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第8話

 ネムはいつものように自分の席につき、仕事を始めた。  積み上がった書類を整理して、提出された数字を整理して計算していく。ネムは数字を見ているのが好きだった。  物語のように感情を乱されることもなく、ただそこにある。  間違いがあればすぐに教えてくれる、とても良い存在だった。  物語はどうしたってネムに、もしかしたらという希望を抱かせるから好きじゃない。子供の頃、母親が読んでくれたおとぎ話では誰もが愛する人を手に入れて幸せになれたけれど、現実は違うのだから。  ネムはごく一般的な羊獣人の両親から生まれ、とても溺愛されて育った。  三歳の誕生日を祝ってもらった時、ネムの体格はすでに同世代の子供とは比べものにならないくらい成長していても、両親は変わらず可愛がってくれていた。ネムの耳の上に少しだけ角が生えていることに気付いても、それは変わらなかった。  羊獣人で角が生えているのは珍しいと喜んでいたのを覚えている。  けどそんな両親もネムが五歳になる頃に、事故で死んでしまったのだ。それから孤児院で保護してもらって、ノワール子爵のおかげで読み書きや計算、教養などを身につけることができた。姓があればきちんとした仕事に就けるからという子爵の厚意で、孤児院出身者はノワールを名乗ることが許される。  おかげで王宮で文官の職に就くことができた。  ――きっと、側から見たらうまくいっているかもしれない。  手元を見ながら、ネムは小さくため息を吐いた。  文官になるための試験を受ける時、ノワール子爵が推薦状を書いてくれたのだけれども。  いざ受付に渡してみたら、ネムだけ別室に呼ばれてしまった。何か間違いがあったのかと緊張しまくっていたら、第二王子ユベールがやってきた。  そしてネムをみて思い切り顔を歪めて、間違いだと言い放ったのだ。  わけがわからないままネムは、ユベール付きの侍従に叱責されてしまい部屋を追い出されて、そして試験を受けたのだったけれど。  あれ以来、ネムはどうにもユベールに目をつけられてしまっているように思える。  昨日のもそうだが、なぜかユベールはネムのところにやってきては、厳しい言葉を掛けてくる。 (気持ち悪いから目に入れたくないのかもしれないけど、それなら近づかないでほしい)  王族にそんなことを思うのは不敬かもしれない。しかしネムは、王族が少しばかり苦手だ。  この国の王族は獅子の獣人の一族で、黄金の髪に迫力のある整った顔立ちをしている。ユベールもスラッとした長身に筋肉の付いた体躯で、誰もが憧れるような存在なのだが。  どうにもそのユベールが、幼い頃に仲が良かった獣人を彷彿とさせるのだ。  仲が良かっただけならそれで済む話だけれども、少し違う。ネムと遊んでくれたあの子は、時々ひどく意地悪だった。  ネムの目元と口元のほくろをゴミと言って何度もつついてきたし。  癖のあるネムの髪を鳥の巣といってぐしゃぐしゃにしたり。  それから、ネムが泣くと気持ち悪い変な顔をするなと言ったり。  思い出すだけでも、じくじくと胸が痛くなる。  一緒に遊んでいて楽しかったのに、とても苦しい。 (ああ、そうだ。角のことも……)  ネムに角が生えてきたことを知ったあの子は、気持ち悪いと大声で叫んだのだ。  そんなの羊獣人じゃない。どうせ迫害されるに決まってる。  あまりにもひどい言葉だったから、聞いていられなくてネムは逃げ出した。それきり、あの子とは会っていないけれど。  ユベールはあの子とどこか似ている気がしてならない。  だからどうにか近付かないようにしているのに、どうしても毎日、なぜか会ってしまうのだ。 (今日は顔を合わせないといいな)  憂鬱な気分のまま仕事をこなしていると、昼の休憩の時間になった事に気付く。  同僚たちが連れ立って出ていくのを見ながら、ネムは一番最後に部屋を出る。ネムに声を掛けてくれるような者などいない。だから誰かと食事をすることなんてなかった。 (……でも昨日のは、少し楽しかったな)  クロヴィスがなぜ食事を買ってきたのか。あれが責任を取るという言葉からきた行動なのかもしれないが、昨日ので終わりだろう。 「……ひっ!?」  そんなふうに思っていたネムの視界に、廊下の曲がり角に立つクロヴィスを捉えた。  しかもネムをジッと見つめている。 「ネム・ノワール」 「は、はい!?」  思わず返事をするネムの手をおもむろに掴んだクロヴィスは、着いて来いと言って歩き出した。  そうしてあっと今にネムは、騎士団長の執務室へ連れ込まれてしまう。 (どうしよう、誰か来たら怒られるんじゃ)  お前みたいなのが勝手に入るなと言われないかと、ネムはビクビクと周囲を窺ってしまう。 「安心しろ。今の時間は、誰も立ち入るなと言ってある」 「緊急の時は……?」 