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第3話 レオンの第二の家

 雲に星は隠れているのに、満月の光だけがまっすぐに地上へと降り注いでいる。  それはまるで、レオンに後ろから深く抱きしめられながら進む僕たちだけを、祝福して照らしてくれているようだった。 「ネロ、重くない?」  いつもはレオン一人を乗せているネロの背だ。  二人の体重を支える頑丈な首筋を優しく撫でると、ネロは『ブルル』と小さく鼻を鳴らした。 「『シリエルくらいの重さ、乗せていたかも忘れるくらいだ』だってさ。な、ネロ」  レオンが大きな手でその首を軽く叩くと、ネロは肯定するようにまた鼻を鳴らす。 「ネロもレオンも、本当に優しいね」 「シリエルだけにな」 「ブルル」  重なるように響いた二つの声に、思わずふふ、と笑みが溢れた。  何年もかけて僕の胸に深く突き刺さっていった、冷酷な嘲笑という名の棘が、一本、また一本と抜けていく。  僕が僕であることを許され、心から息ができるのは、この二人の前だけ。  王宮にいた人間たちは誰も僕を見てくれなかったけれど、ネロはいつだって僕が近づくと、丸く優しい瞳で僕を映してくれた。  僕にとってネロは、言葉が通じないだけの、誰よりも誠実な『人』だった。 「寒くないか?」 「ううん、全然。だって、ほら……」  手綱を握るレオンの太い両腕が、僕の身体をすっぽりと包み込んでくれている。  その逞しい腕にそっと頬を寄せれば、夜の森の匂いと、彼固有の焦がしたタバコのような香りが鼻腔をくすぐった。  今僕が着ているのは、王族のきらびやかな衣装ではない。レオンが事前に用意してくれていた平民のゴワゴワした衣服。  王宮で過保護に育てられた僕の、細い手足や青白い肌には少し大きすぎる。  夜の森でも発光するのではないかと言われた、この呪われた「純白」の腰まである長い髪と容姿さえ、今の僕には惨めな傷物にしか思えなかった。  そんなお荷物が、これから先もずっと、この優秀な男の隣に居座っていいわけがない。  なのにレオンは僕がいつか王宮の地獄から逃げたくなったときのために、必要なものをすべて、ずっと前から揃えていてくれていた。  あの冷え切った寝室に、王室から与えられたわずかな硬貨と鞄を捨ててこられたのは、レオンがいてくれたから。もし彼がいなければ、僕は今頃、暗闇のなかで行き倒れていただろう。 「ねえ、レオン。今からどこに行くの?」  後ろのレオンをかすかに見上げるようにして、静かに問いかける。 「俺の、第二の家だ」 「そんな家があったの?」  レオンは近衛騎士団長としての激務の合間、いつだって僕のそばにいてくれた。  第二の家があろうとも、そこに帰る時間なんてひと時もなかったはずだ。 「ああ。俺の父親代わりみたいな人が、管理してくれている家、と言った方が正しいかもな」 「……お父さん、代わりの人」  その言葉が、妙に新鮮に鼓膜に響いた。  思い返せば、僕はレオンの本当の父親がどんな人なのか、何一つ知らない。  僕が六歳、レオンが十二歳の時。僕の住む邸宅に、レオンは彼のお母さんと二人だけで、新しく雇われた使用人としてやってきた。  それが最初の出会いだった。幼心にも、優しく美しい彼のお母さんの姿はよく覚えているけれど、そこに『父親』の影は最初から一切なかった。  レオン自身からも、父親の話題なんて一度も聞いたことがない。 「そんな方が、いたんだね」 「今の俺があるのも、ずっとシリエルの隣にいられるのも、その人のおかげかもしれない」  そう呟くレオンの視線は、僕から、僕たちを静かに見下ろす満月へと向けられた。  夜の闇をそのまま溶かし込んだような、短い黒髪。近衛騎士団長として数多の戦場をくぐり抜けてきたレオンは、どこまでも精悍で、深く刻まれたその彫りの深い瞳に見つめられるだけで、僕はその瞳に吸い込まれそうになって、いつも息を呑んでしまう。 「マルコが本当の父さんだったら、よかったのに……」  夜風に溶けて消え入りそうな、微かな呟きが耳元を掠める。胸を掻き毟るように切ないレオンの声を、僕は初めて聞いた。  それに、今の言い方だと、レオンは自分の本当の父親が誰なのかを知っているような……。 「レオン?」  月を見上げている彼の横顔と視線を合わせたくて、身体を捻って上を仰ぎ見る。  しかし、 「家はもうすぐだ。もう少し頑張れそうか?」  何事もなかったように、いつもの穏やかなレオンが僕を優しく見下ろしていた。  影を宿した瞳は一瞬で隠され、拒絶されたわけではないのに、それ以上は踏み込めない。 「うん……」  本当は訊きたいことが山ほどあったけれど、これ以上は彼を傷つけてしまうような気がして、喉元までせり上がっていた言葉を静かに飲み込んだ。

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