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第6話
クロヴィスや鍵の事で悶々としながらも、ネムは眠ってしまっていた。
昨日も朝方も散々揺さぶられたので疲れていたのだろう。目を覚ました時には、窓から夕日が差し込んでいた。
(……早退したら、罰金だった)
どうしようかなと思っても、やってしまったものは仕方ない。給料から差し引かれてしまうので諦めよう。お金を貯めるために食費を節約しなければと思ったところで、ネムの腹がくうっと鳴った。
そういえば朝から何も食べていない。
何かなかったかと考えて、テーブルの上に置かれたりんごを見つけた。
昨日、クロヴィスに強引に部屋に連れ込まれた時、床に転がってしまったのだけれど。
(拾った覚えはないけど。……まさかクロヴィスが?)
一体いつの間にと思いつつ、あの大きな体で屈んで拾っている姿を想像し、ネムは吹き出してしまった。
なんだか気分が良くなったので、ネムは立ち上がりりんごを手に取ると、水で洗った。
布で拭くと艶のある赤い色がいっそう輝いて見えて、何だかそれはクロヴィスの瞳のようにも思えてしまう。
目を細めて、ネムのことを可愛いと言っていた。そんな柄じゃないのはわかっていても、どうにも落ち着かないむず痒い気持ちになってしまう。
嬉しいのかもしれない。
熱に浮かされて出た心にもない言葉だったとしても。
(もしクロヴィスが来たら、気にしないでくださいって言わなきゃな。うん、昨日と今日のは事故で、変な誤解が解けたのなら話はそれで終わり)
洗ったリンゴを持って椅子に座ると、ネムはそのまま齧った。
甘酸っぱい果汁が口の中に広がって夢中で食べてしまう。シャリシャリと齧りながら幸せに浸っていると、唐突に扉が開いた。
そこにはクロヴィスが立っていたからだ。
「あ、あの」
「今帰った」
家主であるネムの許可も得ず、クロヴィスは中へと入ってくる。
どうしようと慌てるネムをじっと見つめていて、何かを待っているかのようだ。
「今帰った」
さっきと同じ言葉を、もう一度ネムの眼前で言った。これはネムに何か言ってほしいのだろうか。
「ネム、俺は今、帰ってきた」
「お、おかえりなさい!!」
これが正解なのかわからず、けれどもクロヴィスの圧に負けてネムは叫ぶ。間違っていたらどうしようと身を縮こめていると、不思議なことにクロヴィスは何も言わない。怒ったのだろうかと、チラッと視線をあげてクロヴィスを見たら。
「……っ!!」
顔を赤くして照れたように口元を押さえていた。
「……おかえりなさい。いいものだ。……まさにこれは新婚家庭」
何かを噛み締めるように何度も頷きながら。最後の方はボソボソと呟いていたから、聞き取れなかったけれど。
(鍵をかえしてもらわなければ)
言うタイミングを見計らっていると、クロヴィスは何かに気付いたように笑みを浮かべてネムへと差し出した。鍵を返してくれるのかと思ってみれば、屋台で買ってきたらしい食べ物の器だった。クロヴィスの夕飯だろうか。
「食事はまだだろう。体力回復にいいものを買ってきた」
困惑して受け取れずにいると、もしかしてもう何か食べたのかとクロヴィスが尋ねてくる。
「……はい。その夕飯はもう」
「そうか。それはざんね……」
クロヴィスの視線がテーブルの上にある、齧りかけのりんごを捉えたようだ。半分ほど食べたので、明日の朝ごはんにしようと我慢して残していたのだが。
「ネム・ノワール」
「はい」
いつになく険しい声だった。
「お前は普段、何を食べている?」
真剣な顔で尋ねられたため、ネムはりんごと答えた。料理はあまりしたことがないので、基本的に出来合いのものを買ってくる事が多い。しかし屋台で安いものを買うにしても、出費が重なると財布には痛手だ。
そこでネムは好物のりんごを買って食べることにした。階下の商店で買えば安く大量に手に入るし、りんご一個で一食分になる。
昼食は王宮の食堂で安く食べることができるので、なんとかなった。
「りんご、……りんごだけか?」
「たまに葉野菜を。……料理は苦手なので齧って食べてます。塩をかけると美味しいですよ」
「…………」
クロヴィスはなぜか目を瞑ったまま顔を上向けた。
「ネム、お前はもっと食べたほうがいい」
「でも」
