31 / 32

第31話 村での生活 ①

「私とお父さんのお家は、あのみどりの丘の上だよ!」  カノンちゃんが小さな指で指差した先には、山羊たちがのんびりと草を食む、のどかな丘が見えた。  風が吹き抜けるたびに、青々とした草の波がさらさらと音を立てて揺れている。  早く我が家を僕たちに見せたいのだろう、カノンちゃんはラルゴの背中から身を乗り出すようにして、ぐっと体を伸ばした。 「おっと、危ないよ」  慌ててその小さな体を引き寄せると、カノンちゃんは僕の胸の中で振り返り、えへへと無邪気に笑った。  羨ましい、と思った。  誰かに誇らしく自慢したくなるような、温かい我が家があるということ。  僕にもいつか、あんな風に誰かと帰る場所ができるのだろうか……。  今の僕には、そんな不確かな未来は、まだどこを探しても見えなかった。  案内されたヘイワードさんとカノンちゃんの家の中は、家具や調度品といったものは少なかったけれど、薪ストーブの爆ぜる音と、何とも言えないあたたかくて幸せな空気に包まれていた。  木肌の温もりが残る壁には、カノンちゃんが幼い手で一生懸命に描いたであろう絵が、いくつも大切に飾られている。  色鮮やかな花の絵。のびのびと遊牧されている羊や牛の絵。  その中の一枚の絵に、僕は吸い寄せられるように足を止めた。  そこに描かれていたのは、輝くような緑の草原にたたずむヘイワードさんとカノンちゃん、そして周囲を囲む羊や牛たち。それだけだった。 「その絵、私のお気に入りなんだ」  コト、とテーブルに、湯気の立つ温かなミルクが入ったコップを置いてくれながら、カノンちゃんが僕の隣にトコトコとやってきた。 「私の、大切な家族」 「素敵だね」  カノンちゃんは、少し照れながらも嬉しそうに口元を綻ばせる。  色使いも、描かれている二人の表情も、どれも本当に優しくて素敵だと思った。  けれど、僕の胸の奥に、言葉にできない小さな引っ掛かりが残る。  この温かい絵の中に、ぽっかりと不自然な空白があるような、そんな違和感。  けれど、通りすがりの僕がその疑問を口にして、彼女に訊くことなんてできるはずもなかった。 「カノンは、母親の顔を知らないのです」  背後から、静かなヘイワードさんの声がした。 「カノンの母親は、この子が生まれた時、出血が止まらずに亡くなりました。だからこの子は、母親の顔も、その手の温かさも、向けられる無償の愛情も、何も知りません」  僕の隣に並んだヘイワードさんは、愛おしそうに、けれど切なそうに、飾られたカノンちゃんの絵を見つめた。 「すぐに街の医師に診てもらえていれば、助かったかもしれない。……でも、私にはそれができなかった。妻は私のせいで、カノンの産声を聞くことも、その体温を感じることもできず、一度だって我が子を抱きしめることさえ叶わなかったのです」  ヘイワードさんの声が、微かに震えていた。  見上げると、小さく開けられた窓から差し込む昼下がりの光が、彼の目尻にじわりと浮かんだ涙を、痛いほど透明に透き通らせている。  その張り詰めた空気を破るように、僕とヘイワードさんの間に、カノンちゃんが小さな体で割って入ってきた。

ともだちにシェアしよう!