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第87話 憤り ②
——トントントン——
扉が静かにノックされる。
閉じていた瞳をゆっくりと開けると、やわらかな暖かな日差しが室内を優しく照らしていた。
「シリエルさん、お目覚めですか?」
扉の向こうから、マーサさんの穏やかな声が聞こえる。
「はい」
まだ重たい身体をゆっくりと起こし、僕は扉を開けた。
「体調はいかがですか?」
そこには、湯気とスープの芳しい香りを漂わせたお盆を持つマーサさんが立っていた。
お盆には、一人分の粥が入った器と小さな鍋が載っている。
「少し気だるくて、絶好調とはいきませんが……大丈夫です」
そう答え、身体を引いてマーサさんを部屋へ招き入れる。
「お邪魔しますね」
マーサさんは部屋に入ると、お盆をテーブルへ置いた。
「もし食べられそうなら、召し上がって」
粥から立ち上る湯気が、濃厚なスープの香りを運んでくる。
「わぁ……いい香り」
思わず深く息を吸い込むと、途端にお腹がぐう、と鳴った。
「ふふ。どうぞ召し上がれ」
マーサさんが微笑みながら椅子に腰を下ろす。
僕も向かいの椅子に座り、粥をひと匙すくった。
口に運ぶと、濃厚なチキンスープの旨味が舌の上でじんわりと広がっていく。
レオンを追い出して以来、無機質に冷え切っていた心と身体へ、あたたかな体温が染み込んでいくようだった。
「……すごく、美味しいです」
「よかったわ。おかわりもあるから、たくさん食べてね」
マーサさんが小鍋から温かな粥をよそってくれる。
「ありがとうございます……」
器を受け取った瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
……僕は、今、生きている。
あの雨の日から止まっていた僕の時間が、少しずつ動き始めたような気がした。
なのに。
「レオンは……元気に、していますか?」
声にした途端、抑えていた涙が溢れ出た。
あれから、一度もレオンの姿を見ていない。
彼はちゃんと眠れているだろうか。
ご飯は食べているだろうか。
彼を追い出したときの、あの打ちひしがれたレオンの声が耳の奥で蘇る。
元気でいてほしい。
彼の声が聞きたい。
会いたい……。
でも、もしかしたら。
もう、この街にすら彼はいないのかもしれない。
僕が、彼を拒み、追い出したのだから。
そう思っただけで、胸が張り裂けそうだった。
「……全く、元気がありません」
マーサさんが、静かに、そしてどこか悲しそうに答えた。
「宿のお仕事はきちんとしてくださっていました。でも今朝、新しい用心棒の方を連れてこられたんです」
「え……?」
胸の奥がドクンとざわついた。
「新しい、用心棒……?」
「はい。引き継ぎをされているのだと思います」
「レオンは……ここを出ていくと言ったんですか?」
「はい……。シリエルさんも一緒に行かれるのかと思っておりましたが……」
「……」
何も答えられなかった。
レオンからは、何も聞いていない。
僕を置いて、一人で行ってしまうつもりなの?
胸の奥から、今度は激しい感情の波がこみ上げてくる。
怒り。
悲しみ。
そして、押し潰されそうなほどの焦燥。
「レオンは、今どこにいますか!?」
「酒場で、新しく連れてきてくださった護衛の方に引き継ぎをされているかと……」
「酒場……」
その場所を聞いた瞬間だった。
気づけば、僕は弾かれたように立ち上がっていた。
頭で考えるより先に、身体が勝手に動き出す。
もつれそうになる脚を必死に動かし、僕は扉へ向かって走り出していた。
レオンに、会わなければ。
この手から、彼が完全に消えてしまう前に。
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