絡めた指を軽く握った。

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