「マルセルが対応するから問題ない」 (それはそれで問題がでそうだけれど) 「食べろ」  ネムの前には、美味しそうな食べ物が差し出された。  柔らかそうなパンに焼いた卵や肉、そして彩り鮮やかな野菜が挟まれている。しかもチーズまで。  ネムが普段食堂で食べている塩茹でのじゃがいもよりも、とても豪華である。 「でもこれは、騎士団長様の……」 「クロヴィスだ」 「クロヴィス様の……」 「クロヴィス」 「……」 「クロヴィス」  何も言っていないのに、クロヴィスは自身の名前を繰り返している。 (呼び捨てにするのは恐れ多いのだけれども)  呼び捨てにして不敬だって怒られたら嫌だと思って見ていると、クロヴィスは口の端を持ち上げ、少しだけ意地悪な笑い方をした。 「この前の夜は、さんざん呼び捨てにしただろう」 「……っ!!!!」  ネムが赤くなるのを見て、クロヴィスはなぜかしてやったりという表情を浮かべている。  なんて答えるのが正解かわからず困惑するネムに、クロヴィスは言った。 「名前を呼ばれると嬉しいから呼んでくれ」  指先が、ネムの唇を撫でた。クロヴィスは熱のこもった目でネムを見ていて、名前を呼ばれるのを本当に期待しているかのようで。 「……クロヴィス」 「……っ!! ああ」  誘われるように名前を呼ぶと、クロヴィスは破顔した。  誰かからこうも笑顔を向けられるなんて、本当に久しぶりのことで、ネムの心臓はドッと音を立てて跳ねた。 (あの寡黙で真面目でいつもキリッとしていて冷静で格好良いことで有名な騎士団長が笑った……っ!! 名前を呼んだだけで、……笑った!!)  鼓動が早鐘のように鳴っていてうるさいくらいだ。  どうしよう。  どうしたらいいだろう。  クロヴィスの顔が脳裏に焼きついてしまって忘れられそうにない。 「こっちへこい」  ネム、と名前を呼ばれて、ふらりと近付いてしまう。  腰を抱かれて、ネムはクロヴィスの膝の上に座るような体勢になった。背中に感じるクロヴィスの体温に、ネムの体温も上がってしまう。 (こんなに密着するなんて……!!) 「ほら、食べろ」  再び差し出された食べ物を手に取る。  見れば見るほど美味しそうだ。本当に食べていいのかとクロヴィスを見ると、苦手なものでも入っていたのかと聞かれてしまった。 「だ、大丈夫です」 「そうか。たくさん食べろ」  これはもう食べるしかないのだろうなと、ネムはパンを齧った。  少し食べただけでも、ふわふわの食感とバターの香りが口いっぱいに広がって、ネムは感激した。美味しいと二口目も頬張ると、卵に肉、野菜にチーズの美味しさが重なり合って、さらに美味しい。  夢中になって食べていると、クロヴィスの視線を感じた。  一人で食べてしまっていたけれど、これはもしやクロヴィスの昼食ではないだろうか。その可能性に思い当たったネムは、青ざめながら後ろを振り返る。 「あの、クロヴィス」 「なんだ」 「……食べますか?」  少し驚いた表情を浮かべたクロヴィスだったが、もらおうかと笑って口を大きく開けた。  少し尖った犬歯に思わず釘付けになってしまう。  ばくりと音がしたかと思うほどに、クロヴィスはパンに齧り付いた。 「……あっ」  大きな一口に思わず見入ってしまい、声が漏れてしまった。 「食べ過ぎたか?」  足りなくなってしまったのかと心配するクロヴィスに、ネムは慌てて否定する。 「昨日も今日も、食べ過ぎなくらいなので」 「そうか?」 「そ、そうです。その、太ってしまいそうですよ」  ただでさえ人より劣っている容姿なのだから、太ったりしたら余計に見苦しいと思う。まあそもそも食費に余裕がないので、美味しいものをたくさん食べれる機会はほぼないのだけれども。 「別に太ってないだろう。ネム、お前はもっと太ったほうがいい」  ギュッと抱きしめられながら言われて、ネムはさらに慌てた。 (また抱きしめられてしまった)  このクロヴィスの胸に密着する抱きしめられ方はまずい。  とても安心して落ち着くし、このまま身を委ねたくなってしまう。 (だめだ、だめだ、だめだっ! これが癖になったら本当にまずい!!) 「あ、あの、重いでしょうから、そろそろ離してください!」  クロヴィスの腕から逃れようとしたが、力は弛まない。それどころか、クロヴィスはネムの耳元に顔を近付けると、ひそやかに囁いた。 「……そんなに気になるのなら」  首筋を撫でる指が、やけにねっとりと動いているような気がする。 「激しい運動でもするか?」 「……っ!!??」  そわそわと落ち着かなくなった状態では、クロヴィスの膝の上はなんとなく居心地が悪いというか。 「ああ、あの……」 「どうする、ネム・ノワール」  べろりと、口元を舐め上げられた。  近くで感じるクロヴィスの吐息は熱を帯びていて――。 「食べてもいいか?」

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