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第10話

 普段だったら恥ずかしいし居た堪れないので、給与の明細など人に見せたりしない。  馬鹿にされて嘲笑されると思ってしまうからだ。  けれどもラウリにはそう思わなかったのは、彼が人間という種族であったからというのもあるかもしれない。  王宮内でネムに比較的親切に接してくれるのは、人間であった。  ネムが人間のふりをして羊の耳と角を隠しているからというのもあるのかもしれないが。ラウリをはじめとする人間族は、ネムのことを普通に扱ってくれていた。  その中でもラウリは特別に親切である。  ネムと仲が良いからクロヴィスからの連絡係にされたとこの前は言っていたけれど。  王宮で働き出してからずっと、ネムのことを睨んだり怒鳴ったりしないし、挨拶もしてくれる相手はラウリくらいだったのだ。 「……ネムくん。この、ノワール基金ってのはなに?」  明細をみてラウリが尋ねてきたのは、ネムの給料から差し引かれている項目だった。 「ノワール子爵の経営する孤児院へ入れるお金です」 「なんで給料の半分以上も?」 「あ、この前、早退や文官室にいなかったので、罰金ということでその分が……」 「待って待って待って。その罰金ってどういうことか、説明してくれるかな?」  何かおかしなことを言ってしまったのかわからないため、ネムは目を瞬かせるしかない。王宮で働くことが決まった時に、同じ孤児院出身の先輩から教えられたことを、ラウリへと伝えた。  ネムのような孤児が王宮で働けるのは、すべてノワール子爵のおかげである。  なので急に休んだり早退などしては、勤務に支障をきたすし、周囲に迷惑をかけてしまう。  ノワール子爵の顔に泥を塗る行為と同じだ。その場合は罰金として相応の額を基金に徴収する。  なお基金のお金は現在孤児院で暮らす子供達への支援金なので、協力を惜しむことは自分の恩を忘れる不義理な者だと思え。 「だから孤児院出身者は、基金に給料の四分の一くらいは常に差し引かれいて……」 「ネムくん、基金のこと。ノワール子爵は知っているのかな?」  孤児院にいたころ、ノワール子爵は働いてくれているここを出て行った子たちが買ってくれたものだよと言って、ネムたちに本や服をプレゼントしてくれた。  なので知っているはずである。 「……ちょっと騎士団長に話をしてもいいかな」 「だめなことだったのですか?」  ネムの問いにたいしてラウリは静かに首を横に振った。 「孤児院出身の子たちが協力し合うのも、基金とやらにお金を寄付するのも問題ないことだよ。でもね」  それは最低限の生活ができる範囲を超えてやるものじゃないと言った。 「最低限の生活、……できてますよ」 「毎日ジャガイモの塩茹でを食べる生活は、ちょっと違うかなぁ」 「節約のつもりで……」 「節約しなきゃ暮らせないの間違いだよ、それは」  家で何を食べているのかと聞かれたので、クロヴィスが夕飯を買ってくるまでは、りんごとじゃがいもと葉野菜と答えたら。全力で首を横に振られてしまった。 (そんなに、おかしいのだろうか)  孤児院でも似たような食生活だったから、あまり気にしていなかったのだけれど。 「いやいやいや、それってノワール子爵がかなりやばい経営者ってことになるけど!? 監査対象になるよ!!??」  これは大事件だと慌て出すラウリを見て、ネムも慌てた。  ノワール子爵には何かされたこともないし、怒られたこともない。優しくしてもらった思い出があるだけだ。  悪いことをするような人物ではない。 「ネムくん、孤児院を経営するときはね、国からきちんと助成金が支払われるんだ。子供の成長に必要な衣食住にかかるお金が、保障されているんだよ。それなのに、きちんとした食事が提供されてないのは、大問題だから」 「でも、何度かお皿をひっくり返してこぼしてしまったので、先生がちゃんと席について食べられるようになるまでは、食事はなしにしましょうと言ってなくなっただけで」  自分以外は食べてましたと言うと、ラウリは頭を抱えてしまった。 「……ネムくん、それも大問題だ」 「お皿をひっくり返すのは悪いことでしょう。せっかく作ってくれた料理を無駄にするのも」 「そうだけど、……そうじゃないだろ」  悲しそうな顔をしているラウリを見て、何か間違えてしまったのだろうかとネムは思った。  嫌悪でもない感情を向けられるのは、滅多にないことだから戸惑ってしまう。  最近はクロヴィスがネムには理解できない不思議な、でも温かなものを向けてきているのはなんとなくわかっているのだけれど。 「話し込んでしまったから、昼の休憩時間がおわっちゃうな。……うーん、騎士団長室へ行こう。見回りから戻ってきてる頃合いだから」  そこでお昼も食べればいいよと、ラウリが言った。 「罰金で差し引かれないようにするから」 「……でも、悪いのは」 「ねえ、ネムくん。君の今の状況を、ご両親がみたらどう感じると思う? これが当たり前だって言うかなぁ」  とにかくおいでとラウリが言うので、ネムは大人しく後ろを着いて行った。  