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第86話 憤り ①
レオンに向けた火花を散らすような怒りが、少しずつ、少しずつ鎮火していく。
どれほどの時間が経ったのだろう。
やがて外の雨音が消え、星も見えない暗闇が静かに部屋を覆った。
朝日が差し込み、また日が沈む。
そして再び、雨雲が雨と共に夜を連れてきた。
窓辺の花台に雨が弾く音がする。
ベッドに横たわったまま、僕はゆっくりと部屋を見渡した。
清潔に整えられた部屋には、二人分の荷物がある。
なのに、レオンの姿だけが、すっぽりと抜け落ちていた。
「当たり前か……」
僕が追い出したのだから。
レオンと出会ってから、ずっと離れず一緒にいたわけじゃない。
それでも、僕の心の中にはいつもレオンがいた。
僕の周りには、いつだってレオンの気配があった。
なのに今は、それすらない。
何もない。
(僕が……レオンを締め出したから?)
頭の中に僕の声が浮かぶ。
(そうだろう。忘れたとは言わせない)
別の僕が、冷たく答えた。
初めてヒートになった夜から今までの出来事が、まるで他人の身に起きた事件のように、頭の中に浮かんでは消えていく。
自分のことだと分かっている。
なのに僕の心は、それを頑なに受け入れようとしなかった。
レオンが隠していた真実。
知りたくなかった。
僕は出来損ないのオメガなんかじゃなかった。
レオンはアルファだった。
本当なら、嬉しいはずだった。
幼い頃から、ずっと願っていたことなのだから。
レオンがアルファなら、僕たちは番になれるかもしれない。
そんな夢を、ずっと心のどこかで抱いていた。
なのに今は、その事実さえ受け止めたくない。
受け止めてしまえば、同時にレオンの秘密まで受け入れなければならなくなる気がした。
レオンは、僕を失いたくなかったから薬を飲ませたと言った。
だったら、どうして……。
どうして、僕を失いたくないと伝えてくれなかったの?
言ってくれたら……。
そこで思考が止まった。
(言ってくれたら、何か変えられた?)
頭の奥から、もう一人の僕の声が聞こえる。
宮殿にいた僕が、何かを変えられた?
思った瞬間、「ふっ」と鼻から乾いた笑いが漏れた。
できるはずがない。
何もできず、ただ周囲の目に怯え、震えていた自分しか思い出せない。
レオンのしたことは許せない。
僕に薬を飲ませたことも。
自分の身体を蝕む薬を、何年も飲み続けていたことも。
どちらも、間違っている。
それなのに——。
僕は、何に対してこんなにも怒っているのだろう。
薬を飲ませたこと?
それとも、自分の命を削ってまで僕のそばにいようとしたこと?
考えてみる。
レオンがベータだと偽るために飲み続けていた薬は、身体にとって有害なものだった。
それを分かっていながら、何年も飲み続けていた。
そんなこと、絶対にしてはいけない。
僕にヒート抑制剤を飲ませていたことだって同じだ。
そのせいで僕が苦しんでいたことも事実。
宮殿での日々は辛かった。
本当に、辛かった。
でも——。
もしレオンが薬を飲ませていなかったら、僕はどうなっていたのだろう。
ヒートが来ていれば、僕は王と番になっていた。
そうなれば、あの宮殿から出ることもできなかった。
レオンと旅をすることもなかった。
カノンちゃんたちと出会うこともなかった。
そして……。
レオンの気持ちを知ることもなかった。
僕は、今まで知らなかった幸せを知ってしまった。
誰かに必要とされること。
誰かと笑い合うこと。
自分にも、帰る場所があるのだと思えること。
レオンの隣で眠り、目を覚ますこと。
あの地獄のような宮殿を出て、初めて僕は、自分の人生を生きているような気がした。
もしレオンが動き出してくれなければ、きっと僕は何もできなかった。
自分から宮殿を出ようなんて、考えることさえできなかった。
そんな勇気は、あの頃の僕にはなかった。
だからといって——。
僕は目を閉じた。
だからといって、レオンのしたことが正しかったわけじゃない。
僕の知らないところで、僕の人生を決めた。
僕が何も知らないまま幸せになれるようにと、僕自身から選択する権利を奪った。
それは、やっぱり許せない。
……なのに。
それなのに、どうして僕はレオンを憎みきれないのだろう。
僕を騙していたレオンも。
僕を守ってくれたレオンも。
僕を愛してくれたレオンも。
全部、同じ人なのだ。
嘘をついていたことも。
僕を傷つけたことも。
それでも僕を愛してくれていたことも。
どれか一つだけを切り取って、なかったことになんてできない。
(……レオンの愛まで、嘘だったことにしたくない)
胸の奥が、またズキンと痛んだ。
許せない。
でも、愛している。
傷ついた。
それでも、失いたくない。
そんな矛盾した気持ちを抱えたまま、僕はただ天井を見つめ続けたまま、夜を明かした。
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