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第11話 旅立ち
マルコさんの家を訪れたのは月明かりの下だった。
でも今は、世界はすっかり眩い白光に包まれていた。
早朝の冷ややかな朝霧は消え失せ、頭上高くへ昇り始めた太陽が、容赦なく僕たちの行く手を照らし出している。
「二人に見せたいものがある」
出発の間際、マルコさんに促されて外へ出ると、そこにいたのは、僕たちの愛馬であるネロがまるで子供に見えるほど、圧倒的な体格をした白い輓馬《ばんば》だった。
陽光を浴びて白銀に輝く首は丸太のように太く、地面を踏みしめる逞しい足元には、ふさふさとした白い長毛が品良く揺れている。
見る者を圧倒するほど肉厚で逞しいその巨馬は、僕たちを見ると、穏やかな肉厚の鼻先を小さく鳴らして擦り寄せてきた。
「こいつの名前はラルゴだ」
マルコさんが愛おしげにその太い首を叩く。
ラルゴと呼ばれた巨馬の後ろには、頑丈に造られた旅馬車がしっかりと繋がれていた。
「ネロは馬車の後ろに繋いで連れていくといい。ラルゴ一頭なら、この程度の馬車、荷物にもならんさ」
マルコさんの言葉通り、ネロを馬車の後方に結わいつけると、ラルゴはフンスと豪快な鼻息を漏らし、地響きを立てるようにその太い足を踏み出した。
「でも、ラルゴはマルコさんの家族じゃないですか。それにラルゴがいなければ、マルコさんのこれからの生活も大変になるんじゃ……」
厩舎の中を覗き込んでみたが、中はがらんとしていて、もうネロとラルゴ以外には一頭の馬も残されていない。
この馬車がなくなれば、森の奥深くの隠れ家に住んでいるマルコさんの移動の足が完全に失われてしまう。
それに何より、大切なラルゴまで奪って、マルコさんを一人ぼっちにしていくなんて僕にはできなかった。
「シリエル様は、本当にお優しいですね」
マルコさんは愛おしそうに目を細め、長年たくさんの酷使に耐えてきた分厚い手で、僕の頭を優しく撫でてくれた。
「本音を言えば、ラルゴと離れ離れになるのは寂しいですよ」
主の言葉に呼応するように、ラルゴも「ブルル」と切なげに鼻を鳴らす。
「ですが私は……ラルゴに、私の可愛い『息子達』を託したんです」
「息子……達、ですか?」
マルコさんの息子は、レオンだけのはずだ。
なのに『達』という複数形はおかしい。
僕が怪訝に首を傾げると、マルコさんは微笑み、答える代わりにズボンのポケットから小さな銀のリングを取り出した。
それは、長年大切に磨かれ続けてきた形見のような、古風な指輪だった。マルコさんはそれを、静かにレオンの前に差し出す。
「これを、いつかお前に渡そうと思っていたんだ」
「それは……っ」
レオンの喉が、明確に息を詰まらせた。
「私が最愛の人に、渡しそびれてしまった指輪だ。私はその指輪を渡すタイミングを逃したばかりに、彼女を奪われてしまった。……だからお前には、そんな後悔をして欲しくない」
「……」
「お前が、命をかけて守りたい人ができた時、その人にこの指輪を渡しなさい。そしてその命ある限り、その人のためだけに生きて、守り抜きなさい」
レオンは、震える大きな手をゆっくりと伸ばし、その指輪を受け取った。
レオンは愛おしさと切なさが入り混じった瞳でその銀の輪を見つめ、指先でそっとなぞった後、ゆっくりと僕の前へと歩み寄ってきた。
大きな身体が僕の前で折れ、レオンは地面に片膝を突いて僕を見上げた。そして、マルコさんから受け継いだばかりの指輪を僕へと差し出した。
「シリエル。……俺の、伴侶になってくれないか?」
「……え?」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
遅れて、心臓が壊れてしまったのではないかと思うほどの激しさで、胸の奥がドクドクと脈打ち始める。
息が上手く吸えなくて苦しい。けれど、昨晩の恐怖とは全く違う。
