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第89話 気持ち ①

 小走りで無言のまま廊下を通り過ぎ、二人きりの部屋の中へレオンを押し込む。 「一人で勝手にいなくなろうとしていたの?」  彼の背中に、感情の篭った言葉を投げかける。 「僕たちのこと、まだ何も解決していないのに……っ!?」  レオンの広い背中が、びくりと大きく揺れた。  けれど、彼からの返事はない。 「……僕は、怒ってる」  自分でも驚くほど、声は静かで、冷たかった。 「レオンが僕に密かに薬を盛っていたことも。自分の身体を壊すと分かっていながら、毒みたいな薬を飲み続けていたことも……全部、許せない」  微動だにしない背中を真っ直ぐに見つめる。 「これから先、どんな言葉を尽くされたって……許すことなんてできないと思う」  きっぱりと言い切った瞬間、レオンの両手が固く握り締められた。  彼の肩が、ほんのわずかに、苦しげに震えている。  それを見て、胸の奥が激しく痛んだ。  でも、もう目を逸らしたくはなかった。  今までみたいに、悲しさや疑問を抱え込んだまま黙り込むのは嫌だ。  相手を傷つけたくないからと自分を押し殺して、何も言わないまま悲しく微笑むのも嫌だ。  僕は、レオンと対等になりたかったのだ。  守られるだけの存在じゃなくて、僕だってレオンを守りたかった。  同じ目線で、同じ景色を見て、同じ未来を共に歩みたかった。  だから、ぶつかったっていい。  怒っても、傷ついてもいい。  そのたびに、何度も言葉を交わして向かい合えばいい。  もう我慢して、悲しくすれ違うのは耐えられなかった。 「……でも」  喉の奥が震える。 「レオンのことを……憎むことなんて、僕にはできない」  レオンの背中が、息を呑んだように強張った。 「だって僕は……どんなレオンのことも、心から愛してるから……!」  ゆっくりと、レオンが振り向く。  大きく見開かれた彼のアンバーの瞳には、激しい戸惑いと痛みが浮かんでいた。 「僕を騙していたレオンも……僕を守ってくれたレオンも……僕を愛してくれたレオンも」  視界が涙で滲む。 「僕にとっては全部……たった一人の、愛おしいレオンだから」 「……っ」 「だからって、レオンがしたことを簡単に許せるわけじゃない」  レオンの瞳が、グラグラと切なく揺れる。 「薬を飲ませたことも、自分を傷つけたことも……僕は、絶対に間違っていたと思ってる」  それでも。  その言葉の先が、どうしても繋がらない。  許せない。  でも、嫌いになんてなれない。  片時だって、離れたくない。   相反する矛盾を抱えたまま、僕はただ溢れる涙越しにレオンを見つめた。 「……それでも、僕を誰にも渡したくなかったんでしょう?」  問いかけると、レオンが深く、ゆっくりと頷いた。 「だったら……次は、隠さずに言って」 「……シリエル」 「怖くても、苦しくても、僕にちゃんと話して」  僕は一歩、レオンへと詰め寄った。 「僕が一番嫌なのは……僕の人生を、僕以外の誰かに勝手に決められることなんだから」  あの冷酷な宮殿で、何度も、何度もそうされてきた。  僕の人生も。  僕の存在価値も。  僕の進むべき未来も。  全部、僕以外の他人が勝手に決めて、僕を枠にはめ込んでいた。  だからもう、そんなのは絶対に嫌だった。 「僕は……僕自身の手で決めたい」  レオンの瞳を、逸らさずに見つめ直す。 「これから先、どんな困難や苦しみが訪れても……レオンと一緒に歩んでいくって」  声が震える。 「それだけは……僕が自分で選んだ、僕だけの未来だから」  レオンの瞳に、みるみるうちに大きな涙が浮かんでいく。 「でも……っ」  レオンが喉を詰まらせ、苦しそうに口を開いた。 「シリエルの……運命の番は、俺なんかじゃなくて……」 「言わないで!!」  僕は咄嗟に駆け寄り、彼の言葉を遮るように両手で口を塞いだ。 「それ以上、その言葉を口にしないで……っ」  誰よりも、僕自身が一番怖かったのだ。  エリアスさん。  あの人が、僕の身体における『本能の運命の番』。  僕の意思や心とは無関係に、身体が求めてしまった抗えぬ存在。  それは、どうあがいても消せない遺伝子の事実なのかもしれない。  でも——。  僕が誰を愛し、誰と生きていきたいかを、そんな本能ごときに決めさせたくなんてなかった。 「僕の運命の番は……レオン。君しかいないんだよ」  震える声で、真っ直ぐに宣言する。 「僕の身体が誰を求めるかなんて、僕には選べないかもしれない。……でも誰を愛して誰と生きるかは、僕の意思で選べる」  レオンの目から、溢れた涙が一粒、僕の手を濡らして落ちた。 「僕が選びたいのは……他の誰でもない、レオンなんだ」  僕の言葉を、レオンは息を殺して聞いている。 「だから……お願い……」  塞いでいた両手をそっと引き、レオンの温かな頬へ添え直す。 「僕がレオンの運命の番だって……言って」  何よりも聞きたかった。  他でもない、レオンのその口から。  何度でも、何度でも。  僕がレオンに必要とされ、愛され、選ばれているのだと——。 「僕が……レオンの運命の番だって……言わせて」  レオンの目から、堰を切ったようにぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。 「俺の……運命の番は……シリエル」  絞り出すような、掠れた声。 「お前しか……いない……! お前だけなんだ……っ!!」  その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で固く引き結ばれていた呪縛が、解けるようにあたたかく解けていった。  安堵した。  狂おしいほど嬉しかった。  でも、それだけじゃない。  僕はやっと自分自身の足で、この場所に辿り着けた。  僕たちはこれからもきっと、何度も間違える。  またすれ違って、傷つけ合うことだってあるかもしれない。  でも、そのたびにこうして互いの手を握り、言葉を交わし合えばいい。  もう、黙って手を離すことだけは絶対にしない。 「……うん……っ!」  溢れ出て止まらない涙を拭うことすら忘れて、僕はレオンの太い首へ強く腕を回し、彼に抱きついた。

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