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第17話 あの頃

 アンバーの香りも好きだけれど、この煙草の香りも同じくらい好きだった。  まだレオンが一人前の男として煙草を嗜む前から、彼はいつもこの香りを微かに纏っていたからだ。  この匂いを嗅ぐと、王家に嫁ぐ前の、あの輝かしかった日々の記憶が鮮明に蘇る。  雄々しいアンバーの香りと混ざり合い、僕の心を激しく揺さぶった。  王家に嫁ぐ前に、戻りたい。  もしあの時、すべてを捨ててレオンと二人で逃げていたら、今頃どうなっていただろう。  僕は出来損ないのオメガだから、本当はレオンには不釣り合いかもしれないけれど……それでも、レオンが僕を必要としなくなるその時までは、二人でささやかな幸福を紡げていたのだろうか。 「昔に戻りたい……」  ぽつりと、押し殺していた願いが言葉となって唇から溢れ落ちた。  レオンは僕を軽々と抱き上げると、まだ火の灯っていない、冷たい火床の前へと優しく座らせた。 「昔に戻れたら……もっとずっと、レオンと一緒にいられたのに」  あの頃、レオンはいつだって僕の隣にいてくれた。  不慣れな乗馬を辛抱強く教えてくれたのも、レオン。  退屈な座学や厳しいマナーの勉強を手伝ってくれたのも、レオン。  初めてダンスの練習相手をしてくれた時、僕はこの幸福な時間が永遠に続けばいいと本気で願った。  あの頃は、自然に手を繋いでもらえて、自然に抱きしめてもらえた。  それが、僕が王妃として婚姻した途端、二人の間に見えない巨大な壁と深い溝が出来てしまった。  簡単には壊すことも、飛び越えることもできない。  レオンはいつの間にか、僕の手の届かない遠い存在になってしまっていた。  レオンは何も言わず、静かに立ち上がると馬車の荷台へと戻っていった。 (また僕は、レオンを困らせるようなことを言ってしまった……)  僕が彼を欲しがれば欲しがるほど、レオンを追い詰めてしまう。  レオンが、また遠くなっていく……。 「これからは、ずっと一緒だ」  戻ってきたレオンの手には、羊の毛で編まれた、肉厚で温かなウールケットが握られていた。  レオンはそれを、僕たちの肩を包み込むようにして一緒に掛けてくれた。 「昔みたいに、こうして一緒に一つの上掛けに包まって、ただそばにいるだけでもいい。何の理由がなくても、言葉を交わさなくたって、俺たちはずっと隣にいられるんだ」  ウールケットの中で、そっと手が握られた。  大きくて、剣の柄を握り続けたせいで硬いマメのある、愛おしい手。 「俺はシリエルのためだけに、ここにいる。それは昔も、今も、これからも変わらない」  握られた手を、レオンが自分の体の方へと引き寄せる。ぐいっと優しく引っ張られ、気がつけばレオンの逞しい膝の上に、僕の頭が収まっていた。 「幼い頃、こうして草原で昼寝をしたのを覚えているか?」  膝の上でそっと目を閉じると、記憶の底にある、あの瑞々しい風の匂いが蘇ってくるようだった。 「うん……。風があまりにも気持ちよかったから、日が沈むまで僕、眠っちゃったんだよね。ウールケットを僕に全部かけてくれてたから、レオンは体が冷えて、その後ひどい風邪をひいちゃって……」  申し訳なくて何度も謝る僕を、レオンは困ったように笑いながら、何度も許してくれた。 「あの時、俺がシリエルに何をしたか知っているか?」  問いかけられ、僕はレオンの膝の上で小さく首を振った。 「シリエルに、誓いの口付けをしたんだ」 「……え!?」  驚きのあまり、僕は嬉しさと衝撃で飛び起きてしまった。僕たちの初めての口付けは、僕の知らないもっとずっと昔に、レオンとの間で交わされていたんだ。 「何があろうと、シリエルを守る。……たとえそれが、お前に恨まれるような、大罪を犯すことになってでもだ」  レオンは再び、僕の目の前へ厳かに跪くと、僕の手の甲を恭しく押し頂き、愛おしそうに唇を寄せた。 「今、ここでもう一度誓う。俺はシリエルを、何があっても守り抜く」  そう告げるレオンの瞳の奥には、今にも泣き出しそうなほどの悲しみと、それ以上に、酷く深い『懺悔』の色が滲み出ていた。  オレンジ色だった空は、いつしか吸い込まれそうなほど深い蒼へと染まり、夜の帳が下りていく。  薄い月が姿を現し始め、満天の星がパチパチと瞬きだした。  その刹那、星の一つが、尾を引いて美しく流れた。  その流星を見つめながら、僕も心の中で、静かに、けれど固く誓った。 (何があってもレオンを守り抜く。そして、何があっても……レオンを信じる)  レオンがどんな秘密を抱えていようとも、この温かい手だけは、絶対に離さないと決めた。

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