気持ちが昂りすぎて、痛いほどに甘く苦しい、そんな衝撃だった。
「俺が命に代えても守りたいのは、シリエル、お前だけだ。それはこの先、何があっても変わらない。例えこの体が滅びても、俺は必ず生まれ変わってシリエルを探し出し、お前を一生守り続ける」
「……」
レオンの、地を這うような熱い誓いが、僕の身体の奥へとじわじわと染み込んでいく。
細胞のひとつひとつに、レオンの言葉が刻み付けられていく感覚。まるで、体の中から彼に強く抱きしめられているかのように身体が熱い。
僕は吸い寄せられるように、レオンが差し出してくれている指輪へと指を触れた。
「何があっても、僕を守ってくれる?」
「ああ。何があっても、必ず」
「だったら……僕より先に死んだら、絶対にダメだからね」
「え……?」
不意を突かれたように、レオンが目を見開く。
「これは、命令だよ」
今までレオンを『従』として扱い、彼に『命令』なんてしたことは、ただの一度だってなかった。
だからこそ今、最初で最後の、わがままな命令を口にする。
冷たい主従関係なんてものじゃない。レオンを守る命令。
そうでもしないと、このあまりにも不器用な騎士は、僕のためならすぐに自分の命をゴミのように投げ出してしまうだろう。
そんなこと、僕は絶対にさせない。
「僕より先に死なないで。そして、僕にちゃんと守られて」
ただ守られてばかりいる、弱くて哀れな王妃のままでいるつもりなんて、もう毛頭なかった。
幼い頃、彼と交わした大切な約束を、僕は今度こそ果たす。
僕はまっすぐに、自分の左手をレオンの前へと差し出した。
その瞬間、レオンの瞳に、みるみるうちに大きな涙が溜まっていくのが分かった。零れ落ち、彼の頬を伝う大粒の涙が、陽の光に照らされて白銀に輝く。
レオンの涙を見たのは、生まれて初めてだった。
不格好で、美しくて、たまらなく愛おしかった。
「レオン。僕の、伴侶になって」
その誓いを言葉にした途端、身体のなかで何かが劇的に変わっていくのが分かった。
今まではただ、王宮を追われ、命の灯火が消えていくのを静かに待つだけだった僕の身体が、『生きたい!』と、強烈な意志を持って脈打ち始めたのだ。
止まりかけていた僕の命の歯車が、レオンという存在と噛み合わさって、ゆっくりと、でも確実に、力強く回り始める。
レオンは震える指先で、僕の左手の薬指に、冷たくも温かい誓いの指輪をそっと嵌めてくれた。
「ありがとう……シリエル……っ」
大きな身体を丸め、まだ子供のように泣きながらお礼を言うレオンを見ていると、胸の奥からくすぐったいような愛しさが込み上げてきて、少しだけ意地悪をしたくなってしまう。
「レオン。『ありがとう』じゃないよ。そこはね……」
そう言って、僕もレオンの前にコトっと膝を折ってしゃがみ込み視線を合わせる。
「『愛してる』って、言うんだよ」
呆気に取られるレオンの顔を両手で挟み込み、僕は、彼の広い額にそっと誓いの口付けを落とした。
マルコさんの小屋が木漏れ日の向こうへと遠ざかっていく。
ラルゴが引く馬車の心地よい揺れに身を委ねながら、僕は左手の薬指に嵌められた銀の指輪を、愛おしく見つめていた。
カチ、カチと、僕の身体の中で確かに動き出した命の歯車の音が聞こえるようだ。
ふと、出発する前にマルコさんが言った言葉が、頭のなかで鮮明に蘇る。
『ラルゴに、私の可愛い息子達を託したんです』
あの時は、レオンに兄弟でもいるのだろうかと首を傾げたけれど……。
「……そっか」
隣で手綱を握るレオンの、逞しい横顔を見上げる。
マルコさんは、僕がレオンの伴侶になることを見抜いて、最初から僕のことも『二人の息子』として、あの頼もしいラルゴに託してくれたのだ。
視界がじんわりと涙で滲んでいく。僕はレオンの大きな腕にそっと頭を寄せ、今度こそ、そのあたたかな体温とアンバーの香りに心地よく身を委ねた。
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