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第13話
こいびと。コイビト。恋人、とは――。
翌朝になっても、ネムの頭はぼうっとしていて、足元もふわふわとしていておぼつかない。
めずらしくベッドから起き上がらないネムに気づいたクロヴィスが、どうしたと尋ねてきた。大きな手のひらがネムの額に触れてくる。
この手のひらの持ち主は、ネムの恋人である。
先ほどと同じように、頭の中で恋人という言葉を繰り返して、ネムは笑みを漏らした。
「……ネム? お前、熱があるな」
そうなのだろうか。よくわからないとクロヴィスを見上げる。
「昨日は無理をさせすぎた。すまない」
へにょりとクロヴィスの耳が折れていた。大柄で筋肉質なクロヴィスが体を縮こませて言っているから、なんだかとても可愛らしくて、ネムはまた笑った。つもりだった。
実際には口からは掠れた呼吸音しか出ず、クロヴィスはさらに焦った顔をしている。
「すぐに医者を呼んでくる。少し待っていろ」
(……いかないでほしい)
ネムはほぼ無意識に手をのばし、クロヴィスの服を掴んでいた。
一人になりたくない。
もう一人ぼっちは嫌なのだ。
何かを言いかけたクロヴィスは、結局何も言わず。
服を掴んだ手に大きな手が優しく添えられた。それから、ネムを安心させるかのように、優しく背中を撫でられて――。
クロヴィスの大丈夫だという声が聞こえたような気がしたが、眠ってしまったネムには、それが現実だったのか夢だったのかわからずじまいだった。
***
体が回復したのは三日ほどだってからだった。
こんなに長い間仕事を休んでしまって、ネムの給料は果たして残っているのだろうか不安になる。でもそんな不安などどうでも良くなるくらいに、ネムは浮かれていた。
恋人ができたからである。
その恋人は、仕事をサボりすぎたからという理由で、昨日副団長のマルセルが引き摺っていった。数時間後に戻ってきて一晩中一緒にいて、今日の朝方また出ていった。
王宮に別々にいくのも久しぶりだ。いつもクロヴィスに抱き上げられて移動しているので、なんとも妙な感じである。いや普段がおかしいのか。
自宅の鍵を閉めたところで、ネムは声をかけられた。振り返るとそこには階下の商店を営んでいる大家さんが、困ったような表情を浮かべて立っている。
「ネムさん、申し訳ないんだけどね……」
言い淀みながらも大家さんは口をひらく。
「この家を出ていってもらえないかな」
「えっ……?」
「ここは一人暮らし用の家だからね。……その、お友達と一緒に住むのはちょっと困るっていうか」
そうだったのかとネムは焦って、そして申し訳ないことをしたと項垂れた。クロヴィスは一緒に住んでいるわけではない。彼はきちんと宿舎が与えられているのだけど、ネムの家に入り浸ってほとんど帰っていない。毎日ネムの家に泊まっているのだから、側から見たら一緒に住んでいるのと同じだ。
「……すみません」
「いやあ、こっちこそすまないね。……ええと、その。できれば三日以内にお願いしたいんだ」
随分と短い期間に、ネムは驚いてしまった。
大家さんは何度も謝りながら本当に困っていると繰り返してくる。
「部屋を購入してくれた時のお金の半分は返すから。本当に頼むよ」
「ええと、……はい」
「お金は後で持ってくるから、それじゃあ」
逃げるように立ち去る大家さんを見送りながら、ネムは立ち尽くした。
(ど、どうしよう……。住む家がなくなってしまった)
ネムの場合、家を帰りるのがとても大変だった。というのも孤児であったからだ。
ノワール子爵が後見人になってくれているので、頼めば家を借りるための保証人になってはくれるだろうけれど。
ネムと同じ境遇の孤児院出身者はとても多い。
ノワール子爵へお願いする手紙を書いて許可をもらい、書類を送ったとして。
早くても一ヶ月はかかるだろう。
その間はどうしたらいいのか。
頭を抱えたネムは、クロヴィスの顔を思い出した。しかしすぐに項垂れてしまった。
恋人とはこういうことを相談していい相手なのかさっぱりわからなかったからだ。
(とにかく、出仕しなければ)
足取りも重く王宮へと向かい、そしてネムは中庭の前の廊下で立ち止まってしまった。
文官室へ行くには左に曲がればいい。
しかし右に曲がると、騎士団長の執務室がある。
クロヴィスはとても忙しそうだ。
なんでも魔物討伐の任務があるらしく、クロヴィスがいなければならないと副団長のマルセルが言っていた。
邪魔をするわけにはいかない。
「ネム」
悩んで立ち止まるネムの名前を、聞きたいと思っていた声が呼び止めた。
嬉しくなって笑顔を浮かべたネムだったが、すぐに固まってしまう。クロヴィスはいつもの騎士服ではなく、きちんとした鎧などを装備していたからだ。完全にこれから討伐に行くという出立だった。
