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第2話 旅立ち
王と結婚したのは、僕が十六歳の時。生まれた時から、今の王と前王の命令によって政略結婚をすることが決まっていた。
物心ついた時から王室に入るための教育を徹底され、勉強とマナーに追われる日々。
それが当たり前だと信じて疑わなかった。
立派な王妃になれば国は繁栄し、王からも愛されるのだと、そう信じていた。
けれど、現実は違った。
結婚当初から寝室は別。王の寝室からは夜な夜な、見知らぬ女たちの艶めいた声や、男のオメガの甘い芳香が漏れ聞こえていた。
どれほど僕が王妃としての務めを励んでも、王がその瞳に僕を映してくれることはなかった。
四年という気の遠くなるような歳月の間、僕は王の視界には映らない透明人間だった。
それは使用人たちにとっても同じ。誰の目にも留まらない、冷え切った贅沢な檻。
そんなある日、とうとう、側室の間に念願の王子が生まれた。
見えない存在だった僕は、その瞬間に、ただの邪魔者となったのだ。
誰も訪れることのない冷え切った寝室に戻ると、豪奢なベッドの上に、ぽつんと一つの鞄が置いてあった。
中身は、わずか数着の簡素な服と、少しばかりの硬貨。他には何もない。
いくら世間知らずの僕でも、これだけのお金では十日と暮らせないことくらい分かった。
実家に帰ろうにも、王室から「欠陥品」として追い出された者を迎え入れ、家名を汚すような真似を両親が許すはずもない。
行く当てなんて、どこにもなかった。
「それでも、出ていけって言うんだね……」
誰の耳にも届かない虚しい言葉が、唇から零れ落ちる。
鞄の硬い革の持ち手を握りしめる手が、細かく震えていた。
もう片方の手で上から必死に抑え込もうとしたけれど、一度始まった震えは止まらなかった。
「シリエル。こんなところで立ち止まってはいけない」
自分に言い聞かせ、重い寝室の扉を開ける。
寂寞とした廊下に出た瞬間、一人の護衛が僕の前へと進み出た。
床に片膝をつき、深く頭を下げる。彼の漆黒の髪がその表情を隠していたけれど、見間違うはずがなかった。
「シリエル様、お待ちしておりました」
低く、地響きのように身体の奥へと染み込んでくる声。
世界中で、僕が一番落ち着く声。
その響きに触れた瞬間、張り詰めていた心の糸がぷつりと切れた。涙が堰を切ったように溢れ、視界を白く染めて頬を伝う。
「うっ……う、うぅぅ……っ」
声を押し殺そうと喉を弄っても、痛々しい嗚咽が漏れた。
「大丈夫ですよ。私がついています」
優しい声と共に、視界が夜のような黒に覆われる。気がつけば、僕は暖かく逞しい胸の中へと吸い込まれるように抱きすくめられていた。
大きく息を吸い込めば、ほろ苦いタバコの煙の香りと、すべてを包み込んで癒すような深い森林の匂いが、身体中を駆け巡る。
「僕……欠陥品だから……追い出され、ちゃった……」
ずっと、気づかない振りをしていた。
二十歳になってもヒートの来ない僕は、オメガとしての出来損ないなのだと。
けれど、それを言葉にしてしまえば、本当に惨めな現実として確定してしまう気がした。
これからも決して、あの王の瞳の奥に僕が映ることはないのだと思い知らされるのが怖かった。
だから今まで、誰の前でも、レオンの前でさえ絶対に口にしてこなかった。
けれど、もう真実を受け入れるしかない。
僕は求められないオメガで、あのきらびやかな王宮に、僕の居場所はどこにもなかったのだ。
流れる涙が胸元を濡らしていく。
このまま彼の厚い胸の中に溶けて、消えてしまいたかった。僕は縋るように、レオンの衣類へ顔を深く埋めた。
「大丈夫だよ、シリエル。俺がついている」
大きな手のひらが、僕の頭を包み込むようにして優しく撫でる。
「小さい頃、約束しただろ? 俺は絶対にシリエルを裏切らない。俺がシリエルを守るって」
彼とそんな約束を交わしたのは、僕が六歳、彼が十二歳の時。
『僕が彼を守って、彼が僕を守る。』
幼い子供の他愛のない誓い。
けれど、今日にいたるまで、彼がその約束を違えたことは一度だってない。
「俺と一緒に旅に出よう。これからは誰に何を言われるでもなく、したいことを、したい時にすればいい。やりたくないことは、もう何一つしなくていいんだよ」
レオンの腕にぐっと力がこもり、壊れ物を保護するように強く抱きしめられた。
トントンと、彼の胸筋の奥から力強い心音が響いてくる。
その規則正しい音に僕の狂った鼓動が重なるにつれ、不思議と、頭の芯がとろけるように痺れて涙が止まっていく。
彼の男らしい匂いと体温に、思考を甘く奪われていくようだった。
しかし、それと同時に、冷徹な現実が頭をもたげる。彼と旅に出るなんて、そんな贅沢な夢が叶うはずがない。
「無理だよ……」
だって彼は、この国最強と謳われる騎士団長。
国を守る義務がある彼が、放逐された罪人のような僕と一緒に行けるわけがない。
「無理じゃない。俺はこの国の騎士団長である前に、シリエルのたった一人の護衛で、幼馴染だ」
「でも……」
「もう王には話をつけてきている。だから大丈夫。何も心配せずに、俺にすべてを預けて」
ふわりと、耳の裏をくすぐるように熱い吐息が触れた。本能の深いところを優しく支配するような、甘やかで、おすおすしい香りに退路を断たれる。
「だからシリエル。俺の名前を呼んで。俺だけを頼って……」
耳朶を震わせる声色が、心地よい呪文のように僕の身体を芯から痺れさせ、突き動かす。
「レオン、お願い。僕を……連れ出して……」
指先から力が抜け、持っていた鞄がドサリと床に落ちた。
乾いた音を置き去りにして、僕はレオンの広いたくましい背中に、夢中で腕を回した。
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