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呼称
モゾっと寝返りを打つと花のような香りが鼻孔をくすぐった。クミルは枕に顔を埋めて小さく唸ると、ゆっくり体を起こした。いつの間に寝たのかと軽く周りを見渡した後、見覚えのないカーテンをぼんやりと見つめたながら昨夜の記憶を辿った。
不意にドアが開く微かな音に首を動かすと、トレイを持ったシェリオスが部屋に入ってきていた。目が合うと、シェリオスがふわっと笑った気がしてつい、目を逸らしてしまっていた。
「目が覚めたか」
「おはようございます。あのここって」
「俺の部屋だが?」
道理で見覚えがないはずだと、固まった体をグッと伸ばした。
初めて入ったシェリオスの部屋は、作り自体はクミルの部屋とあまり変わらないように見える。研究室と違って綺麗に整理された室内は、必要最低限の物しか置かれていない印象を受けた。それより、なぜ自分はシェリオスの部屋で寝ていたのかと再び記憶を探ろうとした時、ふわりと漂ってきた美味しそうな匂いにお腹がぐうっと音をたて始めた。シェリオスは笑いを堪えるように顔を背けたが、その肩は微かに震えていた。
「食堂でもらってきた。夕食も食べずに寝てたからな」
気恥しさに頬を膨らませていると、まだ少し笑いを噛み殺しているシェリオスが、ベッドの隣に置いてある小さめのテーブルにトレイを置いていた。そこには小さめの蜂蜜パンが二切れ乗せられた皿と、お茶のポットが乗せられていた。そのポットがふわりと浮くと、空のカップにお茶を注ぐ光景に溜息が出る。
「だから、魔力の無駄遣い⋯」
前にも似たようなことがあったなと、浮いていたカップが自分の手の中で止まると乾いていた喉にお茶を流し込んだ。
ベッドの脇に腰掛けていたシェリオスはカップが空になるのを見計らっていたかのように軽く自分の方に引き寄せると、薄水色の髪をクルクルといじり始めた。自分の髪で遊ぶシェリオスが少し可愛いかもしれないとこっそり口元だけで笑うと、シェリオスの胸にもたれかかるように体を倒した。
「お前が寝てる間に魔力を分けたんだが問題ないか?」
「特には、あぁだから」
自分にしか見えない紫黒がブレスレットの周りを漂っていたのかと、空中をなぞるように指を動かしていると、その手にパンが乗った皿を乗せられた。
「いただきます」
パンを一口かじると、蜂蜜のほのかな甘みに頬が緩む。二口目を口に入れようとしたところで後ろを振り返ると、食べかけの蜂蜜パンをシェリオスの前にずいっと出してみた。
「美味しいのでどうぞ」
少し驚いたように、パンとクミルを交互に見るを繰り返していたシェリオスだったが、しばらくすると一口だけパンをかじってみせた。
「あま⋯」
「自分が持ってきたんじゃないですか」
「お前用だからな」
「あ〜、ありがとうございます」
自分の好物を用意してくれていたことがくすぐったくて、その気持ちを誤魔化すようにパンにかじりついた。
いつもより機嫌がよさそうに見えたシェリオスに、今ならちょっとくらいのワガママなら押し通せそうだなと、ふんっと気合を入れ直すとシェリオスをちらりと見上げてた。
「お前じゃなくて、名前で呼んでほしいんですけど」
言ってはみたもののシェリオスの複雑そうな顔に、我ながら子供っぽい願いだったかなと自分に巻き付いたままのシェリオスの手をそっと握りしめた。触れた指がピクリと微かに跳ねると、自分の名前を呼ぶ低めの声が、耳元でそっと響いてきた。
「これでいいか?」
「あ、はい⋯」
お願いを聞いてくれただけなのに妙な気恥ずかしさで、顔がやけに熱かった。しばらく顔を上げられないまま、無言でパンを食べ進めた。
お腹が満たされたところで、学園の準備をするからと一向に自分を離そうとしないシェリオスを半ば強引に剥がした。
不満そうなシェリオスがお皿を片付ける姿を以外だと思いながらも、部屋を出る間際、一度後ろを振り返った。
「名前を呼ばれるのは嬉しいですね。シェリオス様」
そのまま部屋を出た。
クミルが居なくなった部屋でシェリオスはその場に崩れるようにしゃがみこむと「勘弁してくれ」というぼやきを吐き出していた。
シェリオスと別れた後、書記科へ向かう途中、その教室の入口にディルクが立っていることに気づいて一旦足を止めた。
「うわ〜⋯」
ディルクが自分を待っているのだろうとは予測ができたが、遠巻きに期待や憧れに満ちた目がちらちらとディルクに向けられている光景に、思わずひきつった声が出てしまった。人を寄せ付けない冷ややかな雰囲気をまとっているのに、不思議と人の目を引き付ける顔立ちをしているせいか、やたらと目立つ。ただ壁に寄りかかっているだけのはずなのだが、通り過ぎる生徒がちらちらとディルクを見ては何やら息を飲むような仕草をしているのを見ると、どうにもぞわぞわする。できれば話しかけたくないなと思いながらも、止めていた足をディルクへと動かした。
「人の教室の前で変な空気作らないでくれませんか?」
いやみっぽく声をかけると、ディルクはよく分かっていない顔で見てきた。呆れたように深く息を吐き出すと、その顔は更に困ったように眉を下げていた。困った顔も無駄に絵になる兄を今度ライアスにでも怒ってもらおうと理不尽なことを考えていた。
「なにか用事ですか?待つくらいなら、魔術棟まで来てくれればよかったのに、目立つし」
「いや、あそこはちょっと⋯」
言い淀むディルクにまぁ確かに独特の雰囲気があるところではあるが、別に何かされるわけでもないのにと思った。されるどころか基本他人に興味がない生徒が多い気がする。指名された生徒も頻繁に出入りしているのだから別に構わないと思ったが、いまさらだなと話の続きを促した。