「無理をしてでも食べるんだ。じゃないと、体が回復しない。明日も調子が悪いままだ」
それは困るとネムは思った。
今日だって早退してしまっているから罰金を取られてしまうし、明日休んだりしたらさらに倍額、給料から差し引かれてしまう。
「……食べます」
「それがいい」
テーブルの上には、屋台で売られている具沢山のスープや、あまりお目にかからない巨大な肉の塊など、さまざまな料理が置かれていった。あまりにも豪華すぎて、目の前がチカチカとしているような気がする。
好きなものを食べろと言うクロヴィスに促されて、ネムはスープを手に取った。いい匂いがして食欲を刺激してきたのだ。スプーンですくって口に含むと、濃厚なのに酸味のある味が広がって、さらに食べたくなってしまう。スープには肉や野菜が大きく切って入れられており、どれもが味が染み込んでいて、口の中でほろほろに崩れた。
「うまいか?」
とても美味しい。そう言いたかったが、口いっぱいに頬張ってしまったため、すぐに言葉を返せない。焦って咀嚼するネムを見て、クロヴィスはゆっくり食べていいと言った。
「お前は本当に可愛いな」
「……っ!?」
驚いたネムは食べている途中で飲み込んでしまった。
ゴホッと咳き込むと、大丈夫かと心配そうにクロヴィスが背中を撫でてくれた。
「だ、大丈夫です……」
大きな手の熱を感じて、今朝方までのことを思い出し、ネムは頬を染めた。意識しだすとどうにも落ち着かなくなる。もぞもぞと体を動かしながら食事を続けるネムの前で、クロヴィスは特に何か言うでもなく肉の塊を食べていた。
(何を考えているか、さっぱりわからない)
でも食事を終えたら帰るのだろうかと、そう思っていたのに。
夕食を食べた後は二人でベッドに座り過ごした。ネムの家はあまり広くないので、ソファがないのだ。座るとしたらベッドしかない。寛いだ様子のクロヴィスは、ネムを抱き寄せ、髪を撫でたり首元の匂いを嗅いでいたり。
(ど、どうしたら、どうしたらいいんだ。全然帰らないし、鍵も返してくれないし)
ぐるぐると混乱する思考のまま、クロヴィスのするがまま。
ギュッと抱きしめられると、それだけでネムの体からは力が抜けていく。抗えない温かさに、思わずクロヴィスの胸へ顔をすり寄せてしまった。
(ああ、本能に逆らえない!!)
だってネムは羊の獣人なのだ。誰かにくっついて過ごすことで安心感を得る性質を持っている。嫌われていて寄り添ってくれる相手がいないネムは、こういう温かさに飢えていた。
このまま眠ってしまいたいけど、それはクロヴィスの迷惑になる。本能と理性のせめぎ合いをしていたネムの視界に、パタパタと動く黒い影があった。
――尻尾だ。
クロヴィスは狼の獣人だから、当然尻尾がある。
その尻尾がゆったりとパタパタと振られていた。勘違いでなければこれは、機嫌がいいのだろうか。
「心地がいい」
不意にこぼしたクロヴィスの言葉に、ネムはそうなのかと納得した。
ネムたちがいるベッドのマットレスも敷布も毛布も、寝心地の良いこだわりのものだから。
(……クロヴィスが気に入ってくれたのなら、良かった)
なぜだかそんなことを思いながら、ネムはいつの間にか眠ってしまったのだった。
結局クロヴィスはネムの家に泊まって行った。しかも朝になって家を出ると、一緒に王宮まで行こうとするのだ。
ネムはともかくクロヴィスはとても目立つ。
嫌われ者のネムと一緒にいてはクロヴィスに迷惑になってしまう。というかクロヴィスを慕う人々からの視線が怖いのだ。
「どうして一緒にいくのは駄目なんだ?」
「……人に見られるのは、その」
「恥ずかしいのか。……それなら仕方ない」
言い淀むネムの態度を勝手に誤解してくれたようだ。ホッとしていると、目の前でクロヴィスは上着を脱ぎ始めた。
「???」
「これを被っていろ」
バサリと、脱ぎたてのシャツがネムの頭にかかった。そして上半身裸になったクロヴィスに、おもむろに横抱きにされてしまう。
「これなら他の連中に見られない。安心だ」
(何も安心じゃないのでは!?)
驚いて口をはくはくと動かすことしかできないネムに、クロヴィスは微笑んだ。そして――。
昨日、自宅へ連れてきてくれた時と同じように、凄まじい速さで王宮まで駆けたのだった。
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