「出る前に会えて良かった。すまない、数日留守にすることになった」
申し訳なさそうに耳を垂らしてるクロヴィスは、ネムに抱きついて離れたくないとこぼしている。
(こんなところでくっついたりしたら、誰が見ているかわからないのに)
しかしクロヴィスに抱きしめられる幸福感に抗えるものでもなく。
なんとかクロヴィスを宥めて離れたネムに、クロヴィスは懐から綺麗な石のついたペンダントを取り出した。
翡翠が装飾されていてとても綺麗で高価そうなそれを、ネムの首に掛ける。
「……大事なものだから預かっておいてくれ」
「こ、こんな高そなもの」
自分が帰ってくるまでといい、ネムの額に口付けたのだ。
それからネムの耳元で囁くように――。
「ネムのそばは心地いいからな。必ず帰ってくる」
顔を赤くしたネムの頭を撫でて、クロヴィスは微笑んで去って行った。
真面目で寡黙な雰囲気とはかけ離れた、とても甘く蕩けるような表情で。
ネムは惚けたまま立ち尽くしてしまった。
そうしてしばらくしてから、クロヴィスに家がなくなってしまうことを言い忘れたことに気づく。
(まだあと三日あるし、……クロヴィスはそれまでに帰ってくるだろうし)
もしものときは、孤児院に一時的に泊めてもらうか、宿に泊まることにすればいい。
数日くらいならなんとかなる。
とりあえず仕事をしようと、ネムは文官室へ向かった。
***
先ほどのクロヴィスの顔を思い出しては、緩みそうになるネムだったが。
なんとか顔を引き締めて仕事をこなしていると、もうすぐ昼休憩になる時間に差し掛かった。
――と、そこに、文官長がやってきてネムを呼び出した。
別室で話があると言われ立ち上がると、なぜか同僚たちの視線が突き刺さったような気がした。
しかしネムが視線を向けると、サッと顔を逸らされてしまう。
(……なんだろう?)
言いようのない不安が掻き立てられつつも、ネムは文官長室を尋ねた。
「……っ!?」
そこには文官長の他に、第二王子ユーベルがいた。それから彼のお気に入りの羊獣人アキも。
ネムに対し騎士団長に近付くなと言ってきた彼だ。
名前を知らなかったのだが、あとでラウリに教えてもらったのである。
(どうして二人がここに?)
ラウリやクロヴィスの執務室に行くようになって、ユーベルとの接触は減っていたというのに。
体を強張らせたレムは、他にも獣人がいることに気がついた。
(……狼の獣人?)
王宮内で見たこともない顔だった。
二人とも鋭い視線をネムに向けてきていて、嫌な威圧感がある。
「ネム・ノワール」
静かだが有無を言わせぬ声色で、ユーベルがネムの名前を呼んだ。
「お前の悪評について聞き及んでいたが、実害はなかった。だから注意だけで済ませていたというのに……」
眉間に皺を寄せ、険しい表情をユーベルは浮かべている。いつもネムを叱責する時の顔とは違う、心底侮蔑したかのような表情だった。
一体どうして、そんな顔でネムを見ているのだろうか。
「経費の水増し請求に、嘘の申告。事務方に問い合わせたところ、お前が指示をしたそうだな」
なんのことかわからず目を丸くするネムに対し、ユーベルは書類を叩きつけるように見せた。
そこにはネムの給料の明細が増額されているのがわかった。
(なんだ、これは?)
「これは私のでは……」
「嘘をつくな! 事務方から何人も証言を得ている! お前がそうやって得た金を私利私欲のために使っていると。それだけでは足りず、住んでもいない自宅の購入資金まで請求しようとするとはな」
そんなことはしていない。
あの家はネムが必死になってお金を貯めて買った、お気に入りの場所だ。
慌てて否定しようとするが、ユーベルは言い訳など不要だと言って切り捨ててしまう。
しかも。
「ユーベル様! ……そいつが首から下げているのは、僕のペンダントです」
「……えっ」
「先日盗まれた、僕がクロヴィス様から頂いた大事な贈り物です」
アキの証言と共に、狼獣人たちの鋭い視線がネムへと向けられた。
先ほどのユーベルの糾弾よりも意味がわからず、ネムは思わず言い返した。
「こ、これは、僕がクロヴィスにもらった……」
「公爵家の子息を呼び捨てとは、なんたる不敬!!」
「いますぐ斬り捨てても構いませんか、殿下!!」
ネムがクロヴィスの名前を呼んだ瞬間、狼獣人たちの雰囲気がさらに厳しいものとなる。
びくりと体を震わせたネムは、後退りしてしまう。
(……いやだ、……いやだ、怖い、こわい)
ここにいたくない。ここはいやだ。
いやだ。いやだ。いやだ。
ここから、消えてしまいたい――。
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