ネムの両親。  もうずっと昔に死んでしまった二人。  ネムのことを抱きしめてくれて、夜は三人でくっついて眠った。父は頭を撫でてくれたし抱き上げてもくれた。母は抱きしめてくれて、いつも笑っていて。  母のいる台所からはいつもいい匂いがした。  ネムが駆け寄って足に抱きつくと、頭を撫でてくれて。それから薪窯から出てきたのは、焼き上がったばかりの菓子だった。  ふうふうと息を吹きかけてさましてくれたものを、ネムに渡してくれた。  それを父の膝に乗って食べるのが一番──。  ぽろっと涙がこぼれ落ちた。  思い出さなきゃ良かった。ネムの両親が生きていた頃は、食卓はいつも温かかった。食べるのを失敗して皿をこぼしたって、わざとじゃなければ怒られたりなどしなかった。怪我をしていないか心配され、気をつけて食べるのよと言われて。  母のつくった料理でいつも満たされていたのに。  もうあれは、二度と手に入らないのに。 「ね、ネムくん……!?」  突然泣き出したからだろう。前を歩いていたラウリがあからさまに動揺している。  せっかくいつも親切にしてくれているのに、気持ち悪いと言われたらやだなとネムは思った。でも、それでも、涙は止まらない。 「……何をしている?」 「騎士団長!? あの、あのですね、これはその」  いつの間にか執務室へ辿り着いていたらしい。  扉を開けたクロヴィスが、怪訝そうな表情を浮かべている。  別になんでもない、昔のことを思い出しただけだと言えばいいのに、喉がひくついてしゃくり上げることしかできなかった。 「来い、ネム。……マルセル、お前は外に出てラウリの話を聞いてろ」 「えっ、ちょっと?」  副団長のマルセルと入れ替わるように、ネムは執務室の中へ連れ込まれた。  バタンと扉が締まり、部屋の中には二人きりになる。  どうしたと問われても、ネムは何も言えずに顔を俯けた。  するとクロヴィスの手がネムの頬に添えられて、指がネムの涙を拭った。 (こんなふうに優しくしてくれるのは、一体いつまでだ)  ネムの両親のように、ある日いなくなってしまうのだろうか。  クロヴィスは強いから死んでしまうことはないかもしれないけれど。ネムに興味を持たなくなって、クロヴィスの言う責任とやらを果たしてしまったら、もうこんな風に特別扱いなどしてくれないだろう。  もしそんな日がきたら、ネムはもう耐えられそうにない。  泣き続けるネムをあやすように、クロヴィスが抱きしめてくれた。ぴとりとくっついて、互いの体温を感じるこの瞬間が、一番安心するのに。 (早く……。そうだ、早く、もっとお金を貯めなくては)  たくさんのお金を貯めればきっと、こんなふうにしてくれる愛人を囲うことができるはず。  ネムのことを抱きしめてくれる人がどこかにいるはずなのだ。  それがクロヴィスならいいなと思うけれど、ネムがどんなに必死に頑張ったって、貴族である彼がそばにいてくれるだけのお金を手にいれるのは無理な話なのだから。  *** 「なんだい、これは……?」 「ネムくんの明細ですよ。これって大問題ですよね」  ラウリは先程預かったネムの給料の明細をマルセルに見せていた。副団長であるマルセルは驚いた様子で、これは明らかにおかしいと額に手を当てている。 「……これは、事務や経理を担当する文官たちも関わってることになるな。いや、しかし、問題にするのも難しい可能性がある」 「どうしてですか?」 「ネム・ノワールが自発的に基金へこれだけの金額を渡している、というふうに受け取られるかもしれないってことだよ」  何故と目を丸くするラウリに、マルセルは眉間を揉みながら言った。 「孤児院の出身者が、こんなふうに寄付を募って育ててくれた場所へ恩返しするというのは、昔からよくあることなんだ。美談だって語り継がれているほどにね」 「それにしても、罰金なんておかしすぎるでしょう」 「……ノワール子爵の孤児院出身の連中が、熱を出しても休もうとしないのはこれが原因だろうな」  騎士団の中にもいると、マルセルは肩を落とした。 「これは大事になるなぁ」 「騎士団長に頑張ってもらわないと」 「それはそうだけど。……本当に、あのネムと付き合っていたなんて、それの方が驚きだよ」 「どうしてですか?」 「いやぁ、クロヴィスは羊の獣人に興味がないものとばかり」  マルセルの脳裏には、やたらとクロヴィスに会いにくるアキの姿が思い浮かんだ。先ほどもクロヴィスへ差し入れをしようとしていたが、すげなく断られていたのだ。  果たしてあれほどあからさまに好意を伝えてきているアキが、クロヴィスに恋人がいると知ってもあっさり諦めるかどうか。その相手が悪い噂しかないネムだと知ったら、一体どうなることやら。  何事もなければいいなと、マルセルは肩を竦めた。  話し込んでいたので、マルセルもラウリも気付かなかったのだ。  すぐ近くで、小柄な人影が話を立ち聞きしていることに。

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