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第72話 不安な気持ち ①
『ともしびの宿』の仕事の中で一番好きなのは、洗濯物干し場の近くにある裏庭の草花の手入れ。
部屋に飾る切り花も素敵だけれど、しっかりと根を張り、自分の力で土の栄養を吸い上げて一生懸命に成長する草花を見守る時間は、とても心が安らぐ。
お日様が大好きな植物は、太陽に向かって真っ直ぐ上へ上へと伸びていく。
背は低いけれど、地に広く根を伸ばす植物は、少々の風が吹いても決して倒れない。
美しい花を咲かせる植物は、虫たちに花粉を託して、次の世代へと子孫を広げていく。
みんな、一生懸命に生きて、自分の命を未来へと繋いでいるんだ。
自分からは自由に動けないけれど、置かれた場所でできることを精一杯努力している。
まだまだ自分の生き方に迷ってばかりの僕に、「できることはまだあるんだよ」と教えてくれている気がした。
「君たちは……僕にとって無言の先生みたいだね」
厨房の水道から、ずっしりと重い銅製の水差しに水を汲み入れる。
花壇の前にしゃがみ込んで水差しを傾けると、シャワーのように広がった水が、カサついていた土へぐんぐんと吸い込まれていった。
「今日は暑くなりそうだから、もっとお水を持ってくるね」
立ち上がり、空になった水差しを持ち上げる。
ぐんぐんと強くなってきた日差しを見上げた瞬間、視界がふらりと歪み、足元が小さくぐらついた。
「大丈夫ですか!?」
驚いて振り返ると、空になった洗濯かごを手にしたエリアスさんが、心配そうに僕を見つめていた。
「エリアスさん、おはようございます」
僕が元気に挨拶を返すと、エリアスさんの口元がふっと柔らかく綻んだ。
「今日は暑いですね」
エリアスさんはそう言いながら僕の方へ近づいてくると、「代わりますよ」と言って、僕が持っていた水差しをひょいっと手から取り上げた。
「え? でも、エリアスさんのお仕事があるんじゃないですか?」
「とりあえずの分は終わったので大丈夫です。それに俺、花の世話が好きなんですよ」
爽やかに言い残すと、エリアスさんは洗濯かごを地面に置き、そのまま水を汲みに走っていってしまった。
(困ったな……)
あたりを見渡してみるけれど、誰もいない。
レオンはマーサさんと一緒に市場へ食材の買い出しに行っていて、お昼過ぎまで帰ってこない。
エリアスさんと一緒に働き出してから、今日で三日。
一緒に過ごす中で、彼が根っからの『良い人』だということはよく分かっていた。
初めて出会った時のように無理に距離を詰めてくることもないし、レオンとも表面上はうまくやってくれている。
本来なら、警戒する必要なんてどこにもないはずだ。
それなのに……どうしても二人きりになると、身体のどこかが警戒してしまう。
エリアスさんは周りの人を大切にするし、気遣いもできる人気者だ。そんな相手を勝手に警戒してしまう自分自身に、申し訳なさで胸が痛む。
二人きりになるのは避けたいけれど、置かれたままの洗濯かごを放っておくわけにもいかない。
(……本当に、どうしよう)
さいわい、今すぐに取りかからなければいけない急ぎの仕事はない。
エリアスさんが水差しを持って戻ってきたらお礼を言って受け取り、残りの水やりをさっと済ませてしまおう。
水場の方へ視線を向けると、エリアスさんが両手に一つずつ、ずっしりとした水差しを下げて歩いてくるところだった。
僕の視線に気づいたエリアスさんが、嬉しそうにパッと手を振る。
「あ……」
次の瞬間、水差しから溢れた水がバシャッとエリアスさんにかかった。
遠目からでもはっきりと分かるくらい、全身に水をかぶってしまっている。
エリアスさんは一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐに楽しそうに照れ笑いを浮かべ、小走りでこちらへ駆け寄ってきた。
「お待たせしました!」
差し出された水差しを「ありがとうございます」と受け取ったものの、ふちギリギリまで水が入っていて重く、僕は慌てて両手で持ち直した。
両手で抱えていても、ずっしりと手首に重みがのしかかる。
「すみません、こちらの方がいいですね!」
僕の様子に気づいたエリアスさんは、すぐに僕の手から重い水差しを取り、もう片方の『半分ほど水が入った水差し』を差し出してくれた。
きっと、さっき手を振った拍子に、半分くらい自分にかぶってしまったのだろう。
頭の上から水をかぶったのか、エリアスさんの綺麗な金髪やシャツはぐっしょりと濡れて肌に張り付いている。
それなのに本人はまったく気にしていないご様子で、その様子がおかしくて、僕は「ふふふ」と思わず小さく笑ってしまった。
「あ! シリエルさんが笑った!」
満面の笑みでまっすぐに見つめられ、胸がドキンッと激しく跳ね上がった。僕は反射的に視線を逸らしてしまう。
(……こういうのが、一番困るんだ……っ)
エリアスさんと近くにいると、僕の意志とは関係なく、勝手に身体の奥が反応してしまう。
そして、そんな風に身体が勝手に反応してしまうたび、レオンに対して酷い申し訳なさと罪悪感が押し寄せ、胸の奥がざわざわと酷く乱れてしまう。
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