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第24話 怪我を負った犬 ⑤

 指の間に、レオンの少しコシのある髪の感触がまだ鮮烈に残っている。  先に見えてきた村が近づき、馬車を進める速度が緩やかに落ち始め、現実の時間が動き出した。  その時、僕の膝の上で眠っていたフェンの濡れた鼻先が、ヒクヒクと小刻みに動き出す。  次第に伏せられていた耳もピクリと立ち上がり、次の瞬間、パチリと目が開くかと思うと、フェンは僕の膝の上から弾かれたように飛び起きた。  そのままの勢いで、荷台の外へと飛び出しそうになった小さな体を、僕はすんでのところで抱き止める。 「フェン、急にどうしたの!?」  胸の中で狂ったように暴れるフェンを宥めようと、必死に背中を撫でるが、「ワン! ワン!」と甲高い声で鳴き喚き、もがくばかりだ。 「レオン! 馬車を止めて! フェンが急に暴れ出したんだ!」  すぐにでも動く馬車から飛び降りかねないフェンを腕の中で必死に抑え込むけれど、小さな命の焦燥は凄まじく、いつ滑り落ちてしまうか分からない。  もし今飛び降りて、馬車の車輪に轢かれてしまったら……。  僕の悲鳴のような呼びかけに、レオンはラルゴを驚かせないよう見事な手綱捌きで、急ぎつつも滑らかに馬車を停止させてくれた。 「レオン、お願い。僕は後から走って追いかけるから、君はネロで先に行って!」  僕の無茶な提案に、ネロの綱を外し終えたレオンが、鋭い眉を跳ね上げて振り返った。 「ダメだ。そんな危険なこと、絶対に許せるか」 「でも、このままじゃフェンを見失っちゃう!」 「お前は大人しく、荷台の中で待ってろ」 「嫌だ! 待ってなんていられないよ!」  僕が頑なに食い下がると、レオンは深く、大きな溜息をこぼした。ネロのたてがみを掴んだまま、彼は琥珀色の瞳で僕を真っ直ぐに射抜く。 「いいか、シリエル。落ち着いて俺の話を聞け。今から馬車ごと追う選択肢もある。だが、馬車じゃ小回りが利かないし、あの速度のフェンには到底追いつけない。かと言って、ネロに二人乗りをして全速力で走れば、ネロの背骨が折れて共倒れだ。だから物理的に、今回はお前に残ってもらうしかないんだ」 「それは、分かってる、けど……っ」  理詰めで説明されても、どうしても納得がいかなくて、僕は唇を噛み締めて俯いた。  レオンを一人で行かせるのも、フェンがどこかへ行ってしまうのも、どちらも耐え難い。  そんな僕の前に、レオンが歩み寄ってきた。大きな手が、僕の少し震える肩にそっと置かれる。 「本音を言えば、俺はお前をこんな場所に一人残したくない。フェンを追うこと自体、本当は反対だ。だが……お前があのちっぽけな命を、どれだけ大切に想っているかも分かっている。その気持ちを、俺は:蔑(ないがし)にしたくない。……シリエル、お前はどうしたい?」 「僕は……」  胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。  レオンは僕に選ばせてくれようとしている。  元王妃としてではなく、一人の対等な伴侶として、僕の意志を。 「フェンを、助けてあげてほしい……。見捨てたくないんだ」 「分かった」  レオンの瞳に、確かな覚悟が宿る。 「選択肢は二つだ。俺が今すぐネロでフェンを追いかけるか、それとも、二人で馬車に乗ってゆっくり跡を追うか。……どっちがいい?」 「今すぐ、追いかけて。お願い、レオン」 「よし。じゃあ、ここで大人しく待てるか? フェンを必ず生きて捕まえて、すぐにここへ戻ってくると約束する」  レオンの言葉には、不思議なほど僕を安堵させる響きがあった。  指の隙間をすり抜けていった彼の髪の熱が、まだ手のひらに残っている。  レオンが約束を破ったことなんて、ただの一度もない。 「わかった。待ってる。レオン、本当にお願いだから、気をつけてね」 「ああ、すぐ戻る」  レオンはネロの背に身軽に飛び乗ると、鋭い合図とともに、風を裂いて走り去っていった。  遠ざかっていく頼もしい背中を、僕はただ祈るように見送った。

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