「そろそろ魔灯祭があるだろ?その間だけでも家に帰ってこないかと父が言っててな」
「特にやることはなかったですよね?」
魔灯祭は国の繁栄を願うものだが、魔力を使えない自分にはあまり関係のない話だと、大した知識を持ち合わせてはいなかった。貴族が中心となって行うこともあってか、魔灯祭の間は学園も休みになることはついこの前ルーセルから聞いたばかりだったが、それと自分が家に戻るのは関係がない気がする。簡単に帰る気もなかったが。
「隠し事を教えてくれるなら帰ります。て、父様に言っといてください」
父だけではなく二人の兄にも向けている言葉ではあったのだが、思い当たる節があるらしいディルクはその言葉に大きく目を見開くとうまく言葉が出てこないのか、口を微かに動かすだけだった。
シェリオスの部屋に強引に住み始めたのも、家族への小さな反発心からだった。
自分を大事にしてくれているのはむず痒いほど分かっていたが、だからこそ自分が倒れた時、ディルクの髪から色が無くなっていたのが悲しくてしかたがなかった。見知らぬブレスレットをお守りだと言った父からも、その色が僅かに抜け落ちていた。
もともとよく熱を出していたクミルに、少し疲れてしまったかな。と微笑む父に当時のあの時は、何も言えなくなってしまった。
何も言わないディルクに胸がわずかに揺らいだ。ディルクを残したまま自分の教室に入ると、気持ちを切り替えるように体を大きく伸ばした。
学園は魔灯祭が近いせいか、いつもより少しだけ空気がざわついているようだった。
シェリオスに媚を売りたい書記科の生徒達がクミルに近づいてくるのを、ルーセルが睨みながら追い払うという光景を何度も繰り広げながら一日を終えると、クミルは手早く荷物をまとめていた。ルーセルへの挨拶もそこそこにシェリオスの研究室へと向かうと、そのドアを勢いよく開けた。
「シェリオス様!お祭り行きましょう!」
「俺がいる前提で飛び込んでくるな」
「え?いるじゃないですか」
ソファーにカバンを下ろすと、机の上に肘を置いて頭を抱えているシェリオスにそう言い放つ。授業の殆どをサボっ⋯免除されているシェリオスは、一日の大半を研究室で過ごしている。公爵家としての家から任されている仕事もしているようだが、それ以外は魔力についていろいろ調べたいことがあるのだと、前に少しだけ話してくれたことを思い出した。
「それより!お祭り!シェリオス様と行きたいんですけど」
「⋯本当に、なんなんだお前⋯何がしたいんだ」
「お祭りに行きたいんですが?」
小さい時、一度だけ兄達が父に内緒で祭りに連れて行ってくれたことがあったのだが、途中で具合が悪くなってしまい、祭りを楽しめなかったどころか、兄達が怒られたという残念な結果で終わってしまった。窓から見えたいくつもの魔力の色に、いつか近くで見てみたいと思っていた。シェリオスにその色は見えないとしても、そのことを知ってくれている人と見られたらもっと楽しいかもしれない。そう思ってシェリオスを祭りに誘ってみたのに、その口からは思いもよらぬ返事が返ってきた。
「祭の日は父が王都に来ているから、無理だな」
「公爵様が?なんで」
「クミルお前⋯本来の祭りの意味を知らないのか?」
「ん?」
平民街の屋台や催しが楽しいんだとルーセルが話していたが、それ以外は貴族が中心となってやるということくらいで、その内容までは知らない。
本当に知らないのかと溜息をついたシェリオスにに手を引かれると、ソファに座るように促される。
「魔灯祭は国の結界を張り直すためのものだ。公爵家は自分たちの領土の結界を張り直した後、王都のを新しく貼り直すんだ」
各地を収める公爵家についてはさすがに存在くらいは知っていたが、結界の話を聞くのは初めてだった。ふと、窓の外に視線を向けると、空にオーロラのような淡い帯状の光が揺らいでいるのが見えた。
「あれ、結界だったんですね」
「あれ?とは?」
釣られるように窓の外を見たシェリオスには、あの空は、特になんの変化もない空なのだと思うと少し残念だった。自分の目に見えている色の話をどう説明したら分かってもらえるだろうかと頭を捻りながら、魔力の色見本やっぱりいるかなと、どうでもいいことまで考えた。
「魔力の色、か」
そう呟いたシェリオスに、心臓がドクンと、今までに感じたことがないくらい大きく脈を打つ。
自分の見えている世界をシェリオスは話す前から分かってくれたことが嬉しくて、少しだけ泣きそうになった。涙を堪えるように目にぐっと力を入れるとシェリオスが軽く頭を撫でてくれた。
「なんだその顔」
「お気になさらず」
強がってそう返すと、シェリオスは可笑しそうな笑みを浮かべながら撫でていた手はそのままに、もう片方の手で目尻をなぞられた。
「そういえば、今日兄に祭りの間だけでも帰ってこないか?て、言われました」
「あぁ、騎士科の⋯」
「知ってるんですか?ディルク兄様の方なんですけど」
「…ん?ほう?」
珍しく素直に驚いているシェリオスが見れたことは嬉しかったが、模擬戦の時に感じたものと同じ違和感がチクリと胸に残る。
「騎士科にはディルク兄様とライアス兄様がいるので」
「⋯兄が二人いるのは知らなかった」
シェリオスの言葉に、違和感がさらに胸に引っかかっていた。
しばらくして、父から了承を得たディルクと一緒に帰る約束をすると微かに息を吐いていた。
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